弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(明治)

2009年2月23日

日本紀行

著者:イザベラ・バード、 発行:講談社学術文庫

 明治のはじめ、日本を女性ひとりで旅行した女性の日本観察記です。
 日本ほど、女性がひとりで旅しても危険や無礼な行為とまったく無縁でいられる国はないと思う。著者はそう断言しています。うひゃあ、そ、そうなんですかねー・・・。
 日本は花々が大変豊富で、とくに花の咲く灌木に富んでいる。つつじ、椿、アジサイ、モクレン、あやめ、牡丹、桜、梅など。そうなんですよね。我が家の庭にも、椿、アジサイ、モクレン、牡丹、桜、梅があります。四季折々に見事な花が咲き誇り、目を楽しませてくれます。なんとなく心に潤いを感じます。これこそ田舎に住む良さです。
 日本の馬は貧弱で哀れな獣。恨みがましく狡猾な動物で、のろのろと動く、寝ころがる、よろめくの3つの動きで、人間の忍耐力を試そうとする。ひゃあ、そんな……、ここまでいったら、なんだか可哀想ですよ。
 臆病な日本の黄色い犬は、夜間に吠える癖が強い。ええーっ、そうですかね……。
 日本の内陸に住む人々は親切でやさしくて礼儀正しい。ふむふむ、なるほど。
 物乞いや暴徒が日本にはいない。女性は男性のいるなかを、まったく事由に動きまわっている。子どもは父親からも母親からも大事にされている。女性は顔を隠さず、地味な顔だちをしている。だれもが清潔で、きちんとした身なりをしている。みんな、きわめておとなしい。礼儀正しくて、秩序がたもたれている。いやあ、そうですね。日本の女性って、昔から強いのです。弁護士になって35年間、日々、それを実感しています。
 日本人の鼻はぺったんこで、唇は厚く、目は斜めに吊り上がったモンゴル人種のタイプ。これまで会ったなかで、もっとも醜くて、もっとも感じのいい人たちであり、もっとも手際がよくて器用だ。うむむ、これは納得できそうで、できませんが……。
 日本の商店で、買い物をするとき、うるさい値引きの交渉はひとつもない。ふむふむ。
 秋田県の久保田にも地方裁判所がある。司法制度の改革とともに、弁護士が続々と誕生している。ここは、えらく訴訟好きの町ではないかと思えるほど弁護士がいる。法律関係の職業は、たいがいペンをつかうことに長けた士族の好む職業となりつつある。弁護士の免許料は約2ポンド。これは、もうかる職業に違いない。うむむ、昔の秋田にそれほど弁護士がいたなんて……。今は少ないです。
 学校のない地域で子どもたちは教育を受けないままになっていると思っていたが、それは間違いだった。おもだった住民が子どもたちに勉強を教えてくれる若い男を確保し、ある者は衣服を、別のある者は住居と食事を提供する。それより貧しい人々は、月謝を支払い、もっとも貧しい人々は無料で子どもたちに教育を受けさせられる。これは、とてもよくある習慣のようだ。小繋(こつなぎ)では、30人の勉強熱心な子どもたちが台所の一隅で授業を受けていた。ここは、あとで、入会権の裁判で有名になったところです。
 日本の女性や子どもたちが伸びのびと生きていたことをよく教えてくれる本です。
 きのうの日曜日の朝、春雨が降りだす前に春告鳥(はるつげどり)が美しい音色の声を爽やかに響かせてくれました。そうです。ウグイスです。ホーホケキョと済んだ声でした。梅の花も満開、やがて春の初市の季節です。
 今朝の新聞の書評コーナーに私の本が紹介されていました。あまり売れていない本なので、とてもうれしく思いました。元気の出てくる朝でした。

(2008年4月刊。1500円+税)

