弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
日本史(鎌倉)
2024年8月 3日
海を破る者
(霧山昴)
著者 今村 翔吾 、 出版 文芸春秋
日本が外国の大軍によって襲撃・占領されたのは、先のアメリカ軍と、その前の元冠(中国・元軍と朝鮮・高麗軍)だけですよね。朝鮮半島へ出かけて行って、白村江の戦いでは日本は大敗しています。文禄・慶長の役ではいったんは朝鮮のほぼ全土を制圧したかと思うと、結局はほうほうの態(てい)で日本侵略軍は日本に逃げ帰ってきました。その次は、またもや朝鮮侵略そして台湾支配ですね。
そこで、元冠です。先日、テレビで唐津あたりの海底に眠っている元の船の発掘調査の模様、そして、その意義を語る番組が放映されていました。
元軍は4000隻もの大量の船で日本に押しかけてきて、日本占領を企図していたようです。ところが、事前予想に反して、日本軍は乏しい武器を駆使して最大限の抵抗をしたので、元軍がもたもたしているうちに台風(神風)が吹いてきて、元軍の船のほとんどは沈没してしまいました。その結果としての海底に眠る元軍の船の遺構をじっくり観察すると、当時の科学技術水準も分かります。
さて、この本です。主人公は河野(こうの)水軍である河野家の当主。そして、一遍(いっぺん)上人が登場します。一遍上人は、もとは河野一族に連なる存在でした。さらに、合戦屏開で有名な竹﨑季長(すえなが)も登場します。これまた、先日、テレビで、この合戦屏風を見ましたが、実にリアルな合戦状況の「再現」ですよね。描いた画師が合戦に参加したはずはないと思うのですが、その迫真さには圧倒されます。
瀬戸内海を拠点とする河野水軍は船戦(ふないくさ)を得意とする。船戦において重要なのは、常に風上をとること。そうすると、敵に接近することも退却することも容易だし、矢の飛距離にも対応できる。風上をとるためには、船の速さが重要。大型の船は動きが鈍(にぶ)いと素人は考えがちだが、実際は逆。大型船ほど大きな帆を付けることができるし、櫓(ろ)を多く出すこともできる。
蒙古帝国は、かつて一度たりとも侵略をあきらめたことがない。それなのに、日本侵略に2度も失敗し、3回目は企画倒れで終わってしまったのは、なぜなのか...。
「神風が吹いた」というのは、いったいどういうことなのか...。
いろいろ考えながら、面白く読みすすめました。
(2024年6月刊。2200円)
2024年1月24日
御成敗式目
(霧山昴)
著者 佐藤 雄基 、 出版 中公新書
御成敗式目は鎌倉幕府によって今から800年ほど前の1232年(貞永1年)に制定された、日本史上、もっとも有名な法。この御成敗式目を制定したのは、鎌倉幕府の執権・北条泰時。
この式目は基本法ではなく、当時生じていた問題についての対処法を示したもの。
当時の日本の総人口は6~700万人、京都に十数万人、鎌倉でも数万人だった。
京都は、現在の東京の一極集中以上に、政治・経済・文化などあらゆる面で日本列島内の隔絶した地位を占めていた。
鎌倉幕府の裁判には、自らの支配領域の案件(地頭・御家人関係)以外は扱わないという原則があった。
承久の乱の前と後で、鎌倉幕府の政治体制には大きな変化がある。
鎌倉幕府は御成敗式目の周知を図ったが、これは大きな特徴といえる。
鎌倉幕府は、承久の乱に勝利したことによって朝廷を圧倒し、全国政権として確立した。北条泰時は、1225年に評定衆を設置した。評定衆とは、重要な政務や訴訟を審議するメンバーである。つまり有力御家人の審議体制をとった。言い換えると、有力御家人の支持をとりつけなければ幕府を運営できないというのが泰時の立場でもあった。
泰時は、式目制定の趣旨を伝える書状を京都にいる弟の北条重時に送っている。立法者が法の制定意図を書状にして他者に説明しているというのは珍しいことだった。
この式目の目的は武士たちに非法を起こさせないことを目的としていた。
この式目は、制定以前のことに効力を及ぼさないというのを原則としている。制定以前のことに式目を適用して処罰することはしないという方針である。これは法の実効性を高める目的がある。
