福岡県弁護士会コラム(会内広報誌「月報」より)
憲法リレーエッセイ
2008年2月29日
憲法リレーエッセイ 第9回憲法と私
会員 木下 隆一(36期)
大学で法律を勉強したわけでもなく、まして憲法の講義を受けたこともない私にとって、憲法は司法試験受験のためだけの遠い存在だったように思います。
そのような私が憲法「改正」の問題を本気で考えようと思うようになったきっかけは、40年くらい前にお会いした1人の人との係わりがずっと念頭にあったからです。その人は、もちろん多くの人がご存知ですが、加藤周一さんです。大学闘争の真っ只中にいたころ、どういう係わりでそうなったのか、ほとんど記憶に残っていませんが、私は数人の仲間と一緒に加藤さんの自宅を訪ねたのです。何をテーマに話したのかもほとんど記憶にありません。ただ残っているのは、とても怜悧な人だという印象です。
その加藤さんが、「九条の会」のメンバーの一人に名を連ねられ、社会に向かって護憲をアピールされたのです。折しも、私も改憲をめぐるいろいろな動きの中で悶悶とするところがありましたので、我が意を得たりの気分になりました。早速、ほんの数人ですが、仲間と語らって久留米でも「九条の会」を作ろう、その発足の会合には加藤さんにきてもらってはなしをしてもらおう、ということになりました。
もっとも、加藤さんに来久していただくという計画は実現しませんでした。しかし、このことがあって、「子どもたちの未来を守る九条の会」ができました。平成18年1月のことです。
私は、「九条の会」は、広がりを持つものでなければならないと考えています。関心を持つ人が集まって議論を深めることはもちろん大事ですが、それだけでは改憲を止めることはできません。国民的な広がりをもつこと、1人でも多くの人が関心を持ち、その1人1人が自分の立場で判断すること、そのことが大事だと考えてきました。
それでは何をやってきたかと言えば、そうそう胸を張れるものでもありませんが、そのうちの2つについて紹介します。ひとつは、「九条ウォーク」です。久留米市東部耳納山麓の善導寺周辺をウォーキングしながら9条を肴にいろいろ話しをし、その行先の造り酒屋さんで満州からの引揚者の方の体験談を聞かせていただき、その後、「九条」というラベルを貼った酒を飲みながら語り合うというものでした。若い人から年配の方まで、酒を奮発してもらったこともあって盛り上がりました。
もうひとつは、出水薫九州大学大学院教授をお招きして「商店街空洞化から透ける国際情勢−冷戦崩壊が生んだグローバル化、競争社会、そして憲法−」というテーマで話をしていただきました。全国的な現象である地方都市における商店街の衰退が何に起因するのか、グローバリズムの内実は何なのかなど、グローバリズムを唱える大国の世界戦略の要は何なのか、等々、目からウロコが落ちるような分かりやすいはなしでした。
改憲断行を旗印にした政権が頓挫し、他方、私も多少疲れてきましたので、この問題はとにかく肩肘張らずに、息永くやっていきたいと思っているところです。
2008年2月28日
憲法リレーエッセイ 第8回民主主義の学校−市民オンブズマンの活動をとおして
弁護士 我那覇東子(50期)
憲法リレーエッセイの原稿依頼の際、正直困りました。そんな!「憲法」なんて難しいことは書けないし、しかも、エッセイにしなきゃならないなんて・・とても私の能力を超えている・・弁護士でさえこんな発想に陥ってしまうのが「憲法」という崇高な存在です。でも、よくよく考えてみれば、憲法は私達の生活に意外と密着しているわけでして、平和問題だけでなく、福祉や貧困、両性平等、労働問題、教育問題、刑事事件・・そっか!と初心に返って苦〜い司法試験時代を思い出し・・思い出に浸ってはや数日が経過(あぁ時が流れるのは早いなぁ〜)。これではいつまでたっても原稿はできないし・・汗
私は平成10年から市民オンブズマンのメンバーの1人として活動をしてきました。
ご存知のとおりオンブズマン制度の由来は北欧スエーデンから火のついたものです。従来の行政救済制度では十分に確保できない処置を行うことで公正・適正な行政を実施し国民の行政に対する信頼性を確保することを任務とする制度です。日本でもその名称はともあれ、オンブズマンは全国に多数存在しています。全国市民オンブズマン連絡会議が全国の活動を取りまとめてランキングし、毎年各地持ち回りで大会を開催して報告と勉強をかねています。しかも毎年のランキングはマスコミでも大きく報道されています。
