福岡県弁護士会 裁判員制度blog
2007年11月12日
裁判員裁判は刑事裁判を変える
最近の判例時報(10月21日号、1977号)に、第20回全国裁判官懇話会において裁判員裁判についてなされた議論が紹介されています。第一線にいる真面目な裁判官の指摘するところに共感を覚えましたので紹介します。(な)
○ 今の刑事裁判の問題点を考えたとき、裁判員制度は現在考えられる最善の選択ではないかと思っています。
というのは、今の刑事裁判は、良かれ悪しかれ供述調書を中心とする裁判になっています。しかも、その供述調書を基礎とする裁判に慣れてしまった裁判官が、有罪慣れをしている危険があります。刑事裁判官が有罪慣れをしているところに大きな問題があり、これをどう変えていくのかというのが、刑事裁判の緊急の課題であると思います。
裁判官と社会とのコミュニケーションが欠けてきているというのが、民事・刑事を問わず歴史的に見て今の日本の裁判官の最大の問題点ではないかと思います。
裁判官は外との交流がほとんどなくなってしまっているのが今の状態ではないかと思います。そのために、市民感覚なり、国民の意識なりとどんどん離れていく危険があります。
3対6となったら、裁判主体が根本的に変わったと評価すべきではないかと思います。この制度を積極的に進めていくようにしないと、日本の刑事裁判はいつまでたっても変わらないのではないでしょうか。
○ では、今のような制度設計で、調書裁判依存から脱却できるんだろうかという点について、根本的に疑問を持ちます。
○ 国民の市民感覚による司法参加が望ましいということを錦の御旗にしているようですが、それは誤りではないか。民主主義は、多数者の支配であるとともに、少数者を多数者支配の行き過ぎから守るものでもあり、前者の担い手が立法と行政、後者の担い手が司法ではないかと思います。したがって、立法・司法に求められているのは、少数者に対しては公正な理性的精神、換言すれば、理性に裏づけられた在野の精神というべきものではないかと思います。
裁判員制度を肯定し、非法律家が多数を占める合議体を裁判所と認めることは、被告人の裁判所の裁判を受ける権利を骨抜きにするものであって、同様に非法律家である軍人が多数を占める合議体による軍事裁判所、軍法会議の創設に道を開くことになるのではないか。
○ 裁判員制度は、私たちがやってきた職業裁判官による刑事裁判の中の、とくに事実認定に対する批判から出発している。
裁判員制度に対して反対されているけれど、それでは元の裁判でいいのかとは言い切れない。やはり、前の裁判よりは少なくとも良くなるのではないか。
ある裁判官は「有罪の偏見から出発しているような判決を見ると、やっぱり裁判員裁判にも賛成せざるを得ないのかな」という感想を漏らしていました。練達の刑事裁判官がそういう感想を持たざるを得ないほどに、職業裁判官による刑事裁判というのが、いわば批判を受けているという問題がある。
○ いろんな問題があるかもしれないけども、日本の裁判が市民参加のもとにすること自体にもっと価値を見出したらいいんじゃないか。
○ 本来、刑事訴訟法は供述調書は例外的にしか使わないシステムとしてできています。それを実際上変えて運用しているのは実は裁判官なんです。その裁判官の意識を、すなわち裁判主体そのものを変えるということが、裁判制度の一つの大きな眼目だと思っています。
○ 今の裁判をどのくらい変えなければならないかですが、要するに、刑事訴訟法の原則に戻ればいい。つまり、弁護人は、書証は原則全部不同意にする。そのうえで、証人を呼ぶことが訴訟経済に著しく反するとか、証人ではかえってわかりづらくなるとすれば、検察官と合意書面をつくって、わかりやすく争いのない事実を裁判員に呈示する。
調書が使われなくなると、捜査側も厚いものはつくらなくなる。
しかし弁護士も、骨の髄まで調書裁判主義がしみついています。