弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

社会

2014年11月15日

時の行路

著者  田島 一 、 出版  新日本出版社

 弱者切り捨て、労働者を使い捨てする現代日本社会の実情をうまく小説にしていて、読ませます。
 読んでいて、身につまされ、目に涙がにじんできて、止まりませんでした。40年前の昔も、工場内には本工とは別に臨時工という人たちがいて、ひどく差別されていました。
臨時工の人たちが景気の変動で真っ先に首を切られます。そして、そのとき、目をつけた臨時工を職場からうまく排除するということもあっていました。しかし、大半の労働者は本工(正社員)として採用され、終身雇用ということで、定年まで働くことが可能でした。従って、人生設計も容易だったのです。結婚してマイホームを購入して、子育てしてという見通しがもてたものです。
 今では、多くの若者がそれを持てません。正社員ではなく、派遣会社から、あちこちの職場へ派遣されて働き、名前ではなく「ハケンさん」と呼ばれるのです。職場単位の飲み会にも参加することがありません。排除されることより、お金がないという現実が大きいのです。
 正社員になっても、成果主義とかで、経験年数にしたがって昇給していく保障もありません。ですから、人生設計がつくれないのです。これでは安心して結婚も出来ませんよね。
 この小説は、メーカーで派遣社員として働いていた労働者が会社の勝手な都合で雇い止めを通告されます。次の仕事を探してやるという甘言にもだまされ、今の会社への退職届を書いてしまうのでした。労働組合は、組合員でもない派遣社員なんか見向きもしません。
 仕方がなく、拾ってくれる労働組合に加入して、たたかいを始めるのです。
 今の世の中では、労働組合の存在感がとても薄くなっています。ストライキなんて、まるで死語です。ですから、フランスなどヨーロッパへ旅行したとき、ストライキが頻繁に起きているのを知ると、ひどくカルチャーショックを受けます。
 日本では、いったい労働三法がいつ死んでしまったのだろうかと思うほどです。
 この本は、不当な首切りを許さないとして起ち上がった労働者たちの苦闘が微に入り、細をうがって紹介されます。決してハッピーエンドの展開ではありません。まさしく、現代日本で現在進行形で起きていることが小説のかたちで淡々と紹介されていくのです。だからこそ、読んでいるほうが身につまされ、泣けてくるのです。
 主人公の男性はストレスから体調不良にもなります。病院通いをするためには生活保護を受けなければなりません。すると、青森の自宅へ仕送りなど出来ません。子どもたちも進学の夢をあきらめ、働きはじめるのです。それでも、たたかいに立ち上がった人同士のあたたかい交流も生まれ、そこに救いがあります。
 弁護士も、ありがとうございましたと依頼者から明るい顔でお礼を言ってもらったとき、仕事冥利に尽きると感じます。また仕事をがんばろう、そんな気になるのです。
 電車の往復2時間、必死の思いで読みふけった小説でした。続刊があるようですので、楽しみです。
(2011年11月刊。2200円+税)

2014年11月14日

よみがえれ!和光大学


著者  踏みにじられた実験大学・編集委員会 、 出版  龍書房

 東京都町田市にある和光大学。1966年に創立されて、今年は48年になる。この和光大学は自由を重んじる大学として設立されたのですが、現実には暴力が横行してきました。
 1969年の学生へのテロ・リンチ事件。
 1978年の職員への暴行事件。いずれも刑事裁判となり、加害者は有罪となった。ところが、加害学生をかばう立場で和光大学の教授が何人も法廷で証言した。
 そして、1985年からは「中核・革マル抗争」が始まり、これは数年のあいだ続いた。
 和光大学は、これら長期にわたった暴力事件を今なお、根本的に改めることが出来ていない。ひところのような日常的な暴力行為の横行こそ現在は見られないようですが、大学当局が過去の暴力行為横行の日々を自覚的に反省していないという指摘には暗然たる思いです。
 40年前、全国の大学で全共闘による暴力支配が横行していました。言論による論争ではなく暴力で支配しようとすると、精神的に深いところで、人間の思考が停止し、足が鈍ってしまいます。
 全共闘を今なお賛美する人は多いのですが、私は、「敵は殺せ」の論理で大学を暴力的に支配しようとした全共闘という集団は、日本にとって相当に罪深いものがあったし、それは今なおあとを引いていると考えています。
 その最大の証拠が、全共闘世代からは、ほとんどまともな政治家が育っていないということです、もともと暴力に頼る思考を身につけた人が、「大衆」のために身を挺する政治家になれるはずもありません・・・。
 団塊の世代が都知事をはじめ、全国いくつもの県知事になっています。私の知る限り、埼玉、和歌山、鹿児島がそうです。でも、彼らは学生のとき全共闘だったとは思えません。
 暴力支配は被害者を政治から遠ざけるだけでなく、加害者をも精神的に荒廃させ、社会の一隅でひっそり暮らすしかなくなるのです。
 和光大学当局は、ケンカ両成敗という立場をとることによって、暴力のない正常な形で勉学できる状態をつくるという大学としての当然の責任を放棄した。
 大学の理性の府としての権威そのものを根底から否定するような暴力行為については、学生のうちに、学生みずからに責任をとらせる。これが本当の大学教育なのではないか・・・。
 まことに、そのとおりだと私は考えます。暴力は社会でも大学内でも許してはいけないのです。
 和光大学には、現在も過激派セクト(革マル)がいて、日常的に策動しているとのこと。本当に残念です。自由をモットーとする大学として、大いに悲しむべきことではないでしょうか。
 500頁もの分厚い本です。この本を読んで救いなのは、そんな酷い暴力支配に抗してたたかった学生や教職員が脈々といて、その効果がこのような立派な記録集に結実したということです。全国の大学から、暴力支配を企てる集団を自主的に一掃することは不可欠だと思いました。そのための指針にもなる貴重な本です。
(2014年5月刊。2000円+税)