やはりどこのオンブズマンでもその活動の根幹となっているのは、情報公開とそれを前提にした税金の無駄遣い監視活動、そして、行政訴訟の3本柱ということになります。平成8年ころからは行政の「食糧費」=本来は行政の会議などで支出される弁当・茶菓代、という支出名目で全国的に官官接待の横行が暴露され始めた時期で、連日マスコミをにぎわせていました。明らかに法目的外の桁外れた飲食接待がおこなわれていたことに憤慨した市民らが各地で監査請求と行政裁判を起こし始めたのです。例にもれず、私もその監査請求と行政裁判を手がけました(最高裁で確定)。市民の批判を受け、行政の支出基準が明確化され、情報公開も進んだため、驚くほど無駄遣いは減りました(ちなみに北九州でもかつて億単位で支出されていた食糧費が、数百万単位にまで減少しました)。全国的にもかなり正常化された経過をたどり、市民の素朴な疑問と執念と運動のたまものだと実感します。
いつも活動してて圧倒されるのは、市民の方々の常識感覚とそのパワーです。「高級料亭で何の会議すると?」「なんで守秘義務ある会議をクラブやパブでするわけ?」「大量に酒を飲んで真面目な議論ができるのかい?」「私達が納めた税金がどう使われているかなんで説明しないの?」至極ごもっともでございます・・弁護士は市民のパワーに圧倒されて行政裁判まで起こすことになるのですが、言うは安しでこれまた何年も費やすわけです。最高裁までいく事件も多く、10年以上かかって未決着の訴訟もあります。
地方自治はよく民主主義の学校といわれていますが、住民自治を貫くためには、そもそも行政がどのような活動をしているのかの情報を開示して市民に説明しなければなりません。しかし、その実態は非開示で不明瞭な点があまりにも多いのです。情報がなければ、税金の使途をチェックすることが難しくなってきますが、そうなると市民と行政・議会との信頼関係は揺らいでいくことになります。最近マスコミをにぎわせている議員の政務調査費。議員が市政活動に資するための費用として税金から支出される金員です(ちなみに北九州市では年間約3億円、議員1人あたり月38万円)。
全国的にその使途が問題として挙がっているのをみると、個人の旅行代、屋形船、スナック、カラオケ、焼肉、ハウスクリーニング、DVD、ホットプレート、ipod、デジカメ、カーローン・・(これ以上は割愛)う〜ん・・これではまるでお小遣いではないですか!当然ながら市民は納得しません。使途を明らかにしてその領収書を添付する声が高くなってきました。奇しくも国政では政治資金規正法との絡みで同じような事態となっていますが、よくよく考えてみれば、私達の税金を預かる以上、至極ごもっともなわけでして、これも市民の常識とパワーのたまものです。
弁護士稼業は法律と実態の狭間で悩むことが多いですが、さらにこのての活動は市民パワーに後押しされつつ世論形成(運動)する楽しみと苦しみ!?があるわけです。何年もかけて最高裁まで行くことも、市民の方が一緒ならなんだかそれまでの長〜い道のりも楽しいものになるわけです♪
憲法リレーエッセイ 第7回「憲法が好きな私の原点」
山 崎 あづさ(54期)
私は、平和とか戦争とかいうことについて、妙に関心のある子どもだった。
小学校3年生の時、横浜から広島に引っ越した。引越し前、ちょうど学校の授業で「ムッちゃん」という広島の原爆を描いた絵本が紹介されていて、これから行く広島という土地はすごいところなんだと子ども心に緊張した。
広島では、「平和」はごくごく身近な話題だった。住んでいた町では、毎年、8月6日午前8時15分に町内放送が流れ、1分間の黙祷をした。小学校では、夏休みの登校日には必ず全校生徒集まっての「平和授業」があり、原爆や戦争についての映画が上映されることもあった。社会科見学は原爆資料館だったし、教室の「○年○組文庫」には「はだしのゲン」の漫画が全巻置いてあった。中学校では、原爆のことだけではなく、戦時中に日本軍が他国で行ったことについても、授業で詳しく教えられた。
高校時代、演劇部に入った私は、地区大会で、毎年広島の原爆をテーマに作品を作り優秀な成績をおさめている高校の舞台を見て、とっても憧れた。
そうそう、初めて男の子とデートをしたのも平和公園だった。
祖母の妹が長崎で被爆して後遺症に苦しみながら亡くなった話を聞いたのも高校生の頃だった。ふだん無口な祖母が、ぽつりぽつりと話してくれた。戦争の悲惨さが急に自分のことに思えた。
