福岡県弁護士会 宣言・決議・声明・計画
2020年9月17日
「送還忌避・長期収容問題の解決に向けた提言」の内容を踏まえた法改正に反対する会長声明
声明
1 2020(令和2)年7月14日、法務大臣の私的懇談会である第7次出入国管理政策懇談会は、収容・送還に関する専門部会が同年6月19日に取りまとめた報告書をもって「送還忌避・長期収容問題の解決に向けた提言」(以下「本提言」という。)を行った。現在、出入国在留管理庁において、本提言を踏まえた出入国管理及び難民認定法(以下「入管法」という。)の改正が検討されており、今秋の臨時国会で法案が提出される予定という。
しかし当会は、本提言においてなされた
① 難民申請者の送還停止効に対する例外の創設
② 退去強制令書が発付されたものの本邦から退去しない行為に対する罰則の創設
③ 仮放免された者等による逃亡等の行為に対する罰則等の創設
を踏まえた法改正に対しては、以下の理由により、強く反対するとの立場をここに表明する。
2 かねてから指摘されているとおり、日本では、迫害を受けるおそれから祖国を逃れ、庇護を求めてくる人々のうち、これを難民として受け入れる数が極めて少なく、トルコのクルド人をはじめ、諸外国であれば難民と認められている人々であっても、日本ではその地位が認められていない。
本来難民として保護されるべき人々を多数とりこぼしている現状において、本提言が行った①「難民申請者の送還停止効に対する例外の創設」を認めることは、迫害を受ける人々を、時に命の危険すらある本国に送り返す危険すら内包する。さらに、本提言が行う②「退去強制令書が発付されたものの本邦から退去しない行為に対する罰則の創設」は、このような本来難民として保護すべき人々に対し、罰則を科して、迫害を受ける恐れのある祖国への帰国を迫るものでもある。これらの提言を法改正に反映させることは、日本が1981(昭和56)年10月3日に加入し翌年1月1日から発効した難民条約第33条第1項「ノン・ルフールマンの原則」(締約国は、難民を、いかなる方法によっても、人種、宗教、国籍もしくは特定の社会的集団の構成員であることまたは政治的意見のためにその生命または自由が脅威にさらされるおそれのある領域の国境へ追放しまたは送還してはならない)に照らし、許容することはできない。
また、低い認定率の中にあってもなお日本において難民と認められた人々の中には、退去強制令書の発付後、複数回申請を繰り返し、裁判を経てようやく難民としての地位を認められた者、または人道的配慮から在留特別許可を認められた者も存在する。本提言が行う①「難民申請者の送還停止効に対する例外の創設」や②「退去強制令書が発付されたものの本邦から退去しない行為に対する罰則の創設」は、司法の判断を仰ごうとする人々の裁判を受ける権利を侵害するおそれもあり、許容することはできない。
3 また、退去強制令書が発付され、入管施設に長期収容されている人々の中には、配偶者や実子等の家族がいるために日本を離れられない者、日本で生まれ育ったため現実的に日本以外に行き場がない者、日本での生活が長く母国との繋がりを完全に失ってしまった者など、帰るに帰れない事情を抱える人々が多く存在する。その中には、強制退去令書の取消訴訟などの司法手続き等を経て在留資格を付与された人々も少なからず存在する。本提言が行った②「退去強制令書が発付されたものの本邦から退去しない行為に対する罰則の創設」は、やはりこうした人々からも、裁判を受ける権利を奪うおそれがあり、許容できない。
4 本提言③「仮放免された者等による逃亡等の行為に対する罰則等の創設」は、罰則により仮放免中の逃亡を予防しようと試みるものであるが、現行法においても、逃亡すれば直ちに実質無期限収容をとる入管施設に再収容されるのだから、身体拘束の場所が一定期間刑事施設に移るだけであって、予防効果としての意味はないに等しい。
むしろこのような罰則の創設は、脆弱な地位にある外国人を支援する人たちや、彼/彼女たちから相談や依頼を受ける行政書士や弁護士などの活動を共犯として処罰する潜在的な危険があり、人道的活動を萎縮させるおそれがあり、許容することはできない。同様の問題は、②「退去強制令書が発付されたものの本邦から退去しない行為に対する罰則の創設」においても指摘できる。
5 本提言を行った収容・送還に関する専門部会は、2019(令和元)年10月、送還忌避者の増加や収容の長期化を防止するための方策を検討することを目的として設置されたが、その背景には、出入国管理庁(当時は出入国管理局)が2017(平成29)年頃より仮放免をほぼ認めないような運用を取り始め被収容者の収容が長期化したこと、2019(平成31・令和元)年頃からこうした運用に抗議するため多くの被収容者たちがハンガーストライキを始めたこと、その結果同年6月大村入国管理センターにおいてナイジェリア人の被収容者が餓死するという事件が発生したこと、これにより社会の耳目が一気に入管の長期収容問題に向けられたという経緯があった。長期収容の問題は、これまで各所から指摘されているとおり、収容は送還に必要な最小限でしか用いないこと、司法審査を導入すること、収容期間の上限を設けること、仮放免の運用基準を設置し公表すること等によってこそ解決される。本提言は、一人の収容者を餓死に追いやった長期収容の原因について、主に被収容者に帰せるのみであって、全件収容主義や実質無期限収容主義を採る日本の収容制度の問題から目を背けるものである。
よって、このような本提言の内容を踏まえた法改正に、当会は強く反対する。
2020年(令和2年)9月16日
福岡県弁護士会
会長 多川 一成
2020年9月18日
死刑制度の廃止を求める決議
決議
犯罪により尊い生命が奪われたとき,その犯罪者に死をもって償わせるべきか,国家が死刑制度を存置し死刑を執行することが許されるか,といった問題について,我が国の多くの者は,思い悩み,ともすれば,議論そのものを躊躇してきた。
他方,目を国外に向ければ,国際社会は,第二次世界大戦後,国際連合憲章(以下「国連憲章」という。)を締結して国際連合(以下「国連」という。)を設立し,人権尊重と国際平和とが不可分の関係にあるとして,基本的人権尊重の国際基準となる世界人権宣言,国際人権自由権規約(以下「自由権規約」という。),自由権規約第二選択議定書(以下「死刑廃止条約」という。)を採択して,すべての国が死刑の廃止に向かうことを求めた。
その中にあって,日本弁護士連合会(以下「日弁連」という。)は,2016年(平成28年)10月に,人権擁護大会(福井市)において「死刑制度の廃止を含む刑罰制度全体の改革を求める宣言」を採択した。
また,当会は,1996年(平成8年)以降,死刑執行に対し,これに抗議する会長声明を発出し,国民的議論が尽くされるまで死刑執行を停止することを求めてきただけでなく,2011年(平成23年)から死刑制度を考える市民参加のシンポジウムを継続的に行い,特に2019年(令和元年)には,同様のシンポジウムを4回にわたり開催するなど,死刑制度の是非について,検討及び情報発信に努めてきた。さらに,2016年(平成28年)には死刑制度の存廃等を検討するプロジェクトチームを発足させて,死刑制度の存廃問題に取り組んできた。
こうした活動の積み重ねの結果を踏まえ,当会は,基本的人権の擁護と社会正義の実現という使命を担う弁護士(弁護士法1条)によって構成される法律家団体の立場において,以下のとおり決議する。
決 議 の 趣 旨
当会は,政府及び国会に対し,
1 死刑制度を廃止すること
2 死刑の代替刑として終身刑を導入すること
3 死刑制度の廃止が実現するまでの間,死刑の執行を停止すること
を求める。
決 議 の 理 由
第1 死刑制度の廃止を求める理由
1 生命に対する権利(生命権)
生命に対する権利である生命権は,人間の尊厳に由来する固有の権利であり,すべての人権の基盤となる根源的な基本的人権である。そして,生命権の制限とは生命剥奪を意味することから,他の人権と異なり,ひとたび生命権を制限すれば回復することはできない。また,生命権は人間として存在する権利であり,個々の生命に価値の違いがあってはならない。したがって,すべての人の生命権は,等しく,最大限に尊重されなければならず,かつ,不可侵とされなければならないのである。
