弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

社会

2009年8月28日

よく分かる自衛隊問題

著者 内藤 功 紙谷 敏弘 ほか、 出版 学習の友社

 日本の自衛隊の現状と、そのかかえる矛盾、問題点を、コンパクトにまとめたブックレットです。大変よく分かりました。一読をおすすめします。
 軍事用語は、本質をごまかそうとする動きのなかで、大変分かりにくいものになっている。たとえば、陸海空三自衛隊の統合運用という用語によって、陸海空三自衛隊の幕僚長の格付けが変わり、対外的には「大将」格になった。ええっ、日本の自衛隊に大将なんていたの……、驚きました。
 日本の自衛隊は、いま、「本物の軍隊」を目指している。
①外敵に対して、国家権力の発動としての軍事力(武力)を最高度に行使できる
②軍事行動について、国民や国家・地方機関に協力を義務付けできる
③軍人に関わる事件について、軍刑法、軍事裁判所、憲兵といった軍固有の捜査・司法機関を保有する
 そして、今の自衛隊には、次の4つの特徴がある。
①アメリカの戦略に組み込まれていること
②外征軍(攻撃的戦力)としての性格を強めていること
③国民を敵視し、監視する性格を強めていること
④憲法に違反する存在であること
 日本の自衛隊が、いま任務づけられている作戦行動は、単なる戦闘ゲームではなく、生身の人間がやる殺傷破壊行為である。ところが、肝心の隊員、とくに下級隊員の精神的支柱の脆弱さは、自衛隊内に大きな矛盾を生んでいる。
 現在、自衛隊員にも憲法の基本的人権は保障されている。「諸君のイノチは、この隊長が預かった」とイラク派兵のときに指揮官が訓示した。しかし、生命を捨ててまで、という気にならない隊員が少なくない。
 2008年4月、陸海空にあった保全隊を全部まとめて、情報保全隊本部をつくった。隊員と家族の思想調査を担当し、あわせて国民を監視する機関である。
 自衛隊員は25万人、防衛省本省の文官(背広組)が2万人、合計27万人もいる日本最大の国家公務員組織。
 そうなんですよね。公務員が多すぎるというとき、真っ先に減らすべき存在です。
 フォースプロバイダー(FP)とフォースユーザー(FU)というように、司令官の役割分担を明確にした。これは、アメリカ海軍の方式を踏襲(ふしゅうとは読みません)したもの。
 イラクに派遣された陸上自衛隊員は、のべ5500人。戦地イラクを体験した幹部。隊員は、その後、要職に就いている。イラク派兵部隊の15人にのぼる群長・隊長のうちの3分の1が、一佐から陸将補に昇給した。陸上自衛隊のすべての基幹部隊に「戦地」経験をさせるという壮大な幹部教育を実施する意図があった。そして、イラクでの兵器・施設・設備の戦時使用を学び、生かすことができた。
 自衛隊のイラク作戦の目的は、イラクの復興支援であると同時に、一人の犠牲もなく隊員全員を日本に連れて帰ることであった。
 なーるほど、だからサマワの周辺地域に金をバラまいて、安全を買ったわけですね。
 日本の国防費は、諸外国に比べて他省庁に組み込まれているものもあり、トータルすると総額は9~10兆円規模にまでなる。世界有数の軍事費大国なのである。
 選挙戦で財源問題が焦点になっていますが、総額10兆円にものぼる軍事費を半減させたら、老人と子どもの医療費の無料化は直ちに実現できますし、日本の福祉も劇的に改善・向上するのです。軍事費こそ、何よりのムダづかいではありませんか。