私は、ごくごく自然に、「戦争はしてはいけない」「平和が大切だ」と考えるようになり、それが当たり前のことで、皆そう思っているものだと信じていた。
高校生のとき、湾岸戦争が勃発した。それから、急に、自衛隊の海外派遣だとかいう問題が持ち上がった。「国際貢献をすべき」「金を出すだけでなく血も流せ」というような論調がマスコミから流れてくるようになり、それまで「戦争はいけない」というのが当たり前だと思っていた私は、この国にこんなことを言う人がいるなんてと驚いた。平和についての話題が、「当たり前のこと」ではなくて「政治問題」になってしまった。
大学生になって、初めて憲法を勉強したとき、私はいたく感動した。この世で一番大切なのは一人ひとりの個人で、みんなが自分らしく生きていくために人権があり、それを権力が侵さないように統治の制度がある、そしてその全部の基本は、平和であること。平和は、一人ひとりのためにあるんだ・・。私がこれまで漠然と思っていた平和への思いや社会への関心が、ひとつに結びついた気がした。私は嬉しくって嬉しくって、周りの人にこのことを話して回った(今考えると多分、とても稚拙な内容だったと思うが・・)。私の頭の中に、「戦争はしてはいけない」「平和が大切だ」に加えて、「憲法って素晴らしい!」というのがインプットされた。
そんなこんなで時が過ぎ、私は弁護士になり、1児の母になった。
自分が子どもを産んで母親になってみて、切実に思った。この子の笑顔を決して曇らせたくない。この子だけではなくて、世界中のすべての赤ちゃん、子どもたちが、戦火にさらされることなく、笑顔で暮らせる世界でなければならないと。そのためには、どこの国や地域でも、戦争が起こってはいけないと。
そう、やっぱり、平和であってほしいというのが、憲法を語る上での私の原点なのだ。そして、こういう思いは、母親であれば(母親でなくても)誰もが普通に思うことであるはず。
そういえば、去年12月に福岡女性9条の会で講演をされた音楽評論家の湯川れい子さんも言っていた。「憲法は政治問題ではない。身近なものだ」と。
最近は改憲をめぐっていろいろな議論が飛び交っているけれど、私はまず、憲法の本当に大事なところは、もっと身近で、シンプルで、心で感じられるものだということを、周りの人に伝えたい。
そんな思いで、ひまわり一座の憲法劇にも出演させていただいている。どうやら、舞台の上の私は法廷より生き生きしているらしいので(某先生談)、是非観にきてやってくださいませ。
2008年2月27日
憲法リレーエッセイ 第6回福祉国家理念の憲法を変えてはいけない
会員 中野 和信 (36期)
【二重の基準論】
即に30年以上も前のことですが、私が大学の法学部に入って憲法の勉強をしいていて、人権制約原理についての二重の基準論(ダブルスタンダード)を知った時に大変感銘を受けたことを今でも鮮明に覚えてます。この理論を知って初めて法理論の一端をわかったような気がして、何となく自分が偉くなったような気がしたものでし た。
正確でもないかも知れませんが、この理論は、同じ基本的人権と言っても、思想・良心の自由、表現の自由などの精神的自由を制限する「公共の福祉」は必要最小限度の制約しかできないが、財産権や職業選択の自由と言った経済活動の自由権の制約をする「公共の福祉」は社会福祉的見地から合理 理由があれば広く制約が許されるという理論だったと思います。 憲法19条、21条には「公共の福祉」という言葉が入っていないのに、22条、29条のわざわざ「公共の福祉」という言葉が入っているのがその理論の根拠として挙げられていました。
これを知って、「う〜ん、憲法というのはそこまで考えて作られているのか。大したもんだな〜」と率直に感動したものでした。
【新自由主義経済路線による憲法改正】
ところが自民党の発表した憲法改正草案を見ると、財産権、職業選択の自由などは保障する規定ぶりは変わらないものの、現憲法で規定する「公共の福祉」が抜け落ちることを発見できます。
自民党の憲法改正草案は現厚労相の舛添さんが作ったと言われていますが、これは、舛添さんが 勉強不足で入れ忘れたもんはなさそうです。
自民党の政策は前々総理大臣の小泉内閣からはっきり表だって打ち出されている、新自由主義経済路線で貫かれています。私は郵政改革もその一環だと思っていますが、規制を取っ払って経済を自由化すれば経済が発展し、グローバルな競争に勝てるのだという理屈です。その結果、優勝劣敗、格差が出てきても仕方ないという考え方です。