このように,生命権は,基本的人権の中でも特別に保護を与えられなければならないものであり,そのため,憲法13条は,最大の尊重を必要とすると定め,国連は世界人権宣言3条,自由権規約6条1項及び死刑廃止条約を通じて生命権の不可侵を明確にしている。
確かに,凶悪で残忍な殺人事件や無差別の大量殺人事件に直面すると,このような犯罪者の生きる権利を保障する必要があるのかとの悩みや躊躇が生じることは否定できない。しかし,たとえ犯罪者に対する死刑であっても,それは国家が生きる価値がある人間かそうでない人間かの選別を行うことを容認するものである。そして,この生命選別の容認は個々の生命の価値に違いを認めることと等しく,基本的人権の尊重,特に生命権の尊重という普遍的価値観の醸成が阻害されることになる。その結果,国民の中に,厳罰化の名のもと,生命軽視という価値観が醸成される危険性が生まれ,また,第二次世界大戦前のような国家による重大な人権侵害が再来するという危険性が生まれる。
このような危険があることから,国連は,すべての国民が基本的人権の尊重,特に生命権の不可侵の価値観を共有できる社会の実現を目指すために,死刑廃止条約等を採択したのである。
当会は,改めて,チェーザレ・ベッカリーア(1738年〜1794年)の著書「犯罪と刑罰」にある,「死刑は,それが人々に残虐性の手本を与えるものだということからして,有用でない。(中略)公共の意志であるところの法律,殺人を嫌いこれを処罰するところの法律が,まさしくその殺人そのものを犯し,しかも市民たちを殺人から遠ざけるためにこれを公然と行うことを命じるとは,私には不条理なことに思われるのである。」という言葉を問い直し,我が国での死刑制度廃止を実現し,基本的人権の尊重,特に生命権の不可侵の価値観を共有できる社会を目指すものである。
2 誤判冤罪の危険性
第二次世界大戦後に我が国に浸透した適正手続(憲法31条)の下での刑事裁判手続を踏まえた死刑判決に誤りはないのか,この点については,格別の考察が必要である。
すなわち,死刑は刑事裁判手続を経て科せられるものであるところ,その手続(捜査段階,公判段階,再審等の検証段階)は人間によって運用される。人間が全知全能ではあり得ない以上,それらの諸手続きにおいて,誤りが生じる危険性を完全に排除することはできない。このことは,我が国において,1980年代の4件の死刑確定者に対する再審無罪事件(免田事件,財田川事件,島田事件,松山事件)のほか,死刑求刑事件ではないものの,殺人事件として有罪判決が確定した後に再審で無罪となった東電OL事件,湖東事件,東住吉事件などにおいて示されている。
これらの他にも未だ再審開始決定が確定してはいないものの,一度は再審開始決定がなされた名張毒ぶどう酒事件や袴田事件,また,誤判の疑いが指摘されながらすでに死刑が執行された飯塚事件,福岡事件,菊池事件など看過できない事案も数多くある。
さらに言えば,有罪無罪の判断にとどまらず,量刑選択の判断においても,死刑と無期懲役との境界は不明確であるという問題がある。この点に関する判断基準として,最高裁判決においていわゆる永山基準が示されたものの,それでも不明確さを払拭し得るわけではない。また,量刑の基礎となる事実に対しても誤判の危険性があり,判断主体(裁判官等)が異なることによる量刑判断の不安定性も完全に払拭することができない。
その結果,現実に起こりうる,誤判冤罪及び量刑不当による,刑の執行(生命剥奪)という不正義を放置することは許されない。
そして,私たち弁護士は,いかに刑事訴訟手続が改善されたとしても,刑事弁護活動を通じて,この社会的不正義を完全に排除することができないことを経験し,かつ,その不正義の是正を訴えることができる立場にあることを改めて自覚するものである。
3 国際人権法と国連加盟国の責務
⑴ 国際基準の定立と普及
第二次世界大戦前,国内の人権保障が各国に任され,一部の国での人権侵害が放置された結果,多くの生命剥奪などの重大な人権侵害と国家の全体主義化を招き,世界大戦へと向かったという惨害を教訓に,国際社会は,国際平和と安全を目的として,国連憲章を締結して国連を設立し,国際人権章典(世界人権宣言,国際人権社会権・自由権規約,第一選択議定書,死刑廃止条約)を採択して,基本的人権の尊重の国際基準を定立した。
これらの基本的人権の尊重の国際基準のうち,特に生命権については,世界人権宣言が「すべて人は,生命,自由及び身体の安全に対する権利を有する。」(同宣言3条)と規定し,また,自由権規約は「すべての人間は,生命に対する固有の権利を有する。この権利は,法律によって保護される。何人も,恣意的にその生命を奪われない。」(同規約6条1項)と規定して,特別な保護を与えるべきものと位置付けた。
もっとも,自由権規約6条には,死刑制度を廃止していない国に一定限度の死刑制度の存置を認める規定が置かれているが(同条2〜5項),同時に「この条のいかなる規定も,この規約の締約国により死刑の廃止を遅らせ又は妨げるために援用されてはならない。」(同条6項)との規定が加えられて採択された(1966年(昭和41年)12月16日)。そして,国際社会は,死刑廃止が人間の尊厳の向上及び人権の漸進的発達に寄与することを確信して,1989年(平成元年)12月15日,死刑廃止条約を採択して,すべての国が死刑制度の廃止を目指すべきことを明確にした。
これは,基本的人権の尊重の内容と程度が,国によって区々になってはならず,特に生命権については,その一般性・普遍性をすべての国に通用させるため,各国毎の人権解釈に依拠させるのではなく,国連で定立した国際基準に従うことを求めたものである。
そして,国連は,死刑廃止条約採択後,国連総会において「死刑廃止を視野に入れた死刑執行の停止を求める」旨の決議を採択し続け,その決議は2018年(平成30年)12月17日で7回に及んでいる。また,国連人権理事会における普遍的定期的審査(UPR)では,死刑存置国は,審査国から死刑制度の廃止に向けた行動を取るべきとの勧告を受け続けている。さらに,条約機関である自由権規約委員会からは「死刑廃止の検討を求める」との勧告がなされ(2008年(平成20年)10月),同じく拷問禁止委員会からは「死刑廃止の可能性を検討すること」との勧告がなされている(2013年(平成25年)5月)。
このように,国連及び関連機関は,死刑制度の廃止を目指す国際基準を,すべての国に普及させることに努めている。
⑵ 国連加盟国の責務と国際社会の変化
国連憲章に署名した国連加盟国は,「すべての者のための人権及び基本的自由の普遍的な尊重及び遵守」(国連憲章55条)という国連の目的を実現するため,「この機構(国連)と協力して,共同及び個別の行動をとることを誓約」している(同56条)。そして,上記の国連及び関連機関の死刑廃止に向けた働きかけとこの国連憲章上の責務である国連加盟国の協力により,死刑廃止国(法律上または10年間以上死刑執行をしていない事実上の廃止国)は増加を続け,2019年(令和元年)12月末の時点で,国連加盟国の約7割の142カ国が死刑廃止国となり,死刑廃止条約の批准国も88カ国に達している。
このような国際社会の変化の中,我が国も,1951年(昭和26年)9月8日,サンフランシスコ平和条約に署名し,国連憲章の原則を遵守することを宣言して国連加盟国の一員となっていることから,人権及び基本的自由の普遍的な尊重と遵守について,国連と協力して行動をとる責務(国連憲章55条及び56条)を負う。また,この責務を果たすことは,憲法上の国際協調主義(憲法前文及び同98条2項)にも適うものである。そして,国連が死刑廃止条約を採択し,その後,死刑廃止を視野に入れた死刑執行停止を求めるとの国連総会決議や国連人権理事会における死刑廃止に向けた勧告などの働きかけを行っていることを斟酌すれば,国連が行う人権及び基本的自由の尊重と遵守の助長促進(国連憲章55条)の中に死刑制度廃止が含まれていることは明白である。
