福岡県弁護士会 裁判員制度blog
2011年6月 1日
最高裁は変わったのか?
浦部法穂・神戸大学名誉教授が表記のタイトルで『法と民主主義』458号に講演録を載せています。裁判員裁判をテーマとしたものではありませんが、大変興味深い分析ですので、ここに紹介します。(な)
「総じて近年の最高裁は、イデオロギー的対立にコミットしない範囲では、日本国民の権利保障という点に関する限りは、純粋法律論的な枠組みを貫こうという姿勢が見えるのではないかと思われます。
従来の最高裁の判断を見てみると、法律論的な枠組みよりも、政治的な傾向とか政権の意向に引きずられているような傾向がいくつかの事例で見られます。
その典型は砂川事件です。跳躍上告を受けた最高裁が刑事訴訟法の跳躍上告優先条項を最大限に利用して、1960年の安保改定に入る前、59年12月に判決を出した。
60年の改定調印まで一審の違憲判決をずるずる延ばしておくわけにはいかない。だから一審判決からわずか9ヵ月で最高裁が一審判決を破棄する判決を出しているというように、政治的な動向を慮った判決だったわけです。
この10年間の判決の傾向を見てみると、そういうことから離れて、完全にではなく、大嘗祭や靖国については絶対に違憲と言わないとか、安保・自衛隊関係では間違っても違憲、違法とは言わないといったところはありますが、なるべく純粋法律論的な枠組みを貫こうという姿勢が見えなくなるのではないかという気がします。つまり、政治の動きとか政権の意向、あるいは体制、エスタブリッシュメントの意向を慮って判断するのではなく、純粋法律論的な枠組みで考えようという姿勢はあるのではないか。それが下級審よりもむしろ憲法や人権に好意的な判断を導き出しているのではないかと思うのです。
しかし、そうであっても、ひとたびイデオロギー的対立に関わる事件になると、イデオロギー的主張、つまり左翼的主張に有利な判断はしないという姿勢は、従来どおり堅固に貫かれていると言えます。それから外国人に対して冷淡という点も変わっていません。
そこで、『最高裁は変わったか』という表題に対する答えですが、変わった部分あるいは変わりつつある部分は確かにあると思います。つまり、イデオロギー的な臭いのない事例である限りは、法律論的な論理の積み重ねが最高裁に受け入れられる可能性はかなりある。それは先ほども言ったような意味での政治的な判断を極力避けようという、最高裁あるいは裁判官の主観的意図の表れではないかと思います。
ただ、そこで言う政治的判断を避けようという主観的意図は、左翼的主張こそが政治的主張だという、日本社会に根強い通俗的な見方が前提になっています。最高裁の裁判官にも、そういう通俗的な見方が染み付いているという気がします。左翼的臭いを嗅ぎ取ると、これは政治的だとして、いわば生理的な拒否反応を起こすことになるというのがいまの最高裁の裁判官の感覚ではないかと思います。
それでも、従来と変わった部分はあると見ていいという気がしています」