小泉主相が、国会答弁で、「私は格差があるとは思わない。ある程度格差があるのは当然でしょう」などと言っていたのを思い出します。
【日本の現状】
この結果、現在の日本がどうなっているか。私はどう考えても大変な状況になっているとしか考えられないと思います。
貯蓄なし世帯が全世帯の4分の1にも登り、パート、アルバイト、派遣労働者などの非正規雇用者が1700万人を超え、全労働者の3分の1にまで膨れあがり、それに伴い年収200万円以下の労働者が1100万人にまでなって、いわゆる「ワーキングプア」層が確実に増えていることが報道されています。そのため、国民健康保険料や年金の滞納者が激増し、多重財務者300万人、経済苦を理由とする自殺者8000人、3万人を超えるホームレス者、最近言われている若者の「ネットカフェ難民」の増加など大変な状況が現出しています。OECD加盟国では貧困率の高さはアメリカに次いで2位にまでになっています(ちなみに2000年では5位でした)。
一方、最後のセーフティネットと言われている生活保護制度は、水祭作戦と言われる申請書さえ渡さないという違法なやり方が横行し、北九州では餓死者が出るまでになっています。母子加算、老齢加算の廃止がなされ、さらに保護基準の引き下げが検討されています。
【豊かな国アメリカ?】
アメリカと言うと私は大変豊かなリッチな国であるというイメージを長年持ってきました。私が、小学生の頃に見たアメリカのテレビドラマ「名犬ラッシー」「奥様は魔女」などで出てくる暮らしぶりはずっと憧れの的でした。大きな冷蔵庫、大きな車、広いリビングなど、当時の自分たちの暮らしぶりと何と違うのだろうと思ったものでした。
ところが、この認識を覆す事態が一昨年起きました。<br> ハリケーン「カトリーナー」がニューオリンズなどアメリカ南部を襲ったときのことです。
このハリケーンの規模の大きさにも大変驚かされましたが、私が一番驚いたのは、ハリケーンが来るず随分前から政府の非難命令が出ていたにもかかわらず、非難しない、非難できない人々が何万人もいた事です。要するに貧困故に死の危険が迫っても非難する車もなければ、非難するお金もない人々があれだけたくさんいたということです。そして、非難によってもぬけの殻になった商店街を略奪する人々の映像を見るにつけ、アメリカのイメージが吹っ飛んでしまいました。
【釧路人権大会の宣言】
昨年の釧路人権大会は、貧困問題、生活保護問題に弁護士、弁護士会が取りくんでいくこと宣言した画期的な大会でした。
福岡県弁もこの人権大会のプレシンポを8月に開催しましたが、そのシンポの準備に奮闘してくれた黒木和彰弁護士会から、私に対し「先生、日本がカトリーナのような事態にならないようにしないといけないですね。阪神淡路大震災の時のように略奪どころかボランティアが集まって助け合う日本をずっと維持していかないと思います」と言われたことが大変印象に残りました。
アメリカは、まさに新自由主義経済路線をレーガン大統領時代から採用し、様々な経済規制談和を実現し、一方では「小さな政府」路線で国民福祉に対する政府の支出を最小限に抑える政策をとり続けています。
日本は、このアメリカの政策を真似して、アメリカに追隋しようとしているとしか考えられません。このままだと日本でもカトリーナのような事態が現出しかねない状況になっています。
ワーキングプア層、ネットカフェ難民、ホームレス者などが増加し、貧困層が社会内で沈殿化していく状況が現実の問題として起きています。
そうなると、犯罪の増加はもちろん社会内の緊張関係が増幅され、暴動にまで発展する事態が当然予想されます。
少々遅きに失する感じはありますが、今こそこのような貧困問題を正面から議論すべきだと思います。
そのため、憲法が保障した幸福追求権、生存権をはじめとする社会県規定の意味をよく考え、その趣旨を生かすことこそが現在求められています。
現憲法が採用したのは福祉国家理念であり、むき出しの競争をあおるような完全自由主義経済路線ではありません。
22条、29条から「公共の福祉」を削除し、アメリカ型経済を採用しようとする憲法改正論には到底賛成できません。
現在、県弁でも生活保護問題委員会が正式に発足し、生活保護問題に弁護士会として取り組もうとしていますが、生活保護問題に限らず、貧困問題全般にわたる議論をしていくべきだと思います。そして、その出発点は現憲法の理念であるべきです。