2009年2月 7日

森鷗外と日清・日露戦争

著者:末延 芳晴、 発行:平凡社

 森鷗外は、夏目漱石と並ぶ明治の文豪であり、同時に、文学者でありながら陸軍軍医官僚であるという矛盾をかかえ通したことで、謎の文学者でもある。そもそも軍人でありながら文学者であることが可能なのか。
 私は、『五重塔』や『阿部一族』など、森鷗外の重厚な文体に強く惹かれるものがあります。その森鷗外の実態に迫る本書は、私の知的好奇心をますますかき立ててくれました。森鷗外は、日清・日露戦争に軍医として従軍し、日記や妻への手紙を書き、歌まで詠んでいたというのです。戦争の残虐さを実感し、綱紀がいいはずの日本軍が罪なき市民を大虐殺したことも現地で実見しながら、立場上そのままを日本に伝えることはできませんでした。それでもストレートでは伝えられなかったものを、それなりに伝えているようです。
 日清戦争のとき、日本軍は旅順に入って一般市民を無差別に殺戮した。旅順虐殺事件として世界に広く知られた。しかし、日本国内ではほとんど知られていません。乃木将軍も関わっている虐殺事件です。
 森鷗外は、軍医として台湾侵攻作戦にも従軍している。このとき、現地住民によるゲリラ的反撃にあい、予想もしなかった苦戦を強いられた。戦争の過酷さ、恐ろしさを体験させられた。
 森鷗外は、実家にいる妻あてに、実にこまめに手紙を書いて送った。ヒラの兵士だと月に2回という制限がある。しかし、鴎外は1年10ヶ月のあいだに妻へ133通もの手紙を書いて送った。1週間に1回のペースである。妻は鷗外より18歳も年下だった。1年10ヶ月というのは、日露戦争に鷗外が従軍した期間である。
 森鷗外は、しばらく小倉で軍医をしていました。それが初めての挫折といわれるほどの左遷であったことを初めて認識しました。明治32年(1899年)6月のことでした。
「左遷なりとは、軍医一同が言っており、得意な境地はない」
「実に危急存亡の秋(とき)なり」
小倉での鷗外の軍医としての仕事は、徴兵を忌避しようとする若者をチェックすることにあった。
 明治42年2月、森鷗外は朝日新聞の記者によると、怒鳴りあい、取っ組みあうという喧嘩沙汰までひきおこした。偉大な文豪と呼ばれる人でも、こういうことってあるんですね。よほど記者がカンに触るようなことを言ったのでしょうか……。
 森鷗外は軍医として最高峰の地位にまでたどり着き、元老の最長老として政・軍に絶大なる影響力を行使していた山県有朋とも交流を深めた。
 明治43年5月に大逆事件が起きた。逮捕された幸徳秋水らは、翌1月に処刑された。大逆事件は、「時代閉塞の状況」(石川啄木)をさらに決定的にした。
 いやあ、よくよく考えさせられる森鷗外の評伝でした。

(2008年8月刊。2600円+税)

2008年10月31日

イザベラ・バードの日本紀行

著者:イザベラ・バード、 発行:講談社学術文庫

 イザベラ・バードが日本を訪れたのは1878年(明治11年)、47歳のときです。
 日本人は非常に良く手紙を書き、手紙として良い文章や達筆は大変に評価される。イザベラに同行した伊藤は週に一度とても長い手紙を母親に宛てて書く。そのほか、大勢の友人そして、ちょっとした知り合いにまで手紙を書く。いたるところで、若い男性や女性が余暇の多くを手紙を書いて過ごしている。また、装飾の入った紙や封筒をデザインするのは重要な商売で、その種類は無数にある。ペンとして用いられるラクダの毛の筆を巧みに扱えるのは、教育の肝要な成果とみなされている。日本人が物書きに熱心なのは、昔からなのです。ですから庶民レベルまで日記がよく書かれています。
 日本人は、イザベラ・バードがこれまで出会ったなかでもっとも無宗教の人々である。日本人の巡礼はピクニックで、宗教的な祝祭は単なるお祭りである。
 日本人は自然を愛好する気持ちが非常に強い。
 日本人の性格で評価すべき2点は、死者に対して敬意を抱いている点と、あらゆることに気を配って墓地を美しく魅力的なものにする点である。
 東京は冒険心と活気に富んだ、すばらしい都会である。物乞いはおらず、貧困で不潔な街区もなければ、貧困と不潔さが犯罪と結びついていることもない。また、不幸や窮乏でうみただれた芯のような場所は一切見当たらない。売春は合法化されているとはいえ、通常の市街で客を誘惑するのは禁じられており、ふしだらな遊興は特別な街区に限られている。
 花祭りは、首都・東京でもっとも魅力的な光景の一つである。律儀に刈り込まれた生垣のある郊外のよく手入れされた庭などは、日本人の性格の特徴の中でもっとも喜ばしいものの一つである。自然の美しさへの日本人の愛好は、特定の場所に咲く特定の花が最盛期にあるときに眺めに出かけて、さらに規律正しい満足感を覚える。桜のころに花見が盛んなのは、昔からなのです。
 富士山は、東京の絶景の一つである。中間層・下層民は戸外ですごすのが好きな傾向がある。
 汽車に乗ると、日本人乗客の親切心と礼儀正しさにつくづく感心する。日本人は、きちんとした清潔な服装をして旅行し、自分たちや近所の人々の評判に気を配る。
 日本の妻は、上流階級より下層階級のほうが幸せのようだ。日本の妻は良く働く。単調で骨の折れる仕事をする存在というより、むしろ夫のパートナーとしてよく働く。
 未婚の少女たちは世間から隔離されておらず、ある程度の範囲内で完全な自由を持っている。女の子たちは男の子と同じように愛情と世話を受け、社会で生きていくために男の子と同様きめ細かくしつけられる。
 明治はじめのころの日本って、こんなにも現代日本と違うのですね。驚きです。
 朝、雨戸を開けると、純白に輝く秋明菊の花が目に飛び込んできます。茎がすっくと伸び、神々しいまでに気高い白い花弁です。その隣に不如帰の薄紫色の花がひっそりと咲いています。秋も深まり、朝晩には寒さを感じるようになりました。室内を素足で歩くのに冷たさを感じて、スリッパを履いています。
(2008年6月刊。1250円+税)