したがって,政府及び国会には,我が国が死刑廃止条約を批准しているか否かに関係なく,国連と協力して死刑制度廃止の実現に向けた行動(国内人権啓発,死刑執行停止,死刑制度廃止を含む刑罰制度に関する法改正など)をすべき責務があり,また,将来的には死刑廃止条約の批准に向けた行動をすべき責務がある。
第2 我が国における死刑制度の廃止実現に向けて
1 憲法と最高裁判決
最高裁判所は,1948年(昭和23年)と1993年(平成5年)の判決において,憲法31条の文言を理由に死刑制度を合憲であるとし,また,絞首刑は残虐な刑罰ではなく憲法36条に反しないとした。しかし,憲法31条は「何人も,法律の定める手続によらなければ,その生命若しくは自由を奪われ,又はその他の刑罰を科せられない。」と規定するのみであり,死刑制度を積極的に維持すべきであるとしているものではない。また,昭和23年判決の補充意見では,国家の文化の発達により憲法31条の解釈が制限されて,死刑が残虐な刑罰とされて憲法に反するものとして排除され得ることが指摘された。さらに,平成5年判決の補足意見では,立法の問題に属すると留保しつつ,死刑の廃止に向かいつつある国際的動向と国内世論との大きな隔たりを整合させるために,一定期間の死刑執行停止や,現行の無期刑(服役10年を過ぎた場合に仮出獄の対象となり得る)とは別種の無期刑の導入が指摘されている。この別種の無期刑の内容について明記はないものの,死刑廃止議員連盟が提案した重無期刑や仮釈放のない終身刑が想定される。
このように,死刑制度に対する評価(特にその残虐性についての)は憲法の解釈として不変のものではなく,国際社会の動向やこれとの関わりでの国内の状況変化によって変わり得るものであり,むしろ,死刑制度廃止に向かうことが望ましいことが強く示唆されている。
2 世論(社会感情)と死刑
政府は,2008年(平成20年)から始まった国連人権理事会の普遍的定期的審査(UPR)における政府への勧告(死刑制度廃止に向けた行動を求めるとの勧告)に対し,「死刑制度に関する議論については,国民世論の趨勢を見ながら対応すべきものと考えている。死刑制度については,国民の多数が極めて悪質,凶悪な犯罪については死刑もやむを得ないと考えており,特別に議論する場所を設けることは現在のところ考えていない。」との理由で拒否し,死刑を存置し執行を続けている。
ここで政府が主張する「国民世論の趨勢」は,内閣府が実施した世論調査の結果に依拠しているものと思われる。
しかし,2019年(令和元年)11月に実施された内閣府世論調査では,この「死刑もやむを得ない」との選択肢に賛成した者(80.8%:有効回答数1572人のうちの1270人)へ追加質問(将来も死刑を廃止しないほうが良いと思いますか,それとも,状況が変われば将来的には死刑を廃止してもよいと思いますか。)をしたところ,「死刑を廃止しない」と答えた者は691人,「状況が変われば将来的には死刑を廃止してもよい」と答えた者は507人であった。よって,全体の有効回答数1572人のうち,現在も将来も死刑廃止に反対の者の割合は約44%(1572人中691人)である。
これに対し,「死刑を廃止すべき」と答えた者(142人)及び「状況が変われば将来的には死刑を廃止してもよい」と答えた者(507人)の合計の割合は約41%(1572人中649人)である。
したがって,いかなる場合にも死刑存置を選択する者と死刑廃止又はその可能性を選択する者のいずれも過半数に至らず拮抗している。
そうすると,内閣府世論調査によったとしても,死刑存廃議論を不要とするほどに世論が死刑制度を支持しているとの政府の解釈は正しくない。逆に,国民の約4割は死刑制度の廃止について状況次第では積極的,ないし少なくとも存廃について悩んでいると評価する方が正しいと言える。
そもそも,議会制民主主義は,議会における徹底した討議を経て,その内容・過程次第で議員や国民の結論が変わり得ることを真髄とする。にもかかわらず,死刑制度存廃問題については国会での熟議も,もとより国民的な議論も経ていない。そのような段階にありながら,議論自体を不要とする政府の態度には多大な疑問を禁じ得ない。
3 死刑の代替刑
2014年(平成26年)と2019年(令和元年)に実施された内閣府世論調査において「もし,仮釈放のない「終身刑」が新たに導入されるならば,死刑を廃止する方がよいと思いますか,それとも,終身刑が導入されても,死刑を廃止しない方がよいと思いますか。」との質問がなされ,「死刑を廃止する方がよい」に賛成の割合は,2014年(平成26年)で37.7%,2019年(令和元年)で35.1%との結果が出ている。
そのため,仮釈放のない終身刑の導入は,1993年(平成5年)の最高裁判決の補足意見にあるとおり,国際基準と国内世論の隔たりを埋める一つの施策となりうる。
しかし,社会復帰を完全に認めない「仮釈放のない終身刑」は,社会内包摂を基本とする現代刑罰論や国連被拘禁者処遇最低基準規則(マンデラ・ルール)に抵触する危険性がある。
そこで,日弁連は,2019年(令和元年)10月に「死刑制度の廃止並びにこれに伴う代替刑の導入及び減刑手続制度の創設に関する基本方針」において,「仮釈放のない終身刑を最高刑として導入しつつ,例外的に仮釈放の可能性のある無期懲役への減刑を認める手続制度を設ける」と提言している。
当会も,死刑制度廃止に代わる刑罰の導入を求めつつ,国際基準となる死刑制度廃止の実現と国連被拘禁者処遇最低基準規則を整合させるため,基本的に日弁連の提言に同意するものである。ただし,減刑措置のあり方によっては,死刑の代替刑たり得る重罰といえるのか,あるいは社会復帰が有名無実とならないかという問題がある。したがって,減刑措置の手続要件(請求権者,判断権者,服役期間など)は,政府及び国会において十分かつ慎重に審議されなければならない。
4 死刑の犯罪抑止力
死刑制度を廃止すると,生命侵害を伴う凶悪な犯罪が多発するのではないかとの危惧が表明されることがある。しかし,この点について,国連と欧州評議会は,死刑廃止国と死刑存置国の犯罪動向の比較,死刑廃止国の廃止前後の犯罪動向の比較などの科学的・統計的調査を行った結果,死刑に他の刑罰とは異なる特別な犯罪抑止力があるとの実証はできないとの結果報告を出している。また,政府も,2008年(平成20年)2月12日,質問主意書に対する答弁書で「死刑の犯罪抑止力を科学的・統計的に証明することは困難である」と答弁している。
然るに,政府は,内閣府世論調査において「死刑を廃止すれば凶悪犯罪が増える」に賛成の者が過半数との結果を根拠に,死刑には他の刑罰と異なる特別の犯罪抑止力があるとする。しかし,ここで問題になっている犯罪抑止力は,死刑求刑相当の凶悪犯罪であるところ,このような罪を犯す者に対しては科学的・統計的に死刑の犯罪抑止力は実証できないとされており,被害者になり得る国民の安心感や危惧感をもって科学的・統計的な犯罪抑止力の証明に変えることはできない。また,そもそも,テロや確信犯には刑罰の威嚇力の効果(犯罪抑止力)は期待できない。
したがって,犯罪抑止のためには,現実の犯罪統計をもとに,科学的・合理的な社会政策・刑事政策に取り組むべきであり,実証できない「死刑の威嚇力」は死刑制度存置の根拠たり得ない。
5 被害者遺族への支援
私たち弁護士は,刑事弁護という弁護人活動を通じ,また,被害者参加制度などの被害者側の代理人活動を通じて,様々な犯罪被害に向き合い続けている。
そのような中,刑罰制度改革の一環として死刑制度廃止を求めるとき,被害者や遺族の被害をどのように受け止めるべきかという大きな問題がある。
日弁連は,2002年(平成14年)11月22日付の「死刑制度問題に関する提言」において「死刑相当犯罪などの凶悪犯罪による被害者遺族の受けた被害は,まさしく不条理であり,犯罪の被害者遺族の被害感情は深刻であるが,死刑制度の存続のみで被害者遺族の問題が解決するものではない。」と述べているとおり,被害者遺族の被害感情には,加害者に対する処罰感情のみならず,喪失感・虚無感など刑罰では応えることができない感情も含まれている。
