弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(鎌倉)

2011年12月29日

河内源氏

著者   元木 泰雄 、 出版   中公新書

 目からウロコの落ちる思いのする本でした。
貴族と武士とは、決して対立的な存在ではない。武士は常に王権のもとに結集するのである。それどころか、武士も貴族の一員であり、ともに民衆に対しての支配者であった。
 かつてのように、貴族と武士を対立する階級とみなし、武士が結集して貴族に対抗する武士政権を樹立することを自明とみなしたり、貴族にとって武士は脅威であり、抑圧の対象であるといった、従来の河内源氏の理解は、もはや成りたたない。武士は貴族から生まれた。
実際の貴族は、それほど軟弱ではなかった。五位以上の位階をもつ武士を「軍事貴族」と称する。本来、貴族とは、朝廷において五位以上の位階をもつ者の呼称である。従って武士でも五位以上なら、れっきとした貴族の一員なのである。
武士にとって、力量を侮られることは単に屈辱というだけでなく、敵の攻撃を招いて滅亡する危険さえ有していた。東国武士は武名を重んじざるを得ず、無礼者には報復せざるをえなかった。源氏は、自力救済の世界における敵対関係と、降伏した者への寛容をうまく使い分けていた。
源義家は、朝廷を守る栄光の大将軍と、無用の戦争を繰り広げて残忍な殺戮を繰り返す武士の長者という二つの顔をあわせもつ武将だと貴族から認識されていた。
 源氏の共食いという忌まわしい言葉がある。源義家・義綱兄弟の対立、為義・義朝父子、頼朝・義経兄弟の対立など、河内源氏では内紛が続いた。
 当時、武士でも公家でも、家長が死去したあと、その晩年の正室が後家として亡夫にかわって家長権限を代行するという強い立場にあった。新家長に対して強い発言権を有し、場合によっては廃嫡することさえも可能であった。頼朝没後の北条政子がその典型である。当時も今も、日本の女性は強かったのですよね。
 保元の乱(1156年)。白川殿に結集した武士の中心が為義以下の河内源氏なら、それを攻撃する集団でもっとも中心的な役割を果たし積極的に行動したのも、河内源氏の義朝であった。この合戦は、まさに河内源氏の父子分裂、そして全面衝突の様相を呈した。
 合戦は後白河側の勝利となった。開戦から4時間ほどを要した激闘だった。平清盛は播磨守に、源義朝は右馬権頭(うまごんのかみ)に、源義康は検非違使に任じられ、義朝と義康には昇殿が許された。
 平治の乱(1159年)。保元の乱は平安時代で初めて首都で起こった兵乱ではあったが、その戦場になった白河は京外であった。しかし、平治の乱の舞台はケガレを忌避する神聖な空間、左京のど真ん中で発生した。それだけに、人々に与えた衝撃は大きかった。ただし、平治の乱は、源平両氏の大規模な決戦とは言い難い規模でしかない。
 武士と貴族の関係を考えさせられました。
(2011年9月刊。800円+税)