 コモ(イタリア)の駅で、ミラノまでの特急列車の切符を窓口に並んで買いました。自動販売機で買おうとしたのですが、ドイツ語表示なので分かりません。別の若者たちも自動販売機で買おうとしていましたが、同じように買えず、窓口で買っていました。
 ミラノまでの往復切符をなんとか買って、ホームに入りました。すると、予定より早いのですが、列車が入ってきました。ミラノ行きであることは間違いありません。迷うことなく乗り込みました。すると、これが大正解だったのです。この特急列車は、ミラノ中央駅行きではなく、ミラノ・ガリバルディ行きでした。途中で検札に来たら、ドイツ語が解らなかったからととぼけるつもりでいたのですが、心配した検札は来ませんでした。
 ガリバルディ駅も、もちろんミラノ市内にあります。地下鉄で、中央駅とも結んでいます。ミラノには何本もの地下鉄が走っているのでした。ガリバルディ駅に着いて、よく調べてみると、なんと、コモとも私鉄で結びついています。しかも、ここからミラノ・マルペンサ空港行きの急行列車が出ているのでした。なんだ、なんだ。それでは、明日、コモからこの私鉄に乗ってガリバルディ駅に出て、そして急行に乗り換えてマルペンサ空港に向かうというのが一番安全・確実なコースじゃないか。すっかり安心しました。でも、一応、ミラノ中央駅からマルペンサ空港までの足も調べておきましょう。地下鉄に乗って、ミラノ中央駅に着いて驚きました。なんと、とてつもなく巨大な駅です。そして、切符を買うための窓口には何百人もの人々が延々と長蛇の列をなしています。見るからに気の遠くなりそうな光景です。うんざり、げんなりしてしまいました。そそくさとガリバルディ駅に戻りました。次は、何時何分のコモ発列車に乗ったらよいかです。駅の時刻表を見てみます。6時30分にコモを出て、ミラノに7時半に着く列車があると書いてあります。よし分かった。コモ駅に着き、念のために明日の日曜日、コモ発、ミラノ着で6時か7時の列車はどれですかと尋ねました。すると答えは日曜日に出ているのは6時17分だけ、次は7時17分だというのです。ええーっ、なんということ……。驚きました。だって、ミラノ・ガリバルディ駅には6時17分発の列車なんて書いてなかったのですよ……。でも、コモ駅の係員が嘘を言うはずはありません。時刻表にも確かにそう書いてあります。
 翌朝、ホテルを出たのは6時15分前です。スーツケースを引っ張って、6時少し前に着きました。間違いなく、6時17分発と表示された列車がいました。ミラノ・ガリバルディ駅でマルペンサ行きの急行に乗り換えました。大学生らしい若者たちでほとんど満席でした。
 あてにならない駅の時刻表に、今も不思議でなりません。
 
(2009年4月刊。1500円+税)

2009年8月26日

どんとこい、貧困!

著者 湯浅 誠、 出版 理論社YA新書

 マンガ入りで、難しいことを分かりやすく、優しい言葉で解説していますので、頭の中にすうーっと入ってきます。そして、たくさんの経験に裏打ちされていますので、よくよく分かります。うん、うん、そうだ、そうなんだよね。しきりにうなずきながら一心に読み進めて行きました。
 貧困とは、溜め(ため)がないこと。つまり、単にお金がないだけじゃなく、頼れる人間関係や、「やれるさ」という前向きな気持ちを持ちにくい状態を指す。逆に言うと、たとえお金がなくて「貧乏」でも、周囲に励ましてくれる人たちがいて、自分でも「がんばろう」と思えるなら、それは「貧困」じゃない。それが、貧困と貧乏の違いだ。
 必要なことは、「甘えるな」と突き放すのではなく、「世の中、捨てたもんじゃない。誰もが、あなたを見捨ててるわけじゃない」ということを、口先だけでなく、ちゃんと形で示すことだ。
 死ぬ気になれば、なんだって出来る。それは、そうかもしれない。しかし、その結果、不幸な人たちが増えて、社会としても不幸になるのだとしたら、いったい何のためにそんなことをしなくてはいけないのか?ふむふむ、なるほど、そうですよね。
 社会は人間でつくられている。その人間をつぶしていって、社会が良くなるわけがない。お金のために人間らしい生活を放り出すという本末転倒のやり方・考え方が、まず第一の間違い。お金をかけないためといって、いろんな費用を削ってきて、結果的に余計にお金のかかる事態を生み出している。これが第二の間違い。つまり、二重の間違いを犯している。
 自分が苦しければ苦しいほど、他人はずるいという気持ちが強まる傾向がある。そして、あまりにも違い過ぎる人には目がいかず、自分に近いところでちょこっとだけずるしているように見える人のことばかり気にかける。そうなんですよね。
 貧困状態に放置された人の選択肢は、次の5つしかない。
①家族に頼る
②自殺する
③罪を犯す
④ホームレス状態になる
⑤NOと言えない労働者になる
 自己責任論は、溜めがなく、がんばれなくなってしまった人たちを、さらに痛めつけるためにつかわれる。まったく同感です。
 現代日本社会は、滑り台社会だ。少なくない人たちが排除されてしまっていて、排除されると簡単に生活が成り立たなくなる。生きていけなくなる。そんな社会だ
 そうですよね。ニッサンの10人ばかりの取締役は、平均2億4000万円もの年俸をもらっています。そんな人から見たら、ホームレス状態の人はまさにがんばりが足りないとしか見えないことでしょう。でも、自己肯定感をまったく持てずに大きくなってしまった人、そして、手に何の技術も身につけていない人に、どうやってがんばれというのでしょうか……。
 今の日本社会は、つくづく弱いもの、高齢者、障害者に冷たいと思います。昔の日本では決してそうではありませんでした。
 今度の総選挙で、このことが重大な争点として浮かび上がっていないのが、私には大変残念でなりません。