さらに,犯罪被害には,コミュニティ喪失などの社会的被害や経済的支柱や拠り所を失うなどの経済的被害もある。
そのため,被害者の無念や被害者遺族が受ける不条理な被害に真摯に向き合い,被害者遺族への精神的支援,経済的支援,社会的支援を充実させる制度設計(犯罪被害者庁の設置等の行政対応態勢の拡充,犯罪被害者給付金の支給対象者の範囲拡大や給付金の増額,国と自治体の連携システム構築等による多面的なサポート体制の充実,専門的カウンセラーの育成等)と予算措置をすみやかに実現させ,社会的に被害者遺族を支える必要がある。そして,この必要性は,死刑制度廃止を求めるか否か,また,法制度としてどのような刑罰制度が実現するかに関わりなく,求められるものである。
したがって,当会は,人権擁護と社会正義の実現という使命に基づき,死刑制度の廃止を含む刑罰制度の改革を求めるとともに,被害者遺族に対する支援に取り組んで行く決意を表明する。
第3 結語
以上の理由により,当会は,政府及び国会に対して,死刑制度を廃止すること,死刑の代替刑として終身刑を導入すること,さらには死刑制度廃止のための関連法案が成立・施行されるまで,死刑執行を停止することを求めるものである。
2020年(令和2年)9月18日
福岡県弁護士会
2020年9月23日
刑事身体拘束手続に関する法改正と運用改善を求める決議
決議
決議の趣旨
当会は,「人質司法」という言葉に代表される日本の刑事身体拘束を巡る問題を抜本的に改革するために,以下のような法改正と裁判官の運用改善を求める。
1 求める法改正
(1)勾留質問時の弁護人立会権を保障する形で刑事訴訟法を改正すること。
(2)勾留の判断において比例原則が適用されることを明記する形で刑事訴訟法を改正すること。
2 求める裁判官の運用改善
(1)勾留質問において勾留理由に関する具体的な質問をするなどして実質的な勾留質問を行う運用とすること。
(2)勾留質問への弁護人の立会いを認める運用とすること。
(3)勾留理由開示手続において具体的・実質的な勾留理由を説明・回答する運用とすること。
(4)勾留の判断にあたって身体不拘束の原則や比例原則を踏まえて勾留理由を厳格に判断する運用とすること。
2020年(令和2年)9月18日
福岡県弁護士会
決議の理由
1 日本における刑事身体拘束手続の問題(1)憲法34条は「何人も,正当な理由がなければ,拘禁されず,要求があれば,その理由は,直ちに本人及びその弁護人の出席する公開の法廷で示されなければならない。」と規定している。
これを受けて刑事訴訟法では,逮捕や勾留について裁判所による令状審査を要求した上で,勾留理由開示制度や勾留に対する不服申立制度(準抗告)を採用している。
また,日本も批准する国際人権(自由権)規約9条3項は,逮捕・抑留された者は,司法機関の面前に速やかに引致され,引致後「妥当な期間内に裁判を受ける権利又は釈放される」権利を有することを保障し,「裁判に付される者を抑留することが原則であってはなら」ないと定め,身体不拘束の原則を明らかにしている。
(2)ところが,このような憲法や刑事訴訟法,そして国際人権(自由権)規約の定めがあるにも関わらず,実際には刑事訴訟法が歪曲された形で運用され,憲法が「正当な理由」を求め,刑事訴訟法が「罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由」を求める被疑者の勾留の要件について,単に「証拠隠滅のおそれ(=可能性)」として解釈し,安易に勾留が認められてきた。
そして,いったん勾留されれば,起訴前保釈制度がない中で最長23日間の長期にわたって身体拘束を余儀なくされ,起訴後も保釈が認められなければ判決まで身体拘束が続くことになる。
特に,被疑者が否認するなど事実関係を争ったり,あるいは黙秘権を行使したりしている場合には,安易に「罪証隠滅のおそれ」を認めて勾留し,判決まで,あるいは証人の証拠調べ等が終わるまでは保釈も認められないことから,被疑者自身の身体の自由を人質として自白を強要する「人質司法」と呼ばれてきた。
しかも,このような傾向は刑事訴訟法制定から時間を経るにしたがってより進み,1977年(昭和52年)には68.1%だった地方裁判所における起訴時身体拘束率が,1987年(昭和62年)には72.7%,1997年(平成9年)には79.2%,2005年(平成17年)には82.3%にまで増加している。また,1977年(昭和52年)には37.7%だった判決時身体拘束率に至っては,1987年(昭和62年)には54.3%,1997年(平成9年)には66.1%,2005年(平成17年)には71.3%と2倍近くまで増加している。
このような勾留に関する運用が,上記のような憲法上の保障や,国際人権(自由権)規約の定める身体不拘束の原則に大きく反していることは明らかである。
(3)また,勾留理由の開示についても,刑事訴訟法が定める勾留理由開示の手続をとっても,捜査上の秘密を理由に実質的な勾留理由が説明されることはなく,形骸化してしまっており,憲法上の保障がないがしろにされているとしかいいようのない状態となっている。
本来であれば,本人及び弁護人の出席する公開の法廷で勾留の理由が具体的に明らかにされることによって,「正当な理由」なく勾留されていないかどうかがチェックされ,違法・不当な勾留を防ぐことができるのであり,これが形骸化されていることによって,上述したような身体不拘束の原則に反した「人質司法」と呼ばれる状況を生み出しているともいえる。
2 当会や日弁連の取り組み
(1)かかる日本の刑事身体拘束手続の問題に関しては,以前から当会も日本弁護士連合会も問題を指摘するともに,様々な宣言や決議をしたり,意見書をまとめたりしてきた。
(2)約20年前の1999年(平成11年)10月には,日本弁護士連合会は刑事訴訟法施行50年にあたり「新しい世紀の刑事手続を求める宣言-刑事訴訟法施行50年をふまえて-」と題する宣言をした。
この宣言では,わが国の刑事手続を真の憲法の理念にかない,国際人権法の水準に見合ったものに改革していくため,①国費による被疑者弁護制度の実現,②代用監獄の早期廃止,③捜査の可視化,④人質司法の打破,⑤証拠の事前全面開示,⑥公判審理の活性化,⑦法曹一元や陪・参審制度の導入など,刑事訴訟法の全面的な改正をも視野に入れた広範な改革に取り組むことを宣言した。
このうち,①や⑤,⑥,⑦に関しては,その後の刑事司法改革の中で勾留段階における被疑者国選弁護制度の導入や拡大,裁判員裁判制度及び公判前整理手続による証拠開示制度の法制化や公判中心主義の強調といった形で刑事訴訟法が改正され,一定の成果を上げてきたということはできる。
また,③に関しても,司法制度改革の中では導入されなかったものの,その後も日本弁護士連合会や当会において取り組みを続け,2016年(平成28年)の刑事訴訟法改正によって一部事件について取調べの録画録音が義務付けられるに至った。
しかし,刑事身体拘束に関する②代用監獄の早期廃止及び④人質司法の打破に関しては,特に刑事訴訟法の改正はなされてきていない。
(3)このように刑事身体拘束手続の改革が進まない状況の中,2007年(平成19年)9月に日本弁護士連合会は「勾留・保釈制度改革に関する意見書」をまとめ,逮捕や勾留,保釈に関する制度改革の提言をまとめた。
その中で,勾留に関しては,①比例原則の明記,②刑事訴訟法60条1項2号(勾留要件のうち証拠隠滅に関する規定)の改正,③勾留質問に対しての弁護人の立会権の保障,④刑事訴訟法420条3項,429条2項(準抗告理由を制限する規定)の削除,⑤勾留・保釈に関する当事者の手続保障の整備を提言した。
この意見書は,裁判員裁判制度を前にした裁判官協議会での意見や大阪地方裁判所令状部部長の論文等で保釈運用の見直しに言及される中でまとめられたものであったが,起訴後勾留率も判決時身体拘束率も2005年(平成17年)をピークに徐々に減少に転じ,2018年(平成30年)には起訴時身体拘束率は74.2%に,判決時身体拘束率は51.4%にまで下がってきている。