2011年7月23日

兼好さんの遺言

著者  清川 妙    、 出版  小学館

 いま90歳、現役の講師として活躍中の著者による、読んで元気の出る本です。
 たったひとり、灯火の下に書物をひろげて、自分が見たこともない、遠い昔の人を心の友とすることは、このうえもなく楽しくて、心が慰められることだよ。
 人、死を憎まば、生を愛すべし。
 存命の喜び、日々に楽しまざらんや。
 人の命は、雨の晴れ間をも待つものかは。
 明日をも予測できない生命。死は背後からそっとしのび寄り、無警戒の人をつき落とす。雨がやむまでも待っておれない。いま、この瞬間、一刹那が大事。
 以上、いずれも兼好の言葉です。いいですね。
 著者は40歳のときに物書きとなりました。
 緊張と集中と、強い意思を求められる日々。だけど、原稿を書き終えたあとの達成感と充実感は、何ものにも換えがたい。生きているという実感が心身にみなぎる。
 そうなんですよね。私も目下自分の体験をもとにした小説に挑戦中なんですが、これを書いて考えているときには、生きている、60数年を生きてきたという実感があります。
 カルチャーセンターで講義を受けるとき、講師とは一対一だと思うべし。他の人は意識から消し去ること。自分ひとりが講師と向きあう、個人レッスンだと思わないといけない。そして、頭に浮かんだことを、素直に言葉にして講師と対話すること。
 なーるほど、ですね。そうなんですか。今度、私も、フランス人の講師とそんなつもりで話してみましょう。
 生きている、そのこと自体が、魔法のように不思議なこと。
 死という、目には見えない、しかも動かぬ定めを、創造力という心の目でしかと見定め、覚悟をもとう。そして、この世にある間は、いのちを大切にして、ひたすら生をいとしみ、この世の日々を充実させて生きようではないか。
 花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは・・・・。
 年を重ねてくると、その智恵は若いときよりまさる。それは、若いときには、その容貌が老人にくらべてまさっているのと同じことなのだ。
 むむむ、なるほど、まったくそのとおりです。これも私が年を取ったから同感できる言葉です。
 物事には、確かに潮時がある。しかし、本当にやりたいことがあるのなら、潮時なんて考えるな。やりたいと思ったときこそ、潮時なのだ。人生はたった一度しかないのだから・・・。
 「徒然草」の原文を読み返してみたくなりました。本当にいい本でした。90歳になっても、こんな本を書けるなんて、実に素晴らしいことです。心から拍手を送ります。

(2011年6月刊。1300円+税)

2011年6月18日

源頼朝の真像

著者   黒田  日出男   、 出版    角川選書  

 かの有名な源頼朝がどんな顔をしていたのか、少しでも日本史に興味をもつ人なら、知りたいところですよね。著者は日本史の教科書にのっている源頼朝は別人のものだと断定します。それは、室町幕府の将軍であった足利直義(ただよし)の肖像だというのです。しかも、鎌倉時代ではなく14世紀半ばに製作されたとします。ところが、いま福岡で公開されている展覧会でも、依然として源頼朝の顔として紹介されています。学会で通説がひっくり返っても、教科書レベルの書き換えは至難のことのようです。
 では、源頼朝はどんな顔をして人物だったのか。著者は甲斐善光寺にある像が源頼朝だとしています。そして、源頼朝の実子である源実朝像との類似点も指摘されています。なるほど、この二体はまさに親子だと思わせます。似ているんです。
 では、なぜ、甲斐善光寺に源頼朝像が安置されていたのか、その謎を著者は探ります。信濃にあった善光寺を根こそぎ甲斐へ移し、甲府の地に建立したのは武田信玄の宗教的、政治的な大事業だった。そして武田信玄の死後、善光寺如来は京都に入り、そのあと40年ぶりに信濃に帰った。しかし、信濃からもたらされた源頼朝像は、そのまま甲斐善光寺に残っていた。
信濃善光寺は3度炎上したが、甲斐善光寺の大火は1度だけだった。そして、この甲斐善光寺にある源頼朝像の造像を命じたのは北条政子であった。
 通説の源頼朝の顔はいかにも貴族的ですが、甲斐善光寺の源頼朝像はとても人間臭い顔つきです。
眉間を厳しく結んだ目元は、どこか憂いをおびつつも、何かを見すえたような表情を示す。また、厳しく結んだ口元は、意思の強さを感じさせ、頬やあごのしっかりした骨格は、堂々とした貫禄を感じさせる。活動的で威圧的な風格を感じさせる像である。
 なるほど、かなりの人物だと思わせる像であることは間違いありません。そして、実朝像との類似点も指摘されているとおりだと私は思いました。学者って、すごいですね。
(2011年4月刊。1800円+税)