北条泰時には「道理」の人だというイメージがある。一律に判断するのではなく、個別の事情に即して総合的な判断を考えることが「道理」にもとづく裁判だった。
中世人は、集団的な主張そのものに正義を認める傾向がある。鎌倉幕府は、合議と起請文(きしょうもん)によって自らの判決の正しさを主張しようとした。「みんなで決めたことだから正しい」と主張する。
式目は51ヶ条から成る。鎌倉時代には武士の間のケンカが日常茶飯事だったので、武士同士のケンカを防ぐため、あえて厳罰をもって規定した。すなわち、縁座の拡大解釈によって御家人集団の内部が混乱するのを予防しようとした。
鎌倉幕府の裁判では、訴訟当事者が根拠として持ち出した幕府の法令について、他方の当事者がそれを実在しない法令であると主張したとき、幕府もその法令の真偽を判断できないということが起こりえた。いやあ、とても信じられませんよね、これって...。
鎌倉時代は女性の地位が高かった。女子にも相続する権利があった。妻は夫とは別の財産をもち、夫の死後は「後家」として家を切り盛りした。子どものいない女性が養子に財産を譲ること(女人にょにん養子)を認めている。
御成敗式目は、地頭・御家人に向けて出された法であり、武士たちを戒めるためのもの。
式目は貴族や寺社には適用しないと幕府も明言した。さらに、式目は庶民を直接の対象にした法ではなかった。
幕府が裁判制度を整備するのは、積極的に裁判したいからではなかった。むしろ、自らの負担を減らすため、不当な訴えを減らしたかったから。
御成敗式目とは何かを、少しばかり理解することができました。
(2023年7月刊。920円+税)
2023年2月 5日
那須与一の謎を解く
(霧山昴)
著者 野中 哲照 、 出版 武蔵野書院
どうやら著者は大学で学生に「那須与一」を教えているらしいのです。いやあ、それはさぞ面白い授業でしょうね。そんな授業なら、ぜひ聴講してみたいと私は思いました。
著者は、那須与一ほど謎の多い人物はいないし、「那須与一」ほど謎の多い物語はないとこの本の冒頭でキッパリ断言しています。ということは、『平家物語』の那須与一の話は、少しはモデルのいる話かと思っていたのが、実はまったくの架空の話なのではないか...、そう思えるようになりました。そして、早くもネタバレをすると、本当にそうだというのです(すみません、早々のネタバレをお許しください)。
那須与一については、その生誕地(栃木県大田原市)に資料館(伝承館)があるのに、何も分かっていないというのです、まるで不思議な話ではありませんか...。
この本の第一部は、まずは「読解編」として始まります。少しずつ「那須与一」が解明されていきます。
那須与一が船の上の扇の的(まと)を射るのに使った鏑矢(かぶらや)は、先端に雁股(かりまた)という矢尻と鏑がついている。この鏑は、鹿の角(つの)をくりぬいて中を空洞にしたもの。鏑矢が空中を飛ぶと、鏑が笛のように鳴る。鳴らす音によって魔物を退散させる。扇の的(まと)を射るのは、厳粛な儀式で、神事だ。このとき、那須与一に矢を射ることを命じた義経は27歳だった。那須与一が弓を持ち直す表現は、緊張感が徐々に増してきて、集中力が高まっていることを示している。
「与一」は、正しくは「余一」で、これは「十余り一」で、十一男のこと。
大学での授業のあと、「この語は本当にあったことなのか?」と質問しにくる学生がいる。これに対する著者の対応は、さすがに大学で教えているだけのことはあります。
小さな事実としては事実でないかもしれない。しかし、大局的にみて、頼朝直属の武士だけではなく、辺縁部で、かつ底辺の小さな武士団が頼朝を支えていたという点では否定しようのない事実だった。
著者は、そもそも那須与一は実在の人物なのかと問いかけ、その答えとしては否定しています。そして、結論として、嘘(ウソ)であることが見抜かれないように本物らしさを偽装するところにこそ、嘘であることが露呈している、とするのです。なるほど、そんな言い方もできるのですね。
そして、那須与一には、那須光助というモデルがいたとしています。
