弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
日本史(明治)
2014年11月24日
カクレキシリシタンの実像
著者 宮崎 賢太郎 、 出版 吉川弘文館
なーるほど、そうだったのか・・・。とても納得できる本でした。
江戸時代の300年近くをキリスト教信者が生きのびたという事実をどう理解したらよいのか、疑問でした。
この本では、「カクレキリシタン」と読んでいます。明治に入って、キリシタンの禁令の高礼がおろされ、信者の自由が認められたのちも、仏教の仏様も、神道の神々や民族神も、そして先祖代々伝わるキリシタンの神々も、それこそ三位一体の神様のように拝み続けて今日に至っている人々のこと。
彼らには、隠れてキリシタンの信仰を守るという意識はない。誰にも見せないのは、ご先祖様から他人には絶対に見せてはならないと厳しく言われてきたから。
彼らは、キリシタンであることを隠している「隠れキリシタン」ではなく、ご神体を他人には見せない「隠しキリシタン」である。何かを隠しているという秘密性、そのこと自体に意味がある。
たとえば、生月島山田地区のカクレキリシタンは、戦後になって一人もキリスト教の洗礼を受けていない。高山右近のような、一部の例外的な人物を除けば、日本人のなかで本当の一神教としてのキリスト教信仰を理解し、実践できた人はいなかったのではないか・・・。
カクレキリシタンは、隠れているのでもなければ、キリスト教徒でもなく、キリスト教的雰囲気を醸し出す衣をまとった、典型的な日本の民俗宗教の一つと言ってよい。
カクレキリシタンの信仰の根本は、先祖が命をかけて守り伝えてきたことを、たとえその意味が分からなくなってしまっても、忠実に、絶やすことなく、継承していくことにある。その継承された信仰形態を守り続けていくことそのものが、先祖に対する最大の供養になると考えている。
カクレキリシタンは、行事面でキリシタン的要素を残しているが、370年余におよぶ指導者不在によって教義的側面はほとんど忘却され、日本の諸宗教に普遍的に見られる重層信仰、祖先崇拝、現世利益的な性格を強く取り込み、キリスト教とはまったく異なった日本の民俗信仰となっている。
江戸時代初期の人口は1000万人。そのうち3%、30万人がキリスト教信者だった。
殉教者は、その氏名が明らかなものだけでも4045人。少なくとも4万人にのぼるだろう。これには、島原の乱の犠牲者3万人は含まれない。なんのために、誰のために、殉教者は生命を捧げたのか・・・。
殉教者には、100%、王国への道が約束されていた。目の前で、命がけで自分たちのために働いてくれている、慈父たる宣教師たちへの、子としての命がけの報恩行為であった。もし棄教すれば、先祖代々隠れて守り伝えてきた祖先や家族との信仰の結びつきが断ち切られることになり、信仰共同体から仲間はずれにされることは彼らは恐れた。
明治初期まで潜伏キリシタンの組織が存続していたのは、次の7カ所。そのうち、長崎県の3カ所のみが、現在まで存続している。
①久留米近くの大刀洗町
②天草市
③長崎市内の浦上駅周辺
④長崎県の西彼杵半島
⑤生月島(平戸市)
⑥平戸島
⑦五島列島
幕末まで組織が存続できたのは、信徒によるコンフラリアの組織があったから。コンフラリアとは、組・講のこと。信心講とも呼ばれる。
カクレキリシタンに教会はなく、神父もいない。カクレキリシタンは、神仏信仰とともに、先祖代々伝わるカクレの神様もあわせて拝んできた。
カクレキリシタンは、なんでも自分たちの手で、自分たちの家で行わなければならない。手のかかる宗教である。
生月のオラショは、正式に唱えたら、早口でも40分ほどかかる長大なもの。これを後継者は、すべて暗記しなければならない。オラショは、祈禱(きとう)文にあたるもの。人間の、神への願い、思いを定型の言葉にしたもの。今では、呪文の世界に変容している。
現在、キリスト教が日本に土着しえないのは、頑強に現世利益主義を否定し、来世志向的な一神教を保持していこうとしているから。
カクレキリシタンとは何か、現地で27年間も調査研究してきた学者の本です。本当に説得力があります。
(2014年5月刊。2300円+税)
2014年10月 2日