2011年6月 8日

北条氏と鎌倉幕府

著者    細川  重男  、 出版   講談社選書メチエ

 執権北条氏は、なぜ自ら将軍とならなかったのか。その謎を解き明かした興味深い本です。鎌倉時代の武士の荒々しい実像を初めて知った思いがしました。鎌倉時代の武士たちは、自分たちを「勇士」と称していたが、要するに野蛮人だった。京都の王朝貴族は東国武士を蔑んで「東夷」(あずまえびす。東に住む野蛮人)と呼んだが、そのとおりだった。
 紛争解決方法として相手を殺すことを即座に選ぶ武士たちが作った鎌倉幕府は、まさに蛮族の政権であり、王朝のような知識の蓄積はほとんどなかった。鎌倉武士たちは支配機構を手探りで作っていった。鎌倉幕府の歴史は、東夷たちの悪戦苦闘の歴史であり、すなわちムダな流血の連続だった。
 伊豆時代の北条氏は系譜が正確に伝わるような家ではなかった。北条氏自身ですら、自家の先祖の系譜がよく分からなかったのではないか。
 平安、鎌倉期の武士団は意外に人数が少ない。父子2人に家臣1人とか兄弟2人だけといった、武家団というより、武家親子、武家兄弟とでも言いたくなる豆粒のような武家団も少なくなかった。
 頼朝期には、門葉(もんよう)、家子(いえのこ)、侍(さむらい)の区分があった。門葉は、頼朝の血族を指す。侍とは、頼朝と血縁のない家臣、つまり一般の武士国における郎従である。家子は、一般の御家人たる侍よりも上位に位置づけられている、頼朝によって選抜された側近、親衛隊である。
 鎌倉将軍は、室町将軍の奉公衆や徳川将軍の旗本のような直轄の軍事力を事実上保有しなかった。鎌倉将軍の軍事力とは、各御家人の有する軍事力の集合体であった。
頼朝という重石を失った鎌倉幕府は、激烈な内部抗争の時代を迎える。それは和田合戦まで14年に及び、源平合戦の戦友たちが殺し合った。
暗殺された実朝のイメージは、和歌をたしなむ、おとなしくて、かわいそうな将軍という、なよなよしたイメージがつきまとっていますが、その実相は、けっこう短気で怖いというものだったようです。
北条氏にとって、政子の生んだ実朝は自らの最大の権力基盤だった。だから、実朝暗殺の黒幕が義時らの北条氏であったとは考えにくい。
名執権として高名な北条時頼は、もともと庶子であったため、実は執権としても、北条氏家督としても正統性を欠く存在だった。
文永5年(1268年)初頭以来の蒙古の重圧を背景として、対蒙古戦争を必至とした鎌倉幕府は、臨戦体制の構築を目ざし、時宗への権力集中を急いでいた。
室町・江戸の両幕府と鎌倉幕府の最大の相違点は、将軍が一つの家の世襲とならなかったことにある。
鎌倉将軍は、源氏将軍三代(頼朝、頼家、実朝)、摂家将軍二代(頼経、頼嗣)、親王将軍四代に分けられる。
時宗には国際認識の欠如と野蛮なまでの武力偏重がある。時宗は中国の国書を無視したばかりか、使者を二度斬首し、ひたすら戦闘体制の構築に邁進した。時宗には外交交渉という発想がなく、国際常識をまったく欠いていた。鎌倉幕府には、天皇家や王朝を滅ぼすということは、できもしなかったし、その以前に発想もされなかった。
時宗は、自分が皇統に口出しできる存在であると考えており、実際に皇位の行方を決めた。時宗は皇位をも意のままにする日本国最高実力者であり、帝王にすら憐れみを寄せる超越者だった。
北条氏得宗の鎌倉幕府支配の正統性は、得宗が義時以来の鎌倉将軍の「御後見」たることにあるのであり、このような得宗の政治的・思想的立場からすれば、得宗自身が将軍になるなどという発想が出てこようはずもなく、得宗は将軍になりたくもなければ、なる必要もなかった。
鎌倉将軍は頼朝の後継者であるという観念を具現化した者こそ、七代将軍の源惟康だった。源頼朝の後継者である鎌倉将軍の「御後見」として、北条義時の後継者である得宗は、八幡神の命より鎌倉幕府と天下を統治する。
時宗による「御後見」の実態は、鎌倉幕府の全権力を一身に集中させた独裁者だった。
将軍を擁しつつ将軍権力を自身が行使するという時宗の地位は「将軍権力代行者」と定義できる。君臨すれども統治せざる神聖化した将軍の下で得宗が将軍権力を代行するという政治体制は、鎌倉幕府の歴史と伝統に基づく正統性と権威をもっていた。将軍が存在しながら、北条氏が権力を握っているというわかりにくい政治体制は、煎じ詰めれば頼朝没後の内部抗争に始まる混乱と迷走のあげ句に、なし崩しにできあがったものなのである。
いやあ、実に面白い歴史本でした。こんなことがあるから速読・多読・濫読はやめられないのです。
(2011年4月刊。1500円+税)

