弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

社会

2011年8月26日

大泥棒

著者  清永 賢二    、 出版  東洋経済新報社 

 窃盗犯で捕まった人物が刑務所のなかで6年間に書きためた膨大な日記を解読し、ドロボーの心理と技術を分析・公表している珍しい本です。春日井市の住宅街で、このドロボー氏に実験してもらった結果が紹介されています。きわめて有能なドロボーだったことが立証されました。防犯ブザーなんか、てんで役に立たなかったのです。
 ドロボーの狙うのは、お金持ちかどうかではない。銀行に大金が預けてあるのではダメで、現金を家においているような家が狙い目。周囲から取り残されたような家は、家を建て替えようとし、そのためにお金を貯めている。すると、ここはドロボーの狙うターゲットになりえない。ええっ、そうなんですか・・・・。
 外からのぞいて、干し物と風呂。これがどう使われているかで、その家の人間関係がほとんど分かる。プロのドロボーは、きわめて自己抑制的(世俗的禁欲主義)であると同時に、一瞬のうちにがらりと豹変し、狂気に支えられた衝動的行動に走るという分裂的傾向にある。
 プロのドロボーは普段から人目につかないことを基本的な生活態度とし、何事につけ過度に抑制的であることをモットーとして生活している。しかし、その抑えた分だけ、自分の日常生活圏とは異なる「我を忘れても安全な別の世界」を得ようとする。たとえば、それは競馬であったり、パチンコであったりする。
 そして、非常に執念深く、非常に妄想的である。勝手な思い込みで自分に都合のよい物語をつむぎ出していく才に長けている。ふむふむ、なるほど、なるほどと思いました。
 5歳までに親がきちんと子どもに向きあって、ときには温かく、時には世の中の常識を厳しく体得させることが大切。つまり、男親が男の子の子育てに関わっているか否かである。ダメな父親よりも、真剣に生きる母親は父親以上の意味をもつ。
家庭で子どもをワルにするための原理が紹介されています。ほとんど同感・共感できる内容です。
 〇子どもがどんなに立派にしても、「それで何なんだ・・・・」とけなす。
 〇小さな子どもを抱きしめてあげる必要はない。
 〇何かを立派にやりとげても、「それで何なのだ」とケナせ。それが親だ。
 〇鉄拳こそが子ども教育の基本だ。遠慮なく見境なく殴れ。それが親だ。
 〇子どもが警察に補導されても、いじめにあっても一切かまうな。
 とんでもないことのオンパレードです。
ドロボー御殿なるものが現存するそうです。写真をみると、窓がほとんどなく、侵入する手がかりを与えない異様な建物です。たしかに、これだったら忍び込めないと思いました。反面教師として役に立つ本です。
(2011年6月刊。2400円+税)

2011年8月20日

運命の人(1~4巻)

 山崎豊子 文春文庫

 沖縄返還をめぐって、日本政府が密約をかわしていたことが今では客観的に歴史的な事実として定着しています。惜しむらくは、そのことについての国民の怒りが少々足りないということです。日本人って、どうしてこんなに大人しいのでしょうか。
福島原発事故で放射能が現に拡散しているにもかかわらず、既に多くの日本人が慣れて、あきらめている感があるのも同じ日本人として解せないところです。
 それはともかくとして、政府とりわけ外務省がアメリカの言いなりに外交交渉をすすめてきたこと、そして、ずっと国民を欺してきたこと、今も隠し続けていることに腹が立って仕方ありません。
 それをすっぱ抜いた毎日新聞の西山記者に対して、外務省の女性事務官と「情と通じて」と起訴状にわざわざ特記して大キャンペーンを張り、ことの本質から目をそらさせた政府、マスコミも許せません。
 おかげで西山記者は家族ともども長く日陰の身を過ごさざるをえなくなりました。まさに、正義はどこへ行ってしまったのかと慨嘆せざるをえない有り様です。
 著者はそこを本当にうまく書いていきますので、実に自然に感情移入させられ、涙と怒りで頁をめくるのがもどかしくなってしまいます。
 この本は、最後に少しばかり救いがあります。『沈まぬ太陽』にも、いくらかの救いはありました。それでも、その代償がいかに大きかったことか。
そんな不正義を許さないためには、この本を読み、政府と外務省の自主性のなさ、アメリカ言いなりの情ない姿勢に対して怒りの声をあげることではないかと痛感しました。
 依頼者の方から勧められて読んだ本です。