 ポストバスはキアヴェンナを14時12分に出発しました。平地を走ります。左側に阿蘇の外輪山のように急峻にそそり立つ山が連なっています。
 やがて大きな湖が左手に見えてきました。バスの運転手がアナウンスしています。どうやら、コモ湖と言っているようです。湖には小さなヨットがたくさん浮かんでいます。湖面をセーリングで疾走する人もいます。モーターボートも走っていますので、ぶつからないかつい心配してしまいました。
 ボートに乗って、のんびり釣り糸を垂らしているおじさんの姿もみかけます。
 最終目的地はコモなのですが、コモ湖は人の形をした、すごく細長い湖です。左側に湖が見え隠れしながら、平坦な市街地やトウモロコシ畑をバスは走っています。
 バスが突然、大きなラッパ音を出します。どうしたんだろうと思うと、バスの左をオートバイが3台、走り抜けて前方に出て行きました。危ないぞ、と警告したようです。
 町の中を走り、山の方にのぼり、ルガーノを目指します。再びコモ湖のそばを走ります。狭い道です。バスはラッパをときどき大きく鳴らして走りますが、いよいよ離合するのが難しくなりました。反対方向に車が渋滞しています。よくぞこんな狭い道を利号して進めるものだと感心します。逆方向から走ってくる車は、バックミラーを道路沿いの塀に当てたりしています。それでも車体がこすりあわないのが不思議です。
 15分以上もノロノロ運転して進みます。ところが、スイス領内に入ると、とたんに道は広くなりました。片側一車線はきちんと確保されていますので、すいすいバスは進みます。
 高台にあるルガーノ駅に着いたのは16時30分。16時10分到着の予定でしたから、20分遅れです。湖畔道路で大渋滞だったせいです。
 ルガーノ駅にあるカフェに入って、キールロワイヤルを飲んで一息つきました。やれやれです。4時間のポストバスを乗り切って、少しばかり自信が付きました。
 
(2009年6月刊。1300円+税)

2009年8月25日

2011年、新聞・テレビ消滅

著者 佐々木 俊尚、 出版 文春新書

 ショッキングなタイトルの本です。ええっ、まさか……と思いましたが、テレビ記者に聞くと、テレビ業界に将来はないと思うので、真剣に転職を考えていると言います。小学生のころからテレビとともに育ってきた私ですが、大学に入ってからほとんどテレビは見なくなりました。今では、せいぜい週に30分間、野生動物の紹介番組を見るぐらい(それもビデオで)です。
 新聞を読む人々は年々激しい勢いで減り、雑誌は休刊のオンパレードだ。かつてみんなが見ていたテレビも、今では「下流の娯楽」「富裕層は見ない」と言われ、都会では人々の日常の話題にさえ上らなくなった。なぜ、そうなったのか?
 テレビは馬鹿しか見ない。あるいは、馬鹿になったときしか見ない。深い意味のない、人々の記憶や心に残らない番組を作ることこそ、「テレビ屋」としての誇りがある。うえーっ、なんだか逆説的ですね。
 アメリカを代表する高級紙、ニューヨークタイムズが、今や、破たんの一歩手前にある。日本のテレビ業界は、ちょうど3年遅れでアメリカの後を追っている。テレビの前に座っているのはネコだけ。それが視聴率の実態だ。
 テレビ番組の制作会社によると、年収400万円ほどの人たちが今のテレビを作っている。不景気のため、制作費がカットされている。テレビの制作会社の給料は、良くて年収500万円、ひどいところは300万円にしかならない。しかも、年をとっても給料は上がらない。40代も半ばになって、すっかりくたびれてしまった中年ディレクターが今のテレビを作っている。
 この本を読むと、新聞だけでなく、テレビもいずれ消え去ることは間違いないようです。
 テレビ業界の監督官庁である総務省は、2010年に情報通信法を制定して、2011年に施行を予定している。この法律は、テレビは放送法、電波やネットは電気通信事業法というように分かれているのを一本化した。
 テレビの成り立ちと現状、そして将来展望のなさをしっかり勉強することができる本です。
 28日(金)夜6時からアクロス福岡の国際会議場で、テレビ報道の現状を考えるシンポジウムがあります。高橋哲哉東大教授の講演のあと、パネルディスカッションがあります。前にもご紹介しましたが、ぜひ、ご参加ください。