光助は、那須野の狩りで活躍している。光助は、源頼朝に認められた、鎌倉幕府寄りの御家人だった。なので、義経の部下ということはありえない。要するに、那須与一は物語世界でつくられた人物なのだ。
物語を研究するというのは、こんなことなのかということが推察できる本でした。私には、とても面白かったです。
(2022年5月刊。税込2420円)
2022年12月15日
絵巻で読む方丈記
(霧山昴)
著者 鴨 長明 、 出版 東京美術
「方丈記」に絵巻物があったとは...。いえ、「方丈記」それ自体は鎌倉時代初期に書かれたもの。これに対して、絵巻のほうは江戸時代に製作されたものなんです。ところが、文章と絵が驚くほどよくマッチしています。まあ、ぜひ手にとって眺めてみてください。
そして、この本の良いところは、現代語訳がついているので、古文を難しく感じても、現代語訳で立派に理解できます。
水木しげるも方丈記をマンガにしているそうです。知りませんでした。
「方丈記」の本文は、400字詰め原稿用紙にすると、わずか25枚だそうです。そんなに短いのに、高校生のころは、大学受験のためもあって、必死に勉強していました。といっても、冒頭の「行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまることなし。世の中にある人と栖(すみか)と、また、かくの如し」以上に、どこまで深く読み込んでいたのか、心もとないところがあります。
この本で紹介されている「方丈記絵巻」は、絵画17図の全身14メートルにも及ぶ絵巻とのこと。東京の芝公園にある図書館に原図は所蔵されているそうです。
鴨長明は、欲しがったり、期待したりすることをやめて、心が楽になり、結果として、地位や名声よりも大きな喜びを獲得した。これは、現代の私たちが心穏やかに生きるための範となるだろう。なーるほど、そうですよね。
「知らず、生まれ死ぬる人、何方(いづかた)より来たりて、何方へか去る。また知らず、仮の宿り、誰(た)がために心を悩まし、何によりてか目をよろこばしむる。その主(あるじ)と栖(すみか)と、無常を争ひ去るさま、いはば朝顔の露にことならず。或は露落ちて、花残れり。残るといへども、朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えずといへども、夕べを待つことなし」
飢饉(ききん)の状況を書きとめた文章も心を打ちます。
「また、あはれなること侍(はべ)りき。去りがたき女(め)、男など持ちたる者は、そのこころざしまさりて深きは必ず死す。その故(ゆえ)は、我が身をば次になして、男にもあれ女にもあれ、いたはしく思ふかたに、たまたま乞ひ得たる物を先(ま)づ譲るによりてなり。されば、父子ある者は、定まれることにて、親ぞ先立ちて死にける」
60歳を過ぎた心境は...。
「心また身の苦しみを知れらば、苦しむ時は休めつ、まめなるときは使ふとても、たびたび過ぐさず。もの憂(う)しとても、心を動かすことなし、いかにいはんや、常に歩き、常に動くは、これ養生なるべし。何ぞ、いたづらに休み居(お)らむ。人を苦しめ、人を苦しめ、人を悩ますは、また罪業(ざいごふ)なり」
そうなんです。70歳を過ぎてもなお仕事があり、私を求めてくれる人がいて、自分の足でしっかり歩けるということのありがたさを日々実感しています。
たまに古文を読んで、偉大な先人の言葉に接すると、心が洗われる思いがします。もう、受験生ではありませんので、邪気がありませんからね...。
(2022年7月刊。税込2530円)
2022年12月 9日
鎌倉武士の生活
(霧山昴)
著者 西田 友広 、 出版 岩波ジュニア新書
「鎌倉殿の13人」のおかげで鎌倉時代の武士が大きく注目されているようです。といっても、私はテレビは見ていませんので、そんなブームとは関係ありません。
鎌倉時代にも「大名」(だいみょう)がいたそうですが、江戸時代の「大名」とは、まったく意味が違います。多くの所領(領地)を持つ有力者だという意味なのです。
御家人(ごけにん)とは、先祖伝来の所領を持ち、鎌倉殿に家来として使えることで、その所領の領有を保障された武士のこと。