日清戦争
著者 大谷 正 、 出版 中公新書
日清戦争が、いつ始まり、いつ終了したのか、明確になっていないということを初めて知って驚きました。
日本と中国(清)が戦争したのは朝鮮戦争の支配権をめぐるものだったわけですが、台湾についても戦争があり、その終期が不明確だったのです。
日清戦争の始まりが曖昧なのは、日本政府の先制・奇襲攻撃をごまかそうとする隠蔽工作の結果でもあるのです。
中国では、地方の郷勇組織が近代的軍隊へ転換しはじめ、それを中央政府が認知した。日本は、中央政府が主導して徴兵制軍隊をつくった。この違いは大きい。国土の広さの違いからくるところもあるのでしょうか・・・。
日本では、1873年の徴兵令公布とともに徴兵制による近代軍が誕生した。
1893年、日本軍の師団編成が完結したものの、兵站部門には問題が残り、日清戦争においてトラブル多発の一因となった。
1892年8月、第二次伊藤博文内閣が成立した。
1894年、伊藤首相は日清協調を主張したが、外相の陸奥宗光が開戦を主張した。
対清・対朝鮮強硬論が高まり、ジャーナリズムの多くも、これに同調し、9月の総選挙を前にして、政党の多くが対外強硬論を競うなか、伊藤内閣は朝鮮半島からの撤兵に踏み込みきれなくなった。
当時の清政府の内情は、日本人以上に複雑だった。清の光緒帝は、1887年から親政を始めていたが、依然として重要国務には西太后が関与した。そして、直隷総督・北洋大臣の李鴻章が重要な発言力をもっていた。李鴻章は、日本との開戦回避に動いた。西太后も同じ。主戦論は、光緒帝と若い側近たちが唱えた。
李鴻章が2300人の兵士と武器を牙山(朝鮮)に送るという情報に接し、7月19日、日本政府と大本営は対清開戦を決定した。しかし、この段階でも、明治天皇や伊藤首相は清との妥協の可能性を探っていた。
7月25日、豊島付近で日本の連合艦隊が清海軍と遭遇し、戦闘が始まった。豊島沖開戦である。
宣戦布告あるいは開戦通知の前に日本海軍は清軍艦を攻撃した。その前の7月23日、日本軍が漢城(今のソウル)の朝鮮王宮を攻撃して占領。朝鮮国王を「とりこ」にした。
後日、不都合な事実は隠され、歴史の書き換えがなされた。王宮占領は、先に射撃をしてきた朝鮮兵に反撃して日本軍が王宮を占領した自衛的・偶発的な事件だとされた。
7月29日、日本軍が清軍と戦闘するなかで、「死ぬまでラッパを吹きつづけた木口小平(当初は、白神源次郎だった)」の話がつくられた。
海陸で戦闘が始まると、日清両国とも、宣戦布告に向けて動き出した。
日本政府部内では、開戦の名目をどうするかで議論続出となり、まとまらなかった。
ようやく、8月2日に閣議で8月1日に開戦と決まった。
9月10日の閣議では、それより早く、7月25日を開戦日とすることになった。とすると、7月23日の戦闘は日清戦争ではなくなる。
「石橋を叩いて渡る」慎重な性格の明治天皇にとって、日清戦争は不本意な戦争だった。清に負けてしまうかもしれないことを、天皇は大いに心配していた。
「朕の戦争にあらず、大臣の戦争なり」と明治天皇は高言した。相当にストレスがたまっていた。
広島に大本営が翌4月まで置かれた。明治天皇が出席した大本営の御前会議は、実際に作戦を立案決定する場ではなく、多くは戦況報告を聞く場だった。
開戦前の明治天皇は対清戦争に消極的だったが、広島では次第に戦争指導に熱心になっていった。心配に反して、日本軍が清軍に勝っていったからです。
台湾では、日本の領土になることを拒否する地元有力者らが独立を求めた。唐景松は5月25日、台湾民主国総統に就任した。「虎旗」を国旗とする、アジア最初の共和国が生まれた。台湾の抗日軍は激しい戦い、日本軍を悩ませた。そのうえ住民の激しい抵抗と台湾の風土病のマラリアや、赤痢や脚気が蔓延した。このようにして日清戦争の死者の過半は台湾でのものだった。
10月、日本軍が全面攻撃すると、劉永福はイギリス船で大陸へ逃亡し、台湾民主国は滅亡した。
1896年春、日本軍が占領していたのは、台湾の西部のみだった。台湾の南部、東部そして原住民の暮らす山岳地帯は未占領だった。山地住民の制圧は1905年ころまでかかった。