 サンモリッツからポストバスに乗りました。一日一本だけ出る長距離バスです。途中イタリアに入国して、またスイスに戻り、ルガーノという駅まで4時間かけて走ります。
 サンモリッツを昼12時20分に帝国で出発しました。ゆったりした観光バスで、日本人は私たち夫婦だけ。ポストバスは事前に予約が必要です。バスの運転手が運転しながらガイドもしてくれるのですが、残念なことにドイツ語ですので、チンプンカンプンです。
 サンモリッツの湖を左手に見ていましたが、しばらく行くとまた湖があります。ヨットを浮かべている人もいます。遠くの山にはロープウェーがのぼっていて、山頂には白いものが見えます。万年雪なのでしょうか。
 さらに進んでいくと、バスは山を一気に下りて行きます。そうなんです。サンモリッツが涼しいのは、高い所にあるからなのでした。九十九折りの道をぐんぐん降りて行きます。ところが、そこを逆に自転車で登ってくる人たちがいるのです。すごいです。驚きます。
 ようやく、山のふもとの平坦な土地に出ました。小さな村の中をぬけます。青の洞門のような狭いトンネルをくぐり、村の広場に出ます。
 さらに進むと、イタリア領に入りますが、検問所の係員がパスポートを改めるのかと思うと、何もせず見送ります。
 バスはまだまだ山野中を降りて行き、やがて、キアヴェンナという駅に着きます。ここで、20分の休憩をとります。ここまででちょうど2時間、半分になりました。(続く)


(2009年7月刊。750円+税)

2009年8月23日

ジャーナリズムの思想

著者 原 寿雄、 出版 岩波新書

 テレビは最初から「茶の間劇場」としてスタートしたメディアである。
 「現状」をそのまま報道しようとするテレビで、事象の本質を的確にとらえるのはずっとむずかしい。
 事件、事故の結果は、そのまま絵になるが、原因を映像にすることは至難の業である。現代世界の実相を映像の具象性でとらえることが出来ると考えるのは、幻想にすぎない。真実は具象的にはとらえられない。事象の意味は絵にならない。
 映像によりかかり過ぎる「映像至上主義」は、やはり批判されるべきだろう。
 テレビの潜在的可能性は、4~5割くらい未開発のままである。
 先進国で、日本ほど組織的自己検閲がされている国はない。
 選挙で棄権が多いのは、誰が選ばれても変わらないという安心感と絶望感が反映している。マスコミが「不偏不党」に縛られ過ぎ、政党や候補者の公約と実績を具体的に点検し、報道評論しようとしない消極的な態度も大きな要因だろう。
 政治家蔑視が政治蔑視を生み、アパシー(政治的無関心)を強める。その陰で、政治はひと握りの政治家たちの勝手な振る舞いを許してしまう。
 権力者の「大悪」より、か弱い市井の庶民の「小悪」に矛先が向きやすい。
 テレビの潜在的可能性は、たしかに高いと私も思うのですが、それにしても郵政民営化、政権交代と単純2分論をあおり立てる豪雨型の報道はいかがなものでしょうか……。
 前にも紹介しましたが、28日(金)6時から、天神のアクロス国際会議場で、著者もパネリストの一人として参加されるパネルディスカッションがあります。弁護士会主催のシンポジウムです。ぜひご参加ください。
 サンモリッツからベルニナ特急に乗りました。片道2時間半ほどの旅です。イタリアのティラノという町が終点で、そこで2時間半あまり昼食をとって休憩し、夕方5時過ぎにサンモリッツに戻ります。
 ベルニナ特急は、スイスの山岳地帯を走りますので、広々と空いた車窓からの眺めはまさに絶景です。遠くに氷河を眺めたり、大きなループ橋があったり、楽しい旅となります。
 このベルニナ特急で、2組の日本人夫妻と一緒になりました。
 行きに出会ったご夫妻は、ベルニナ特急のリピーターだそうで、途中下車して山歩きを楽しむということでした。
 帰りにご一緒した夫妻は千葉出身で、地元名物という堅くて美味しいおせんべいをいただきました。ベルニナ特急から見える山の頂付近を、パラグライダーが飛んでいましたが、ご夫妻も筑波山あたりでハングライダーを楽しんでいるとのことでした。
 ベルニナ特急のあとはパリに一週間ほど滞在する計画だそうで、私もそれくらいゆっくりしたいものだとうらやましく思ったことでした。
 デジカメとビデオを夫婦して撮っておられました。
 
(2007年7月刊。700円+税)

