弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
日本史(鎌倉)
2019年9月27日
承久の乱
(霧山昴)
著者 坂井 孝一 、 出版 中公新書
承久の乱は、一般には後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒す目的で起こした兵乱とされています。しかし、この本によると、最近では、後鳥羽上皇は執権北条義時の追討を目指しただけで、倒幕ではなかったとされているとのこと。知りませんでした。
そして、後鳥羽上皇についての、時代の流れが読めない傲慢で情けない人物という人物は誤解であって、今では「新古今和歌集」を主導して編纂した優れた歌人であり、諸芸能や学問にも秀でた有能な帝王だったとされています。
同じことは、暗殺された三代将軍の源実朝(さねとも)にもあてはまる。実朝は「政治的には無力な将軍」のイメージが強いが、実は将軍として十分な権威と権力を保ち、幕政にも積極的に関与していた将軍だった。さらに、後鳥羽上皇の朝廷と源実朝の幕府は、対立どころか親密な協調関係を築いていた。実朝が暗殺されたことは、鎌倉幕府だけでなく、朝廷に衝撃を与え、乱の勃発に重大な影響を及ぼした。
このような序文を読んだら、いやおうにも本文を読みたくなるではありませんか・・・。
承元3年(1209年)、鎌倉幕府では18歳になった三代将軍実朝が将軍親裁を開始した。実朝は、主君としての穀然たる姿勢と気概をもち、統治者として次々に政策を打ち出して成果をあげていった。
実朝は、地道な努力を積み重ねて擁立された将軍から、御家人たちの上に君臨する将軍へと自立し、その権威と権力で御家人たちを従えていた。
将軍実朝のもとで、和田合戦が始まり、北条義時が和田義盛の一族を滅ぼした。この和田合戦のあと、将軍と執権とが直接対峙することになった。
北条政子、義時そして大江広元らの幕府首脳部にとっても、実朝暗殺による突然の将軍空位は想定外の危機だった。
実朝は、後鳥羽上皇の朝廷から支援を受け、頼朝をはるかに超える右大臣・左近衛大将という、武家ではとうてい考えられない高い地位に昇った大きな存在だった。
後鳥羽上皇の院宣は、問題が幕府の存続ではなく、北条義時の排除一点にしぼられているうえ、最大の関心事である恩賞に言及していて、御家人に受け入れやすい内容になっていた。後鳥羽上皇が目指したのは、北条義時を排除して鎌倉幕府をコントロール下に置くことであって、倒幕でも武士の否定でもなかった。
北条政子は、金倉幕府創設者の未亡人にして、二代、三代将軍の生母、従二位という高い位階をもち、幼き将軍予定者を後見する尼将軍として、聞く者の魂を揺さぶる名演説を行った。そして、そこには北条義時ひとりに対する追討を、三代にわたる将軍の遺産である「鎌倉」すなわち幕府そのものに対する攻撃にすり替える巧妙さがあった。幕府存亡の危機感を煽られ、御家人たちは異様な興奮の中で、「鎌倉方」について「京方」を攻めるという選択をした。
このとき「京方」を迎撃する戦術をとっていたら、幕府の基盤である東国武士が離反する恐れがあっただけでなく、長期戦となれば、畿内の近国や西国の武士たちが大量に朝廷側の追討軍として組織される可能性もあった。
「鎌倉方」は8年前の和田合戦で激闘を経験ずみであったから、戦況に応じた適格な指示を出すことができた。
「承久の乱」の敗北によって、「京方」は三人の院が流罪になる「三上皇配流」という前代未聞の結末を迎えた。後鳥羽上皇の流人生活は19年に及び、60歳で隠岐島で没した。あとの2人の上皇もそれぞれの配流地で死を迎えた。
歴史を学ぶことは、人間と社会を知ることだと、つくづく思わせる新書でした。
(2019年1月刊。900円+税)
2019年5月28日