2014年11月13日

マレーシア航空機はなぜ消えた


著者  杉江 弘 、 出版  講談社

 今年(2014年)3月、マレーシア航空機が突如として行方不明になったというニュースには驚きました。そして、その驚きは、次第に大きくなっていきました。なんといっても、これだけGPSそのほか国際的監視網が発達しているというのに、いつまでたっても飛行機の残骸すら発見できないというのです。私は、そんなバカな・・・、と思っていました。アメリカの軍事観測衛星はきっと真実をつかんでいるのに違いないと思います。でも、アメリカにとって公表する価値がないので、あえて黙殺しているのでしょう。
 この本では、JALの元機長がマレーシア航空機の行方不明の謎を解明しています。
 推理小説ではありませんので、著者の結論を紹介します。
 3月8日未明にクアラルンプールから北京に向かったマレーシア航空機MH370便の失跡は、事故ではなく事件である。管制官と無線交信がなく、トランポンダーも切られ、6時間40分の飛行を行った形跡から、「何者か」によってハイジャックされたと考えよい。
 結局、機長が犯人なのではないか。
 そして、6時間40分も飛び続けたというのは、機長は、マレーシア当局と何らかの交渉や取引をしていたのではないか。
 その交渉、取引がうまくいかなかったため、燃料切れによる失速ではなく、操縦桿を一杯前方に押し、急降下によって海上に衝突する自爆を選択したのはないか。
 以上です。著者は、もちろん、その推理の根拠を詳しく展開しています。なるほど、そういうことなんですか・・・と思いました。
マレーシア航空機が行方不明となったあと、マレーシア航空とマレーシア政府は、情報を隠蔽するかのような姿勢をとり続けた。
 マレーシア当局のメディア対応は、単に情報を小出しにしているだけでなく、意図的に情報操作したり、隠したり、あるいは何の根拠もなく断定したりするのが目についた。
 飛行機のなかで火災が発生したら、20分以内に着陸か着水する必要がある。
 航空機は、うまく着水できると、20分間ほどは海上に浮いていることができる。
ブラックボックスは、水深6000メートルの圧力と1100度の高温にも耐えられる。長年月がたっても海水中で腐蝕はしない。そして30日間は音波を発する。毎月のように飛行機を利用する身として、一刻も早く機体を発見し、何が起きたのか解明してほしいと思いました。
(2014年7月刊。1500円+税)