是非皆さんにもこの問題を真剣に考えて欲しいと思うこの頃です。
憲法リレーエッセイ 第5回憲法9条なしに日本は美しい国にはなれない。
弁護士 木梨 吉茂(14期)
1、東京弁護士会での実務司法修習中指導弁護士から、治安維持法違反事件の弁護人が、憲兵から、「そんな弁護をするような仕事ではなく正職につけ。」と言われたという例をひいて、弁護人の職務が憲法37条に明記されている事の重大さの所以を教えられた経験を、私は忘れられない。
私は弁護士になって以来今日迄、弁護士業務を国家権力から独立させ、国が再び戦争行為に出ることが無いようにさせるために、この平和憲法下での弁護士法第一条で国民の基本的人権の擁護と社会正義の実現という使命を、日本国民から弁護士に負わされているものと理解している。
2、自民党は、外交政策上日米同盟の強化が重要な国益であるとして、米国の言いなりに日本国を集団的自衛権の行使によって戦争のできる国となる途を開くために、新憲法草案を発表した。草案によれば日本国は普通の国のような軍隊を持った日本国になるのである。安倍晋三首相は、その就任における所信表明で戦後レジュームを脱却して美しい国日本をつくると言った。私は安部首相が軍隊を持って日本国を美しい国にすると表現したことに強い違和感を持った。
その所信表明には、日本が太平洋戦争惨敗に至る迄に日本国民が苦難に満ちた被害を受けただけではなく、朝鮮半島を植民地化したり侵略戦争によって韓国や中国をはじめアジア諸国民に与えた甚大なる被害について、加害者としての自覚が全く見られない「美しい国日本」という国づくりの施政方針には、違和感だけではなく強く反対する。
3、日本弁護士連合会は、一昨年(2005年)11月11日人権擁護大会で「立憲主義の堅持と日本国憲法の基本原理の尊重を求める宣言をした。
その宣言を出す迄の大会での論議の過程において、驚くべき事には、この論議に参加した弁護士の中に、公然と改憲論に同調する意見の少なくないことを知って、がく然たる思いがした。
4、私は福岡県弁護士会の憲法委員会の委員として名を連ねている。
私は太平洋戦争末期の、1945(昭和20)年5月11日の召集令状で一兵卒として、長崎県大島と壱岐で米軍の侵攻に備えての過酷な通常の訓練だけでなく米軍戦車に爆弾を抱えての体当たり訓練と、洞くつ構築の重労働にも、ただ、ひたすら鬼畜米英軍を撃退し、神国日本を護り抜くとの信念の下に敢行して行った経験がある。
その結果は、広島・長崎の原爆投下の惨状であり、福岡市の焼夷弾による焼け野原の実情を目の当たりにすることになった。
この体験を通じて、以後いかなる事があっても、わが眼とも言うべき平和憲法を擁護し、日本国が将来、テロ攻撃を受けたり、再び戦争をすることは、絶対に起こってはないと思っている。
5、6年前の同時多発テロ行為に対し、米国が直ちにアフガンやイラクに武力攻撃を加たことは、多くの国際法学者が指摘するように国際法に違反している。従って、これに対するテロ行為の反撃を受けるのは当然である。このテロ行為に対して、日本が日米同盟を護る事が国益であるとして、米国のテロに対する戦闘行為を支援する給油活動に協力をしたり、更に、憲法9条1項、2項に違反して集団的自衛権の行使によって対策貢献をする国にして日本の国営を守るという主張には私は絶対に賛同できない。
6、この原稿を書いている時に、安倍首相が辞任するとの報道に接した。
私は、後継首相が日本国を真に美しい国にするためには、敗戦に至る迄の間に、アジアの諸国・人民に与えた甚大なる被害についての加害者責任を決して忘れることなく、誠意をもって謝罪し、この平和憲法9条の精神を世界各国に広め、既に平和憲法を持った南米のコスタリカ国のようになることを国策として努力すべき義務を果たすことこそ美しい国と言えるのである。
2007(平成19)年9月13日
2008年2月25日
憲法リレーエッセイ 第4回憲法24条・弁護士夫婦編
会員 東 敬子(52期)
【おお、24条はすばらしい!!】
最近は、9条がらみの講演依頼が多いので、他の条文をしっかりと読む機会がないのですが、よくよくみていると、ぐっとくる条文がたくさある。その中でも、あらためて、いいなあ〜と思うのが24条。「婚姻は、両性の合意にのみ基ずいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。」・・・当たり前のことだけど、実際はどう??