海底に眠る蒙古襲来
(霧山昴)
著者 池田 栄史 、 出版 吉川弘文館
伊万里湾は蒙古襲来(元寇)のとき、弘安4年(1281年)に総数4400艘とされる元軍船の多くが暴風雨によって沈没したとされる。
その沈んだ元軍船を海中で発見し、その保有をすすめている学者のレポートです。
4400艘も沈没したのなら、海底には船体がたくさんあってもよいのに、発見されるのは、ごくわずか、今のところ、1号船と2号船だけのようです。なぜ、そんなに少ないのか・・・。
要するにフナクイムシが元軍船を蚕食(さんしょく)したからのようです。船体の木材をフナクイムシが文字どおり食べ尽くしたのでした。
伊万里湾の海底に大量の元軍船が累々と折り重なった状態で沈んだ。この船体の木材がフナクイムシの格好の餌食(えじき)となった。通常ではありえない膨大な量の木材が一夜にして海底に沈んだ伊万里湾では、フナクイムシにとって空前のバブル期が到来したような環境となった。フナクイムシが大量に発生し、海底に沈んだ元軍船の船体を次々に蚕食していった。
ところが、海底堆積層深く潜り込んだ元軍船の船体や木製椗(いかり)はフナクイムシの蚕食から免れ、辛うじて現在まで残った。
フナクイムシは酸素を必要とするので、下手に残った元軍船をそのような状態に置かないような配慮が求められます。そして、引き上げて保存するには莫大な費用がかかります。どうして、さっさと海上に引き上げて保存しないのか不思議に思っていましたが、技術的な問題とあわせて相当額の資金の手当が必要なことを知り、納得しました。
元軍船団のうちの江南軍は伊万里湾の鷹島に移動して集結のための待機中、7月30日夜に暴風雨に見舞われ、壊滅状態になった。元軍主力は帰国することにしたが、鷹島周辺に置き去りにされた元軍の残兵は鎌倉幕府軍による掃討戦にさらされて全滅した。このときの戦闘の様子は有名な竹崎李長の『蒙古襲来絵詞』に描かれている。
捕虜となった3万人ほどは博多へ連行され、蒙古兵、高麗兵、女真兵は斬首され、旧南宋兵は助命されたあと、奴隷(下人)となった。
海底の元軍船を探すのに使われるのは、光でも慈破でも電波でもなく、音波なのだ。
光波は水中で屈曲し、磁波や電波は生物への影響を考えて、容易に使用できない。
音波は水温が8度Cだと1秒間に1438メートル伝わり、空気中より4倍以上の速さとなる。音波は空中より水中のほうが伝わる速度が速い。
ええっ、そ、そうでしたっけ・・・。
1回の潜水時間は、人体の安全管理からすると水深30メートルでは45分ほど。
そんな大変ななかで元軍の沈没船を2つも見つけ出したのですから、たいしたものです。
F35のような超高価(1機113億円)の欠陥戦闘機をアメリカから147機(1兆円以上)も買うより、このような調査研究にこそ私たちの税金を投入すべきだと痛感させられる本でもありました。
(2018年12月刊。1800円+税)
2019年4月29日
承久の乱
(霧山昴)
著者 本郷 和人 、 出版 文春新書
承久3年(1221年)、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の実権を握る北条義時の追討を命じた。承久(じょうきゅう)の乱のはじまりだ。
この承久の乱について、大変面白い、というか刺激的で勉強になる指摘の連続で、ふむふむ、そうだったのか、そうなのかと、思わず頭を深く上下させながら一気に読みすすめていきました。
承久の乱こそが日本史最大の転回点のひとつだ。ヤマト王朝以来、朝廷を中心として展開してきた日本の政治を、この乱以後、明治維新に至るまで、実に650年にわたって武士が支配する世の中になった。
そして、地理的にいうと、近畿以西が常に東方を支配してきた構図がこの承久の乱で逆転し、東国が初めて西を制することになった。