2014年11月12日

「あの時代」に戻さないために


著者  福岡県自治体問題研究所 、 出版  自治体研究社

 発行主体は自治体問題を考えるシンクタンクとして発足し、研究会などを開催するほか月刊の情報誌も発行している研究所です。
 毎月の研究会で発表した福岡の弁護士4人の論稿が収録されています。巻頭の論文を宮下和裕事務局長が書いています。
 明治憲法は明治23年(1890年)から終戦後の1947年まで生きていたので、56年半の生命だった。しかし、現在の日本国憲法は既に67年なので、10年以上も長生きしてることになる。ちなみに、明治維新(1868年)から敗戦までは77年ですが、本年は、敗戦から70年になります。戦前の日本は、77年のあいだに、日清戦争、日露戦争、第一次大戦、第二次大戦と相次ぐ戦争を遂行していました。しかし、戦後70年近く、日本は一度も戦争に直接加担していません(間接的には、朝鮮戦争そしてベトナム戦争に大きく加担していますが・・・)。
 日本国憲法、とりわけ9条は戦争と紛争の絶えない今日の国際社会において光かがやく存在になっていると思います。ノーベル平和賞を本年こそ九条にもらいたいものです。
 押し付け憲法だから無効だという人がいます。私には信じられません。
 ワシントン大学のロー教授は「奇妙なことだ」と指摘する。
 「日本の憲法が変わらずにきた最大の理由は、国民の自主的な支援が強固だったから。経済発展と平和の維持に貢献してきた成功モデル。それをあえて変更する道を選ばなかったのは、日本人の賢明さだ」
 椛島敏雅弁護士は貧困問題からみた自民党の改憲草案の問題点を指摘しています。
 民間労働者の平均年収は461万円(1999年)が406万円(2009年)へと55万円も減少(10%強)している。預金ももたない世帯が3割から4割もいる。生活保護を受けている人が216万人、160万世帯もいる。日本人の6人に1人は貧困ライン以下で暮らしている。
 ところが、1億円以上の預金を有する日本人が200万人以上いて、こちらも年々増えています。日本でも両極分化が進行中なのです。
 永尾廣久弁護士は集団的自衛権の容認は立憲主義に反し、平和主義を踏みにじる危険なものだと指摘しています。「自衛権」といっても、日本が攻撃されていないのですから、正当防衛のような自衛権ではありません。安倍政権は、この点を意図的に混同させようとしているのです。
 そして、この集団的自衛権とセットになっているのが、12月10日に施行予定の特定秘密保護法です。近藤恭典弁護士が、その危険な問題点を詳しく指摘しています。
星野圭弁護士は、安倍政権の雇用改革の危険性を掘り下げています。今や、労働組合に属しない労働者が大半となり、非正規社員が増えて、労働者の団結力が著しく低下させられている。解雇を容易にし、残業代の支払いまで企業に免除しようという法制がつくられようとしています。
本当にとんでもない「安倍改革」です。安倍首相は、富める者はますます富めるように、貧しい者はハナから考慮することなく切り捨て、そして軍需産業を栄えさせて、日本の若者をアメリカ軍と一緒になって戦場へ駆り出そうとしています。
戦後70年の日本は、平和な国、戦争のない国・ニッポンでやってきました。これを再び「戦前の日本」に戻すなんて許せません。
定価1000円で、150頁ほどのブックレットです。
11月22日の都久志会館の市民集会でも販売します。ぜひ、ご一読ください。
(2014年10月刊。1000円+税)