2008年4月 4日

富豪の時代

著者:永谷 健、出版社:新曜社
 明治維新以降、一部の実業家たちは、莫大な富を蓄えていた。三井家の一族、三菱会社の岩崎一門、そして大倉喜八郎、安田善二郎、森村市左衛門といった財閥の創始者たちである。
 彼らは、必ずしも明治初年から傑出した資産を保有していたわけではない。とくに、一代で財閥の基礎を築いた実業家たちにとって、明治初年はいわば駆け出し実業家の時代だった。たとえば、安田善二郎が両替店から質商兼業とし、事業の拡大を図りつつあったのは明治2年。大倉喜八郎が鉄砲商として得た財をもとに商会・大倉組を設立し、輸出入委託販売業を本格的に始めたのは明治6年だった。
 明治29年に営業税法が公布された。このとき、日清戦争の軍功による叙爵者にまじって、実業界の岩崎久弥、岩崎弥之助、三井八郎右衛門に初めて爵位が授けられた。これは、実業の分野で国家に対して顕著な貢献があれば、途方もない威信の上昇がありうることを社会に周知させるメッセージとなった。
 明治20年代半ばまで、成功した商人は、「奸商」イメージで語られることが多かった。しかし、多額納税者議員が現れたあと、彼らは新時代で巨富の蓄積に成功した稀有な階層としてとらえられるようになった。しばしば、富豪や紳商と呼ばれるようになった。つまり、前の時代よりダーティーなイメージが薄められたのだ。
 明治17年以降、華族でない実力者士族の華族への割り込みが急速にすすんだ。華族という呼び名で制度的に一括された集団は、メンバーの社会的・文化的出自の多様性の点で、そして異質な選抜基準をふくむ点でも、ひとつの社会的身分として定義するのが難しいほどの雑居状態にあった。
 すなわち、ひと口に華族といっても、それは経済的にも出自の点でも、決して等質な集団ではなかった。階層としての実体性がなかった。
 茶道は、明治20年代後半から大正期にかけて、リッチな実業家たちの正統文化へと成長していった。同じ時期に、能楽も流行した。能楽は、明治9年4月に岩倉具視邸への行幸で天覧に供された。能楽が大流行したのは、やはりそれが代表的な天覧芸であったからだろう。
 茶室は、重要な事案にかかわる面会や人脈形成の場として利用されていた。商談策謀は、茶室以外では出来ないとまで言われた。実業家の茶事は、必ずしも超俗的で、高踏的なものではなかった。
 明治時代にあった長者番付表を見ながら、いろいろ考えることのできる本でした。
(2007年10月刊。3400円+税)