これは、田舎=地方の在地勢力が、都=朝廷を圧倒した最初のケースでもあった。
幕府と呼ぶようになったのは、明治時代からのこと。江戸時代、徳川家の支配体制は幕府ではなく、「柳営」(りゅうえい)と呼ばれていた。
鎌倉幕府の本質は、源頼朝を棟梁と仰ぎ、そこに集結することで、自分たちの権益、とくに土地の保障(安堵、あんど)を得ることにあった。その頼朝による土地安堵が「御恩」、それに報いるために、頼朝の命令のもとに戦うことが「奉公」だった。それを受け入れた武士たちは、頼朝の直属の子分として「御家人」と呼ばれた。この御家人の総数は千数百人ほど。将軍家に直属する人々で、鎌倉武士のなかのエリート中のエリートだった。
頼朝のつくった鎌倉幕府の最重要課題は、御家人たちの土地問題を解決することだった。そして、源頼朝は、東国武士たちが朝廷に接近することを警戒した。朝廷と距離をとるのは、頼朝の政権にとって最重要課題のひとつだった。
ところが、弟の源義経は兄の頼朝に無断で、検非違使(けびいし)に就任し、さらに後白河上皇から左衛門少尉の官位をもらった。これは頼朝にとって許せるものではなかった。
後鳥羽上皇は、非常に実力をもった上皇だった。歌人として超一流であるだけでなく、当代きっての音楽家であり、武士としても名がとどろいていた。
後鳥羽上皇は、自分の力を疑うことなく、幕府の組織系統に手を突っ込み、自分の味方となる武士を次々に増やしていった。
北条義時の最高官位は、従四位。その後も、このまま続けた。
日本史の承久の乱について、なるほど、複眼的思考が必要だということが、よく分かる本でした。
(2019年2月刊。820円+税)
2018年3月 4日
蒙古襲来と神風
(霧山昴)
著者 服部 英雄 、 出版 中公新書
文永の役(1274年)のときには台風は吹いていない。弘安の役のときには台風が来て、蒙古軍は手痛い打撃を受けた。しかし、それは全軍ではなく、江南軍(旧南宋軍)だけだった。
台風が通過したあと、蒙古軍は日本軍と2度の海戦を展開したが、ともに日本が勝利した。その結果、戦争継続は困難だと判断した蒙古軍は退却を決めた。
中国や高麗に戻った将兵は、戦略ミスではなく、嵐のために帰国したといって敗戦の責任を逃れようとした。つまり、大風雨による被害を強調し、誇張して、自分たちを免責しようとしたのだった。
有名な竹崎季長(すえなが)が注文して絵師に描かせた絵巻『蒙古襲来絵詞(えことば)』には台風(神風)のシーンは、まったく描かれていない。
日本は、当時、中国で産出しない木材(ヒノキとスギ)、そして硫黄を輸出していた。中国大陸には火山がほとんどなかったので、硫黄を得ることは難しかった。硫黄は火薬の材料として欠かせない。
神風史観の骨格をなす、文永の役における嵐によって一夜で殲滅(せんめつ)なるものは、幻想・虚像にすぎない。
弘安の役は4ヶ月にも及んだ。蒙古軍は志賀島に上陸して水と草(馬の食料)を確保した。日本軍は、圧倒的に強力な敵を倒すために、ゲリラ戦や夜襲を多用した。蒙古軍が志賀島を占拠したので、日本側は壱岐を攻撃目標とした。志賀島に兵員や武器・食料を送り続ける兵站(へいたん)基地を襲い、対馬・壱岐からの補給ルートを断ち志賀島を孤立させる作戦だった。
当時の日本人には、武士をふくめて「神風」が吹くと考えたことはなかった。
著者の本は、いつも極めて明快で説得的です。
(2017年11月刊。860円+税)
2017年2月19日
日本史のなぞ
(霧山昴)
著者 大澤 真幸 、 出版 朝日新書
著者は日本の歴史上ただ一人の革命家は、信長でもなければ龍馬でもなく、北条泰時だと主張しています。
日本社会の歴史のなかで、天皇や朝廷に全面的に反抗して、なお成功したものは承久の乱のときの北条泰時のみ。それ以外には一人もいない。