2014年11月11日

歴史を繰り返すな


著者  坂野 潤治・山口 二郎 、 出版  岩波書店

 2014年は、戦後の終わり、あるいは新たな戦前の始まりという転機になるかもしれない。
 安倍首相による、あまりに没理論的な集団的自衛権行使容認の閣議決定を目の当たりにして、そのような思いが頭をよぎる。もちろん、ここで戦後を終わらせてはならない。
 そのためには、1930年代以降の日本の歴史と、戦後の歩みを理解することが出発点となる。歴史を繰り返さないという決意を固めることが必要である。
 いま、最も大切なのは、日中友好。問題は、中国の反日感情が歴史的に深い根を持っていることを、多くの日本人が分かっていないことにある。
 山県有朋のような権力の中心は、中国の強さを意識してきた。しかし、一般の日本人は、1905年以来、一貫して中国を蔑視してきた。その前は、大国として中国を恐れ敬っていたのですよね。ところが、戦後は、ずっと下に見てきた中国が、今や目の前で巨大な存在になっている。
日本の政治家が、一般国民と同じ目線で中国問題を考えると、対応不能になってくる。
安倍首相は戦争ごっこをやってみたいのだろう。何か戦争ゲームというか、テレビゲームでもやっているつもりで考えている。
迷彩服を着て、腕で小銃を構えて、泥沼をはいずり回ってという経験をもっている国民と、もっていない国民とでは、戦いにはならない。
 今の安倍政権は、近代的な立憲主義を一切無視し、論理がなく、矛盾だらけだ。本当に平和を守りたいのなら、九条を守るだけでなく、近隣諸国と仲良くしなくてはダメ。
日本はアジアの国々に攻めこんでいって、たくさんの人々を殺し、最後には負けてしまった。この現実を見ないまま、戦後体制をつくってきたことのツケが非常に大きくなっている。
 日本人はアメリカと戦争したとは思っているけれど、その前にずっと中国と戦っていたことを忘れてしまっている。
 19年戦争論というけれど、多くの日本人の中には1941年12月から4年戦争論でしかない。
 1941年12月より前の日中戦争期の「失敗の研究」がない。
 日本は、平和国家という日本のアイデンティティを自ら捨てるべきではない。
 戦前の軍事ファッショに、日本の貧困層が期待を託してしまった。
 今の日本では、国民はむしろ平和志向を強めている。
 政策よりも政治の安定性を優先するという志向がある。現状をあまり変えたくないという安定志向が安倍政権を支えている。
 知性を軽んじることは、歴史を軽んじることと表裏一体。未来を考えられない社会では過去にも関心がない。
 大学時代に世の中について問題意識を持っていた人たちも、会社に入って30年もすると、そんな問題意識はすっかり摩滅してしまって、ひたすら成長戦略みたいなことばかり論じるようになってしまっている。政治を変えて、社会の矛盾に立ち向かうという姿勢を維持している人がほんとうに少なくなった。
 もちろん、これではいけませんよね。社会の矛盾を直視して、変えるべきところは大胆に変える。そのため、少しずつでも行動すること。これが自分のためでもあり、世のため、人のためでもある。
 そんな初心を思い起こしてくれる本でもありました。
 この状況でモノをいわないのなら、学者、知識人が世の中に存在している理由はない。
 本当にそう思います。まったく同感です。
(2014年8月刊。1500円+税)
私と同世代の作家である赤川次郎が岩波書店の広報誌『図書』11月号に次のように書いています。まったく同感ですので、ご紹介します。
 「戦後生れの私にも、「戦争中ジャーナリズムはこんな空気だったのかな」と思わせる、この何k月かの「朝日叩き」の異常さである。
 「慰安婦」をめぐる報道の一部に間違いがあったといっても、国連が発言しているように、事の本質巣は少しも変わらない。もともと「強制」という点を世界は問題にしていないのであって、「慰安婦」の存在そのものが人道的な罪なのだ。「朝日叩き」で、慰安婦の存在自体を否定しようとするのは、国際社会と日本の人権感覚のずれの大きさを浮き彫りにするばかりである。
 「日本の信用を傷つけた」というなら、「フクシマ」の原発事故こそ、今も収束の見通しさえ立たず、汚染水の流出を止められずにいる。それでいて、「原発はコントロールされている」と国際舞台で発言し、「欠陥商品」と承知で海外に原発を売り込む安倍政権こそ日本の信用を傷つけている。
 今も数日に一度はどこかで地震のある日本。そこに「原子力の平和利用」と世論を誘導し。原発建設を推進したのは、正力松太郎氏ひきいる「読売グループ」である。「フクシマ」の後、読売新聞は全世界に向けて謝罪すべきだった。
 「朝日叩き」に熱中する「読売」「産経」、そして「週刊文春」「週刊新潮」はジャーナリズムの第一の役割が「権力の監視」であることなど全く忘れてしまっているようだ。社内に「これでいいのか」と疑問を持っている記者は一人もいないのだろうか?
 文春、新潮という、私も長年付き合って来た文芸出版社が、この騒ぎの中に加わっていることは悲しい。確かに、どちらももともと保守的な性格の出版社だが、かつては知性と良識を具えた保守だった。「売国奴」だの「非国民」だのと言う汚い言葉を平然と使うのは、民主国家の出版社として恥ずべきことだ。
 それに、これらの新聞も週刊誌も、今まで「誤報」したことがないと言うのだろうか?自ら誤ちを検証して掲載したことがあるのか。
 人を非難する前に、まず我が身を振り返るべきだろう」