2008年2月 1日

旅順と南京

著者:一ノ瀬俊也、出版社:文春新書
 日清戦争(1894年、明治27年)に従軍した軍夫の絵日記と上等兵の日記をもとに日清戦争の実際を再現した本です。第二次大戦がなぜ起きたのか、日本人が戦争で何をしたのか、改めて考えさせられる本でした。
 朝鮮半島を制圧すべく日本から送られた第2軍(司令官は大山巌大将)は、3万5000人。うち1万人以上が軍夫だった。絵日記をかいた軍夫は東京出身で、1894年10月に遼東半島に上陸し、ずっと後方輸送に従事した。軍夫の賃金は日給50銭。当時、日本の日雇い賃金は21銭だったので、かなりの高給だ。
 もう一人、日記をつけていた上等兵は千葉県柏市の出身であり、漢文調の日記だった。
 朝鮮半島へ渡る出征軍の歓送はすさまじいものがあった。夜間にもかかわらず、大勢の住民が沿線にまで出ていて、励ました。
 兵士には蒸した米を干した保存食である糒(ほしい)が支給された。定量は1人1日3合。
 日清戦争で、日本軍は旅順で人々を虐殺しました。加害者は歩兵第一旅団(旅団長は、あの乃木希典少将です)をふくむ日本軍です。陸軍は、基本的に捕虜をとらず、無差別に殺害したのです。従軍していた英米の記者がこの事実を世界に向けて発信したため発覚しました。
 ご承知のとおり、乃木希典は、10年後の日露戦争のときにも旅順攻略戦にも参加している。日清戦争のときには、清軍(中国軍)が半日であっけなく抵抗を止めた。もう少し苦戦を余儀なくされていたら、日露戦争で日本軍は強襲したら一挙に陥落できるとは思わなかったのではないかという説もあります。
 日清戦争のときの旅順虐殺事件の実態をみてみると、日本人の道義が日露戦争のときまでは良くて、その後、低下した、ということは決して言えないことがよく分かります。やはり、戦争は人間を鬼に変えてしまうのですね。
(2007年11月刊。870円+税)

2007年12月14日

ゴードン・スミスの見た明治の日本

著者:伊井春樹、出版社:角川選書
 イギリス人のリチャード・ゴードン・スミスは1858年生まれ(1920年死亡)、41歳のとき、日本にやって来た。日露戦争のとき、日本に滞在して、日本兵と日本人を観察した。
 明治37年(1904年)11月の203高地の日本軍の空貫突撃の様子が、日本兵の故郷への手紙で紹介されています。現代文のほうを紹介します。
 11月26日に突撃隊が編成され、「突貫」との命令のもとに午後4時に山腹より突進する。上部の堅固な塹壕を築いた要塞からは、容赦のない弾丸の雨が降り注ぎ、どうにか敵の陣地に近づいたとはいえ、犠牲者は増えるばかり。中隊長の戦死、次々と命を失い負傷する友軍、気がつくと残った中隊は自分を含めて10人ばかりというありさま。しかも、その死者の姿は実に残酷で、弾薬に焼けただれていた。あー、湯上がりにせめて一杯の白米のご飯が食べたい。ロシア軍による上からの容赦のない攻撃、自分が生きながらえたのは奇跡というほかなく、無数の屍(しかばね)をこえての二〇三高地の占領だった。その悪夢が、今では毎日毎晩のシラミ虫の攻撃に悩まされている。
 次に、ロシア兵の手紙も紹介されています。
 朝6時。日本兵は縦列になって接近し、第一隊砲火を浴びて倒れても、次の第二隊が、さらに第三隊が前進してくる。我々は銃剣を手にして20分もの死闘を続け、日本兵は 4000人ばかり戦死し、あたりにはおびただしい死体の山が築かれた。日本兵が退却したあと、死体を片づけるのだが、その光景はとても表現できない有り様だった。負傷者は水を求めて泣き喚き、ある者はもう一度、戦闘に加わって死にたいという。
 スミスは大英博物館の標本採集員という任務を帯びていました。新種の魚や動植物を発見したいという冒険心が行動に駆り立てていたのです。
 日記を8冊残していて、当時の日本人の生活や考え方を記録していました。
(2007年7月刊。1600円+税)