2010年7月16日

歎異抄の謎

著者 五木 寛之、 出版 祥伝社新書

 『歎異抄』(たんにしょう)は不思議な本である。そこには、たくさんの謎はふくまれていて、読めば読むほど迷路にまぎれこんだような気持になることがある。
 初めて読んだときには、がつん、と強い衝撃を受けた。そして、ずっと自分の内側にかかえて生きてきた暗い闇が、明るい光に照らし出されたような気持ちになった。しかし、その後、ことあるごとに読み直すと、次々に新しい疑問がわきあがってきた。
 肝心なところが、どうしてもわからない。『歎異抄』は、いくつもの謎にみちた本である。
 いつ成立したのか、誰が書いたのか、はっきりしない。『歎異抄』には、原文というのが存在しない。
 蓮如によって禁書とされたというのは、違うだろうと著者は言っています。それは、軽々しく他人に見せるなということだろうというのです。
 阿弥陀仏(あみだぶつ)とは、数ある仏の中でも、わが名を呼ぶ全ての人々を漏れなく救おうという誓いをたて、厳しい修行のもとに悟りを開いた特別の仏である。
 阿弥陀とは、永遠の時間(いのち)、限りなき光明(ひかり)を意味し、その誓いを本願(ほんがん)、その名を呼ぶことを念仏(ねんぶつ)という。
 善人なほもて往生をとぐ。いはんや悪人をや。
 善人ですら救われるのだ。まして悪人が救われぬわけはない。
 いわゆる善人、すなわち自分の力を信じ、自分の善い行いの見返りを疑わないような傲慢の人々は、阿弥陀仏の救済の主な対象ではないからだ。ほかに頼る者がなく、ただひとすじに仏の約束のちから、すなわち他力(たりき)に身を任せようという、絶望のどん底からわき出る必死の信心に欠けるからである。だが、そのようないわゆる善人であっても、自力(じりき)におぼれる心を改めて、他力の本願にたちかえるならば、必ず真の救いをうることができるに違いない。
 私たち人間は、ただ生きるというそのことだけのためにも、他のいのちあるものたちのいのちを奪い、それを食することなしには生きえないという根源的な悪を抱えた存在である。
 わたしたちは、すべて悪人なのだ。そう思えば、我が身の悪を自覚し、嘆き、他力の光に心から帰依(きえ)する人々こそ、仏に真っ先に救われなければならない対象であることが分かってくるだろう。
 おのれの悪に気づかぬ傲慢な善人でさえも、往生できるのだから、まして悪人は、とあえて言うのは、そのような意味である。
 なるほど、分かった、と言いたいところですが、よくよく考えてみると、なかなか難しい言い回しですよね。でも、たまには、こんな根本的な問いかけを自らにしてみるのも大切ですよね。著者の小説『親鸞』を読んで触発されたので、読んでみました。
(2009年12月刊。760円+税)

2010年4月17日

親鸞(上・下)