2014年11月 7日

アベノミクスの終焉


著者  服部 茂幸 、 出版  岩波新書

 日本全国、どこへ行っても駅前の商店街はシャッターのおりた店が目立ちます。私が最近行った函館、福井、鹿児島、みんなそうです。タクシーに乗るたびに、「最近、景気はどうですか?」と訊くのですが、どこでも一様に、「いやあ、悪いです。最悪です」という答えばかりが返ってきます。先日行った鹿児島では、「涙も出ないほど、ひどい不景気ですよ」という嘆き節を聞かされました。
 ですから、私はアベノミクスとやらを今なお持ち上げる経済学者やジャーナリストがいるのが信じられません。
アベノミクスの三本の矢というものは、その相互の整合性もよく分からない。
 円安にもかかわらず輸出が伸びず、円安に加えて経済成長率が低迷しているのに、輸入が急増している。深刻な状況にある。
 アベノミクスの第二のつまずきは、輸出拡大による経済復活に失敗したこと。輸入の拡大が貿易収支、経常収支を悪化させ、日本の経済回復を妨げている。
 勤労者家計の所得は、1年間で5%ほど実質で減少した。
 消費増税は物価を上昇させる、それが日本経済を復活させるとは、誰も思わない。消費増税は家計の可処分所得を縮小させる。
 ギリシアと異なり、日本の国債は圧倒的大部分が、国内の金融機関によって保有されている。
 日本では長期的な停滞の結果、大企業は借金をするのではなく、内部留保を蓄えはじめた。中堅・中小企業は依然として銀行からの借り入れに頼っているが、彼らへの貸し出しはリスクが高い。だから金融機関にとって、国債は重要な資金の運用先なのである。
 日本は、世界最大の債権国である。日本の金利は、ほとんどゼロなので、世界経済が好調なときには、日本から外国への資金の投資や貸出が増加し、円安となる。逆に世界経済が悪化したときには、この資金が回収され、円高となる。回収された資金は、日本にとってもっとも安全な証券である日本国債に投資される。こうして、世界経済が悪化したときに円高となり、国債金利は下がる。
 アメリカは、国債の半分を外国人(そのうち4割が日本と中国)が保有し、世界最大の経常収支赤字国、債務国であるなど、ギリシアにきわめて似通っている。ところが、アメリカは事実上の基軸通貨国である。
 小泉構造改革の中心(目玉)は郵政民営化だった。そのモデルはニュージーランドの郵政民営化。しかし、小泉政権が郵政民営化を進めていたとき、ニュージーランドの郵政民営化は成功とは言えないので、見直しが進められていた。ちっとも知りませんでした。
社会の格差が大きな国では、精神病や麻薬が広がる。国民のなかに肥満者が増え、不健康になり、平均寿命は縮まる。
 人々のあいだの協力関係がなくなり、「社会的資本」が破壊され、教育レベルは低下し、10大の少女の妊娠が増加する。犯罪も増え、社会は荒廃する。格差の大きな社会では、底辺層は社会的な承認を得ることができない。上層は経済的には恵まれていても、ストレスが大きい。格差の大きな国に住むことは、底辺層にとって不幸であるだけでなく、上層にとっても不幸なのである。
 日本企業に成果主義が導入され、大失敗したのが富士通とソニーだというのは、今や定説になっている。アメリカ式の成果主義は、正しい成果主義とは言えない。
 日本の成果主義は、賃金引き下げの手段としての要素が強かった。
 アベノミクスから1年以上たっているが、トリクルダウンは生じていない。これからも生じることは期待できない。
失敗が繰り返されるのは、失敗した人々が失敗を隠蔽し、記憶を忘却させるからだ。過去を学ぶことは、我々の未来をつくることなのである。
 アベノミクスの失敗をきちんと認め、労働者の実質賃金を引き上げ、日本国内の内需を高めることこそ、今、緊急に求められていると思います。大企業の内部留保をほんの少しだけ吐き出させればよいのです。消費税10%なんて、本当にとんでもないことです。
(2014年9月刊。740円+税)