【24条の理想と現実】
我が家は、私と弁護士をしている夫(吉原洋)と3歳の長男、1歳の長女の4人家族。もちろん、男女平等の意識は徹底しているので、「妻はこうあるべき!」みたいな固定観念は一切ない。子どもに対しても「長男は跡取りだから」っていうような意識もさらさらない。
がしかし、実際の生活においては、母親である私の方には負担はかかる。子どもが二人になろうと、夫の仕事のペースは相変わらずだあるし、酔っぱらって、電車乗り過ごしor終電乗り遅れは日常茶飯事。土日も、どんどん仕事を入れて、休日は月1回(実際、夫は保育所に提出する勤務状況欄に月の勤務日数30日と書いていた。なんじゃこりゃ。)当初は、夫のお気楽ぶりに、猛然と抗議していた私だったが、うちの夫は「頼られないようにする」才能に非常に長けており「ごめんなさい。反省しています。善処します。」を繰り返しながら、今日まで来ている。当然のことながら、夫婦二人だけでは生活が回らないので、周囲の応援団の力を借りて、なんとか毎日を送っている。
【どこかで聞いたような・・・】
この理想と現実の乖離、どこかで聞いた議論だ。
そうそう、憲法9条の話。実際に自衛隊は軍隊みたいだし、海外にも行ってるし、もう現実に合わせて変えた方がスッキリする・・・なんて、とんでもないことを言ってる人がいる。でも、そんな中途半端な「スッキリ」感で9条変えられたら、大変だ。そもそも、憲法は理想なんだから、理想に向かってどうすべきかが大事であって、現実に合わせようんなんて発想は本身転倒。まあ、理想を変えようと思ってる人たちとは、これからも議論を尽くさないといけないのでしょうけれど。
【理想を求めて頑張る私】
私は9条の理想現実にむけて、時には日曜日にも憲法の講演に行く。そのとき夫は「9条は大事よね。がんばってね。」という。そう9条においては我が家は理想と現実が一致しているのだ。
私は、24条に関しても諦めたわけではない。我が家においても24条の趣旨を実現するべく、今回は月報を通じて、広く応援団を募ることにした。この原稿を読んだ会員の皆さんは、夫が遅くまで仕事をしていたり、飲んでいたりしたら、きっと注意してくれるはずである。「早く家に帰ったほうがいいですよ」と。宜しくお願いいたします。
2008年2月18日
憲法リレーエッセイ 第3回よい子の憲法
堀 良一(33期)
ラバウルからの帰還兵だという伯父は、酒を飲むといつも戦争の話をした。そして、話の終わりに大きなため息をつき、目を細めながら、戦争はいかん、と言った。シベリアに抑留された父は、黙って頷いていた。
そんなとき、わたしは、背筋を伸ばし、しっかりと伯父や父の目を見て、はきはきした声で元気よく、はいっ、と答えることにしていたのだ。そうすると伯父は、うれしそうに、よい子だと言いながら、大きな手でわたしの頭をぐりぐりとなで、小遣いに10円をくれた。父もうれしそうだった。
当時、よい子の秘訣第1条は、元気のよいはきはきとした返事、であった。第2条は、背筋を伸ばす、第3条は、目を見て話す、である。よい子の秘訣3要件をみたすわたしの対応は、当然のように、いつも伯父を満足させた。
終戦からそう遠くない、わたしの人生の初期において、戦争は切っても切り離しがたくわたしの人生にまとわりついていた。何のことだかよくわからないけど、戦争に反対することは、すなわち、小遣いを確保することだったのだ。
その後も戦争は、子供時代を通じて、かなりわたしの身近にあった。
わたしの故郷は、温泉町の別府である。戦後、別府には駅の山手側のキャンプ・チッカマグアに進駐軍がいた。彼らはわたしが物心つく前に引き上げていったけど、そのときの米軍の忘れ形見が同級生や先輩にいて、施設から学校に通っていた。それに、別府は、その後も米軍の保養地になっていたらしく、別府湾には米軍の艦船が頻繁に寄港し、別府の街は、その都度、米兵であふれた。わたしは米兵をみるといつも手を振ってにこにこしていたので、彼らからガムやチョコレートをもらい、ずいぶんと写真を撮られた。だから、アメリカの元米兵の家庭の古いアルバムには、わたしの写真が少なからず残っているかもしれないのだ。見上げるように背の高い米兵は、わたしを空高く抱き上げたりしたので、わたしは遙か眼下の地上をみて恐怖におびえたりした。そして、ベトナム戦争に本格的にアメリカが介入することになったころ、大人から、あの人たちはベトナムに行って死ぬかもしれない、と聞かされた。
そんな子供時代を経て、戦争はいやだ、とはっきりと意識したのは大学に入り、大人の扉を開いてからだ。
