福岡県弁護士会 裁判員制度blog
2010年6月17日
アメリカの刑事弁護の実際
アメリカのロースクールで刑事訴訟法を教えていて、法廷弁護士としても活躍しているピーター・アーリンダー氏が日本の弁護士に対して、アメリカの陪審裁判との日本の裁判員裁判の異同について昨年9月と12月に語った記録(抄)を紹介します。(な)
日弁連でトレーニングを担当しているアメリカの弁護士は、日本とアメリカの文化的基盤の違い、新しい制度の意味などをまったく理解していないのではないか。しかし、その理解なしにはトレーニングはできない。
同じ言葉でも、日米ではまったく意味が違う。たとえば、「裁判」という言葉は「トライアル」と訳される。日本で「裁判」というと、何度か行われる審理の集合体だと考えられている。しかし、アメリカの理解は違う。アメリカでトライアルとは、プリトライアル、トライアル、トライアル後の手続、その総体をさす。
日本では「陪審」とは市民が裁判官といっしょに司法に参加すること。アメリカにとっては、それは「陪審」という言葉とは理解しない。
大事なことは、日本の新しい制度の合議体が、普通の市民と裁判官の混合体となっていること。
アメリカの特徴は当事者主義であり、当事者主義の構造のなかで陪審制が導入されている。裁判官はレフェリーであって、陪審とは独立している。両チームがたたかっているときに、積極的な役割をはたすのではなく、両チームがルールどおりにやっているか否かを監視するのが役割。陪審制度では12人の人たちが判断するのであって、彼らが主役。裁判官はお互いのチームが反則をおかしているかどうかを判定する。陪審はゲームに参加するのではなく、サッカーボールがネットに入ったか否かを判断する。裁判が終われば別室で評議するが、評議は誰にも分からない。陪審の評議には誰も何も言えない。当事者主義の中で、陪審は裁判官、検察官、弁護人から独立して判定するところに真髄がある。
裁判官はレフェリーの役割である。情報を開示しあうのは弁護側と検察側である。弁護側にどのような証人、どのような証拠がでるのかを知らせなければならない。それを聞いて、裁判官がどのくらいかかるのかを決めることになる。決めるのはあくまで検察官だ。検察側の開示、ディスカバリーを経ないまま行われるのであれば、信頼できる裁判ではない。
陪審裁判は予測不可能であることが力になる、全関与者にとってそうであるからである。陪審裁判の予測不可能性が裁判官や検察官にとって圧力になる。アメリカでも陪審員の都合を尊重して期間を見積もることはある。しかし、全員が予測不可能であることを理解している。3日と思っていたのに7日かかることもある。一ヶ月で終わると思っていたところ、そうならないこともある。ここが日本の裁判員裁判と非常に違う制度である。
罪状認否から審理開始までの期間は、短いとき(簡単な事件)は1ヶ月程度。しかし、複雑なケースのときには1年であり、だいたい6ヶ月ほどである。
この手続全体のなかで、検察官側は弁護側に常に情報を与えなければならないが、弁護側から情報を与える義務はない。弁護側の力量によって有罪を認めるか無罪の主張にするかがきまってくる。つまり、理論としては、検察官が有罪無罪の立証するに必要な証拠・情報をすべてあたえ、そして弁護側が無罪を争えばいい。その結果が有罪を認める確率が87%という数字に反映されている。
理論的には取調べの可視化の問題とおとり捜査の関連性はまったくない。おとり捜査は非常に多く行われている。とくに、テロリスト、薬物、ギャングの事件では多く行われている。盗聴は9.11事件後に多く行われている。それは犯罪捜査のためではなく、外国の諜報摘発の目的で行われることが多い。同房者のスパイは非常によくあることである。
取調の可視化は連邦では認められておらず、州としては19州認められている。ミネソタでは可視化がなされているが、裁判官も検察官も良い方向で評価している。なぜなら、可視化を取り入れることにより、制度的に安定的になるし、判断も容易になるからである。
アメリカの刑事司法のシステムだと、司法取引がなければ、このシステム自体が機能しない。なぜならば、70から80%の事件がギルティー・プリーという段階で終わってしまう。多くの弁護人がトライアル(審理)を望んだら、システム自体が崩壊してしまう。
どんな法的な制度であっても、客観的な真実を発見するものではないということを知る必要がある。すべての法制度は過去の事実を扱うしかない。過去を完全に再構築することは不可能である。これはすべての法制度に埋め込まれたものであり、やむを得ない。どの程度の不正確の情報であれば、社会が受け入れられるのかということだと思う。アメリカでは多くの人は、真実の発見についてあきらめがある。真実の発見が正義なのか、それとも、あくまで正しい手続が行われたことが正義なのか。アメリカ人の多くは後者を取っている。
2010年6月30日
前最高裁長官の語る裁判員裁判の現状と課題
前最高裁長官の語る裁判員裁判の現状と課題
本年(2010年)3月26日、最高裁長官だった島田仁郎氏が東大法曹会で「裁判員裁判にご理解とご協力を」と題して講話しています。裁判所内部の内幕話として興味深い内容ですので、その一部を紹介します。関心を持たれた方はぜひ全文をお読みください。会報10号に掲載されています。(な)