2009年8月20日

共依存、からめとる愛

著者 信田 さよ子、 出版 朝日新聞出版
 ながくカウンセラーをしている著者は、ストレスがたまることはないそうです。すごいですね。私より少しだけ年長の団塊世代です。
 カウンセリングで疲れることはあっても、ストレスがたまることはない。この上なく悲惨で奇怪な話を聞くことで、人間の不可思議さに触れ、頭の中を秩序だてていたパラダイムが、音を立てて崩れ落ちる瞬間の解放感を味わう。これ抜きにカウンセラーを続けることはできない。なーるほど、そういうことなんですね。弁護士である私にも少しだけ分かります。
 親から虐待されている子どもが、親から暴力をふるわれて翻弄されながら、「すべて自分のせいだ」と認知する。わけのわからない痛みや混乱を、子どもなりに秩序だてられなければ、子どもの世界はカオスとなる。しかし、カオスの中では生きることができない。そこでシンプルな秩序を編み出すことになる。それが、「すべて自分が悪い」という究極の論理である。この論理で構築できない秩序はない。あらゆる出来事が自分の責任であり、悪い子だからだと認知する習慣は、幼児的万能感の裏返しでもある。それは成人後にも持ち越され、過剰な背負いこみ、過剰な責任感へとつながっていく。ふむふむ、そうなんですね。
 アダルトチルドレンの生きづらさの大半をしめるのが、このわけもなく過剰なままの自己責任感覚、自責感なのである。だから、これから解放されるためには、いったん、「あなたには何の責任もない」として、イノセンス(無罪)を承認される必要がある。うむむ、なるほど、なるほどですね。
 アルコール依存症者の平均寿命は52歳。美空ひばり、石原裕次郎、中島らもの享年は、みな52歳だった。うへーっ、それは知りませんでした。
 アル中の妻は、「私が見捨てれば夫は生きていけない」と考えている。夫の「妻に見捨てられたら生きていけない」というメッセージは、妻の考えとまるで鏡の裏と表のようにぴったり重なっている。妻を満たしているのは、ケアを渇望している存在にケアを与えることで得られる快感である。忍耐と苦労ばかりの生活にあって、この満足感だけが砂漠のオアシスのように感じられる。妻は、夫から振り回される存在から反転し、むしろケアを求めるように夫を操作するようになる。
 カウンセラーは妻に対して、「それは共依存です」と伝える。妻は、自分が良かれと思ってやってきたことが、夫をさらに依存させることになっていたことを自覚すると、長年のケアの与え手としての時間が否定されてしまうような感覚に襲われるだろう。しかし、そのあとに、やがて訪れるのは、途方もない解放感である。
 共依存という言葉は、日本の妻や母たちが当然のようにケアの与え手役割を強制されてきた忍耐の歴史に風穴を開けた。「これ以上ケアをしてはいけません」というシンプルなメッセージは、共依存という言葉に結晶して、多くの強制されたケアの与え手を解放した。
 女性のアルコール依存症者について、次のような指摘があります。 
妻は、夫の関心をおねだりして酒を飲んでいるわけではない。むしろ、人間として扱われなかったことへの怒り、そのような状況を変更する力のない自分への無力感が、妻を飲酒に駆り立てている。妻の冷徹な状況判断力、傷つきやすいプライドが、皮肉にも自らの現実を耐えがたくしている。
 そんな妻を見捨てずにケアをする夫は、妻が崩壊するのと反比例して、より正しく人間的な存在にのぼりつめる。自分が偉い人間になったという気分に浸ることが出来る。
 共依存の特徴は、よりかかる他者が必ず自分より弱者であること。強者であれば単なる依存にすぎない。飲み込まれるどころか、むしろ飲み込むために共依存は弱者を選ぶ。隠れた主体は巧妙に弱者である対象を操作する。
 共依存は、弱者を救う、弱者を助けるという、人間としての正しさを隠れ蓑にした支配である。その多くは、愛情と混同される。
 DV夫は、被害者意識に満ちている。逆にDVを受けている妻は、自分のせいで夫に殴らせてしまったという罪悪感を根深く持っている。これを加害者意識と呼べば、DVの加害者と被害者の意識は逆転している。したがって、DV被害者を共依存と呼ぶのは、逆転した加害・被害の意識を強化することになる。だから、DV被害者に対して共依存という言葉を用いることは、厳に慎まなければならない。
 大変教えられることの多い本でした。長年夫のDVで苦しめられてきた妻が、夫が動けなくなったときに復讐するという話がこの本に紹介されています。私も、そんな妻の弁護人になったことがあります。話を聞くと、実に悲惨でした。
(2009年5月刊。1600円+税)