そもそも、天皇に真っ向から完全に対決した者は非常に少ない。
承久の乱のあと、鎌倉幕府は、ときの仲恭天皇を廃し、三人いた上皇を、隠岐、佐渡そして土佐に流した(流罪)。非皇室関係から皇室関係者が一方的に断罪されたのは、これが初めてで、その後もない。
承久の乱(1221年)のとき、鎌倉幕府が執権北条得宗家を中心にしてまとまったのは、承久の乱を戦うことを通じてだった。この戦いのなかで武士たちは連帯した。鎌倉幕府は、京都からの軍を鎌倉で迎撃するのではなくて、積極的な攻撃に出た。
北条泰時は、地方の武士を連合させて中央の政争に介入して皇室軍に勝利した。
そして、日本列島全域に及ぶ権力を獲得し、独自の法(御成敗式目)を公布した。これによって「武者の世」が本格的に始まり、明治時代の幕開けまで続いた。泰時のなし遂げた革命とは、このことである。
北条泰時は、執権として関東御成敗式目(ごせいばいしきもく)を定めた。この法では裁判の公正性がもっとも重要だった。この御成敗式目は、中国の法律を受け継いだというものではなく、日本史上初めての体系的な固有法である。
北条泰時は、日本社会の歴史のなかで唯一の成功した革命家である。北条泰時は日本社会に初めて体系的な固有法をもたらし、この法は広く深く日本人の生活に浸透し、定着した。
北条泰時は、院宣に反して幕府軍を率いて天皇軍を打ち負かした。そして、天皇の一陪臣の身でありながら、三人の上皇を配流した。だから天皇制支持者から罵詈雑言をあびせられても不思議ではない。ところが、逆に天皇を熱烈に支持する学者からも激賞されている。
なるほど、こういう見方も出来るんだと、驚嘆しました。
(2017年1月刊。720円+税)
2017年1月19日
南朝研究の最前線
(霧山昴)
著者 呉座 勇一 、 出版 洋泉社歴史新書y
日本に二つの朝廷が併存していた時期が60年近くも続いたことがありました。鎌倉時代末期の南北朝時代です。後醍醐天皇が吉野に南朝を樹立したのが始まりです。
戦前は、この南朝が正統とされ、楠木正成や新田義貞が忠臣で、足利尊氏は逆賊とされていた。戦後になって、それが逆転してしまった。楠木正成は、むしろ「悪党」とされた。
この本は、最新の研究成果をふまえて、従来の通説をいくつもの点で覆しています。
後醍醐政権(南朝)には、旧幕府の武家官僚が多く参加し、その政権が崩壊すると、次に室町幕府に活躍の場を求めた。したがって、鎌倉幕府~建武政権~室町幕府のあいだには、スタッフの連続性が認められる。後醍醐天皇の人事は、良く言えば堅実、悪く言えば平凡なものだった。
朝廷の政治は、政権を担当する院・天皇と評定衆(議定衆)とが協力して進められていた。政権を勝ちとるために有効な方法と考えられていたのが訴訟制度の充実だった。
訴訟を扱う記録所に訴訟当事者が口頭弁論をする「庭中(ていちゅう)」と呼ばれる法廷を設けた。さらには、院への取り次ぎ役である伝奏(でんそう)を訴訟処理の中枢に起用することで、より早く裁許が出せるよう改善した。
どの政権も、徳政に取り組んでいることをアピールするため、訴訟制度の整備に心血を注いでいた。
日本人は昔から裁判を嫌っていたという俗説が一般化していますが、弁護士を40年以上している私は、決してそんなことはないと日々、実感しています。むしろ、日本人は、文章を書けることがあたりまえだったので、昔から裁判で決着をつけようと考えている人のほうが多かったのです。
鎌倉時代の後期、荘園社会の動揺などから、朝廷に持ち込まれる訴訟が増えていて、それを裁決する治天の君が果たす役割が大きくなっていた。
朝廷の公家たちにとって、多くの先例をうち破った後醍醐の斬新で意欲的な政治姿勢など、狂気の政道にすぎなかった。
天皇は、記録神話によると、最高の祭祀者として神聖視される存在であった。そのため、天皇は、退位して上皇になることで初めて、仏教に積極的に関わることが認められた。