2007年9月28日

西南戦争従軍記

著者:風間三郎、出版社:南方新社
 明治10年(1877年)の西南戦争に病院係として従軍した久米清太郎(25歳)の7ヶ月間の日記を読みものにした本です。西南戦争の悲惨な実情がよく伝わってきます。
 著者は久米清太郎の子孫です。久米清太郎は幸いにも生きのび、屋久島に渡って、製糖事業をおこしました。
 2月14日、大雪のふるなか、大将・西郷隆盛の前に1万をこえる兵士たちが勢ぞろいした。一大隊は10小隊から成し、一小隊は200人の兵士からなる。したがって、一大隊は2000人規模。小隊の中心的存在は、城下士。郷士は、城下士の絶対的統率に従わねばならない。
 清太郎は大砲隊二番隊病院掛役を命じられる。砲隊は200人を二隊に分け、保有する砲は山砲28門、野砲2門、臼砲30門であった。
 2月15日、一番大隊長の篠原国幹以下4000人が先陣を切って出発した。
 2月19日、前日から降り出した雪は大雪となった。薩軍兵には制服はなく、大半が着物に草履と脚絆を巻いただけの軽装だった。大砲を引いての雪中行軍は遅々として進まない。
 山門砲や臼砲などの重装備を人力で運搬せざるをえなかった薩軍は雪を甘くみていた。これは誤算だった。
 2月22日、午前4時から熊本で戦争が始まった。
 3月7日、薩軍の大砲が一斉に熊本城へ向かって撃ちこまれた。
 3月10日、田原坂での激戦が続いていて、負傷者が次々に運ばれてきた。田原坂では17日間も決死の闘いが繰り広げられた。
 3月19日、官軍の別働隊が八代に上陸した。官軍の新鋭艦「春日」「鳳翔」「清輝」などが八代湾に入港し、4000人が上陸した。黒田清隆の考えた作戦である。
 4月21日、官軍は3万人にふくれあがり、薩軍は人吉に逃げた。御船で激戦となった。
 5月27日、薩軍は人吉城跡地で、住民の手もかりて、一日2000発の鉛弾をつくった。
 5月29日、清太郎の弟(18歳)が戦死した。この日の清太郎の日記には何も書かれていない。空白は弟の死を哀しむ気持ちのあらわれだろう。
 そのあと、清太郎たちは宮崎県の都城へ逃げた。都城でも、薩軍は追ってきた官軍に大敗した。近代装備を施した官軍2万の前に、心意気だけで戦う薩軍に勝ち目はなかった。
 8月11日、清太郎は、西郷隆盛の息子、17歳の西郷菊次郎に会った。母親の愛加那に似て、目の大きい彫りの深い顔立ちをしていた。
 8月15日、西郷隆盛が和田越の決戦のとき初めて戦場に立った。率いる兵は3500。対する山県有朋の率いる官軍は5万。午後2時、薩軍は全軍が敗走を始めた。菊次郎も官軍に捕らえられた。この菊次郎はその後どうなったのでしょうか?
 清太郎は、8月13日の官軍の延岡総攻撃のとき捕まっていた。
 9月24日、西郷隆盛は49歳で自決した。別府晋介が西郷の首をはねた。
 この日、薩軍の戦死者160余人、降伏した者200余人だった。
(1999年6月刊。1800+税)

2007年6月15日

南方熊楠

著者:飯倉照平、出版社:ミネルヴァ書房
 明治時代の巨人として有名な南方熊楠の伝記です。私はミナカタという読み方をずっと知りませんでした。ナンポウとかミナミカタと読んでいました。この本によると、ミナカタということですが、南方をナンポウと読ませる人もいるそうです。
 信濃守護についていた小笠原家に北方、南方、東方、西方という四家老がいて、その庶出の孫などが各地に分かれて南方を名乗ったということです。明治維新の前はみな小百姓だったが、のちに商家となったものもあり、その一人が父親の婿入りした南方家を起こした。もともと、あまり格の高い家ではない。このように紹介されています。
 熊楠の和歌山中学での成績は、とくに目立つような優等生ではなかったそうです。偉人にも昔から、そういう人っているんですよね。
 熊楠は博覧強記で有名ですが、そのもととなったのが、小学生のころから『和漢三才図会』でした。中学生のとき、原本105巻を借り受けて、最後まで全巻を書き写したというのです。15歳夏に写し終えました。これはすごいことです。さらに、中国の『本草網目』そして、『大和本草』まで書き写したのです。並の人間にはとても出来ません。
 熊楠は和歌山中学を卒業すると、上京して東京大学予備門に入学した。第一高等学校の前身です。明治19年(1886年)から熊楠はアメリカに留学します。
 さらに、イギリスに渡り、1898年12月までの3年半は、大英博物館に通い、さまざまな書籍を書き写しました。大英博物館は、一切が無料公開され、亡命者のたまり場となっていました。不遇な立場にある者や貧しい勉学者にも居心地が良かったようです。
 イギリスで熊楠は中国の孫文とも親しい交流がありました。夏目漱石は熊楠と入れ替わるようにロンドンに留学しています。漱石は国費留学生として月150円が支給されていました。熊楠は、日本の弟からの送金が月80円でしたから、生活は大変だったようです。
 熊楠は1900年(明治33年)10月に14年ぶりに日本に帰国しました。
 熊楠は1911年から1914年まで、大蔵経を抜書する作業に没頭しました。
 4000頁をこえる膨大な量の抜書があるそうです。これだけの努力をするのですから、博識になるのも当然ですよね。
 それにしても私が驚いたのは、大蔵経のなかに、おびただしい数の男女の愛欲や逸脱した性の態様、とくに禁じられた事例としての自慰、不倫、同性愛、近親相姦、獣姦などがあったということです。ええーっ、まさかー・・・とつい唸ってしまいました。経典というから、高邁な理論が述べられているだけと思っていましたが、そうではないのですね。
 熊楠の一世一代の晴れの舞台は、1929年6月に昭和天皇に対して進講したことです。粘菌について話したようです。
 熊楠を知ることのできる伝記でした。