            (2011年2月刊。638円+税)

2011年8月14日

夕凪の街、桜の国

著者    こうの史代  、 出版   双葉社

 ヒロシマを生きる若き女性の生活と未来への不安を描いたマンガです。
 私が小学生のころには、ここに描かれているような、雨もりするバラック小屋みたいな家があちこちにありました。着ている服はツギアテ。靴下はほころびたら、あて布で補正する。靴も、する切れるまで履くのが当たり前。トイレは、もちろんぼっとん式です。
 ご飯を食べるときは、丸いちゃぶ台を家族みんなで囲み、小さいおかずを子どもたちが奪いあうようにして食べていました。私なんぞ、5人姉兄の末っ子でしたから、もちろん可愛がられたのですが、食べることにかけては食い意地がはって、兄たちに負けないようにハシをのばして自分の食べるものを確保していました。もらいものの羊かんを姉兄で分けるときには、どれが大きいかを目を血のように食い入るように見つめて必死でした。ですから、そりゃあ美味しいものでした。真剣度が違いましたからね。何もなくても、友だちがわんさかいて、楽しく遊ぶことだけは出来ました。
 ヒロシマでゲンバク被災者は見たことを話せず、自分が被災者だと名乗ることをはばかる時代が長かったようです。そんななかでも、若さで乗り切っていこうとする、すがすがしさあふれた青春マンガです。
(2011年6月刊。800円+税)

2011年8月13日

警視庁捜査一課刑事

著者   飯田 裕久   、 出版   朝日文庫

 警視庁捜査一課に12年のあいだ在籍し、勤続25年で退職して分筆業で活躍していた著者は、昨年、46歳の若さで惜しくも急逝されました。この本は自らの体験にもとづく本ですから、並みいる警察小説とは迫真度が違います。
 「○○刑事」というのは、もっぱら巡査の場合のみ。「部長」というと、一般会社では大変な地位であるから、知らない人は大幹部のように受け取るが、実は巡査部長、つまり巡査の一つだけうえの階級の者に過ぎない。
 係長は、警部補。キャップとも呼ぶ。係長の下が主任。巡査部長がなる。末席は巡査。
日本の警察官、とくに私服刑事は、宿直以外の通常勤務のときには拳銃を着装しない。拳銃は泊まりの日につけるだけという悲しい事実が定着している。有事の際に拳銃をつけて出勤するという習慣が、まるで出来ていない。
 特別捜査本部の捜査会議の様子が紹介されています。これは既に、幾多の警察小説に出てくるのとまったく変わりありません。地取りなどをやって帰ってくると、朝の会議で順に報告させられ、それが中途半端だとヒナ壇からガンガンこき下ろされるというのです。それこそ、死ねといわんばかりにやり込められる。ふむふむ、プロの世界ですね。
 最後に警察隠語集が紹介されています。知らないものがいくつもありました。
 アカ落ち・・・服役を終えること。
 牛の爪・・・・初めから犯人が割れている事件。
 グニ屋・・・・質屋。
 ゴンゾウ・・・・ベテランの域に達してもダメな警察官。
 ごんべん・・・詐欺
著者は警察をやめたあとは刑事ドラマの監修の仕事に転職していたようです。
(2011年4月刊。640円+税)