2009年8月18日

ジャーナリズムの可能性

著者 原 寿雄、 出版 岩波新書

 いまの日本社会は、ジャーナリズムの貴重な存在価値を忘れているのではないか。著者は警鐘を乱打しています。この本を読んで、なるほど、そうだ、そうだと何度となくうなずいてしまいました。情報栄えて、ジャーナリズム滅び、ジャーナリズム滅びて、民主主義滅ぶ。そうであってはならない。公共的な情報は不要視され、権力監視や社会正義の追及に不可欠なジャーナリズムは滅びてしまいそうだ。しかし、そうであってはならない。
 著者は渾身の力をこめて力説しています。
 そして、絵にならない者はニュースじゃない。こんな映像至上主義。面白さに傾く歓声主義を戒めています。
 アメリカでは、ジャーナリズムの第一の役割を、権力監視のウォッチ・ドッグ(番犬)としている。
 権力と対決するには、メディア組織内の団結が不可欠である。これまで、報道機関は、裁判批判をタブー視してきた。NHK番組改編事件について、政治的干渉を拒否するための「編集の自由」が、政治的圧力を受け入れる自由として最高裁が保障した。おかしな判決である。しかし、公共の利益だけを守り、真実を追求するための編集の自由が、政治的圧力を受けて、企業利益を守るために行使されてはならない。
 新聞・放送の現状は、「自主規制」という名の「自己検閲」が横行している。
 視聴率が番組評価の主な資料となっている。テレビでは、視聴率がそのまま広告料金に跳ね返る。テレビ界の諸悪の根源は視聴率競争にある。
 放送局には、リッチな放送局員(正社員)と、プアーな下請けプロダクション(非正規社員)がいる。両者の格差・不平等な関係が無責任体系を生み出していた。
テレビは公共性が強いのだから、もっと大胆に権力の監視や社会正義の実現に努めようという方向をぜひ打ち出してほしい。私も同感です。
 28日(金)夜6時から、福岡のアクロス国際会議場で、著者もパネリストとして参加するシンポジウムが開かれます。『ここまで来た メディア規制―表現の自由から考える―』です。東大の高橋哲哉教授が「表現の自由と私たち」と題して基調講演し、そのあと、「テレビ報道、どこが問題なのか?」というパネルディスカッションがあります。ぜひ、ご参加ください。

(2009年2月刊。1600円+税)

2009年8月15日

任天堂

著者 井上 理、 出版 日本経済新聞出版社

 2009年3月、任天堂のケータイ型ゲーム機(ニンテンドーDS)は世界累計販売台数が1億の大台に乗り、据え置き型ゲーム機(wii)も5000万台を突破した。
 今やニンテンドーは、トヨタと肩を並べる世界的なブランドとなった。2008年度の売上高は、5年前に比べて3.3倍の1兆6724億円。営業利益は4.9倍の4872億円になった。3800人いる従業員1人あたりの売上高は4.4億円。2009年3月、売上高、そして営業利益は過去最高の5300億円となり、トヨタを抜いて国内首位となった。
 私はテレビを見ませんし、ゲームもまったくしません。興味ないからです。30年前にインベーダーゲームが流行したとき、2回か3回したことがありましたが、私には時間の無駄、つまらないものでしかありませんでした。任天堂は、私のような人間を初めからターゲットにしていません。それでも、大人がゲームをする余裕をなくしたことに目をつけ、そこで挽回しようと考えたというのです。すごい発想です。
 海外で売れているというニンテンドッグスは、画面のなかの愛犬の世話をするものだそうです。ひところ流行したタマゴっちのようなものですね。愛犬の名前を呼ぶと、音声認識機能で反応する。世界累計で2167万本も売れているそうです。すごいことです。
 電源をオフにした状態でも、ネットからの情報収集を続ける機能を残す。そのため、恐るべき低消費電力の眠らないマシンを開発し、完成させた。
 任天堂の研究開発費は、年々、増加傾向にある。2007年度は370億円。1人あたり3500万円もつかえる計算になる。キャノンは1200万円。任天堂の3分の1だ。
 任天堂のオーナー山内溥は日本一の大富豪。自分がビデオゲームで遊ぶことはなく、クリエイターでもない。しかし、その直感がズバリあたってきた。
 任天堂は、努力したあとは運を天に任せるという独特の世界観でやってきた。重圧に押しつぶされたり、悲壮感に打ちひしがれたりすることなく、ニコニコしながら種(タネ)を仕込み続ける。
 まさに世はソフトの時代である。今は、モノがあふれかえる飽和の時代。基本性能や耐久性がモノを言う時代は終わり、デザインや使い心地、利便性が消費者の心をつかむ分かれ目となっている。
 ゲームの世界の奥深さを感じさせる本でした。

 
(2009年5月刊。1700円+税)