南北朝の対立・抗争事件の実情をよく知ることのできる意欲的な新書です。
(2016年7月刊。1000円+税)
2016年11月21日
忍性
(霧山昴)
著者 松尾 剛次 、 出版 ミネルヴァ書房
鎌倉時代に、ハンセン病患者に挺身していた高僧がいたのですね。ちっとも知りませんでした。良観房忍性(にんしょう)という僧です。ハンセン病患者の患部に自ら薬を付けるなど、直接的な看護を目指していたというのです。すごいですね。
忍性たちの教団はその時代に10万人近くの信者を獲得し、1500の末寺を保有していた。鎌倉時代、最大の信者数を誇る新興教団だった。その規模は、当時の日本で最大の人口を有していた平安京が12万人ほどと推測されていることからも想像できる。
忍性の生きた時代、すなわち13世紀の後期・末期から14世紀初頭の鎌倉時代は、日蓮や一遍といった鎌倉新仏教僧が活躍した時代であり、また蒙古襲来という未曾有の危機に見舞われた時代でもあった。
忍性は、奈良や鎌倉で精力的にハンセン病患者の救済活動をすすめた。
当時、ハンセン病患者は、人間に非ざる存在(非人)とされ、筆舌に尽くしがたい差別を受けた。前世あるいは現世における悪業によって仏罰を受けた存在だと認識されていた。それは、ハンセン病患者の救済に従事した叡尊らも例外ではなかった。
ハンセン病患者たちは、もっとけがれた存在だと考えられていて、非人と呼ばれ、人々との交際も拒否されていた。そうした彼らに忍性らは救済の手をさしのべた。こうした慈善救済事業と戒律護持の態度などから、忍性は北条時頼、重時、実時ら鎌倉幕府の幕閣たちの尊敬をも集めた。
当時、僧侶の妻帯は一般化していたし、僧兵という、僧侶でありながら武芸を誇る者が多数いた。忍性は戒律を重視し、その護持を誓い、他者にもその護持を求める律僧であるとともに、密教僧でもあった。このころ僧侶の破戒は一般的だった。戒律復興を叫び、戒律護持を勧めた叡尊、忍性らが注目されたこと自体が、そのことを逆説的に証明している。
中世において、僧侶には、官僧と遁世僧という二つのタイプがあった。叡尊らは、不治の病とされたハンセン病患者救済をはじめ、橋・港湾の整備、寺社の修造、尼寺の創出など、さまざまな社会救済事業を行った。その結果、叡尊の教団は、10万をこえる信者を擁する鎌倉時代最大の仏教勢力の一つとなった。
叡尊や忍性らは行基の活動をモデルとしていた。彼らは行基信仰をもっていた。
忍性をライバル視し、激しく批判したのが日蓮だった。忍性と日蓮は、宿敵と思えるほど激しく対立した。その背景には、都市鎌倉での信者をめぐる獲得競争があった。
忍性は、1303年(嘉元元年)7月12日に87歳で亡くなった。
鎌倉時代の社会の実相を再認識させられる本でした。
長年の友人である裁判官からすすめられて読みました。いい本をすすめていただき、ありがとうございました。
(2004年11月刊。2400円+税)
2015年4月28日
蒙古襲来
(霧山昴)
著者 服部 英雄 、 出版 山川出版社
蒙古襲来絵詞は有名です。残念ながら、私はその実物を拝見していません。竹崎李長は九州は熊本の武士です。この蒙古合戦での自分の活躍ぶりを絵にして鎌倉まで出かけて褒賞を得ようとしたのです。ですから、この蒙古襲来絵詞も、竹崎李長のコマーシャル、ペーパー(宣伝物)として、いくらか割引いて考える必要があります。それにしても、よく描けていますよね。合戦から10年たって、専門の絵師に書かせたのです。
もちろん、頼まれた絵師たちが合戦の現場にいたわけはなく、その状況を見てもいません。竹崎李長の注文どおりに、それまでの絵と実物をもとに想像して再現図を描いていったのでしょう。