日清戦争に参加した日本軍兵力は25万人に近い。軍人軍属は40万人。そのうち30万人以上が海外で勤務した。そして、死亡したのは1万3千人。その原因は、脚気・赤痢・マラリア・コレラの順に高かった。
清軍の戦力となったのは「勇軍」(郷勇ともいう)と練軍で、総員は35万人だった。
日清戦争は、閣議決定によって8月1日に始まったとされているが、誤りだ。
日清戦争は三つの戦争相手国など、相手方地域の異なった戦争の複合戦争だった。
第一に、日清戦争は朝鮮との戦争、清との戦争、そして台湾の漢族系住民との戦争という三つがあった。
日清戦争は1894年7月23日の日本軍による朝鮮王宮攻撃に始まった。そして、日清戦争の終期は、1895年3月30日の休戦条約調印、5月の講和条約調印によって法的には終了した。しかし、朝鮮との戦争、そして台湾住民との戦争は1896年4月の大本営の解散でも終結しなかった。
日本にとって、日清戦争はもうかる戦争だった。一方の清は、日本へ支払う賠償金2億両(日本円で3億1100万円)を自力で捻出できず、外債依存の泥沼に陥った。
そして、日本政府が得たお金(3億円)は、陸海軍の要求を8割まかなうというものだった。清からの賠償金の8割が、その後の日本軍の軍備拡張に充てられた。
歴史の真実を知ると同時に、日本軍の野蛮な侵略作戦は許せないという気分にもなりました。
(2014年6月刊。860円+税)
2014年6月 5日
日露戦争史(3)
著者 半藤 一利 、 出版 平凡社
知らないこと、でも、知るべきことがこんなに多いのかと、本書を読みながら思い至りました。「自虐史観」とか、あれこれ言うまえに、歴史の真実を私たちは知るべきです。
乃木将軍の第三軍が無謀な突撃をくり返したあげく、ようやく旅順要塞司令官のステッセル中将は降伏した。それまでに乃木の第三軍が消費した砲弾は32万発、小銃弾は4800万発。とんでもない消費量だ。
日本軍は、降伏してきたロシア軍の将兵に対して、戦争が終わるまで日本と敵対行為をしないと宣誓したら、ロシア本国へ直ちに帰還させるとした。
これって、すごいですよね。第二次大戦の日本では考えられないほどの人情的措置を日本軍はとったのですね。
この宣誓をしたロシア将兵は、ステッセル以下の将校が441人、下士官兵が229人だった。乃木大将とステッセル中将との降伏式のあとの記念写真は、ステッセル将軍以下の幕僚たちも帯剣し、一同が友人として並んで記念撮影した。
乃木将軍というのは、こんな気配りまでしたのかと、驚きました。
旅順要塞を陥落させた日本軍に対して、はじめ冷たかった国際世論が次第に日本帝国のほうへ好転しはじめた。
ところが、陸軍省の参謀本部にいる秀才たちは、手ばなしでは要塞陥落を喜ぶことができなかった。というのも、あまりにも多くの戦死者を出していたから・・・。
東京の参謀本部は、作戦指導に欠陥のあった第三司令部の全員を内地に帰還させ、総解体したかった。そして、新しい軍司令部を誕生させ、奉天会戦に問いあわせたかった。
ロシア国内では、「血の日曜日」事件が勃発してしまった。10万人をこえる人々が、皇帝に向かって要請行動にたちあがった。そして、近衛歩兵連隊の兵士たちが小銃を発砲した。
やがて、全ロシア帝国が革命の「るつぼ」に投げ込まれた。
バルチック艦隊が極東へ向かっている途上で、旅順艦隊が消滅してしまったことを知らされ、また、旅順要塞の防衛隊も絶望的だと告げられた。
これではバルチック艦隊のロジェストウェンスキー司令官は落胆するしかありませんよね・・・。
ロシア帝国の中枢は、革命の荒波に直面して、バルチック艦隊どころではなかった。こうしてバルチック艦隊は、はるかに遠いアフリカ大陸の外海で、すでに自滅しつつあった。
陸上での奉天会戦は日ロ両軍あわせて56万人の決戦だった。
野砲はロシア軍が2倍もの優勢を誇るが、銃砲火力は日本軍が3倍。そして、日本軍は機関銃を国内で増産し、256挺も前線に配備していた。対するロシア軍は56挺。その差5倍。奉天会戦は、圧倒的な銃砲火力と機関銃火力が投入され、この強力な火力の掩護のもとに戦われた一大会戦だった。
ロシア軍のほうは、クロパトキン総司令官以下、かならずしも意気盛んというわけではなかった。