2011年8月 7日

TSUNAMI3.11

 豊田 直巳         第三書館

 すさまじい写真集です。目をそむけたくなりますが、ここで目をそらしたらいけない、現実はもっと悲惨なんだからと言い聞かせて最後まで、目を見開いて写真を見通しました。
 とりわけ平和なときの様子を打ちした写真と被災後の状況をとった写真とを対比したところに、心が痛みました。
 6道県60市町村別に被災写真が並べてありますので、東北、北海道の被災状況が一覧できます。
 文字どおりの写真集で、キャプションはついてませんが、それだけにモノ言わない現実が心を打ちます。とんでもない状況がいくつもあります。大きな船が家の上に乗っかるなんて、ありえないことです。ビルの4階まで津波に襲われるなんて、どういうことでしょうか。
 生き残った子どもたちの笑顔で救われる気がします。でも、きっと、この子どもたちも心は深く傷ついているのでしょうね。
 そして、福島原発です。ひどいものですよね。今でも安全原発は可能だとうそぶく人がいるなんて信じられません。これほど高くついた「買い物」はないでしょう。なにしろ、後始末にいくらかかるのか誰もわからないというのですから・・・。それでいて原発は安上がりなエネルギーだなんて、よく言いますよね。もう騙されてはいけません。
 536頁で2800円の写真集です。高いですけれど、やっぱり安いというべきではないでしょうか。
 大地震と大津波の恐ろしさを実感させられる貴重な写真集です。ぜひ、ご覧ください。

            (2011年6月刊。 2,800円+税)

2011年7月31日

津波と原発

著者    佐野 眞一  、 出版   講談社

 この本を読んで、福島第一原発がなぜ、あの地に立地したのかが分かりました。要するに貧しい地域だったからです。そして、共産党が強くなく、反対運動は強くならないだろうという読みもありました。
大地主の一人である堤康次郎は3万円で買い、原発の敷地を3億円で売った。東電の木川田一隆社長、地元選出の木村守江代議士(後に福島県知事になる)、そして、この堤康次郎の3人で原発誘致は決まった。ボロもうけしたのですね・・・。
 作業員の被曝の許容量は国際基準の20ミリシーベルト。その許容すれすれの人がほとんどだ。だからといって素人では作業がうまくいかないので、全国から経験者を集めている。柏崎や東海の人が多い。最近は、九州からもかなり来ている。
 原発労働は、今は危険手当は1日5万円。ある会社は、日当5万円、危険手当10万円の計15万円という。ある元請会社は20ミリシーベルト浴びると、5年間、作業現場の仕事を補償するという覚書を作業員と交わしている。ここは、人間の労働を被曝量測定単位のシーベルトだけで評価する世界だ。一定以上の被曝量に達した原発労働者は、使いものにならないとみなされて、この世界から即お払い箱となる。炭鉱労働者の炭鉱節と違って、原発労働からは唄も物語も生まれなかった。
 津波は恐ろしい。しかし、それ以上に恐ろしいのが原子力発電所です。日本経団連のトップたちは一斉に、それでも日本は原発が必要だと声をそろえて強調しています。そんな人は、子や孫を飯舘村に住まわせることが出来るのでしょうか。自分と家族だけはぬくぬくと安全なところにいながら、よく言うよと私は思います。
 いったいメルトダウンした燃料棒の始末は誰が、いつ、どうやってするというのですか・・・。住友化学(日本経団連会長の出身の会社)の敷地に引き取るとでもいうのでしょうか。とても、そんなはずはありません。日本の最高の経営トップの無責任さに、泣きたくなります。
原発が安全だなんて、そんな神話にしがみつくのは、この際キッパリ止めましょうよ。
(2011年7月刊。1500円+税)