鎌倉時代の後期には、幕府による御家人身分の認定は厳格化された。御家人身分が限定されたのは、それが特権的な身分だったから。
絵巻物を見てみると、裸足(はだし)の武士も多くいた。上級の武士は、頬貫(つらぬき)とう皮革製の靴を履いた。武士は、地方と京都の両方にいた。武力行使という職能によって社会の中に位置づけられた人々。
源頼朝の出発点は、反乱軍・反政府武将勢力だった。頼朝は謀叛(むほん)人だったのです。反乱軍だったのが、勝ちすすんで政府軍になったのでした。
建物を数える単位というのに、「宇(う)」というのがあるのを初めて知りました。持ち家は1戸、アパートは1棟というのですが、「宇」というのもある(あった)のですね...。
昔の日本人は、実際には獣肉をかなり食べていた。それはそうでしょうね。猪(イノシシ)なんて、今よりもっと身近にいたでしょうし...。武士は犬も食べていたようですね。私は、いわゆる犬派ですので、まちがっても犬は食べたくありません。でも、仔牛は可愛いと思いつつ、食べたいのです。我ながら矛盾していると思います。
鎌倉時代の馬はサラブレッドのような大きさではなく、ポニーくらいの小型だった。だから、戦国時代の合戦を撮った映画にサラブレッドが登場すると、いささか興ざめというか、違和感があるのです。それでも日本古来の馬は持久走は悠々できるようです。
鎌倉時代の女性は、北条政子のように、大きな実力を持っていました。地頭職につくこともあったのです。そして、娘は親から所領を譲られることもありました。その所得は、夫の財産とは別に、妻自身の財産として扱われた。そして、実際の合戦の場にも戦う女性が存在していた。うひゃあ、こ、これは驚きです...。
鎌倉武士の実際を知ることができる本です。
(2022年8月刊。税込968円)
2022年6月 9日
蒙古襲来絵詞復原
(霧山昴)
著者 服部 英雄 、 出版 海鳥社
これは、すごい本です。ぜひみなさん手にとって見てほしい本です。
文永の役(1274年)の蒙古襲来のとき、元軍を迎えうった日本軍の一員だった竹崎季長によって制作された「蒙古襲来絵詞」がカラー図版で見事に再現されていて、圧倒されます。巻頭の27頁もあるカラー図絵を眺めるだけでもワクワクしてきます。なんと素晴らしいカラー彩色絵でしょうか...。
もちろん原本の絵もあります。でも、白描本という線だけの絵とカラー彩色絵を三つ並べて鑑賞できるのです。いやはや、こんなに極彩色だったとは恐れ入りました。
中国(元軍)の最先端兵器は火薬を使う砲弾(てつはう)。轟音を発する見知らぬ兵器に日本軍は、人も鳥も脅えた。火薬の材料は、硝石・硫黄・木炭で、硫黄は中国大陸では不足していたので、火山国である日本で産出したものが中国(宋)に輸出されていた。元は敵対国(宋)への輸出を断ち切り、硫黄を直接入手したかった。軍需物資を得るため、日本を従わせようとしたのが元寇だ。
中国軍は、言語の異なる複数民族(蒙古・漢・高麗)から成り、著しく統一性を欠いていた。東路軍と江南軍は最後まで合流できなかった。初めての海外遠征で不慣れが多く、予定どおりの進軍ができず、作戦計画は非現実的だった。
この本では、「蒙古襲来絵巻」ではなく「絵詞」としています。宮内庁も国定指定名称も「絵詞」になっています。
「絵詞」は、熊本、細川藩家臣の大矢野門兵衛の所有であり、明治時代にはその子孫の大矢野十郎が所有していた。そして、明治天皇に献上された。
模写彩色本は、文政4(1821)年にできている。
「蒙古襲来絵詞」には絵の巻と言葉の巻があり、絵を見る人とは別に、声を出して詞書の巻を読む人がいた。草書は見慣れて読みやすく、楷書のほうが読みにくかった。うひゃあ、まるで今とは逆ですよね、これって...。
日本の大弓は2.4メートル、蒙古の弓は半弓で、1.8メートルなかった。日本の大弓は強力で遠くまで届いたが、長いので操作性は劣った。蒙古の弓は連射性・起動性には優れている。近距離だと、日本の弓を蒙古の竹で編んだ盾では防げなかった。
元軍は人数では日本軍に劣ったが、兵器・火器ではまさっていた。しかし、元軍には不慣れな海外遠征であり、作戦ミスもあった。