1905年(明治38年)の日本の男性人口は2342万人。そのうち兵役にたえる人口は800万人。その4分の1の200万人が兵隊として既に召集されている。労働人口を考えたら、ギリギリ限度の大量の兵力動員だった。しかも、重要なことは、下級将校と曹長、軍曹という下士官クラスの死傷者が4万人となっていること。中隊長、大隊長クラスの将校の死傷者は、残存戦力に甚大な影響を及ぼしている。速成の指揮官は、役に立たないどころか、かえって有害な存在になる。凄惨苛烈、臨機応変にして強靱な判断を指揮官には求められる。それが出来ないと・・・。
バルチック艦隊の兵員総数の3分の1は予備水兵だった。新兵器も十分に活用することができなかった。バルチック艦隊のほうは、水増しされ、旧式の戦隊等が加わっていた。最高速力が11ノット。これでは、日本側の15.5ノットに比べて、決定的に不利。
バルチック艦隊が、果たして対馬海峡に来るのかどうか、東郷司令官以下、動揺した時期があった。
「天気晴朗なれども波高し」という電文には、第一弾の奇襲攻撃は不可能かもしれないことを伝えたという意味が込められていた。
東郷司令官は、ロシアのバルチック艦隊と接近しての射ちあいに賭けた。中小口径砲では日本側が断然有利だから。戦艦の不足を速力と中小口径砲でおぎない、常に戦場で主導権を握る。
ロジェストウェンスキーは、司令塔に日本側の砲弾が命中し、重傷を負って、意識不明となった。総指揮官が早くも戦闘から離脱してしまった・・・。戦場での運・不運なのです。
それに対して、戦艦・三笠は30発もの命中弾を受けたが、戦闘力はいぜんとして健在だった。
人的損害として、ロシア側は戦死者5千人、捕虜6千人。これに対して日本側は戦死者116人、戦傷者580人。
日本の民草が、有頂天になり、「勝った、勝った」で、天にも昇る気分になったことはやむをえない。しかし、日本陸軍の国内動員能力は完全に涸渇していた。
だから、ポーツマス条約で賠償を得られないことを知って民草は暴動を起こした。
日本の国力を知らされず、踊られさてきた「民草」の不満が爆発したわけです。
日露戦争の全体状況を、よくよく認識することができました。やっぱり、事実を直視すべきです。
(2014年1月刊。1600円+税)
2014年5月27日
日露戦争史(2)
著者 半藤 一利 、 出版 平凡社
この本を読んで、もっとも驚いたのは203高地をめぐる死闘が、実のところ、あまり意味がなかったということです。
203高地の前に、日本軍がロシア軍を攻略して確保した海鼠(なまこ)山の望楼から旅順港を見おろすことができた。これによって、日本軍の重砲隊による砲撃が確実なものとなった。旅順港内にいたロシア軍の旅順艦隊の戦艦は次々に炎上させられ、修理不可能な大損傷を受けた。戦艦に積載されていた大砲はすべて陸揚げされ、そのための将兵も全員が陸上にあがった。旅順艦隊は、すでに「浮かべる鉄屑」となってしまっていた。
そして、造船所、石炭庫、火薬庫も日本軍の砲撃の目標とされ、艦艇の修理は不可能になっていた。では、その後の旅順要塞攻略作戦とは、いったい何だったのか・・・。何のためにあれほどの日本軍将兵が死傷しなければならなかったのか・・・。
本当に、むなしいというか、悲しくなってきます。乃木将軍の指揮する日本軍は、世界最強の堅固なロシア軍要塞の前でバンザイ突撃を強いられ、無残にも全滅させられていったのです。ちょうど、その状況を日経新聞に連載中の小説が描写しています。
日本での民草の動きは、乃木将軍の指揮する第三軍が旅順要塞をなんとしても陥落させなければならない方向へとねじ曲げていった。それまで海軍が強く要望していた旅順港内のロシア旅順艦隊の撃滅という当初の目的は、すでに達成されていることもあって、どこかに飛んでしまっていた。
これは、本当にひどい話だと思います。ところが、旅順要塞を攻略した乃木将軍は、今なお、日本では依然として偉大な英雄です。
著者は次のように書いています。
乃木や児玉のどこが、そんなに偉いのか、よく分からない。乃木は近代要塞というものを知らなかった。過去にドイツ留学して戦法を学んだがために、人間の肉体をベトン(要塞)にぶつけるという正攻法を与えられた作戦命令にしたがって、誠実に実行した。そして、惨状を繰り返した。無能な軍司令部の命令によって突撃・攻撃を続行しなければならなかった将兵こそ、悲惨である。203高地は、無際限の犠牲をはらって無理矢理攻め落とす必要はなかった。それでは死傷した将兵たちに申し訳ないので、事実を隠蔽して、「神話」をつくりあげた。死闘に死闘を重ねて、203高地を陥落させ、それによって旅順艦隊を絶滅させたという「神話」である。