2011年7月27日

地方議会再生

著者    加茂利男・白藤博行ほか  、 出版   自治体研究者

 身近な存在であるはずの地方自治を黒い雲が覆っています。河村名古屋市長、橋下大阪府知事そして阿久根の竹原前市長が震源地です。この三人は、議会を徹底的に批判し、議員定数の削減、議員報酬の半減などを主張し、これに応じない議会と真っ向から対抗し、住民を扇動する。
 いま、大阪府下の市町村長や議員のなかには橋下知事と対立するのは得策ではないという雰囲気がある。橋下流の政治手法が一種の威嚇効果を発揮している。
 議会は、ほんらい社会のなかにある違った意見や利益を代表する議員や政党が出てきて、意見を調整して合意をつくる会議体であり、社会の多様性を議員の多様性が反映している。言いかえると、議会には、もともと異なる意見がぶつかって、調整や妥協を経て決定に至るという、まだるっこい性質がある。議会民主主義を否定してしまうのは、危険だ。
 議会の意見と知事や市町村長の意見が異なることは当然十分に考えられるし、その対立の出現は、むしろ望ましい事態である。異なる意見と対立は、討論とお互いの譲歩によって解消されていく。
 議会を軽視し、無視するというのは、歴史的にみると独裁者のやってきたことである。
 阿久根の竹原前市長の政治手法には4つの特徴があった。その1つは、敵を明確に設定し、敵を攻撃することによって自らの支持を獲得・拡大する。レッテル張りの政治と表裏一体である。その2は、ジェラシーの政治である。公務員給与が高すぎるという主張が人々のジェラシーを刺激する。その3は、巧みなメディア対応である。取材拒否をしつつ、マスコミを操作した。その4は、散発的ではあるが、わかりやすく具体的な施策を行うことによって支持を獲得する。
 マスコミは、議会論戦を丁寧にフォローするのではなく、絵になる部分、議会の欠席や議場内の混乱などをフォローアップする。そのため、「顔の見える」首長とそれを妨害する「顔の見えない」議会という構図が成立しやすい。
 橋下大阪知事のマスコミ露出度は高い。前任の大田氏が145件、その前任の横山ノック氏が204件であるのに対して701件とダントツの回数である。
 橋下流の交渉術は、合法的な脅し、利益を与える、ひたすらお願いするという三つの法則からなる。橋下知事にとって、言葉は議論を通じて合意を得る「熟議」のための道具ではなく、手練主管、時にはウソも肯定される交渉術の要素なのであって、政治も交渉を通じて自らの構想を実現するための手段なのである。
 先日の条例制定もひどいものでした。条例によって教員の自主性をまったく踏みにじっても平然と得意がる橋下知事のえげつなさには呆れ、かつ怒りを覚えます。同じ弁護士であることに恥ずかしさすら感じてしまいます。大阪府民の皆さん、なんとかしてくださいな。
(2011年4月刊。1800円+税)