この点,判決時身体拘束率は20%も減少しているが,これについては2013年(平成25年)から全国弁護士協同組合が始めた保釈保証書発行事業も寄与しているものと考えられる。
但し,2013年(平成25年)の時点ですでに判決時身体拘束率が63.0%にまで下がっているし,保釈と無関係な起訴時身体拘束率も下がっていることからすれば,保釈保証書発行事業のみで各身体拘束率の減少を説明することはできず,刑事身体拘束に関する裁判官の意識の変化が表れているといえる。
しかし,この間に勾留や保釈等の身体拘束に関する刑事訴訟法の改正はなく,いつまた逆戻りしてもおかしくはない。
(4)そして,当会においても,2008年(平成20年)5月に,約1年後に裁判員裁判が開始され,被疑者国選制度が大幅拡大されるという大きな変わり目を控え,「より良い刑事裁判の実現を目指して」と題して,①刑事裁判の基本的なルールの普及に努めること,②「人質司法」を解消するため勾留および保釈について運用や制度の改革を求めていくこと,③取調べの全面的な可視化(取調べの全過程の録画)を求める運動を実行すること,④裁判員裁判の課題を検討し,その適切な制度運用を求める活動に努めること,⑤制度改革に対応する弁護態勢を確立することの5つの決意を宣言していた。
その後,当会では法教育の普及の中で刑事裁判の基本的なルールの普及に努めたり,裁判員裁判検証運営協議会やその他の協議会を通じて裁判員裁判の適切な制度運用を求め続けたり,弁護態勢確立のために様々な研修を繰り返し実施したりしてきたし,取調べの可視化に関してはシンポジウムを実施するなどして一部事件についての取調べの録画録音の義務化される刑事訴訟法改正に繋がった。
一方で,②刑事身体拘束に関しては,全国弁護士協同組合による保釈保証書発行事業の立ち上げによる保釈運用の一定の改善や,様々な研修の実施とそれによる日々の弁護活動の実践によって個々の事件での実績は上げてきてはいるものの,運用や制度の改革にまでは至れていない。
3 最近の動きや変化
以上述べてきたとおり,刑事身体拘束の問題に関しては,古くから日本の刑事司法の重要な問題の一つと捉えられ,様々な運動や取り組みはなされてきたものの,刑事訴訟法の改正や運用の大幅変更という抜本的な解決には至らず,ずっと積み残されてきた問題であるといえる。
そのような問題意識の中で,埼玉弁護士会が全国に先駆けて2010年(平成22年)から「被疑者の不必要な身体拘束に対する全件不服申立運動」を実施し,これが全国に広がっていった。この運動は,単に全件について勾留に対する不服申立をするのではなく,弁護人の目から見て勾留の必要がないのではないか,勾留要件を満たさないのではないかと考える事件については,全件不服申立を行っていくという運動であり,不服申立が認められる件数が増えていくことにより,勾留請求段階での裁判官による勾留却下自体が増えるという効果を生んだ。
九州弁護士会連合会においても各地でこの運動を開始し,当会では2017年(平成29年)に北九州部会で先行して運動を始め,全県的にも当会の刑事弁護等委員会が呼びかける形で2018年(平成30年),2019年(令和元年),そして本年と運動を展開し,勾留請求や勾留決定そのものを阻止したり,不服申立によって勾留決定が取り消されたりするなど,個々の弁護実践の中でも一定の成果を上げてきた。
このような各弁護士会の取り組みの影響もあってか,2009年(平成21年)までは1%を切っていた勾留請求却下率が急激に増加し,2014年(平成26年)には2%を超え,2018年(平成30年)には5.89%と10年足らずで約6倍にまで勾留請求却下率が増えており,勾留についての裁判官の意識や姿勢にも変化が見られる。
4 法制度や運用の改革の必要
(1)以上のような最近の勾留に関する動きや変化は歓迎すべきものであるが,これらの動きや変化は弁護士会の取り組みや裁判官の意識や姿勢の変化に伴うものに過ぎず,具体的な法制度や運用の変更に伴うものではない。
また,起訴時身体拘束率や判決時身体拘束率が徐々に改善してきているとはいっても,元東京大学総長の故平野龍一博士が「わが国の刑事裁判はかなり絶望的である」と結んだ論文が発表された1985年(昭和60年)当時と同程度の率に戻ったというだけで,問題の本質が改善されたとは言い難い状況にある。
とはいえ,ずっと悪化し続けてきた刑事身体拘束を巡る問題について改善の兆しが見られていることはたしかであり,今こそ「人質司法」という言葉に代表される日本の刑事身体拘束を巡る問題を抜本的に改革する時機に来ているというべきである。
そのような中で,当会は,2019年(令和元年)7月に刑事身体拘束に関する韓国視察を実施し,その視察結果も踏まえて同年9月には第62回日弁連人権擁護大会プレシンポジウム「人質司法からの脱却~その勾留,本当に必要ですか?」を開催し,改めて日本における人質司法の問題を見直すとともに,かかる状況を変えるために何が必要であるのかを市民とともに議論した。
そのような議論も踏まえ,当会としては,以下のような法制度の改正や運用の改善が早急に必要であると考える。
(2)必要な法制度の改正
ア 勾留質問時の弁護人立会権の保障
刑事訴訟法61条は,勾留の判断にあたって勾留質問することを裁判官に義務付けている。
そして,勾留判断の前提としてなされる以上,勾留質問においては,単に犯罪事実に関する意見,陳述を聞くだけではなく勾留理由(勾留要件)に関する意見,陳述も聞くことが当然の前提となっている(最高裁判所判例解説刑事篇昭和41年度193頁(最高裁判所昭和41年10月19日第三小法廷決定),注解刑事訴訟法上巻[全訂新版]214頁以下)。
したがって,本来勾留質問においては,勾留理由に関する陳述を聞くために,逃亡を疑うに足りる相当な理由の判断要素(家族,仕事,住居関係や任意聴取の求めが事前にあったか否か)や罪証隠滅を疑うに足りる相当な理由の判断要素(被害者,目撃者,共犯者との関係性や逮捕までの接触の有無)などについての具体的質問が必要なはずである。
ところが,現在の勾留質問では,もっぱら被疑事実そのものに関する弁解について質問されているだけで,逃亡や罪証隠滅のおそれに関する具体的な質問はほとんどなされておらず,勾留の判断のための手続として刑事訴訟法が予定している勾留質問手続が単なる形式的な手続となり,形骸化してしまっている。
かかる勾留質問手続の形骸化は,憲法において保障されている勾留理由開示手続が形骸化していることとも繋がっている。結局のところ,勾留要件に関して抽象的な理由でしか判断せず,具体的な事情に踏み込んで判断しようとしていないため,勾留質問において具体的な事情を質問せず,勾留理由開示手続において具体的な勾留理由が開示されないのである。
一方で,憲法34条が被疑者の勾留に関して,「要求があれば,その理由は,直ちに本人及びその弁護人の出席する公開の法廷で示されなければならない。」としていることからすれば,非公開の場とはいえ,勾留質問の段階で勾留の理由を説明することは憲法34条の趣旨に適う制度・運用であると言えるし,これに対する被疑者や弁護人側の意見をその場で聴取することができれば,より慎重に勾留の判断をすることができ,無用な被疑者の身体拘束を避けることができる。
この点,当番弁護士制度や被疑者国選弁護制度が普及するまでは,被疑者段階で弁護人が選任されること自体が少なく,まして勾留質問段階で弁護人が選任されていることは期待できない面があったが,被疑者国選弁護の対象が勾留された全事件に拡大され,当番弁護士を含めて逮捕段階から弁護人が関与するケースが大幅に増加した現在,勾留質問に弁護人が立ち会えるケースは大幅に増えている。
このような弁護人を巡る状況の変化に加え,勾留質問手続の形骸化を防ぎ,憲法34条の趣旨に沿って無用な被疑者の身体拘束を避けるためにも,勾留質問時の弁護人の立会権を保障するよう刑事訴訟法を改正すべきである。