ともかく、合戦の模様が江戸時代の模写にせよ、こんなにくっきり鮮明に彩色されていたなんて、全然知りませんでした。もっと広く知られていい模写彩色本だと思います。ご一読を強くおすすめします。
(2022年3月刊。税込3850円)
2022年1月14日
親鸞の信と実践
(霧山昴)
著者 宇治 和貴 、 出版 法蔵館
悪人正機(この本では「正因」)説で有名な親鸞(しんらん)の教えを実践との関わりで追求した書物です。私にはとても難しくて、拾い読みしかできませんでした。私の分かったところだけを紹介します。
親鸞は権力者を頼って念仏を弘めてはならないと説いた。権力と一体化して念仏を弘めても、その内実は形式上にすぎず、念仏の真実性は失われることを熟知していた。
自律的主体の根拠となるべき念仏の教えが、従属の根拠としての念仏になり下がってしまう。弾圧する人々に対しても親鸞は憐(あわれ)みの情をもち、彼らが念仏の真実性にめざめるようにと願うことを指示した。
弾圧を受ける念仏者は、現象的には不幸だが、本当の意味で不幸なのは弾圧する側だ。なぜなら、彼らは真実が見えない人であり、聞こえない、届かない人だから...だ。
もちろん宗派は異なりますが、今の創価学会と公明党、政権与党との関係をつい考えてしまいました。
親鸞の他力信仰は、他力であるため、何もしない主体性のなさが強調され、阿弥陀仏にすべてを委ねるという言説が、現実における信にもとづく実践と無関係の主体を生みだし、ただ報恩行として念仏することのみをすすめるものと理解・解説される傾向がある。しかし、親鸞の信仰とは、そのような実践主体を成立させないものではない。
阿弥陀仏にすべてを委ねて、何もしない、できないと開き直る主体を成立させることを意味するものではない。親鸞において、阿弥陀仏に委ねるとは、廻向によって知らされた本顧にもとづいた生き方を主体的に志向する実践をともなう主体が成立するものとして理解されていた。
親鸞は、84歳のとき(1256年)、長男の善鸞を義絶した。鎌倉幕府から執拗に繰り返される弾圧によって動揺する関東の信者たちが動揺しているので、善鸞を派遣した。ところが善鸞は、親鸞の教えに従わず、かえって信者を混乱に追いこんでいた。
仏に帰依(きえ)することで利他が目的となることは、自らの欲望充足を目的としない生き方が成立すること。
信が成立することにより神を畏(おそ)れない主体が成立したということは、当該時代で無意識のうちに前提とされている価値体系から意識的に抜け出し、世間の名利等を求めなくなる主体が成立することだった。
自力の立場に立つかぎり、その閉鎖された世界からの脱出の糸口を発見できないことを深く信知している。
「非僧卑俗」。親鸞は、歴史的事実である専修念仏弾圧を契機として姿形を変え、僧でもなく、俗でもないような外見をしていたので、「非僧非俗」と言われた。しかしながら、親鸞の「非僧非俗」宣言は、親鸞の内面において行動を根拠づける信念と、親鸞が行動を繰り広げる歴史社会とを分断することなく、信心に根拠づけられた、歴史社会での具体的立場の宣言だった。
要するに、親鸞も鎌倉時代という歴史的事実を前提として、主体的に生きることを考えていたのであって、「あなたまかせ」のような脱主体性とは無縁だったということだと理解しました(これであっているでしょうか...)。
これは、12月の半ばの日曜日の午後、一生懸命に読んで勉強した成果です。
(2021年8月刊。税込3300円)
2021年12月23日
鎌倉殿と執権北条氏
(霧山昴)
著者 坂井 孝一 、 出版 NHK出版新書
なぜ源頼朝が苦労してうちたてた鎌倉幕府が、いつのまにか妻・政子の出身母体である北条氏一門で牛耳られるようになったのか...。北条政子は自分の子より、なぜ実家を大切にしたのか...。鎌倉時代には不思議なことが多いですよね。
源頼朝が伊豆で挙兵したとき、まず一番にやったのは山木攻め。このとき、わずか3~40人ほどの兵力で奇襲をかけた。この奇襲において北条氏は頼朝軍のまさしく中核だった。
ところが、石橋山合戦では頼朝軍は大敗し、頼朝自身も闘わずして上総・安房(あわ)に逃れた。