ちょうど沖縄返還の時期で、沖縄戦の頃のことが、あれこれと目や耳に入る。しかも、ベトナム戦争がいよいよ泥沼に入り、わたしの友人がインドシナ問題研究会を立ち上げていたし、通称「インケン」というネーミングが気に入ったりしていたので、ベトナム戦争の悲惨な映像に触れることも多くなった。沖縄やベトナムでの戦争に触れるとき、いつも伯父や父の話が重なった。施設から通っていた同級生や先輩や、わたしにガムをくれた米兵たちの顔が心によぎった。子供から大人になって、ようやく、戦争の話をする伯父や父の心に直に触れた思いがしたのだ。米兵やインドシナの人々は、どんな気持ちで戦争をしているのだろうかと考えるようになった。自分の存在そのものが戦争と切り離せない施設の同級生や先輩を思った。
本格的に憲法に接したのは、そんな頃だ。
戦争の放棄。おおっ、それそれ、という、かなり高揚した気分であったのを思い出す。同時に、気に入ったのは、自由は戦って手に入れる、という憲法のスタンスである。当時、かたっぱしから読んだ戦争関係の本のなかに、ゲルニカの前に立つのがもっともふさわしい、などと評価されたスペイン人民戦線の女性闘士ドロレス・イバルリの「膝を屈して生き延びるよりも、立ち上がって死にましょう」という演説のフレーズを見つけたときは、思わずわたしも立ち上がって、拳を握りしめていた。
そして、初めて本格的に憲法に接したころの、若くて、センシティブで、息苦しいくらいに濃密だった数年から、長い長い年月が過ぎ去った。世間ではよい子がすっかり流行らなくなり、今では、要領やずるさで世の中にそれなりの場所を占めることに小賢しく反応したり、ますます「軽さ」に磨きがかかったりする自分がいる。だけど、その一方で、多少の気恥ずかしさをともないながらも、心の片隅のどこかには、反戦平和や、自由と正義のために戦うスタンスを確保して、少しばかりのファイティング・ポーズくらいはとり続けていたいと願う、もう一人の自分がいたりする。
すっかりおじさんになってしまったわたしに、そんなことをけっこうまじめに考えさせる憲法は、やっぱり、かなりいい。「ある意味すごい!」存在だと思うのだ。
2008年2月15日
憲法リレーエッセイ 第2回国民投票に行こう
会員 八尋 八郎(32期)
【缶マイク】
楽しい夕餉のひととき、上機嫌の私が「イラク戦争の現状」なんて話を始めると、空けたビールの缶を娘が差し出す。マイク代わりに使えって意味だ。その真意は「ウザい」ってことだと気づかずに、缶マイクを持った私がさらに声高に演説すると、娘達は小声で会話をはじめる。
それを無視して続けようものなら、一人ずつ部屋に戻り、誰も居なくなる。たとえ敬愛する父の話であっても「ウザい」って反応できる娘を、私はエライと思う。
【ひまわり一座】
劇団ひまわり一座で19年連続で憲法ミュージカルをやった。来年で20年というわけだ。チケットは1,000円で、出演者が1枚ずつ売ることで講演は満席になる。
娘にウザがられて臆病になった私は、毎年買ってくれている常連サンにだけ売っていれば応分のノルマを果たしたことになると考えて、この頃、新規顧客を開拓するということが全くない。
若い出演者はちがう。チケット1枚のセールストークこそが憲法普及活動だとガンガン新規顧客を開拓していゆく。
ところが、ここ数年、セールストークがウザがられることが多くなったという。さっきまで歓談していたその場を、まるでカルト教団に入会勧誘しているかのような空気がサ〜っと覆い、相手はまるで踏み絵を求められたように困惑するというのである。
【棄権の呼びかけ?】
なる程、だから護憲派は、最低投票率規定などを設けて棄権を呼びかけるという戦略なのかな(失敗したけど)、と笑ってみたが、棄権の呼びかけなんてやってりゃ必ず負けるぞ!オイなどと考えた。それよりか国会が発議した改憲案に対する賛否は問わない、とにかく投票に行ってくれと、選挙管理委員会の宣伝カーのエンドレステープと同じことを言うほうが勝機はある、というべきだろう。
【直接民主制】
近頃の国会は、強行採決の連続でろくに審議もせずに重要法案が次々に成立している。ジャン・ジャック・ルソーは、「イギリスの人民は、自由だと思っているが、それは大まちがいだ。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人民はドレイとなり、無にかえしてしまう」といっている。元官僚と2世議員だらけ国会なんてこんなもんだ。この調子で行けば2010年の改憲案発議の確立はほとんど100%に近い。何をどんなに頑張ろうと国会には改憲発議を止める力はないという気がしている。そうであれば国会議員のポイントごとに負けイクサを取組むよりは、お好きなように改憲発議して頂いて、国民投票で否決するほうが合理的だ。