イ 勾留に関する比例原則の明記
また,上述したように憲法上の保障や身体不拘束の原則に大きく反する形で異常に身体拘束率が高くなっている現状を改めるには,上記のような勾留質問等における手続面での法制度の改正に留まらず,勾留要件や勾留基準そのものについての法制度の改正が必要である。
そして,上述したとおり,本来刑事訴訟法は厳格な勾留要件を定めていたにも関わらず,これが解釈や運用の中で安易に勾留が認められてきたことからすれば,勾留要件そのものを見直すよりも勾留基準を明確にすることが実効的であると考えられる。
この点,1990年(平成2年)の「第8回犯罪防止及び犯罪者処遇に関する国際連合会議」での「未決拘禁に関する決議」では,「未決拘禁は,自由の剥奪が,容疑犯罪及び予想される刑罰に比して不均衡となる場合には,命じられないものとする。」として,未決拘禁において比例原則が適用されることを明らかにしている。
比例原則自体は,日本の行政法や刑事訴訟法でも認められている基準であり,憲法において勾留に「正当な理由」が要求されていることからしても,日本における勾留の判断においても比例原則が適用されるはずである。
しかし,比例原則の観点からすれば原則として勾留が許されないはずである罰金刑や執行猶予刑が見込まれるような被疑者や被告人について勾留が認められるケースが多いのが実情であり,現在の裁判実務では勾留判断において比例原則を極めて軽視した判断がなされていると言わざるを得ない。
そこで,勾留の判断において比例原則が適用されることを明記する形で刑事訴訟法を改正すべきである。
(3)必要な運用の改善
刑事身体拘束に関して抜本的に改革するには,上記2点についての法制度の改革が必要であると考えるが,法制度の改革を待たずとも,現行の法制度においても以下のような運用改善は可能であり,速やかに運用を変更すべきである。
ア 勾留質問の実質化
上述したとおり,本来勾留質問においては,勾留理由に関する陳述を聞くために,逃亡を疑うに足りる相当な理由の判断要素(家族,仕事,住居関係や任意聴取の求めが事前にあったか否か)や罪証隠滅を疑うに足りる相当な理由の判断要素(被害者,目撃者,共犯者との関係性や逮捕までの接触の有無)などについての具体的質問が必要なはずである。
ところが,現在の勾留質問では,もっぱら被疑事実そのものに関する弁解について質問されているだけで,逃亡や罪証隠滅のおそれに関する質問はほとんどなされておらず,勾留質問の手続が形骸化している。
勾留理由に関する具体的な質問なしに,勾留理由について適切な判断をすることができるはずがないのであり,本来の憲法及び刑事訴訟法の趣旨に則って,勾留質問において勾留理由に関する具体的質問をするなどして実質的な勾留質問をするよう裁判官における運用が改善されるべきである。
イ 勾留質問への弁護人立会いの許可
勾留質問への弁護人立会権の保障については,上述したとおり刑訴法の改正によってなされるべきであるが,現行の刑訴法においても弁護人の勾留質問への立会いを禁止する規定はなく,裁判官において弁護人の勾留質問への立会いを認めても何ら法に反するものではない。
実際に,過去には勾留質問への弁護人の立ち会いを認めた例もある。
一方で,弁護人は,勾留質問の時点ですでに被疑者のみならず家族や関係者から一定の事情を聞いており,勾留要件に関する事情も把握しており,勾留質問への弁護人の立会いが認められれば,裁判官による勾留質問に付随して勾留要件に関する事情を補足したり,勾留理由開示や準抗告を待たずに勾留理由に関する弁護人の意見を述べたりすることができ,裁判官はそれらの補足事情や弁護人意見も踏まえて,より適正に勾留の判断を行うことが可能となる。
したがって,法制度の改革を待たずに,勾留質問への弁護人立会いを許可するよう裁判官における運用が改善されるべきである。
ウ 勾留理由開示の実質化
上述したとおり,勾留理由の開示についても,刑訴法が定める勾留理由開示の手続をとっても,捜査上の秘密を理由に実質的な勾留理由が説明されることはなく,形骸化してしまっており,憲法上の保障がないがしろにされているとしかいいようのない状態となっている。
かかる運用が刑訴法に則ったものとは言い難いし,勾留質問が実質化されれば勾留要件に関する具体的事情が明らかとなった上で勾留理由を具体的・実質的に判断することになるはずであり,そうすれば勾留理由開示手続においても具体的・実質的な勾留理由を開示することも可能なはずである。
したがって,勾留質問の実質化とあわせて,勾留理由開示についても具体的な勾留理由を説明・回答することにより勾留理由開示手続を実質化するよう裁判官における運用が改善されるべきである。
エ 身体不拘束の原則・比例原則を踏まえた勾留に関する厳格な判断
上述したように,現在の刑事身体拘束を巡る状況としては,身体不拘束の原則,比例原則に反する形で身体拘束率が高くなってしまっているが,現行の刑事訴訟法においても身体不拘束の原則や比例原則を適用して勾留の判断をすることは可能であるし,むしろそれが求められている。
また,本来刑事訴訟法が勾留要件として要求している,「罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由」について,これを単に「証拠隠滅のおそれ(=可能性)」と緩めて解釈するのではなく,これを厳格に判断することで,身体不拘束の原則や比例原則に適う形での勾留判断は可能なはずである。
したがって,比例原則等が刑訴法に明記されることを待たずして,身体不拘束の原則や比例原則を踏まえて,勾留理由について厳格に判断するよう裁判官における運用が改善されるべきである。
5 結語
そこで,当会としては,上述したような法制度の改正を政府及び国会に求めるとともに,法制度の改正を待たずに上述したような運用改善を裁判所に求める。
また,当会としては,シンポジウム等を通じて法制度の改革や運用改善の必要性を広く市民と共有していくとともに,個別の弁護活動における勾留質問の実質化や勾留質問への弁護人の立会い,準抗告等の勾留に対する不服申立を積極的に行っていく運動や取り組みを通じて,法改正や運用改善を目指していく所存である。
以上
精神保健福祉法の退院請求等手続への国選代理人制度の導入と、日本の精神科医療の脱施設化と地域移行の早期実現を求める決議
決議
精神保健福祉法の退院請求等手続への国選代理人制度の導入と、日本の精神科医療の脱施設化と地域移行の早期実現を求める決議
【決議の趣旨】
1 精神保健福祉法の退院請求等手続に国選代理人制度を導入することを求める。
2 日本の精神科医療における脱施設化と地域移行が世界の動向から完全に取り残されている状況を確認し、脱施設化と地域移行を早期に実現する具体的政策の立案・実施を求める。
【決議の理由】
第1 決議の趣旨1について
1 精神医療審査会制度とこれに対する退院請求及び処遇改善請求手続(以下「退院請求等手続」と言う。)は、1984年に発覚した宇都宮病院事件をはじめとする精神科病院における入院者への虐待等深刻な人権侵害状況に対し、国内外からの厳しい批判を受け、1987年の精神衛生法から精神保健法への改正において導入されたものである。
2 国際人権B規約9条4項は「逮捕又は抑留によって自由を奪われた者は、裁判所(Court)がその抑留が合法的であるかどうかを遅滞なく決定すること及びその抑留が合法的でない場合にはその釈放を命ずることができるように、裁判所において手続をとる権利を有する。」と定める。わが国政府見解では、Courtとは専門的なトライビューナル(裁決機関)であってもよいとの国際的解釈の下、精神医療審査会は同規約上のCourtであるとされている。