著者  五木寛之 、 出版 講談社
  
 浄土真宗の開祖、親鸞の青年時代の状況が活写されています。作家の想像力のすごさには感嘆するばかりです。こんなストーリーをどうやって思いつくのでしょうか…。モノカキ志向の私は見習いたいと切実に願います。
六波羅ワッパ。ロッパラワッパ。六波羅(ろくはら)という土地は、平家一族の集い住むところであり、平清盛公の邸(やしき)を中心にして出来あがった軍事と政治の本当の舞台である。
六波羅殿といえば、平氏一門を意味し、また平清盛公その人をさす言葉でもあった。
 その平清盛公が、みずから京の町に放った手の者たちが、六波羅童(ろっぱらわっぱ)である。すべて14歳から16歳までの少年たちである。その全員に赤い垂直(ひたたれ)を着せ、髪を禿(かぶろ)に切りそろえさせ、手に鞭(むち)をもたせた。総勢300人ほどの数らしい。このロッパラワッパが活躍する京の町で若き親鸞は修行していきます。誘惑も大きい都です。
牛飼童(うしかいわらわ)、神人(じにん)、悪僧。盗人(ぬすっと)、放免(ほうめん)、船頭、車借(しゃしゃく)、狩人(かりうど)、武者(むさ)など、不善の輩(やから)をあつめて、隻六博打(すごろくばくち)を開帳している人間も登場します。
後白河法皇が異例の大法会を催す仏前の大歌合わせである。
表白(ひょうびゃく)願文(がんもん)、讃嘆(さんたん)、読経(どくきょう)、梵唄(ぼんばい)、和讃(わさん)、唱導、教化(きょうげ)、そのほか、あらゆるうたいものをうたい競わせようというもの。
 身分の高い僧には、僧網(そうごう)と有識(うしき)とがある。僧網には、僧正、僧都、律師などの位があり、さらに、法印、法眼(ほうげん)、法橋(ほっきょう)などの官職もある。
また、有識のほうには、己講(いこう)、内供(ないじ)、阿闍梨(あじゃり)の職がある。
 その他の僧は、凡僧(ぼんそう)と呼ばれていた。
このほか学生(がくしょう)、堂衆、堂僧のほか、稚児(ちご)、童子、寺人(じにん)、商人、傭兵、落人(おちうど)、職人、芸人など、雑学な人々がお山にむらがり住んでいた。したがって、比叡山は、ただの聖域ではない。
親鸞の師であった法然上人が登場します。
本願ぼこりとは、どのような悪人であろうとも、必ず阿弥陀仏は救ってくださるという、おどろくべき考えから生まれてきた異端の信心である。
悪人なおもて救われるという親鸞の教えは、なかなか意味深いものがあります。私は高校生のころにこのフレーズを聞いて、驚き、疑いました。
(2010年1月刊。 1500円+税)

2009年10月17日

青嵐の譜

著者 天野 純希、 出版 集英社

 13世紀の鎌倉時代。博多湾に元寇が襲来します。その前に、もちろん壱岐や対馬が、日本兵は島民とともに壊滅させられます。
 文永の役も弘安の役も、決して神風で日本軍が勝ったわけではありません。この史実は、この小説にも生かされています。
 元のフビライ自身は、本気で日本を占領しようと考えていたようで、第3回目の遠征軍まで準備しつつあったのでしたが、中国の国内事情がそれを許しませんでした。中国軍といっても、南宋の敗残兵を駆り集め、また、朝鮮・高麗の兵を無理やりひっぱって来ていたのです。侵略軍としての統制がとれていなかったんですね。
 それでも、今の裁判所のある赤坂あたりの小山というか丘をめぐって、蒙古軍と日本軍とが激しくたたかい、一進一退していたということです。蒙古軍はずっと海上にいたのではなく、かなりの部隊が博多湾から上陸して陸地で日本兵と戦ったのでした。
 蒙古襲来絵詞で有名な竹崎李長も登場します。このときの戦いで、失地回復しようと必死でした。そのため、この絵巻物を鎌倉まで持参して、その手柄をなんとか公認してもらったのです。おかげで、このときの合戦の様子を、現代日本の私たちは視覚的にもとらえることができます。
てつはうという鉄砲のようなものもあります。蒙古軍は集団戦法はには強くて、日本軍をさんざん打ち破りました。日本兵は一騎打ちでは負けなかったのですが、その前にやられてしまうのですから、話になりません。
 ほとんど負けと思ったところ、はじめからやる気のうすい蒙古軍が博多湾に引き揚げて休んでいるところを、突如として台風が襲ったのでした。まあ、日本は運が良かったのでしょう。
 私の子どものころ、「ムクリ、コクリ」という言葉を聞いた記憶があります。とても怖いものというイメージです。ムクリは蒙古、コクリは高句麗のことです。700年たっても、人の記憶って生きているんですね。
 いずれにせよ、30歳にもならない著者の想像力には脱帽してしまいました。 