2009年8月 5日

路面電車を守った労働組合

著者 河西 宏祐、出版 平原社

 久しぶりです。労働組合って何をするところなのか。労働運動のすすめ方。職場で労働者の権利を守って闘うための工夫。少数派に転落した労働組合が再び多数派に回復する闘いで求められるものは何か。この本には労働組合活動の原点とも言うべき大事なことがぎっしり詰まっています。
 この労働組合は、市内を走る路面電車を存続させ、契約社員を正社員化させたのでした。私鉄広島電鉄支部の物語です。
 私は大学1年生のときに学生セツルメントに入り、若者サークルで活動しました。ですから、青年労働者の実情を知ると同時に、労働組合運動の状況も知りたいと思ってたくさんの本を読みました。司法試験に合格して司法修習生になったときにも労働現場を知りたくて修習生仲間で職場訪問したところ、誰がどう間違ったのか第二組合を訪問してしまい、お互いに気まずい思いをした覚えがあります(全金東京計器支部を訪問するつもりだったのです)。
 そんなわけで、久しぶりに労働組合運動の大切な原点が一人の指導者のすさまじい生き方を通して生き生きと語られている本を読んで、感動とともについつい学生時代のことを思い出したのでした。
 この本の主人公は小原保行という人ですが、惜しくも10年も前に早逝されています。1930年生まれですから、生きていたら、もう80歳近い人です。戦後まもなくのバス運行の現場ではチャージ(料金横領)が横行しており、労働組合幹部が不正を働くベテラン運転士と結託していた。うへーっ、ひどいものです。
 会社側が第二組合をつくって分裂策動をすると、昨日まで左翼的な言辞を吐いていた左派と目されていた連中が一夜にして主張を変えて脱退の旗を振った。
 残念なことに、どこにでも起きる構図ですよね、これって・・・。
 小原保行は、1954年、24歳にして書記長に選出され、以来、定年までの36年間、ずっと組合役員をつとめた。
 1960年代に入って路面電車が赤字になると会社は、電車撤去のための布石をうちはじめた。人を入れない。電車撤去のときに身軽にしておきたい。たくさんの人を抱えていると、人員整理に困るから。終電時刻を切り上げ、運転間隔をあける。こうやって利便性を落としていって、利用者を減らす。そこで、組合は、電車の機能を高める、その社会性を高めるたたかいに取り組んだ。
 マイカーの軌道敷内通行が禁止され、スピードが回復されると、利用者が徐々に戻ってきて、ついには大赤字だった路面電車が黒字になった。
 損益分岐点は、組合も無視してはいけない原則的な問題なのだ。うーん、そうですか……。
 このおかげで、広電支部は路面電車部門で一気に多数派になった。労働組合の団結力は、第一に、学習・集会・行動。第二に闘争資金。第三に、青年・女性部の活動。第四に、共済活動。第五に、政治力。それから、家族組合、退職者同盟、地域共闘、産別統一闘争。
 契約社員を正社員として、賃金体系と労働条件を統一する。そして契約社員を廃止したというのです。すごいですね。やはり、労働組合は、自分たちだけに目を向けてはいけません。こうやって自分たちの足下を固めて、広げていくべきなんですよね。
 すごくいい本でした。著者に拍手を送ります。
(2009年5月刊。2000円+税)

2009年7月30日

消費税によらない豊かな国ニッポンへの道

著者 富山 泰一、 出版 あけび書房

 日本の常識は世界の非常識。この本を読むと、そのことがよく分かります。
税・社会保険負担の高い国は、社会的保障の充実しているところが多い。基本的に生活を保障されている国ほど、国民負担率は高く、企業も活性化している。税金が高くても、その見返りとしての生活保障が実行されていると、国民は高い税金を払うことに納得する。しかし、残念なことに、日本では負担が高いだけで、生活の安定が保証されていないため、政府を信頼できない。
 ヨーロッパの多くの国では、医療・教育そして介護は無料であり、失業給付も充実している。デンマークでは、失業給付は5年間、無年金者はいない。スウェーデンでは、子ども3人がいると、児童手当だけで家族5人全員の食費が賄える。
 そうなんです。日本でも、医療・介護そして教育をみんな無料(タダ)にすべきなのです。そのための税負担が高いのなら、私も文句は言いません。
 ムダな軍事費(実効性のないミサイル防衛に5000億円つかう。アメリカもムダだとしてやめたF22を50機、2兆円も出して買う…)、そして、九州新幹線やら道路、橋などの大型公共工事をやめたら、これは日本でも十分に可能なんです。
 ゼロ金利が続いている。1991年の利子収入がもし続いていたとしたら、2004年までに国民が失った利子収入は304兆円。一方、企業のほうは利子負担を260兆円も減らし、金融機関は95兆円も利子所得を増やしている。
 消費税を導入して20年経つ。なぜ消費税を提言したのか。高齢化社会を迎えるためと説明したが、本当は、そう言ったら一般の人が分かりやすいと思ったからだと、今さらになって政府関係者が正直に告白しています。とんでもないセリフです。
 イギリスの消費税は、標準税率こそ17.5%と、日本より3倍も高い。しかし、税率は3段階に分かれていて、家庭用燃料と電力は5%。そして、ゼロ税率は食料品、水道水、新聞、雑誌、医薬品、建築など、生活にかかわるものが含まれている。
 消費税が導入されてから企業が増やした内部留保額は、176兆円(1989年度)から411兆円(2006年度)と、236兆円も増えている。
 10億円以上の大企業は、増収増益であり、人件費などのカットにより、利益蓄積を増やしつづけている。そして、株主への配当が急増しているうえ、役員報酬が急激に増えている。役員報酬の一人当たり平均額は、日産自動車で3億円近く、ソニーは2億円あまり、住友商事は1億4000万円、コマツは1億3000万円、マツダも同じく1億3000万円、トヨタは1億2000万円。資本金10億円以上の大企業の役員報酬は、2004年から急増し、1995年と比べて2倍になっている。なんとなんと、これほどの超高給とりが、公務員の給料は高すぎるだなんて公言しているのですからね…。
 日本でも、所得が100億円を超えるのが9人、50~100億円が27人、20~50億円が92人もいる。しかし、逆に年収200万円以下の給与所得者は1220万人(2007年)。小泉内閣当時の234万人(2001年)の5倍以上に急増している。そして、正規雇用が454万人も減り、非正規雇用が490万人増えている。
 日本のあり方を大いに考えさせられる薄いパンフレット(140頁)でした。もっと知りたい、知らせたい、実に重たい内容がいっぱい詰まっています。
 