鎌倉時代には、敵対者の子が男なら、たとえ赤ん坊や幼児であっても命を奪うのが常だった。
このころ、武士は、恩を施してくわる者こそ主君だとみていた。
源平合戦の一つとして有名な「富士川の戦い」においては、甲斐源氏はともかく、兵力差におじけ(怖気)づいた追討軍のなかから数百騎が脱走したため、やむをえず撤退したのではないか...。
北条義時は、忠実なる御家人として頼朝に仕えた。
北条時政は、頼朝の期待にこたえた。ただし、少し調子に乗りすぎた。
頼朝自身は53歳で死亡。政子は、源家の若い当主である頼家を支える家長。御家人たちも政子の意見には従った。頼家は「暗君」ではない。積極的に幕政に関与し、将軍親裁(しんさい)を執行していた。
「比企(ひき)の乱」は、追いつめられた北条時政ら北条氏の側が仕かけたクーデターであり、その実態は「北条の乱」と呼んだほうがいい。
源実朝が鎌倉殿を承継したときは、わずか12歳だった。このときから北条時政の独走が始まった。
牧氏事件は、政子と北条義時ら、方丈時政前妻の子たちが将軍実朝と協力し、時政と後妻の牧の方を追放した事件。
北条義時は、情勢分析がうまく、適切なチャンスが来るまで、じっと待機していた。チャンス到来と判断すれば果断、迅速に行動した。
和田合戦で和田義盛の和田氏が滅びてしまった。
承久の乱における北条氏と後鳥羽上皇の駆け引きが詳しく紹介され分析されているところは、なるほど、そういうことだったのかと思わず膝を叩いてしまいました。
後鳥羽上皇が許せなかったのは、大内裏(だいり)焼失の原因をつくった鎌倉幕府が再建に協力しないこと。
後鳥羽上皇は、北条義時追討の院宣(いんぜん)を発した。これに対して、義時の姉の政子が動いた。「尼将軍」政子の演説は、今も日本史上に残る名演説です。このとき、政子は簾中(れんちゅう)から言葉を発するという手続を踏んだ。この政子の演説によって御家人たちは激しく心を動かされた。
このとき、後鳥羽上皇が命じたのは、朝敵義時の追討だったのに、あたかも幕府本体への攻撃だったと政子はうまくすりかえた。すなわち、政子は義時追討を「三代の将軍の遺跡」幕府そのものへの攻撃であるかのように巧みにすり替えた。
そして、幕府を構成する御家人たちの危機感があおられ、鎌倉幕府の解体の危機がつきつけられた。その状況からして、御家人たちには「鎌倉方」を選択するしかなかった。
義時の率いる鎌倉勢は、圧倒的な実戦経験があった。和田合戦などで実戦を通じて学んでいた。これに対して、京方の将兵は実戦経験に乏しかった。
後鳥羽上皇は、さすがに「治天の君」として策略を立て、三段がまえの戦略を立てた。しかし、万が一に備えておくこともしなかった。
執権北条って、決して盤石ではなかったということがよく分かりました。歴史のダイナミックを実感させられる本です。
(2021年9月刊。税込1023円)
2021年5月 5日
徒然草
(霧山昴)
著者 川平 敏文 、 出版 中公新書
「徒然草」の著者を「吉田兼好」とするのは正しくないとのこと。驚きました。「卜部(うらべ)兼好(かねよし)」か「兼好法師(けんこうほうし)」が正しいというのです。というのも、「吉田」というのは、卜部(うらべ)氏の一流が室町時代以降に名乗った姓だから、なのです。
兼好は、在京の侍のような存在だったが、30歳のときに出家し、「遁世者」(とんせいしゃ)として公家社会にも出入りするようになった。世の交わりを絶ち、ひとり静かに草庵に暮らしていた「隠者」ではない。ええっ、そ、そうなんですか...。
兼好は、公家に出入りしながら歌人として活動し、40歳から50歳のころに「徒然草」を執筆し、75歳ころに亡くなった。兼好自筆の「徒然草」原本は存在しない。
兼好が章段番号を割り振ったこともない。
「徒然草」には、「枕草子」のような文学性、「大草子」のような実用性、漢籍の「随筆」および「詩話」、「歌話」のような学術性、いくつかの特徴がごちゃまぜに存在している。話材の多様さ、表現の的確さ、評論の鋭利さにおいて「徒然草」に伍しうる作品は、それ以前にも以後にも、おそらくない。
「徒然草」には、朱子学をベースとして現実主義的・合理的な思弁が認められる。