2007年4月16日

ミカドの外交儀礼

著者:中山和芳、出版社:朝日新聞社
 明治天皇が外国人に会ったときの状況を紹介した本です。なかなか興味深いものがあります。
 明治天皇は、元服のとき(1868年1月15日)、童服を脱ぎ、冠をつけ、お歯黒をつけた。男がお歯黒をつけるなんて、聞いたことがありませんでした。気色悪いですよね。
 天皇が外国人に初めて会ったときには、それに反対する者が多くて、大変だったようです。当時は、多くの日本人が外国人を異人と称して、「人間と少し違った種類で、禽獣半分、人間半分」であるかのように考えていた。天皇が外国公使と握手するなんてとんでもない。そんなわけで、それは実行されなかった。なーるほど、ですね。
 フランス公使と会見したときの明治天皇の容姿は次のように描かれた。
 14か15歳の若者だった。眉毛が剃られ、その代わりに額の真ん中に筆でなぞり画きされて、これがその顔を長めに見せさせていた。歯は既婚女性のように黒い漆で染められていた。
 1869年(明治2年)、イギリスのヴィクトリア女王の二男・エジンバラ公が来日したとき、天皇が会見するかどうか政府部内でもめた。結局、会見することになった。ところが、天皇が会見する場から少し離れたところで、神官が清めの儀式を行った。イングランドからついてきたかもしれない悪霊を追い払うためのものだ。アメリカ代理公使のポートマンがそれを知ってアメリカ大統領へ報告書を書いて送った。外国人の物笑いの種になったことを知り、さすがに、この清めの儀式はその後はされなくなった。
 1871年(明治4年)に、オーストリアの元外交官が天皇に謁見した。そのときのことを元外交官ヒューブナーは次のように書いている。
 天皇は20歳だが30歳のように見えた。鼻は大きくて少しぺしゃんこ。顔色は青白いが、目は生き生きと光り輝いている。目は行儀良く、きょろきょろとはしない。江戸の町中でしばしば出会う顔と同じだ。
 天皇は1871年(明治4年)、牛乳を飲み始めた。また、「肉食の禁」をやめ、牛肉や羊肉を常食とするようになった。
 天皇は1872年(明治5年)6月に初めて一般の人々の前に洋服を着て姿を現した。
 1873年(明治6年)3月、天皇はかき眉とお歯黒をやめ、さらに突然、断髪した。
 天皇は写真が嫌いで、写真をとらせなかった。それで、お雇い外国人キョソーネが隣室から天皇をスケッチし、それにもとづいて肖像画を描いた。
 1883年(明治16年)、2階建ての様式建築「鹿鳴館」が完成した。この鹿鳴館で、日本人が熱心に舞踏に励んだ。しかし、外国人は、日本人の努力を笑っていた。
 皇后が洋装するためにドイツに注文した大礼服は13万円もした。鹿鳴館の総工費が18万円であるのに比べても大変高い。ちなみに総理大臣の年俸は1万円、他の大臣は  6000円だった。
 1889年(明治22年)2月11日に、憲法発布式典が挙行され、このときの祝賀パレードで、天皇と皇后が初めて同じ馬車に乗った。
 そんな様子を東京府民が見るのは初めてのこと。皇后も天皇と結婚したことによって天皇と同じ社会的地位に引き上げられたことを天皇自身が認めたということ。それまで、天皇は、玉座が皇后の座と同じ高さにあるということをどうしても納得できなかった。
 明治天皇の実像の一端をよく知ることができました。

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