(2009年5月刊。1500円+税)

2009年7月29日

われら青春の時

著者 佐藤 貴美子、 出版 新日本出版社 

 1950年代、名古屋における学生セツルメント活動、そして、元セツラーが医師となって地域に定着し、民主診療所を切り拓いていく話です。
セツル、というのは住みついてという意味。困っている人たちのために、住みついて医療や教育を提供しようという運動。日本では関東大震災のあと、東京帝国大学の心ある学生たちが、診療所・託児所・法律相談などを実施したのが最初。
私が学生セツラーであったのは、それより15年あとの1960年代後半のことでした。それでも、かなり似たところはありますので、大いに共感・共鳴しながら読み進めていきました。学生セツルメント活動が全盛期を迎えたのは、私が大学を卒業したあと70年代はじめで、その後急速に衰退していったと私は考えています。
大須事件に学生セツラーが巻き込まれて刑事被告人となってしまいます。このころはまだGHQがいて、朝鮮戦争のあと、政治活動が禁止されていた時代でもありました。それにも負けず、セツラーたちは神社の境内で、納涼映画会を計画します。原爆映画を上映しようというのです。当日、トラック2台で警察の機動隊員数十人が襲いかかってきて、上映会はつぶされてしまいました。このころは、むきだしの弾圧があったのですね。
主人公の女性は、医学部生でした。医師国家試験になんとか合格し、地域に飛び込み診療所を開設します。そのとき、指導教授に会いに行って言われた言葉がすごいものでした。
「やるなら、大物になりなさい。目立つようにすることです。大物になるのです。さもないと、○○君のように、名無しにされ、行方知れずにされてしまいます。やる以上は強気で行くのです。大物になって目立つのです」
なーるほど、ですね。
このころは、『君の名は』に続く『笛吹童子』というラジオドラマ全盛の時代だった。うーん、なつかしいです。私も『笛吹童子』のメロディーは、今でもはっきり覚えています。それこそ、ラジオにしがみつくようにして聴いていました。
セツルメント診療所を案内するチラシはガリ版印刷だ。ガリッ、ガリッと音がしはじめた。ガリ切りという作業には、根気とコツがいる。鉄筆に込める指の力が強いと、紙が破れてしまう。用心して力を弱めると、蝋紙が切れないので文字が出ない。そのころ合いが微妙である。すべての文字を均等な力で書かねばならない。強調したい言葉について力を込めようものなら、そこだけ早く破れて、ビラ全体がダメになってしまう。
そうなんです。私も大学1年生の4月からセツラーとなってガリ切りを始めました。四角いマス目に字をおさめ、なるべくなるべく読みやすいように丁寧にカッティングするうち、それまでと比べて格段に読みやすい字が書けるようになったのです。
ガリ切りをした蝋紙を謄写版にセットする。これにもコツがあって、原紙をピーンと張らねばならない。しわがあると文字が歪んでしまう。ローラーにインクが平均につくようにならしたうえで、印刷していく。体重を全部ローラーにかけ、加圧するように回転させ、印刷された紙を一枚ずつめくっていく。
この作業を2人1組でするようにこの本では描かれていますが、私たちは1人でしていました。そのほうがよほど早かったように思います。右手でローラーを押しまわして、指サックを左手の親指にはめてザラ紙をめくっていくのです。
学生セツルメントでは、実は異性と知り合えることも大きな魅力だった。
いやあ、ホント、そうなのです。たくさんの出会いがありました。
セツラーたちは山道を歩くのにも歌いながら行くので、長い道のりも苦にならない。
セツルに入って歌う楽しさを始めて知った者が多かった。何かにつけて歌が出る。歌いながら、楽しく作業をすすめる。
生来音痴の私も、みんなの邪魔にならないように気をつけながら楽しく歌っていました。
 60年代の学生セツルメントを知りたい人には、『清冽の炎』1~5巻(花伝社)をおすすめします。あわせて、当時の東大駒場の状況もよく分かる本です。
 
(2009年6月刊。2000円+税)

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