乃木将軍の第3軍が突入した兵力は6万4千人。死傷者は1万7千人。戦死者は5千人をこえる。鬼哭啾々(きこくしゅうしゅう)という言葉しかない・・・。
それにしても、怒りがこみ上げてくることがあります。これだけ前線で死傷者を出していながら、第3軍の司令部は、乃木将軍も参謀も、誰も最前線の山上に立つことがなかったというのです。これはひどいです・・・。最高司令官は前線忌避症にかかっていた。
旅順に来て、第一に幸福なのは負傷者である。次は、病者。その次は、戦死者。生き残ったものほど馬鹿げたものはない。どうせ死ぬものと決まっている。生きて苦しむのは大損だ。
日露戦争の終わったあと、高級指揮官の多くが、日本兵は戦争において、実は、あまり
精神力が強くない特性をもっていると語っていた。
日経新聞の小説にも、日本軍兵士の自傷行為の多さが戦場で問題になっていることを紹介しています。それはそうですよね。誰だって、死にたくなんかありませんよ・・・。
だけど、日本兵の精神力が弱いことを戦史に残すのは弊害がある。そこで、真実は書かず、きれいごとだけを書いた。その結果、リアリズムを失い、夢想し、必要以上に精神力をたたえ、強要することになったのだ。
なーるほど、そういうことだったんですね・・・。死を恐れない、精強な日本兵って、どこにいるのかと思っていましたが、ようやく謎が解けた気がします。そうなると、現代ヤクザと同じ世界のような気がします。その一部には、世話になった親分のためには「鉄砲玉」になるのも辞せずと言いう無謀な若者がいるのでしょう。しかし、たいていは、私と同じように死にたくないし、痛い目にもあいたくない。できるだけ楽をしていたいという気持ちをもっていると思います。
ロシア軍はクリミア戦争のときセヴァストポリ要塞戦の体験を踏まえて、旅順要塞を、その足もとにも及ばないほど堅牢なものにしていた。これに対して、攻める日本軍は、要塞攻略という近代科学戦への認識が欠けていた。陸軍中央部の「要塞」についての無知に、すべての責任があった。
著者の博識・強覧には、まったく脱帽せざるを得ません。400頁をこえる2巻目の大著ですが、一気に読み通しました。第三巻が楽しみです。
(2013年2月刊。1600円+税)
今年もホタルが飛びかう季節となりました。日曜日の夜、早めに夕食をすませて、薄暗くなってから、歩いて、近くにある「ホタルの里」に出かけました。たくさんのホタルが飛んでいました。草むらのホタルをそっと手のひらに乗せて、じっくり観察しました。
少しこぶりのホタルです。ゲンジボタルのようです。集団で一斉に明滅するのが、幻影のようです。
2014年5月21日
「日露戦争史」1
著者 半藤 一利 、 出版 平凡社
日露戦争で日本がロシアに勝ってしまったことが、その後の日本をダメにしたのではないか。そんな反省を迫る本だと思いました。
この本を読むと、著者の博識には驚嘆させられます。日本国内の上から下までの動き、官から民、学者そして作家の日記まで幅広く収集し、幅広くかつ奥深い叙述なので、とても説得的です。
それにしても世論操作というか、世論誘導は、案外に簡単なものなのですね。
いま、現代日本では、反中、反韓ものが、けたましく売れているようです。毎週の週刊誌がそれをあおっているのを見るたびに暗い気持ちにさせられます。
日露戦争を開戦する前、明治天皇は勝算の確信がなく、最後の最後まで軍事的解決を避けようとした。
日清戦争の後、日本は軍備拡張が国策の中心となった。日本帝国は、臣民に苦難の生活を強いて、軍備拡張費をしぼり出し続けた。日清戦争直後の明治29年の日本の総歳出は2億円。うち軍事予算は43%だった。ところが、明治33年の軍事費は1億3000万円。これは租税収入の1億3000万円をそっくり投入したということ。
海軍は、戦艦を次々に購入していく計画をたてた。その総額は2億1000万円超。これは日清戦争の全線費に相当する。