(2009年8月刊。1600円+税)

2007年6月22日

蒙古襲来

著者:新井孝重、出版社:吉川弘文館
 現代日本人には、日本が外敵に攻められたときに神風が吹いて助かったと信じている人が少なくありません。しかし、蒙古襲来については、もっと歴史の現実をよく見ておく必要があると思います。
 モンゴル軍の矢には毒が塗ってあり、雨のように無数に射掛けてくる。弓は短弓で飛距離は200メートル、日本の長弓の2倍はあった。そして鉄砲(てつはう)という火薬を包んだ球状の鉄や陶器の炸裂弾を投げつけ、その大音響と煙で神経質な馬をおどろかせた。モンゴル軍の指揮官は高いところにいて、引くときは逃げ太鼓を打ち、押し出すときには攻め鼓を叩いた。指揮官の銅鑼(どら)や鐘の合図で縦横に散開し、密集し後退する軍隊である。日本人の知らない武装・構成・編成・戦略・戦術を駆使するモンゴル軍の、整然とした戦闘展開をまえに、神経を攪乱されてつかいものにならなくなった軍馬と同じように、武士たちはすっかり怖じおののき、戦う気力をうしなった。筥崎(はこざき)八幡宮は日本の武士たちが逃げだしたあと、焼け落ちてしまった。
 第一次モンゴル戦争・文永合戦は実質一日の出来事と考えられてきたが、本当は一週間ほど続いた。そして、モンゴル軍は撤退していった。これは予定されたものとみるべきである。長期占領の用意をしていたという形跡はない。帰還途中に突風に吹かれたことはあった。
 モンゴル軍が日本を狙ったのは、彼らが日本にあると思っていた豊富な金・銀・真珠を手に入れようとしたものだった。
 弘安の再征は、旧南宋の帰順軍隊を減らす目的があった。氾文虎の率いる江南軍10万は、ほとんどが旧南宋の軍隊であった。兵を失業させずにすますのが弘安の再征だった。人々は、スキやクワを持って船に乗った。ほとんどの兵員の実態は軍隊ではなく、農民であり、遠征の目的は兵として戦うというより移住・移民にあった。
 一足先に日本列島に到着した東路軍は、壱岐島沖の海上に浮かんで、ひたすら江南軍の到着を待った。ところが、夏の海上生活は予想をこえて大変だった。蒸し風呂のような船内は、兵士の体力を消耗させ、食料は腐敗、栄養のかたより、兵糧切れ、水事情の悪化がすすみ、ついに大規模な伝染病が艦隊全体にひろがり、死者は3千余人に及んだ。そのうえ、生木をつかって突貫建造した船体が腐ってきていた。
 そこへ、日本列島を縦断する台風が襲った。暴風雨のあとに残った船は、4千あまりのうち200隻たらずでしかなかった。生きて中国大陸に帰ったものは5分の1にすぎなかった。捕虜となったモンゴル軍のうち、モンゴル人と高麗人と漢人は皆殺しにされ、南宋人だけは殺されずに奴隷にされた。日宋貿易以来のなじみがあったからである。
 このように見てくると、決して神風が吹いたから日本は助かったというだけではないということがよく分かります。

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