裁判所内は反対が強かった
当時の裁判所部内では私を含めて多くの裁判官、とくに刑事部の裁判官は陪審制度の導入については反対していた。誤判防止のために陪審制度を導入すべきだという人も多く、これに対しては、これまで裁判の適正に努力を傾注してきた裁判官から感情的な反発もあったことも事実。しかし、冷静に考えてみても、陪審制度によって、果たして刑事裁判の内容がこれまで以上により適正なものになるかどうかは疑問であるというのが、当時の部内における大方の意見であった。
積極の方向に変わっていった
その後、最高裁としては、欧米諸国に派遣して陪審や参審の研究をさせた者たちが続々帰ってきて報告する。そういう報告なども踏まえ、さらにいろいろと検討を進めた結果、結局、国民の司法参加自体にはメリットはあるし、時代の要請にもかなう。裁判官も一緒に裁判に臨む参審制度であれば、客観的な真実発見をあくまで求める我が国の国民性にも反しないし、参加する市民の負担の程度も陪審に比べれば比較的少ないということで、むしろ積極の方向で対応していくべきではないか、と変わってきた。
国民の司法参加の意義
2つある。第1には、一般の国民が裁判官と一緒に裁判をすることで、裁判に国民の健全な社会常識が反映されること。第2には、国民が裁判のことをよく知るようになって、その結果、国民の裁判に対する信頼がより強固なものになるということ。これまで非常識といわれても仕方がない判決や言動が、まったく見られなかったわけではない。裁判官、とくに刑事裁判を長くやってきた者は、犯罪を憎み、世の治安を守るという気持ちにおいて、これは検察、警察とその気持ちを共にする。どうしても心情的には、検察や警察の正義を守り、世の治安を守ろうという心情に傾きがちである。
したがって、嘘の自白を強要したり、鑑定資料について、いやしくもおかしな捜査をするなどということは、よもやないだろうと思いがちである。裁判員の場合には、被告人がうまく演技すれば、それに乗せられて間違った判断をしかねないという危険はある代わりに、被告人の真摯な主張を受け止める度量は広いといえるのではないか。私は、かねがね取り調べ状況の可視化を強く主張してきた。弁護士のみならず検察側のためにも、可視化はできる限り進めるべきだと思っている。
人を裁くことの精神的負担の重み
制度に反対する方は、人を裁くという重い精神的な負担を市民に課すのはいかがなものか、と指摘する。しかし、犯罪はひとごとではなく、いつ自分が被害者になるか、あるいは加害者にもなりかねない。また、実は加害者でなく冤罪ではあっても、容疑者に仕立てられることもある。それなのに、一般市民はこれまで犯罪をあたかもまったくひとごととして、傍観者的な立場でしか見てこなかったきらいがある。
人を裁くことの精神的な負担の重みは、まさにその通りであるが、それはプロの裁判官だからといって軽くなるわけではない。マンネリになって、その精神的な負担を軽く感じるようになるとしたら、それは裁かれる被告人に対して誠に申し訳ないわけで、みんなそうならないように、初心を忘れずに努めている。
この世の中にどんなに残虐非道な犯罪があるのか、そして被害者や遺族の無念な気持ちを考えると死刑以外に考えられないような犯罪が実際に存在するということ、そういう事実と正面から、国民の一人一人に向き合っていただきたい。そのうえで死刑を廃止すべきかどうかを議論することが必要だと思う。
死刑求刑事件に参加してみて、その犯罪と直接向き合って、それでもなお死刑にするのは酷であると思うなら、裁判員としてそういう意見を個々の裁判において十分に述べればいい。もし、そういう意見の方が多数で、それが反映されて、死刑判決がどんどん減っていくなら、それはそれでいい。それなら事実上の死刑廃止につながるということで、結構なことだと思う。重い方向になるにせよ、あるいは軽い方向に動くにせよ、量刑に一般市民の感覚が反映されることは、大いに歓迎すべきことだと思う。
9割の出頭率、参加してよかった
出頭率は90%と、想像以上によかった。当初は1件について用心を取って100人も呼び出していたが、最近では50人で足りるということになってきた。参加した後には、非常にいい経験をした、または、いい経験をしたと回答した者が97%に上っている。
裁判員になった人の96%が、精神的な負担の重みは実感しつつ、しかし、参加してよかった、という感想を述べている。これは陪審や参審をとっている欧米諸国のどこの国に比べても、勝るとも劣らない民度の高さを示している。
参加してよかったと回答した者は96%、その理由として、自分たち市民の感覚が判決に十分反映されたと思う、と回答した者が92%あった。
審理日数はほとんどが4日以内で終了し、5日以上はまだ8件。これは比較的簡単な事件がこれまで多かったからで、決して楽観できない。
今後は複雑困難、公判準備に多大なエネルギーを要して、公判日数も10日はおろか、20日や30日もかかる事件も出てくることがある。そのような事件に参加した裁判員から、仮にも、負担のみ多くてつらかった、裁判で何をやっているか分からなかった、参加した意義が感じられなかった、という意見や感想が出てくるようでは、この制度が生き永らえることはとうていできない。
ちなみに、裁判員裁判が始まってから、裁判官はじめ職員全体の様子がかなり明るく活性化してきた。