私は少年法と教育基本法の「改正」に少しかかわった。そして、国会では負けイクサとなった少年法と教育基本法の「改正」について、もし国民投票をやっておれば圧勝したという負け惜しみが強くある。国民には、元官僚や2世議員よりも子育てについて適切に判断する能力があるからだ。平和についても同じで、元官僚と2世議員の言うことは無理がある。国民は主権者なのだ。国民投票で道理をとうせばよいのだ。
【憲法普及活動】
護憲派は、国民投票に向けて何をやるのか。ルソーは「それが大切な教訓であればある程、教えてはならない。気付くまで待つことだ」なんてことを言っている。
相手は主権者国民なのだ。改憲案の是非を説くなどは出すぎたことだし、説教がましい知ったかぶりの押しつけはウザい。教えることは相手に対する侮辱となりうることを知るべきだろう。投票に行ってくれと言うだけでも主権者の投票意欲を挫くのに充分なウザさを備えている。主権者はナイーブなのだ。国民投票は権利だから、自由に放棄して咎められることはない。従って、主権者のナイーブをワガママだと認識は直ちに改めなければならない。正しいと信じてやることでも悪しき結果を招くとき(相手がウザイと感じる事は)過ちなのだ。
憲法派のテーマは憲法普及活動である。憲法が暮らしに生かされているとはいい難い現実がある。そんななかで、ひまわり一座の笑いと軽さは貴重である。チケット1枚売れない私だけど、あと3年は続けたい。
2008年2月13日
憲法リレーエッセイ 第1回遅メシの私
会員 福留英資 (56期)
吾輩は遅メシである。どれくらい遅いかというと,修習中,よく,昼食を終えられた伊黒先生(指導担当)を待たせていたほどである。と言うだけでは分かりにくいかも知れない。
学部生・院生時代の6年半を過ごした学生寮の寮食堂では,メニューは皆同じなのだが,夕食時,私が食べ始めた後から食べ始めた寮生が先に食べ終わって出て行く,それでも私はまだ食べている。その後に食べ始めた寮生が出て行く。私が食べ終えるのはその後である,と言えば,分かり易いだろうか。
このころは,遅メシの効用を痛感していた。満腹感が得られ,栄養吸収度も高く,体に良い,というだけではない。多くの寮生とメシを食いながら話をするので,皆と仲良くなれる,ということが大きい。研究室に入り浸って実験に明け暮れる理科系院生も,メシだけは食べに帰ってくる。「あいつとは話したことがないな。」と皆に言われるほど存在確率の低い寮生とも,私はしばしばメシをともにしていた。(因みに,私の入寮1年目に限っては,私よりさらに遅メシの先輩がいた。彼は後に司法試験に合格した。その後を継いだ私も結局合格したから,遅メシは受験勉強にも良いに違いない。)
昨年亡くなった祖母には,子供のころ,「ヒデシちゃん,早よたもらんね!(かごんま語で「早く食べなさい!」)立派な兵隊さんになれないよ!」と叱咤されていた。根がひねくれ者の私は,子供心に,「兵隊さんにげな,絶対ならんけん,関係ないよ!」と強く反発したものである。平和主義者としての私の礎は,この時に築かれたのかも知れない。(祖母が平和主義者としての礎を築いてくれたことがきっかけとなり,私は昨年3月,祖母が父を生んだ上海の地を訪れる機会を得た。祖母が亡くなったのは,私の帰国2週間後のことであった。)
ともあれ,私の遅メシは今も変わらない。日によって例外はないでもないが,当たり前のように遅メシを貫いている。
このリレーエッセイを書くことになって初めて考えたことだが,遅メシであるにもかかわらず大手を振って暮らしていられるということも,実は,「個人の尊厳」なのかもしれない。大袈裟だろうか。いや,私を叱咤した祖母の言葉は,個性の多様さを認めない姿勢を基底として発せられている。集団内における同質性を構成員に強いる傾向の強い我が社会にあっては,「個人の尊厳」あってこその遅メシであろう。
というわけで,私自身が,食という生活の極めて基本的な部分で,憲法の恩恵を大いに被っていることに気付いた次第。憲法の保障する人権とは,存在することが当たり前だと思っているがためにその有り難みに気付きにくいが,実は必要不可欠なものなのだ。人権をバターに例えて,「食べ過ぎると人権メタボリックになる。」とのたもうた大臣がいるが,例えの誤りも甚だしい。人権とはバターでなく,空気の如くなくてはならないものなのだ。
しかし,そんな私も最近は,4歳の娘から,「パパ,まだ食べおうとー。おそーい!」と叱咤されるようになってしまった。この子は昨年5月以来,憲法9条の歌を歌うから,タチが悪い。これでは反発のしようがないではないか。・・・とも思われるが,「父上様にそんな生意気な口がきけるのも,憲法のおかげなんだぞ。家父長制の時代だったら,厳しい折檻が待っていたんだぞ。」と心密かに思うことがないでもない。私が家庭でいかに抑圧されようとも,家庭平和があるのは憲法のおかげである!・・・いや,親の威厳がないだけなのかも知れませんが・・・。