2014年11月 6日

登校拒否を生きる


著者  高垣 忠一郎 、 出版  新日本出版社

 現代日本社会のありようを改めて考えさせる本です。
 いま周囲を見まわしてみると、世の中、なんだかギスギスとして、みんながやたら早足に、せっかちに歩いているように見えて落ち着かない。本当に、そのとおりですよね。
多くの子どもが親の前で「元気で明るい子」を演じている。一生けん命に自分の感情を操作し、コントロールして、親向け、教師向け、あるいは友だち向けの「自分」を演じている。
 悪夢でうなされている子どもを、揺り動かして悪夢から目覚めさせてやる。これが本当の援助だ。
 登校拒否している子どもは、登校拒否という形で、自分と社会や時代とのかかわりを表現しながら、自分の人生と向きあっている。
 「よい子」でないと見捨てられるという不安をかかえて育った子どもや若者は、「自由」に生きられない。不安と恐怖に強いられて、「ねばらない」で行動するため、自分のやったことが失敗し、自分に不都合なことが起こると、一生けん命「よい子」をやってきたのに、裏切られたと思ってしまう。この裏切られた怒りを裏切った親や社会にぶつけるようになる。
 「よい子」でがんばっている人は、「よい子」でない「あるがままの自分」を受け入れることが出来ない。「よい子」でない自分を演じている自己欺瞞をどこかで感じ、深層では、そんな自分が好きになれないでいる。
子どもを「まるごと受け容れる」とは、子どものすべてを肯定的に評価するということではない。弱点やダメなところをたくさん抱えながら生きている、その子の存在をまるごと承認し、肯定するということ。
 カウンセラーは、答えを教えるのが仕事ではない。その人が問題とまともに向きあって、自分なりの答えを見つけ出すのを手伝うのがカウンセラーの仕事だ。そうして本人が見つけ出した答えだけが、その人を変える。
 人間は、まずこの世に存在する。そのあとで自分の本質を創り上げていく存在である。一刻一刻の自分の行為によって、自分で選択する自由な「投企」によって、自分というものを証明し、創り上げていく存在なのである。うむむ、そういうことなんですか・・・。
 個性というものは、「あるがまま」の自分に素直な人にしか訪れない。
 思春期は、第二の誕生のとき。そこにあるのは、「私は誰か?」という問いかけである。
 今日の進学競争は、敗者復活戦のない「勝ち抜き競争」「生き残り競争」の観を呈している。そこでの失敗には、後(あと)がない。進学競争に負ければ自分の人生はないと思い込めば、そこでの失敗は取り返しのつかないものとなり、取り返しのつかない後悔につながる。
そのことにどこかで違和感を感じる自己がたしかに存在していた。その違和感が蓄積し、飽和状態に達したとき、そんな学校生活への拒否症状が生まれ、登校拒否に陥る。
親は学校社会から脱落した孤立感や疎外感を感じ、自分を「ダメな親」にしてしまった「ダメな子」を受け容れることができない。そして、親に受け容れられない子どもは、自分を否定し、自分を責め続けて、「自分が自分であって大丈夫」という自己肯定感もふくらまず、なかなか元気になれない。
競争社会は、眼に見えないコストがかかる。共同性や社会性の喪失。利己主義の蔓延。その結果として生じる、不安、敵意、嫉妬、強迫観念などのもたらすマイナスの想念、メンタルヘルスの低下・・・。
 勝利することによるワクワクする高揚感、勝利感は長続きしない。勝利感、高揚感に支えられた自己愛的な誇りは、競争に勝ち続けることによってしか維持できない。競争に勝ち続けることは不可能で、いつか敗北が訪れる。栄光のときを過ぎた自分、花の盛りを過ぎた自分は、みじめなもの。他人をうち負かしても、自尊心、自己肯定感を高めることには役立たない。もっと他人をうち負かし続けなければならないという強迫感を強めるだけ。
 「勝ち組」思考の人は、自分が現実をありのままに認められず、否定しているのではないかと自分を疑ってみることが必要なのでは・・・。
さすがに長年、心理臨床家を続けてきた人の話は説得力があります。私は、この本の光ったところに赤エンピツをたくさん引いて、本が真っ赤になってしまいました。子どもの教育に関心のある人には、強く一読をおすすめします。
(2014年8月刊。1600円+税)

2014年10月31日

新聞が警察に跪いた日


著者  高田 昌幸 、 出版  角川文庫

 少し前のことですが、検察庁の裏ガネ報道というものがありました。それは恐らく内部告発が発端になったのだと思います。現職の幹部級の検察官が内部告発をしようとして、記者会見の当日に逮捕されてしまいました。検察庁による口封じ作戦です。
 検察庁よりもっと大々的な裏ガネづくりをすすめていたのが警察です。なにしろ図体がでかい。全国20万人以上の警察官をかかえ、津々浦々の警察署が署長以下、裏ガネ作りに精を出していたことが暴露されました。これも、主として内部告発によるものでした。
 北海道警察は、そのなかでもトップクラスの幹部警察官(複数)が実名を出して裏ガネ作りを告発したことで、特筆されます。そして、それも受けて北海道新聞は警察の裏ガネづくりを叩くキャンペーンを大々的に展開したのでした。
 ところが、人の噂も45日とやらで、ほとぼりが冷めたと思った北海道警は、北海道新聞社に報復措置に出たのです。警察の協力が得られない新聞社は哀れです。たちまち北海道新聞社は警察に屈して、ひそかに取引を始めたのでした。道警の裏ガネづくりのキャンペーンをはっていた記者たちは次々に他の部署へ飛ばされていきます。
この本の著書は、ついに海外(ロンドン)へ転任されてしまいました。それで終わりではありません。道警の意を受けた人物から、損害賠償請求の裁判を起こされ、被告席に立たされたのです。まさしく、警察は甘いところでは決してありません。
 北海道警察には1万人の警察官がいる。裁判の原告となった佐々木友善は警視庁にまで昇進していた。道警の総務部長であり、裏ガネづくりの事情に精通していると思われるエキスパート。
 警察は上意下達(じょういかたつ)の鉄の団結を誇る組織である。警察の裏ガネづくりを報道すると、道警全体を敵にまわしてしまう。事件・事故のネタもとれなくなってしまう。それでもいいのか・・・。こんな心配と不安の声があがった。しかし、キャンペーンの結果、北海道警察は裏ガネづくりを認め、道警本部長は北海道議会に出席して謝罪し、内部処分にも行った。けじめをつけたということ。
 そのうえで、反撃に転じた。いわく、道新(どうしん。北海道新聞のこと)は生まれ変わる必要がある。出直す必要がある。警察から、このように言われて、北海道新聞社は屈してしまった。
 編集局長だなんだと言ったって、たんなるサラリーマンなんだ。司(つかさ)、司の世界だ。それくらい、組織人なら分かるだろう。そうやって権力(警察)に屈したのです。哀れです。
 警察の裏ガネづくりは、今ではまさか公然とやっているわけではないでしょうが、裁判所がその本質から目をそらして、片言隻句をとらえて新聞記者を敗訴させました。本当に許されないところです。
 それでも、新聞記者として、権力の横暴に屈服しない気概を今なお示している著者に対して、熱い熱烈なエールをお送りします。
(2014年4月刊。680円+税)