2011年7月20日

TPPで暮らしと地域経済はどうなる

著者    にいがた自治体研究所  、 出版   自治体研究社

 3月11日までは日本政府はTPPに今にも参加する勢いでしたが、この点は幸いなことにも頓挫してしまいました。もちろん、いまでも日本の農業自給率の維持・向上なんて必要ない、食料はお金出して買えばいいという意見もマスコミの世界では大手を振ってまかり通っています。でも、本当にそうなんでしょうか・・・。この本はその点について十分に考える材料を提供してくれています。
 TPPは農業の問題と狭くとらえられがちだが、農業だけにとどまらず、最終的には消費者、国民あるいは地域経済をまるごと切り捨てていく、多国籍企業主導のグローバル資本主義の問題としてとらえることが大切だ。日本では、農産物以外の関税はほぼゼロなので、農産物以外の分野は、関税以外の、非関税障壁といわれる部分をいかに開放するかが論点になる。衣料品や工学製品、知的財産権そして通信、投資、労働なども対象に入ってくる。
 現在のコメ市場においては、家庭向けの主食用のコメは全体の半分を切っており、残りは加工用や業務用などなので、そこは完全な価格競争の世界だ。
給料を減らされると、その分だけ消費支出の減少につながる。消費が減ると、産業の産出額も減ってしまう。日本の輸出依存度は世界的にも低いほうで、GDPに占める輸出額は17%前後である。むしろ日本は83%の内需に支えられている。しっかりした内需のあることが日本の強みなのである。
 大資本系列の大型店は、本店がほとんど東京や大阪などの大都市にあり、利益は本店でカウントされるため、地域の自治体に納められる税金はほとんどない。
 いま、世界的には餓死人口が10億人にものぼる。その中で世界一の食料輸入大国である日本の責任は重大だ。本来自給の可能なコメにおいても、飼料用をふくめると穀物自給率は27%にすぎない。
 日本は「鎖国状態」にあるどころか、実は開かれすぎていて、瀕死の状況に追い詰められているのが現実である。むしろ、食料については、ヨーロッパのように食料主権を確立すべきである。持続可能な国民経済をつくる方向こそが、現代日本にとって重要な戦略的課題となっている。農山村の荒廃から国土を救い、農林業を振興することで食料とエネルギーの自給率を高め、食料安全保障やエネルギー主権を確立するだけでなく、国土保全効果を高め、世界最大の資源輸入国の汚名を返上して地球環境問題に貢献することにもつながる。
 全国各地にシャッター通りが見られ、休耕田ばかりが目立ち農業が疲弊している現状を、国民みんなの力で変えたいものです。ショッピングモールに行けば何でも「安く」買えるというのは、まったくの「幻想」なんですよね。足下の日本農業をもっと大切にしたいものです。わずか160頁足らずの薄いブックレットなので、ぜひ、ご一読ください。
(2011年3月刊。1429円+税)

2011年7月16日

までいの力

著者  までい・特別編成チーム    、 出版  シーズ出版 

 福島県飯舘村の豊かな日常生活が紹介されている写真集です。あの3.11東日本大震災がなければ私などが目にすることもなかったでしょう。
 3.11のあと、この飯舘村は福島第一原発事故の放射能によって全村退避となっています。そのため、この写真にある村民の日常生活はあくまでも過去のものでしかありません。将来、再開できるのか、それはいつなのか、何年後か、いや何十年後なのか、まったくありえないのか・・・・、放射能被害とは、かくも恐ろしいものだと改めて実感させられます。そんな事態をまったく予測させない、平和で、のどかな、どこにでもあるような日本の農村風景が写真とともに紹介されています。
 私は飯舘村に行ったことはありませんが、福島の山のなかには弁護士になりたてのころに行ったことがあります。東京に出稼ぎに行った人が労災事故にあって、その企業の責任を追及する裁判を担当した縁でした。
 飯舘村に行くには、新幹線で福島駅に降りて、そこから車で1時間。ひと山、ふた山・・・いくつか越えて、激しいワインディングロードを上がりきると、高原にたどり着く。そこが高言の美しい村、飯舘村だ!
 飯舘村には、忘れられた日本の美しい風景が村のそこここに残っている。しかし、何よりの美しさは風景そのものではなく、そこに住む一人ひとりの村人の心の中にある。
 飯舘村の人口6000人。そのうち3人に1人はお年寄り。飯舘村は周辺の町村と合併しないで、「自主自立のむらづくり」を選択した。
「までい」とは、真手(まて)という古語が語源で、左右そろった手、両手の意味。それが転じて、手間ひま惜しまず、丁寧に心をこめてつつましくという方言になった。今風にいうと、エコ、もったいない、節約、思いやりの心、人へのやさしさである。そんな飯舘流スローライフを、までいライフとよんでいる。なーるほど、ですね。
 村には、1軒も書店がなく、図書館もなかった。そこで、全国的にも珍しい、村営の村屋が誕生。店のレジカウンターには、ご自由にと、いろんなアメ玉が置いてある。店内は立ち読みならぬ座り読みも大歓迎ということで、テーブルとイスが置かれている。読まなくなった絵本を飯舘村の子どもたちへ寄贈してくださいと呼びかけたら、なんと、10日間で1万冊の絵本が村に届いた。これって、すごいですよね。
 2010年夏、村では初めて村内産食材100%給食にチャレンジした。牛乳からみそ汁の味噌に至るまでのすべてを村内で生産されたものでまかなった。村産物の直送所は、村内に7ヶ所ある。
 こんなに工夫と苦労していた村が一瞬のうちに無住村になり、いつ戻れるかわからないという状況です。原発の恐ろしさを違った角度から、写真を眺めつつひしひしと実感させられました。飯舘村の皆さん、それにしてもお元気にお過ごしくださいね。
(2011年6月刊。2381円+税)

