福岡県弁護士会 宣言・決議・声明・計画
2011年6月27日
会長日記
会長日記
平成23年度福岡県弁護士会会長日記会 長吉 村 敏 幸(27期)
1、5月になると、風が新緑の薫りを運んできます。
およそ20年程前であったか、6月上旬ごろ、筑後川下流の土堤下(いわゆる後背湿地という場所です)の家で友人の母親の「えつ」の手料理フルコースをご馳走になったことがありました。淡水と海水のまじりあう付近でとれるカタクチイワシ科の魚で、硬い小骨が多いために、小さくたたいて食べやすくするとか、弱い魚のためすぐ死んでしまい、新鮮さを保って刺身で食べるためには予め漁師に注文しておかなければ入手できない珍品、などとの話を聞きながら、筑後川の土堤を吹き渡ってくる風にえつと城島のお酒がうまく合い、ゆったりと時間を過ごしたことを思い出しました。 ところが、会長になった今、一日中部屋に閉じこもり、会議室で短い休憩時間を取って会席弁当を食べ、またその後会議に没頭するという日常が多くなりました。
2、日弁連理事会についてご紹介します。
1)日弁理事会は月1回開催木曜日 午前10時15分から10時45分まで常務理事会午前10時45分から17時30分ごろまで理事会午後7時から九弁連理事者懇談会金曜日 午前10時から17時30分ごろまで理事会土曜日 午前10時から15時30分ごろまで法曹人口政策会議全体会議(土曜日は偶数月のみ)のスケジュールです。全体で10cmくらいの厚さの資料が配布され、日弁連各委員会から種々の声明、決議文、意見書が提案され、質疑・応答・討論・議決されていきます。
2)5月理事会でも議題はてんこ盛りでした。私の印象に残った議題のうち、次をご紹介します。足利事件に関しての日弁連(公式)調査報告書です。これは、一審弁護人批判および一、二審裁判批判が厳しいです。この報告書をこのまま承認できるか否か、あらかじめ読了し、関係委員等に意見をお聞きして理事会に臨みます。この報告書は追而会員に配布されることになると思いますので、ぜひ皆様も読んでいただきたいと思います。弁護士が陥りやすい誤りと注意すべき点がきちんと指摘してあります。
3)菅家さんは、事件(1990年5月12日)の約1年半後(1991年12月1日)早朝に任意同行を受け、深夜に自白、翌日未明に逮捕。その3日後にF弁護人が弁護人選任届を提出。その6日後に接見。さらにその6日後に再接見。菅家さんは第1回公判前に足利事件以前に発生した別件2件の幼児誘拐殺人事件も自白。 1991年 12月12日 菅家さん足利事件で起訴 12月27日 G弁護士選任 1992年 1月15日 別件のうち1件は処分保留保釈 1月27日 菅家さんはこのころから断続的に「逮捕に納得できない」旨家族あて手紙を書く「自分は無実」 2月13日 足利事件で第1回公判「犯行を認める」 12月22日 第6回公判。家族への手紙が公開されて、菅家さんが犯行を否認(この間、F弁護人が否認撤回(自白)を勧める...後述のとおり) 1993年 1月28日 第7回公判。再び犯行を認める 2月 栃木弁護士会がF弁護人に支援を申し入れるもF氏拒絶 2月26日 別件2件とも不起訴処分 3月25日 第9回公判。結審 5月31日 菅家さんは弁護人あて無実の手紙を書く 6月14日 F弁護人弁論再開申立 6月24日 第10回公判。被告人質問で再度否認 7月7日 無期懲役判決 9月6日 L弁護人、M弁護人を選任 1994年 4月28日 控訴審第1回公判 ~ (控訴審は佐藤博史、神山哲史、岡慎一、上本忠雄ら4人の弁護人) 1996年 5月9日 第18回公判。控訴棄却(判例時報1585号136頁) 2000年 7月17日 上告棄却 2002年 12月20日 日弁連再審支援決定 12月25日 再審請求 2008年 2月13日 宇都宮地裁再審棄却 2月18日 即時抗告 12月24日 東京高裁DNA再鑑定採用 2009年 6月23日 東京高裁再審開始決定 2010年 3月26日 第7回公判。無罪判決以上が大まかな経過です。
4)日弁の調査報告書は、一審の第6回公判時点で菅家さんが犯行を否認した後の弁護人の対応を特に問題としました。 同書27頁・「F弁護人は、公判終了後、新聞記者に対し『信頼関係が崩された気分だ。24日に菅家被告と面会し、もう一度確かめる。それでも起訴事実を否認するなら、辞任もあり得る』(1992年(平成4年)12月23日付朝日新聞栃木版)などと述べた。そして、F弁護人は、同月24日、菅家さんと面会した。菅家さんは、同月25日に、裁判所あてに、犯行を再度認める内容の上申書を提出した。このころ、第6回公判で菅家さんが否認したという報道などを受けて、栃木県弁護士会がF弁護人に弁護活動支援の申入れを行なったが、F弁護人は自白事件であるから支援は不要であると断った」 第7回公判「1993年(平成5年)1月28日の第7回公判で、菅家さんが家族にあてた14通の手紙が証拠物として取り調べられた。しかし、被告人質問において、裁判所、検察官および弁護人から、手紙についての質問がなされた際、菅家さんは上申書に記載された内容のとおり、家族に心配をかけたくなかったので無実と書いたのだと述べた。菅家さんは再び、本件犯行を認める供述に転じた」 F弁護人は、なぜこんなことをしたのか。 私は、菅家さんが逮捕された当日の新聞報道を念のためにインターネットで見てみました。 報道内容は、*幼女誘拐殺人事件の犯人が逮捕された、*DNA鑑定は一千人に1人の確率でほぼ同一人物、*1年半に及ぶ地道な捜査、*14時間の取調べで自供、*自宅からは幼児のポルノ発見押収、という見出しです。 菅家さんの話によると、警察は自宅にやってくるなり肘鉄やひっくり返すなどの暴行を加えたようですが、最初の高裁判決は、警察の暴行の点は認定していません(判例時報1585号150頁)。 F弁護人は最初のDNA鑑定と自白の重みには抗しきれなかったのでしょうか。 また、さらには新聞報道やTVワイドショー等からくる連続幼児誘拐殺人事件の重圧。1件だけなら死刑回避との弁護方針なのか。それでも、第6回公判前に家族にあてた無実との真摯な訴えの手紙をなぜきちんと受け止めなかったのか。 疑問は残るものの、当時の状況におかれた弁護人として、マスコミなど大勢の敵を前にして、唯一の味方として必死に戦う弁護人魂こそが弁護士としての命であることを改めて自覚させられる調査報告書です。 この報告書は、裁判所批判もきちんとしています。 しかし、マスコミ批判はありませんでした(なお「自宅から幼児ポルノ等を押収」との報道も事実無根であったことが後に判明しました)。
5) 私は、当会刑事弁護委員会の船木、林、甲木委員らのご意見を受け、一審弁護人がなぜこのような対応を取ったのかについての背景事情をいくらかでも入れないと、弁護人の対応としては理解しがたい点がある旨、意見を述べたところ、その点は修正されることになりました。 少々くどくなりましたが、日弁連理事会報告の一コマでした。