ロシア帝国のニコライ2世は、明治35年(1902年)当時は34歳。誠実ではあるが、ごくごく意志の弱い、ややもすれば人の言に右に左にと動く、「便所のドア」的人物だった。ニコライ2世のうしろに、野心家のドイツ皇帝カイゼルがピタリとご意見番としてついていた。ドイツ帝国の魂胆は、ロシア帝国を勇気づけ、いっそうアジアに深入りさせて、その国力をそいでやろうという意地の悪さがあった。
このころ(1903年)、日本の人口は4400万人ほど。東北地方では深刻な飢饉が広がっていた。そして、「東洋永遠の平和のための戦争」という言葉が流行語となった。これは社会全般をおおっている不景気に対する国民的不満を背景としていた。
民草(民衆)の不満が、ロシア憎悪の温床だった。そして、戦争こそが積年の不景気を吹き飛ばす好機たらん。ゆえに、爆発すべしと思いやすいのが国民感情である。
世論が沸騰したのに対して、軍の最高指導層は、いざとなったときの戦費調達が心配なうえ、総合戦力で劣る日本軍の実情をふまえて不安があった。日本とロシアでは、面積において50倍、人口で3倍、国家予算において10倍、常備軍で5倍という、大きな差があった。
新聞各社は、主戦論的、好戦論的な主張をばんばん紙面に載せて、販売部数を増やしていった。
非戦論の万朝報(よろずちょうほう)も10万部以上の大台を誇っていた。ほかの非戦論としては、東京の日々新聞と毎日新聞があった。
およそ世に大受けする大言壮語のなげかわしきことは、いつの世にも変わらない。万朝報も、ついに非戦の旗を全面的におろしてしまった。
日露戦争の前、日本の暗号は、他国によって解読されていた。しかし、日本の当局はそのことに気がついていなかった。
ロシア帝国ニコライ2世は、参謀長の「一撃で矮小な猿どもは木っ端微塵」という言葉を信じ切っていた。
ええっ、これって、第二次大戦前に帝国陸海軍の首脳部がアメリカ軍の「弱兵」ぶりを思込んでいたのと同じですよね。
そして、このころの日本軍の暗号による情報伝達は、すべて解読されていたのでした。なんと、間の抜けた話でしょうか。その「失敗」が、第二次大戦中の暗号解読による最高司令官撃墜事件に結びつくのです。第二巻が楽しみです。
(2012年6月刊。1600円+税)
2014年3月23日
米国特派員が撮った日露戦争
著者 「コリアーズ」 、 出版 草思社
アメリカのニュース週刊誌『コリアーズ』が特派員を派遣して、日露戦争の現場でとった写真集です。
8人の従軍記者、カメラマンを派遣したとのこと。なるほど、よく撮れています。
日本は開戦にそなえて万全の準備を備えていた。その用意周到ぶりは、各国の従軍記者や観戦武官たちを驚倒させ、ロシアとの違いを際立たせた。表面的には平和を維持しながら、実際には何ヶ月もかけて、開戦に向けて準備していた。
「朝鮮半島に出征する日本軍部隊」という説明のついた一連の写真があります。東京から列車に乗り込む若い兵士たちがうっています。その大半が戦病死したのでしょう・・・。
同じように、ロシア皇帝がニコライ2世が歩兵連隊を閲兵する写真もあります。
仁川(じんせん)沖海戦では、ロシアの巡洋艦「ワリァーク」と砲艦「コレーツ」が降伏を拒否し自沈します。あとで、ロシアは生きて帰国した兵士たちを大歓迎しています。
日本軍の仁川上陸の状況をうつした写真もあります。仁川に上陸した日本軍は、すぐに平壌へ向けて進軍を開始した。1日25~40キロの早さで朝鮮半島を北進した。途中、韓国人による抵抗はなかった。侵略者をただ呆然と眺めるのみだった。
日本軍の弱点は駐兵部隊だというのが観測者たちの共通の意見だった。
日本の軍馬は小柄で、騎兵は乗馬が得意ではない。ロシア軍騎兵の優秀さは、日本軍騎兵をはるかに上まわっていた。騎兵の大半はコサックから徴用されているか、持って生まれた気質、日頃の訓練から斥候騎兵という仕事にうってつけだった。
戦闘の間合いに、日本赤十字社の活動を視察するため、イギリス王室から二人の女性が派遣されたときの写真があります。
また、鴨緑江渡河作戦について、外国の観戦武官に日本軍の少佐が説明している状況を写した写真があります。信じられない、のどかな光景です。
遼陽の大海戦は5日間続いた。日露両軍あわせて40万から50万。両軍の死傷者は3万人。ロシア軍は退去を余儀なくされた。