2011年7月14日

戦後日本の防衛と政治

著者    佐道 明広  、 出版   吉川弘文館

 戦後の日本には、自主防衛論対日米安保中心論の対立があった。それは中曽根内閣の成立したあと、安保中心主義で定着した。日本の場合は、政軍関係というより、むしろ政官軍関係と呼ぶべきである。政治家と官僚と制服である。
 航空自衛隊は、過去とのつながりはほとんどなく、防衛政策への影響も少ない。文官優位システムは日本独自のものであり、それが固定化していった。それは、同時に、日米安保中心主義が日本の防衛政策の基本方針となり、制服組の意見も封印されていく過程だった。
岸信介は、他国の軍隊を国内に駐屯せしめて、その力によって独立を維持するというのは真の独立国の姿ではないと言った(1954年)。改進党は、在日米軍を撤退させるためにも自主防衛を主張した。自由党も、在日米軍の撤退を視野に入れた防衛構想をつくらざるをえなかった。
海上保安庁が発足するとき、旧海軍の士官1000人、下士官・兵2000人の計3000人が採用された。海上保安活動には高度の専門知識と技術が必要なため、GHQも旧軍人の採用を許可せざるをえなかった。このときの旧海軍軍人グループが海上自衛隊の創設にあたっても大きな役割をはたした。
 戦後の旧陸軍軍人の動向と比較して、旧海軍軍人グループの顕著な特徴は、野村や保科を中心に非常にまとまりが良かったことにある。彼らは対米関係を非常に重視していた。旧海軍グループは、国会議員となって、自民党組織の内部に勢力を築きあげていった。戦前との連続性の点では、海軍のそれは陸軍に比べて圧倒的に大きい。
陸上自衛隊のなかで、服部グループの影響力はなきに等しかった。警察庁予備隊の創設以来、新組織の中核に座ったのは、旧内務省の警察官僚だった。内局の人事権は、長官官房が握っていて、制服組から内局幹部職員が任用されることはなかった。
 防衛庁長官や国務大臣といえども、専門性の高い防衛問題については内局官僚に全面的に依拠せざるをえない。防衛政策の作成における内局文官の優位性が一層高まった。
 60年安保騒動における自衛隊出動には、3つの重要な問題があった。第一は、政治家の方に出動論が強かった。第二に、これ以降、陸上自衛隊の中心課題に治安維持対処が置かれるようになった。第三に、その一方で、治安対策の中心は警察となった。
 1960年7月、「防衛庁の広報活動に関する訓令」が定められ、これを契機に防衛庁の広報活動が活発に行われるようになっていく。防衛庁の広報活動は、自衛隊に対する管理と並んで重要な仕事になった。このような活動によって、1960年代に自衛隊は国民の間に定着していった。
 1960年代に防衛問題で中心的な存在であった保科善四郎と船田中は、いずれも防衛産業と密接な関係をもっていた。長い議員歴をもち、防衛庁長官にもなった経歴の船田と、元海軍中将という軍事専門家であり国防部会の中心的存在である保科の組み合わせを基軸に、自民党国防族は防衛産業と防衛関係省庁のパイプの役割を果たしていく。自主防衛の内容は、実は防衛装備の国産化を意味していた。防衛装備国産化の推進は、防衛産業の強い要請であり、自民党国防族もこれを熱心に主張していた。
 防衛庁は、二次防策定後、自衛隊に対する管理官庁としての性格を強めていた。それに対して、本来なら財政の面から防衛予算の策定に携わる大蔵省が防衛政策の基本問題を議論するという、防衛庁と大蔵省の逆転現象が起きていた。