2014年10月30日

国家の暴走


著者  古賀 茂明 、 出版  角川ワンテーマ21新書

 経産省のキャリア官僚だった著者が安倍政権の危険性を鋭く告発した本です。
 その現状分析と大胆な問題提起について、ついつい、「そうだ、そうだ」と同感の叫び声をあげてしまいました。ただ、最後の「第四象限の党」のところは、首をかしげてしまいましたが・・・。
 安倍首相は、自ら中国や韓国との関係を悪化させて国民の不安感を煽り、両国に対する日本国民の敵意を高めている。こうした国民感情は、安倍政権の暴走を助けている。
 安倍政権が暴走すれば、中国・韓国の日本への敵対的な言動も高まる。そうなれば、ますます安倍政権は暴走しやすくなる。こうして、「暴走スパイラル」が始まると、もう誰も止められなくなる危険性が高まる。これって、怖いことですよね・・・。
安倍首相のいう「立派な国、強い国」とは、「軍事的に立派な国、強い国」であることが明らかとなった。
 多くの若者が、「自分たちの生活を良くしてくれそうだ」と感じている。この意味で、安倍首相は、なんと「改革派」なのだ。これは、若者に対する安倍政権の広報戦略がきわめてうまくいっていることを意味している。
 月1億円、年に10億円もの税金を好き勝手に使っていいという内閣官房機密費がマスコミ対策や世論対策に使われている。そして、その効果は非常に大きい。マスコミの社長たちは、安倍首相の声がかかるのを喜ぶだけ。批判精神を忘れ去っていますよね・・・。
 ここ数年の日本は、経済主導から、軍事主導の国づくりに転換されつつある。
 日本の国土を守るうえでは、経済的基礎がガタガタでは、その上に軍事力をのせて、国を支えることが出来ない。日本経済の再生なくして、国を守ることなんかできない。
 安倍首相の願望は、「世界の列強」になること。列強国を名乗るために、強い軍隊を保有し、すぐに戦争ができるようにする。そのため、「産めよ、増やせよ」政策を推進し、憲法9条を変えて国防軍の保持を義務づけ、集団的自衛権の行使や、国の集団安全保障にもとづく武力行使を容認する。
 軍事産業が大きな政治力をもてば、日本は軍事費を削減できなくなる。そして産業構造が大きく変わり、日本は「戦争を待ち望む国」になる。
 安倍首相は、議論する能力がない。いつも質問と答弁がかみあわない。
 日米安保条約は、片務条約ではない。
 最終的な抑止力となるのは、強い軍隊ではない。国際世論であり、国際的な経済の結びつきである。現実に、これらが戦争に対する最大の歯止めになっている。
著者の指摘は、いずれもきわめてまっとうなものです。しかし、依然として安倍政権の暴走は止まりません。その点について、マスコミの責任はきわめて重大だと私は思います。しかし、国家の暴走を止めるためには、他人事(ひとごと)みたいに傍観せず、私たち国民がいっそう自覚し、行動に起ちあがるべきなのではないでしょうか・・・。
(2014年9月刊。800円+税)