したがって精神医療審査会にはCourtとしての実体を担保する手続保障の必要があるが、退院請求等手続が、精神科病院入院者の人身の自由や処遇に関する基本的人権の制約に対する不服申立手続であることにかんがみれば、退院請求等手続における代理人選任権の保障は最も重要な手続保障というべきである。1991年12月に国連総会において決議された「精神疾患を有する者の保護及びメンタルヘルスケアの改善のための諸原則」の原則18の1においても「患者は不服申立て又は訴えにおける代理を含む事項について、患者を代理する弁護人を選任し、指名する権利を有する。もし患者がこのようなサービスを得られない場合には、患者がそれを支弁する能力がない範囲において、無償で弁護人を利用することができる。」と定められている。先進諸国においては、こうした権利が当然のこととして付与されているだけでなく、その実効性を担保するために、例えば病院に患者の権利擁護情報コーナーが設置され人権団体の職員等が常駐して相談に応じたり、弁護士を紹介して手厚い権利擁護が実践されているところである。
3 当会は、基本的人権の擁護と社会正義の実現を使命とする弁護士自らが、前記国際人権規約及び国連原則の理念を体現すべく、全国にさきがけ、1993年に、精神科病院入院者等からの依頼により病院に赴き無料で法律相談を行い、退院請求等手続の代理人となる「精神保健当番弁護士制度」を発足させ、現在まで活発な活動を展開しているところである(2019年3月時点における登録弁護士数は405名、2018年度における出動件数は375件にのぼる。)。
当会の活動は、費用支援の点では2002年10月開始の日弁連の法テラス委託援助事業に引き継がれて、全国的な制度に発展した。また九弁連においても2012年度に「精神保健に関する連絡協議会」が発足し、現在では8単位会すべてにおいて精神保健当番弁護士制度が立ち上がり、各単位会において活発な活動が展開されている(2019年3月時点における登録弁護士数は当会を含め653名、2018年度における出動件数は当会を含め633件にのぼる。)。
4 全国的にみると、法テラス委託援助事業の利用件数は2018年度で1098件に留まっているものの(ただし大阪、愛知県、岡山県等では、法テラスの本来事業である民事法律扶助の出張相談制度を利用したり、単位会独自の制度設計を行っており、実際の出動件数はさらに多い。)、本年11月鹿児島市開催を目指して準備が進められてきた第63回日弁連人権擁護大会第1分科会において「精神障害のある人の尊厳の確立をめざして~地域生活の実現と弁護士の役割」がテーマとなるなど、今後急速に精神保健当番弁護士制度の全国展開が期待できる(なお、同大会は2021年10月岡山市開催に変更されている)。
5 さきがけたる当会は、その全国展開への後押しを全力で行うとともに、本来あるべき国選代理人制度の導入を強く求めるものである。
第2 決議の趣旨2について
1 精神保健当番弁護士活動の限界と我が国の精神科医療の問題
上記のとおり、当会は、精神保健当番弁護士制度の活動を展開し、その実践を通じて、多くの精神障害者の退院や処遇改善を実現し、その人権保障に寄与してきた。
しかし他方において、精神障害があるといっても私たちと普通に意思疎通できる入院者がどうして退院を認められないのだろうか、妄想があっても通常の社会生活は送れるのではないだろうかと感じられるケースも少なくなかった。また、病状のためでなく、地域に退院する受け皿がないためにやむなく入院を継続する、いわゆる社会的入院のケースもあった。こうしたケースを通して私たちは、我が国の精神科医療そのものの問題にも直面した。
こうした問題意識から、当会では過去に以下のような、精神保健当番弁護士活動に限らず精神科医療の問題を広くテーマに取り上げて公開シンポジウムを開催してきた。
2001年1月 医療保護入院の要件を考える
2003年3月 心神喪失者等観察法案と精神障害者の人権
2007年3月 精神障害者の社会復帰の現状と展望
2009年2月 精神障害者の社会復帰の課題と展望
2010年10月 精神科医療を動かすもの・・社会的入院の解消に何が必要か
2015年2月 改正法における早期退院と弁護士の役割
2018年2月 オープンダイアローグが日本の精神科医療にもたらすもの
こうして、精神保健当番弁護士制度は、たとえこれを国選代理人制度に高めたとしても、あくまでも個別の入院者の人権保障制度にとどまり、我が国の精神科医療における人権保障上の諸問題の根本的な解決にはならないという限界も意識せざるを得なかった。精神科医療の人権上の諸問題の解決には、国が必要な政策を立案し、これを実行していくことが必要不可欠である。精神疾患は、近年、その増加が顕著であり、2007年の総患者数は419万人に及び、生活習慣病と同じく、誰もがかかりうる疾患である。精神科医療の人権上の諸問題は、精神障害者への偏見と差別も加わって国民の精神科医療への受診を躊躇させる要因ともなっており、国民の健康増進の観点からも早急な問題の改善・解消が必要である。
2 我が国の精神科医療の問題点
そこで、我が国の精神科医療の現状を、様々なデータによって先進諸国と比較し、その問題点を明らかにする。
まず、精神病床数が突出して多く、世界の精神病床の約4分の1が日本にあると言われ、2016年の人口10万人当たりの精神病床は263床であり、OECD加盟国の平均である69床の4倍以上である。また精神病床の平均在院日数も突出して長く、2017年の267.7日という数字はOECD加盟国の平均36.7日の約7倍である。加えて、日本では在院患者数に占める強制入院の割合が2018年で約46.8%と、EU諸国の10%台に比べ著しく高い。任意入院であるにもかかわらず閉鎖処遇が多用されている。さらに、精神病床院での隔離、身体拘束が多用され、かつ長期にわたっており、しかもその件数が増加している点が報道等により社会問題化している。
日本の精神科医療の最も大きな問題は、精神障害者に対する隔離政策ともいえる病院収容主義・入院医療中心の精神科医療からの脱却と地域生活中心への移行(以下、「脱施設化と地域移行」と言う。)が遅々として進んでいないことにある。
3 先進諸国の精神保健の歴史と動向(特にリカバリーモデル)
欧米の先進諸国においても、かつては精神障害者を病院に隔離する入院医療中心の精神科医療の時代があった。しかし、劣悪な施設環境の中で個人の尊厳が無視された知的障害者や精神障害者の悲惨な状況に対する批判や反省が高まった。
こうして1960年代ころから、向精神薬の発達とも相俟って、精神疾患だけを理由とする入院隔離に対し、精神障害者の自由権をできるだけ保障する立場から脱施設化と精神科医療改革が推進されていった。その結果、一部の国では、地域の受け皿や支援体制が十分整備されていなかったため、入退院の回転ドア現象を生むとともに、医療保護の必要な多くの精神障害者がその機会を奪われ、ホームレス化したり、刑務所に収容される弊害を生じたこともあった。
しかし、1980年代以降、医師、看護師、作業療法士、精神保健福祉らの多職種チームが重症の精神障害者の地域生活を包括的に支援するプログラム(ACT:包括的地域生活支援サービス)や、入院・隔離し投薬によって症状を抑え込むという方法ではなく、精神障害者との対話ないし対話の場を徹底して継続していき、薬も最小限にとどめる治療技法(オープンダイアローグ:開かれた対話)等が開発・研究され、実践され、欧米における精神科医療福祉の標準となっていった。これにより、上記弊害を克服しつつ、脱施設化と地域移行がさらに進み、コミュニティ中心の精神保健サービスが発展していった。
特に指摘すべきは、こうした先進諸国においては、精神科医療のあり方についても、薬物医療・入院治療・診断名中心で精神症状の寛解・治癒を主目的とする医療(医学モデル・リハビリテーションモデル)から、当事者が障害を抱えながら生活する地域において本人の価値実現を支援することに重点を置くリカバリーの考え方(リカバリーモデル)へのパラダイム・シフトが進展していったことである。そこでは、治療の場は病院ではなく地域であり、地域における本人(及びその家族)のニーズを中心にして多職種のスタッフがその実現に向けて支援することが重視されている。医師の病気に対する専門的治療の優先順位は必ずしも高くない。