「つれづれなるままに」は、「退屈なので」「手持ち無沙汰で、所在ないままに」の意。「なすこともない所在なさ、ものさびしさにまかせて」と解される。かつては、「さびしき」であって、「退屈」と解するのはなかった。
「つれづれ」は漢語の「徒然」)とぜん)と同義で、「冷然」「寂莫」の意。
筑後地方の方言に、「とぜんなか」というのがあります。ひまで退屈しているという意味で使われる言葉だと思います。この本によると、「とぜんなか」という方言は全国各地に残っているとのこと。これまた驚きです。古語が方言として残ったからでしょう。同じように、お腹が減ったという意味で「ひだるか」とも言いますが、これまた古語の「ひだるし」からきた方言です。
大学受験で必須の古文を改めて勉強した気分になった本です。
(2020年3月刊。税込990円)
2020年6月 6日
中世の裁判を読み解く
(霧山昴)
著者 網野 善彦・笠松 宏至 、 出版 学生社
45年以上も弁護士をしている私は、日本人は昔から裁判を嫌っていたと高言する人に出会うと、とても違和感があります。裁判が大好きな人も少なくないし、弁護士を言い負かすことを生き甲斐にしているとしか思えない人もいるという日頃の実感があるからです。
聖徳太子の「和をもって貴しとなす」をもってくる人がいたら、このコトバは、それほど争いごとを好む人が昔から多かったので、おまえらいいかげんにしろ、平和(平穏無事)が一番なんだぞとさとしたコトバなんですよと反論し、教えてやります。誤った思い込みほど怖いものはありません。
この本は鎌倉時代の裁許状(今日の判決文)を歴史学の二大巨頭が対談形式で解説しているものです。これを読むと、日本人は昔から裁判が大好きな人間だったんだなと、つくづく思います。
鎌倉幕府の裁許状ほど、内容の豊かな文書群はあまりない。これは、鎌倉幕府の裁判制度が、前近代においては、世界史的にみても例のないほどに充実した手続にもとづいて行われていたことによる。
裁許状とは裁判における裁許、すなわち判決の内容を記した文書。裁許状のほとんどは、下知状(げちじょう)と呼ばれる文書形式を採用していた。
鎌倉幕府は、執権北条泰時のイニシアティブのもとに、法曹系評定衆を起草者として制定された御成敗式目(ごせいばいしきもく)51ヶ条を定めた(1232年)。
この本の一番目の裁許状で地頭が敗れたのは、証人たちから裏切られたからとなっています。
このころ村の中に湯屋があり、それは、集会の場所であり、刑罰の場所であり、饗応する場所でもあった。湯屋は、風呂というよりサウナのようなもの。
百姓は、それぞれ栗林をもっていた。栗の木は、建築用材だった。
中世の日本では、和与(わよ)とか贈与という行為が非常に大きな意味をもっていた。
代官は必ず荘園の現地に来て、きちんとつきあっていた。正月には、百姓たちと盛大に酒を飲む。そのときの酒がまずいと百姓たちが問題にした。百姓は、一面でいえば、そんなにヤワではない。この費用は、お祭りの費用と同じく、必要経費として控除された。
遠くから客が来ると、必ず接待するというのは、日本社会の基本的な儀礼になっている。この接待費も必要経費として年貢から落せる。
訴訟を公事(くじ)というのは、訴訟はおおやけごとだから、公事というようになった。つまり、公の事務ということ。
詳しい裁許状(判決文)があるということは、原・被告の双方が詳しく書面で主張を展開していたことを前提としています。当事者間で書面による激しい応酬があっていたのです。
鎌倉幕府には、民事訴訟専門の機関として引付(ひきつけ)制度があった。3~5方の部局に分かれ、訴訟を審理し、判決の原案を評定会議に提出した。この引付制度の発足によって鎌倉幕府の訴訟制度は急速に発達した。
もうひとつ、よく分からないなりに、裁許状についての議論を読んでいきました。唯一分かったことは、鎌倉幕府は刑事裁判だけでなく、民事裁判も大切に扱ってきたということです。裁判は人々の関心の的(まと)だったのでした。むしろ今のほうが、民事も刑事も裁判に関わりたくないと高言する人が増えているようで、そちらがよほど心配です。
(2007年8月刊。2400円+税)