竹崎李長の出身は、菊池川の河口にある玉名郡竹崎であって、益城郡竹崎ではない。蒙古軍(東路の高麗軍)は、志賀島を基地・陣営とし、博多湾岸に夜襲を繰り返した。さらには、長門(下関)へ上陸する部隊もいた。そして、遅れて西方に新規の江南軍(旧南宋軍)があらわれ、鷹島に碇泊して、博多湾へ出撃した。当時の軍事行動は、夜戦が多かった。
7月1日の「神風」は、蒙古軍だけでなく、日本側の船にも多大の被害を与えた。この台風より前に、日本軍の将兵は疲労の限界にあった。しかし、7月5日、志賀島の海上戦に日本軍は勝ち、7月7日にも鷹島で勝利し、蒙古側は敗れた。捕虜は御家人に預けられ、戦後になって高麗は捕虜を厚遇したことについて感謝する国書を日本へ送ってきた。
蒙古襲来は、近代以前に日本が経験した国内において戦われた最大規模の外国戦争である。当時、中国(宋)は、世界で最高最新の科学の国だった。元のフビライ皇帝は、日本の硫黄以外にも金や米、水銀、真珠、材木などに関心を寄せていて、交易を積極的に推進し、外交も求めたが、鎌倉幕府が反抗する以上は、武力制圧が不可欠だと考えていた。
日本の地方に「トウボウ」とあるのは、チャイナタウンたる唐房・唐坊のことであり、古代中世の日本には、いくつもあった。これまで、九州に14ケ所・山口県に7ケ所ほどの「トウボウ」地名が分かっている。
この当時は、日本の通貨は宋銭(中国銭)だった。日本は独自の銭貨をつくらずに、中国の銭貨を用いた。
蒙古軍(高麗軍)は、大宰府の陥落を目標とし、7日間ほど合戦を続けたが、7月1日に「嵐」があり、それを契機として7月末、北風が弱まったあいだに撤退し、帰国した。
蒙古襲来が撃退されたのは、台風が来たこともあるが、御家人たちが必死の抵抗をしたことによる。蒙古軍は台風によって全滅したのではない。全軍を率いる司令官が早々に日本へ引き揚げたことは大きい。また、日本軍が置ち、負けた蒙古軍をなで切りにしたものでもないだろう。
『八幡愚童訓』は創作であり、これを史学に使ってはならない。
蒙古襲来絵詞で使われた絵具は部外秘のものである。
馬については、1日に15リットルの水を飲ませて、家分を落ち着かせた。対馬について、高麗や朝鮮は両属域・無境界を認識しながら、意思疎通ができることが必要だった。
蒙古襲来絵詞の高い評価をもつ所以をしっかり認識することができました。今から700年以上も前の話しではありますが、貴重な体験をした日本は、以降は力に頼る政治がずっと続いていきます。とても残念です。
(2014年12月刊。2400円+税)
2013年1月27日
蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡
著者 湯浅 治久 、 出版 吉川弘文館
ムクリ、コクリという言葉が、私の脳裡にかすかな記憶として残っています。恐ろしいものという意味です。つまり、ムクリ、コクリに襲われたら大変だということです。
ムクリとは、モンゴル(蒙古)、コクリとは(高麗)。つまり、蒙古襲来の悪夢が現代日本人にも微かに伝わっていたということです。
この本を読んで、西方の中国そして朝鮮半島から中国・モンゴル軍が来襲してきたとき、実は北方からも日本を襲う動きがあったことを知りました。
蒙古は、同じころサハリンのアイヌを改め、20年後に元が再びサハリンのアイヌを攻撃した。蒙古からの攻撃がアイヌの反乱と連動していた可能性は高い。
鎌倉幕府は、弘安の蒙古合戦に大勝したことで気を良くして、高麗派兵を企図した。そして、元のフビライは、日本遠征をあきらめず、戦艦の建造をすすめた。フビライが永仁2年(1294年)に死ぬまで、蒙古襲来の危険は続いていた。
フビライが高麗や日本への軍事行動を始めたのも、実は南宋を孤立させるための布石であった。
文永11年(1274年)10月、第一次蒙古合戦が始まった。来襲した兵員は、蒙古軍と高麗軍を併せて3万余人。兵船は900艘に達した。