 二次防との最大の相違点は、三次防が海上防衛力について大幅な増強を認めているという点であった。日本の防衛力整備は、三次防において、治安・本土防衛中心部隊から日米共同作戦実施の可能性をもつものに変化した。このような防衛力整備方針の変質を象徴する出来事が「海原天皇」とまで言われていた防衛庁きっての実力者であった海原治の失脚だった。海原の国防会議への転出は、防衛庁内局の中心が、旧内務省出身で旧軍勢力の復活を危惧して制服組の権限をなるべく抑制しようとし、結果として防衛庁の管理官庁化をもたらした防衛官僚第一世代というべき存在から、自衛隊の役割を広い視野から考えるとともに主体的に防衛政策を立案しようとする次の世代に移行しつつあることを象徴する出来事であった。
 1960年代は、一貫して陸上自衛隊の基本的方針は間接侵略対処であった。海上防衛論を唱えた者も間接侵略への対処を基本に置いていた。冷戦下で核による恐怖の均衡が成立しており、全面戦争の緊張は緩和されているとみた。この傾向は70年代に入っても変わらなかった。
 中曽根は自衛力整備による在日米軍の撤退を主張した代表的な論者の一人であった。ナショナリズムのシンボルとしての基地問題は、中曽根にとって一貫して重要な問題であった。しかし、結果として中曽根構想は挫折した。
日本全体(ただし、沖縄は除く)で大幅な基地の整理縮小が1970年代末までに実現した。これによって、それまで反米ナショナリズムの象徴となった基地問題は(本土では)ほとんど解消した。このこと意味は大きい。
四次防再検討の主導権を海原治が掌握したことで、「国防の基本方針」にのっとって日米安保制を基軸にしたものとなり、中曽根構想にあった自主性追求の部分は、ほとんど姿を消した。実質的に三次防の延長としての整備計画となった。自主か安保かといった日本の防衛政策の基本方針をめぐる議論は、ここで再度封印されてしまった。
 「防衛計画の大網」(旧大網)の策定にあたって、もっとも大きな役割を果たしたのは久保卓也だった。久保理論においては、基盤的防衛力構想は、きわめて重要な位置を占めている。我が国に対して差し迫った脅威があるとは考えられないが、潜在的な脅威に備える必要があるというものである。基盤的防衛力構想は、「抑制力あるいは規制力」という概念とともに語られる。日本自身の防衛力の前提となる防衛の対象が限定局地戦であった。この限定局地戦に対応した防衛力整備の基本方針が基盤的防衛力構想であった。基盤的防衛力の構想は日米安保体制による抑止が継続するという発想に立っている。田中角栄は防衛力の増強は、四次防で打ち止めにしたいという意向を示した。
 1970年代半ばから、自衛隊OBの対照的発言がさかんになっている。これは坂田防衛庁長官が自衛隊員が積極的に発言することを奨励した結果である。
 ガイドラインの中身を決める作業に制服組が参画した。政治家による防衛論議が極度に減少したのをはじめ、防衛庁のなかでも制服組の立場が上昇した。もはや、1950年代や60年代のように、文官が制服を押さえ込んで文官だけですべてを決めることはできなくなった。
 日本の戦後の防衛政策の変遷を正面から分析した貴重な本だと思い、十分に理解は出来ませんでしたが、ここに紹介します。
(2003年11月刊。9000円+税)

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