2014年10月29日

永続敗戦論


著者  白井 聡 、 出版  太田出版

 いまの日本社会と政治について、大変鋭く、かつ面白い指摘・分析がなされています。
 私たちは侮辱のなかに生きている。これは大江健三郎の言葉。
 忘れてはならないのは、原発事故は「収束」したというにはほど遠い状態にあり、いまもなお、現場で被爆しながら作業に従事している多くの人々がいるという事実である。
 「侮辱」の内容として、東京電力という会社がいまだに存在していることを挙げなければならない。だが、政府のみが批判されるべき対象ではない。構造的腐敗に陥っているのは政府と電力会社だけではない。本来、国家権力に対する監視者たる役割を期待されているはずのマスメディアや大学・研究機関の多くも、荒廃しきった姿をさらけ出した。
 「日本の経済は一流」というのは、干からびた神話にすぎなかった。経済界を代表する人物は、原子力行政についてもっと胸を張るべきだと高言した。これって、本当にとんでもない言い草ですよね。
 第二次大戦に突入していった戦争指導層の妄想的な自己過信と空想的な判断、裏付けのない希望的観測、無責任な不決断と混迷、その場しのぎの泥縄式方針の乱発。これらすべてが2011年の福島原発事故の時に、克明に再現された。残念ながら、まことにそのとおりですよね。
 鳩山内閣はアメリカの圧力によって倒れた。それは、日本においては、選挙によって国民の大部分の支持を取りつけている首相であっても、「国民の要望」と「アメリカの要望」とのどちらかを選択させられるとき、「アメリカの要望」をとらざるをえないことを明らかにした。つまり、日本での政権交代は、実質的に政権交代ではない限りにおいてのみ許容されるものなのだ。
 沖縄は、戦略的重要性から冷戦の真の最前線として位置づけられてきた。そのため、沖縄では、暴力支配が返還の前も後も、日常的なものとして横行している。これは、日本の本土からみると、沖縄は特殊で例外的なものに見える。しかし、東アジアの親米諸国一般からすると、日本の本土こそ特殊、例外的なものであって、沖縄こそ一般的なものなのである。
 ことあるごとに「戦後民主主義」に対する不平を言い立て、戦前的価値観への共感を隠さない政治勢力が、「戦後を終わらせる」ことを実行しないという言行不一致を犯しながらも、長きにわたって権力を独占してこられたのは、それが相当の安定性を築きあげることに成功したからである。
 彼らの主張においては、大日本帝国は決して負けておらず、「神州不敗」の精神は生きている。彼らは、国内とアジアに向かっては敗戦を否認することによって自らの「信念」を満足させ、自分たちの勢力を容認し支えてくれるアメリカに対しては卑屈な臣従を続ける。
 敗戦を否認するため、敗北が無制限に続くことになる。日本の支配権力は、敗戦の事実を公然と認めることができない。それは、その正統性の危機につながる。そのため、領土問題について、道理ある解決に向けて前進する能力を根本的にもたない。
 こうした状況のなかで、「尖閣も竹島も北方領土も、文句なしに日本のものだ」「不条理なことを言う外国は討つべきだ」という、国際的にはまったく通用しない夜郎自体の「勇ましい」主張が、「愛国主義」として通用するという無惨きわまりない状況が現出している。
 北朝鮮による拉致被害者について、安倍首相は次のように述べた。
 「こういう憲法でなければ、横田めぐみさんを守れたかもしれない」
 安倍首相の発言の非論理性・無根拠は、悲惨の一語に尽きる。韓国は「平和憲法」をもたず、戦争状態にありながらも、多くの拉致被害を防ぐことが出来なかった。安倍首相のような政治家にとって、北朝鮮による拉致被害事件は、永続敗戦レジームを維持・強化するための格好のネタとして取り扱われている。
 占領軍の「天皇への敬愛」が単なる打算にすぎないことを理解できないのが戦後日本の保守であり、これを理解はしても、「アメリカの打算」が国家としての当然の行為にすぎないことを理解しないのが戦後日本の左派である。前者は絶対的にナイーヴであり、後者は相対的にナイーヴである。
 憲法問題に限っては、親米右派は大好きなアメリカからのもらいものをひどく嫌っており、反米主義者は、珍しくこの点だけについてはメイド・イン・USAを愛してやまない。
 日本の親米保守勢力の低劣さ、無反省ぶりにアメリカは驚き呆れ、怒りの悲鳴を上げているほど。しかし、この低劣なる勢力こそ、ほかならぬアメリカ政府が育てあげ、甘やかしてきた当のものにほかならない。
 なぜ、アルカイダのテロが東京で起きていないのか?
 それは、イスラム圏の人々が日本について大変な幻想をいだき、また誤解しているから。それによって東京はイスラム圏の爆弾テロの脅威から辛じて救われる。
 本当に、なかなか鋭い指摘です。目からウロコが落ちるとは、このことを言うと思いました。重苦しい胸のつかえがとれ、スッキリした気分に浸ることができます。
 それにしても安倍首相の原発事故「収束」宣言って、大嘘ですし、許せませんよね。
 今度、子どもたちへの道徳教育が始まるとのこと。道徳教育が今、一番必要なのは国会議事堂のなかと首相官邸なのではありませんか・・・。ともかく、見えすいた嘘は止めてください。安倍首相(さん)。
京都の川中宏弁護士のすすめで読みました。ありがとうございます。
(2014年8月刊。1700円+税)

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