2010年代以降、このようなリカバリー運動が精神障害者支援の世界的潮流となっている。私たちは、このような精神障害者支援の在り方こそが、障害者権利条約の理念にも適った精神科医療のあるべき姿であると確信する。
4 世界に逆行した我が国の精神保健政策
ところが、我が国においては、世界で精神病床の削減が重要な政策課題として取り組まれ始めた1960年代から、これに逆行する政策が進められた。即ち、戦後間もない時期の民間精神科病院に対する国庫補助制度、及び患者当たりの医師や看護師の人員配置を少なくてよいとする精神科特例の結果、民間精神科病院の設立が促進され、過度の入院中心主義がもたらされた。人口1万人当たりの精神病床数は実に1994年まで増加し、そのピークは28床に達し、その後も病床数は高止まりの状態にあった。
2004年、ようやく厚労省が「精神保健医療福祉の改革ビジョン」(以下「改革ビジョン」と言う。)を公表し、国として初めて「入院医療中心から地域生活中心へ」という政策の転換を提言した。そして、そのために国民意識の変革や立ち遅れた精神保健医療福祉体系の再編と基盤強化を10年で進めるとした。特に「受入条件が整えば退院可能な者(約7万人)」については、精神病床の機能分化・地域生活支援体制の強化などにより、10年後の解消を図ることを目標として掲げた。
しかし、改革ビジョンの公表から10年間に、精神病床は、2004年の35万4937床から2014年の33万0694床に減少したにとどまる。また、「受入条件が整えば退院可能な者」は、なお5.3万人いるとされ、達成率は約24%にとどまった。改革ビジョンが掲げた目標は失敗したと言わざるを得ない。
そして、2017年のデータにおいても、精神病床は33万1700床あり、「受入条件が整えば退院可能な者」は5.0万人と報告されている。
5 2004年の「改革ビジョン」後の政策の迷走
その後、我が国は、精神保健福祉法の2013年改正に基づき、翌14年に厚労大臣による「良質かつ適切な精神障害者に対する医療の提供を確保するための指針」(以下「大臣指針」と言う。)を定めた。そこでは、社会的入院や長期入院者のための退院支援や地域生活における医療、生活面の支援体制の整備など、法改正に先立って設置された障がい者制度改革推進会議でも提言された精神保健福祉改革の改善メニューが網羅されている。
しかし、大臣指針には、絶対的に不足している社会内居住環境の整備など、改善メニューを実現するための具体的な作業工程やその裏付けとなる予算措置を伴っていないという致命的な問題があった。また、病床削減については、「機能分化は段階的に行い、・・・人材及び財源を効率的に分配するとともに、・・・地域移行を更に進める。その結果として、精神病床は減少する。」と記載するのみで、具体的な削減計画を立案することなく、地域移行の進展による結果任せとするに等しい内容であった。
のみならず、大臣指針に先行して2012年の機能分化に関する検討会の報告書以降、「重度かつ慢性」という概念を導入し、長期入院がやむを得ない患者がいることを容認するようになった。先進諸国がACTやオープンダイアローグ等の開発・研究と実践によって脱施設化を図り病床削減を実現してきたことと比べると、一部の長期入院を温存する聖域作りと批判されて然るべきである。
このように、大臣指針やその前後の施策は、改革ビジョンが10年で解消するとした目標を実現できなかった原因を検証することなく、病床削減について地域移行の進展による自然減少という結果任せにするものであり、改革ビジョンにおいて示された精神病床の削減と地域移行に向けた積極的な姿勢が後退したと評しても過言ではなかった。
6 近年の精神保健福祉行政の問題点
その後、我が国は、2018年からスタートした第7次医療計画と第5期障害福祉計画において、「精神障害にも対応した地域包括ケアシステムの構築」という掛け声の下に、全国の自治体を巻き込んだ取り組みを進めようとしている。そこでは、入院需要を3か月未満の入院を要する急性期、1年未満の入院を要する回復期、1年以上の入院を要する慢性期(長期)に分けた上で、それぞれの入院需要を予想し、これを計画目標に設定している。
しかし、以下述べるとおり、この計画は、精神病床の削減と地域移行の観点から重大な問題を内包している。
まず第一に、目標とする入院需要が、計画最終年度である2025年度末に20.5~22.4万床と予測されている。その人口当たり病床数はなおOECD諸国の平均の優に2倍以上の水準であり、政策目標として低すぎる。その要因の一つは、長期入院者の需要予測において、「重度かつ慢性」とされる入院者については、統合失調症の新治療薬の普及や認知症施策の推進で若干の入院需要の減少を目指すだけで、基本的に退院促進の対象から外されていることにある。「重度かつ慢性」の概念が、一部の長期入院を温存する聖域作りと批判されるべき点については上記のとおりである。また、認知症を重度かつ慢性とされる入院者に含め、その長期入院者が多数在院する認知症治療病棟という名称の精神病床を温存している点も、いわゆる治療反応性がない認知症という疾患を強制入院の対象としてよいのかという根本的な問題が看過されている。超高齢化社会を迎え、すべての人の身近な問題となった認知症を精神病床で処遇する国は日本以外に例を聞かない。
また、急性期と回復期の入院需要について、現状を是認し、逆に若干の増加が予測されていることがもう一つの要因である。これは、日本の年間の新規強制入院件数が欧米諸国に比べて異常に多いという問題を看過するものである。OECD諸国の平均入院期間が10日から1か月程度であること等に照らせば、そもそも入院3か月や1年という長い入院期間を基準としていることも問題である。急性期だからという理由でとりあえず入院させ、一度入院させると2、3か月は入院を継続する現状の運用を是正するためには、入院治療をできる限り回避すべく先進諸国が取り組んできた成果に倣った政策を立案・遂行する必要があるのに、計画にはそのような観点が完全に欠落している。
第二に、目標達成に必要な地域移行を促す基盤整備としての「精神障害にも対応した地域包括ケアシステムの構築」の取組み自体にも、大きな問題がある。地域移行の責任は自治体と支援事業者にあるとされている。しかし、国の提言である改革ビジョンによっても病床削減がほとんど進まなかったのに、自治体と支援事業者の努力で実現を期待するのは困難である。過剰な精神病床を擁する精神科病院からの個々の入院者の退院は、本来、行政が、リカバリーモデルへのパラダイム・シフトに基づいて、入院医療に配分されてきた予算と人的資源を地域医療福祉に移行させる総合的な政策を計画・立案し、その一環として策定した病床削減計画に基づいて実施されるべきである。そのような計画を策定せず、また、計画に対する病院の協力義務がなければ、民間病院は病院経営のために、病床稼働率を念頭に置いて入退院をコントロールする範囲でしか退院支援に協力しないであろう。また、一定数の入院者を退院させたとしても、病院は、空いた病床に別の新規患者を入院させるであろうから、病床削減に結びつかないのである。
7 結語
以上のとおり、我が国の精神科医療は、脱施設化と地域移行の世界的動向から完全に取り残されている。それにもかかわらず、我が国の近年の精神保健福祉行政は、改革ビジョン以降、その精神が後退したと思われるほどに迷走し、脱施設化と地域移行を実現するにはあまりに実効性の乏しい内容にとどまっている。
上記の第63回日弁連人権擁護大会第1分科会においては、「精神障害のある人の尊厳の確立をめざして~地域生活の実現と弁護士の役割」というテーマの下、精神障害者の人権保障上の諸問題について、より広汎かつ根本的に論じ、その改善・解消に向けた方策を提言するべく、来年岡山市開催を目指し引き続き準備を進めている。
そこで、当会としても、我が国の精神科医療における最大の問題点として、脱施設化と地域移行が世界の動向から完全に取り残されている状況を確認するとともに、脱施設化と地域移行を早急に実現する具体的政策の立案・実施を求めるものである。
2020年(令和2年)9月18日
福岡県弁護士会