日本軍の大本営写真班による『日露戦争写真集』(新人物往来社)とあわせてみると、日露戦争の戦況がよく分かります。
(2005年5月刊。2800円+税)
2014年1月19日
維新政府の密偵たち
著者 大日方 純夫 、 出版 吉川弘文館
江戸時代には、忍者や隠密(おんみつ)と並んで御庭番がいた。御庭番は、将軍やその側近役人である御側御用取次の指令を受けつ、諸大名の実情調査、また老中以下の役人の行状、さらには世間の風聞などの情報を収集していた。そして、明治中期になってからは、内務省警保局が情報収集にあたっていた。では、その間はどうしていたのか・・・。それが本書で取り上げている「監部」(かんぶ)です。
明治維新の当初、弾正台(だんじょうだい)が置かれ、探偵の仕事をさせた。弾正台は、1871年(明治4年)に刑部省(ぎょうぶしょう)とともに廃止され、司法省に吸収された。同時に中央政府の最高中枢機関として正院(せいいん)が設置され、その課の一つとして監部が出現した。監部の下に密偵が動いた。その人数は1874年ころ50人ほどだった。
第一は、恒常的に探索活動する諜者(ちょうしゃ)、第二に異宗教掛諜者、第三に臨時雇諜者、第四に、探偵。
1876年4月、正院の密偵機構の廃止以降も、密偵機能はその規模を縮小しながら、大臣・参議のもとで維持されていた。明治政府はキリスト教禁止政策をとり、そのためキリスト教宣教師のもとに密偵を潜入させその動静を探らせていた。
そして、キリスト教の禁止がやむと、諜者は失職してしまった。
大隈重信には、お抱えの密偵集団がいた。
密偵たちは、政府要人の目や耳として、世上の噂に耳をすまし、それにもとづく通報活動を自らの生活の糧としていた。
自由民権運動の内部にも密偵がした。内局第一課の配下にあった密偵たちは、「仮面」をかぶって民権派の内部に潜入し、スパイ活動を展開していた。密偵たちが潜入していたのは、東京の民権運動だけではない。福島事件の安積戦、高田事件の長谷川三郎、群馬事件の照山峻三のように、自由民権運動には常に密偵の影がつきまとっている。
自由党や立憲改進党の会議の様子などが、発言者と発言内容までふくめて克明に記録・報告されている。警視庁が集めた情報は警視総監から大臣に報告され、各府県の警察からもたらされた情報は、内務卿から大臣に報告されている。
密偵たちの末路は哀れだったようですが、なかには表街道に出て、出世した者もいます。明治維新政府の裏面の一端が分かる本です。
(2013年10月刊。1800円+税)
2013年9月15日
レンズが撮らえた幕末明治・日本紀行
著者 岩下哲典・小沢健志 、 出版 山川出版社
幕末から明治にかけての日本各地の写真が集められています。京都の太奉映画村に江戸時代の町並みが再現されていますが、まるで同じ風景が写真で残されています。
しかも、初めの写真はカラー写真になっていますので、とても生々しく再現されています。横浜弁天通り(横浜市中区)には、大八車が路上にありますが、なぜか人物がいません。
東海道杉並木という写真には、カゴがきとともに人物がうっています。
金沢八景の平湯湾の料亭から小舟が出ようとする、のどかな光景もあります。古き良き時代の雰囲気が、たしかにここにはあります。
しかし、なんといっても圧巻は厚木宿(神奈川厚木市)の写真です。大通りの真ん中に水路が走り、手ぬぐいで頬がむりした男が縁にすわり込んでいます。
道の両側には木造の店や家が建ち並んでいて、店先には男たちが立って話しています。中央には、火の見の木ばし子ご立ち、火事のときの半鐘を鳴らす仕掛けが見えます。浪人かヤクザの連中が向こうから一陣の風のなかにやって来そうな気配です。まるで時代劇の舞台です。
明治初めの浅草の芝居小屋の風景写真もあります。
白黒写真で興味深いのは熊本城の写真です。西南戦争の前の熊本城です。堂々たる天守閣が見えます。そして、城の石垣の高さには圧倒されてしまいます。
明治初めにタイムスリップしてしまう貴重な写真集です。
(2011年12月刊。1600円+税)
2013年8月 3日
「坂本龍馬」の誕生
著者 知野 文哉、 出版 人文書院