10月20日、蒙古軍は、百道原や今津から上陸して、日本の武士と激戦を繰り広げた。蒙古軍は、この日、筥崎宮を焼き払った。そして、混成軍の統制がとれず、思わぬ日本武士の抵抗に気後れした蒙古軍が撤退する途中に暴風に遭遇した。合浦に帰還した蒙古軍は1万3000人あまりを失っていた。
この合戦の状況が有名な「蒙古襲来絵詞」に描かれている。
弘安4年(1281年)、蒙古人・漢軍・高麗軍の計4万人が日本に襲来した。別に江南軍は10万人、船舶3500艘。しかも、江南軍は、鋤・鍬を所持し、日本へ移住して、大地と人民を支配することをもくろんでいた。
この14万人の集団が平戸近くの鹿島になぜか1ヵ月も滞留していたとき、折からの台風によって壊滅的な打撃を受けた。
蒙古との合戦直後、北条時宗が34歳で急死した。
鎌倉幕府の内部状況は目まぐるしく変遷していきます。人臭いドラマの連続です。
(2012年11月刊。2800円+税)
2011年12月29日
河内源氏
著者 元木 泰雄 、 出版 中公新書
目からウロコの落ちる思いのする本でした。
貴族と武士とは、決して対立的な存在ではない。武士は常に王権のもとに結集するのである。それどころか、武士も貴族の一員であり、ともに民衆に対しての支配者であった。
かつてのように、貴族と武士を対立する階級とみなし、武士が結集して貴族に対抗する武士政権を樹立することを自明とみなしたり、貴族にとって武士は脅威であり、抑圧の対象であるといった、従来の河内源氏の理解は、もはや成りたたない。武士は貴族から生まれた。
実際の貴族は、それほど軟弱ではなかった。五位以上の位階をもつ武士を「軍事貴族」と称する。本来、貴族とは、朝廷において五位以上の位階をもつ者の呼称である。従って武士でも五位以上なら、れっきとした貴族の一員なのである。
武士にとって、力量を侮られることは単に屈辱というだけでなく、敵の攻撃を招いて滅亡する危険さえ有していた。東国武士は武名を重んじざるを得ず、無礼者には報復せざるをえなかった。源氏は、自力救済の世界における敵対関係と、降伏した者への寛容をうまく使い分けていた。
源義家は、朝廷を守る栄光の大将軍と、無用の戦争を繰り広げて残忍な殺戮を繰り返す武士の長者という二つの顔をあわせもつ武将だと貴族から認識されていた。
源氏の共食いという忌まわしい言葉がある。源義家・義綱兄弟の対立、為義・義朝父子、頼朝・義経兄弟の対立など、河内源氏では内紛が続いた。
当時、武士でも公家でも、家長が死去したあと、その晩年の正室が後家として亡夫にかわって家長権限を代行するという強い立場にあった。新家長に対して強い発言権を有し、場合によっては廃嫡することさえも可能であった。頼朝没後の北条政子がその典型である。当時も今も、日本の女性は強かったのですよね。
保元の乱(1156年)。白川殿に結集した武士の中心が為義以下の河内源氏なら、それを攻撃する集団でもっとも中心的な役割を果たし積極的に行動したのも、河内源氏の義朝であった。この合戦は、まさに河内源氏の父子分裂、そして全面衝突の様相を呈した。
合戦は後白河側の勝利となった。開戦から4時間ほどを要した激闘だった。平清盛は播磨守に、源義朝は右馬権頭(うまごんのかみ)に、源義康は検非違使に任じられ、義朝と義康には昇殿が許された。
平治の乱(1159年)。保元の乱は平安時代で初めて首都で起こった兵乱ではあったが、その戦場になった白河は京外であった。しかし、平治の乱の舞台はケガレを忌避する神聖な空間、左京のど真ん中で発生した。それだけに、人々に与えた衝撃は大きかった。ただし、平治の乱は、源平両氏の大規模な決戦とは言い難い規模でしかない。
武士と貴族の関係を考えさせられました。
(2011年9月刊。800円+税)