維新の会の「なんとか八策」のもととなった「船中八策」が、実は後世のものであったというショッキングなことが書かれた本です。今や代表の連発する非常識な暴言によって、すっかり落ち目の維新の会ですが、まだまだしがみついている人も多いようです。この本を読んだら、きっと目がさめることでしょう・・・。
司馬遼太郎が坂本龍馬について本を書くまで、つまり昭和38年頃までは、龍馬を「りょうま」というルビをふらないと 読めない人が多かった。それほど世間には知られていなかったということだ。
「船中八策」は、慶応3年に坂本龍馬が書いた(書かせた)ものではない。いわゆる「船中八策」には、龍馬自筆本はもちろん、長岡兼吉の自筆本も、長岡本を直接写したという保証のある写本も存在しない。
また、同時代の後藤、西郷、木戸が「船中八策」を見たという記録もない。
「船中八策」という名称が初めて登場するのは、坂本龍馬遭難50回忌にあたる大正5年(1916年)の講演会でのこと。そして、昭和4年に、「船中八策」が確定した。
「船中八策」の用語のなかには慶応3年の時点で一般的に通用していなかったと思われる漢語がいくつかある。たとえば「議員」。これは明治初期に使われはじめた新しいコトバ。
この本によると、龍馬がおりようと二人で新婚旅行として霧島に登ったのも史実ではないとのこと。なーんだ、と思いました。出来すぎた話だと思ってきましたので、ナゾが一つ解けた気がしました。
龍馬暗殺が誰だったのか、明治3年9月の時点では正式に「落着」していた。見廻り組の今井らによる犯行だったというのは広く知れわたっていた。
「船中八策」はなかった。龍馬は西郷隆盛を一喝していない。龍馬は新政府に入るつもりだった。こんな話が盛りたくさんに出てくる興味津々の本でした。
(2013年2月刊。2600円+税)
2013年6月22日
西郷隆盛と明治維新
著者 坂野 潤治 、 出版 講談社現代新書
西郷隆盛について、再認識すべきだと考えさせられる本でした。
イギリスの外交官アーネスト・サトウは幕末の西郷隆盛について次のように回顧した。
「西郷は、現在の大君(タイクーン)政府の代わりに国民議会を役立たすべきだと大いに論じた。これは私には狂気じみた考えのように思われた」
ええーっ、西郷が国民議会を提唱していたなんて、聞いたことがありませんでした。
西郷隆盛は、「攘夷」論にあまり関心をもたず、「国民議会」論者であった。
西郷隆盛は「征韓論者」として有名だが、明治8年(1875年)の江華島事件については、「相手を弱国と侮って、長年の両国間の交流を無視した卑怯な挑発」だと非難した。
ええっ、そうなんですか。ちょっと、これまでのイメージに合いませんよね。
西郷隆盛は薩摩藩によって2度も流刑(島流し)させられている。1度目は1859年、2度目は1862年。このころの西郷隆盛の主張は「合従連衡」。つまり、朝廷と幕府と有力諸大名とその有力家臣による挙国一致体制の樹立だった。その最大の障害となる開国と攘夷の対立を封印することが前提となっている。
1869年(明治2年)から70年(明治2年)にかけて全国230の藩代表を集めて開かれた公議所、集議院の意向は、驚くほど保守的で身分制的なものだった。たとえば「四民平等」や「文明開化」のための施策はほとんど否決された。
明治3年(1870年)12月末、天皇側は薩長士三藩に対して藩兵の一部を「官軍」として差し出すよう命じた。ところが、島津久光は激しく抵抗した。
西郷隆盛は、廃藩置県を自らの一貫した「尊王倒幕」の実践の到達点として位置づけていた。
明治4年(1871年)7月、西郷、木戸、板垣、大隈重信の4人が参議に任命され、政府の実権を握った。そして西郷隆盛は7000人の御親兵を握っており、参議筆頭として明治政府の最高権力者と言えた。ところが、西郷には統治経験が欠如していた。
征韓論の急先鋒は、旧土佐藩兵を率いる板垣退助であった。
西郷の腹心というべき黒田清隆や桐野利秋は「征韓論」に反対していた。西郷は「征韓」を唱えたのではなく、朝鮮への「使節派遣」を求めたにすぎず、自分が全権使節として訪韓して「暴殺」されたら「征韓」の口実ができると西郷が主張したのは、本当の「征韓」論者だった土佐出身の参議、板垣退助を説得するためだった。
西郷隆盛は「征韓論者」ではなかったという本です。本当に、そうなんでしょうか・・・。
(2013年4月刊。740円+税)