福岡県弁護士会コラム(会内広報誌「月報」より)

2025年4月号 月報

インクルーシブ教育勉強会のご報告

月報記事

子どもの権利委員会 鶴崎 陽三(69期)

1 はじめに

こんにちは。子どもの権利委員会の69期鶴崎と申します。令和7年2月13日、福岡県立大学助教の二見妙子先生と医療的ケアが必要なお子様を育てられた橋村りかさんを講師にお招きして、インクルーシブ教育勉強会を開催いたしました。字数がもったいないので「インクルーシブ教育って何?」という方には令和6年8月号の記事を参考資料としてご紹介し、早速お二人の話の内容を私が講師になりきってお届けします。

2 二見先生講演

(1) 二見先生からは「インクルーシブ教育について考える―1970年代の大阪府豊中市における原学級保障運動」という表題で講演いただいた。

日本は2014年に障害者の権利に関する条約に批准したものの、文科省が掲げる実際の日本の教育では「インクルーシブ教育システム」という言葉で特別支援教育が推し進められており、特別支援学校(学級)在籍者数の増加は2022年に国連障害者権利委員会から批判を受けた。

そのような中にあって、大阪府豊中市は、1970年代から障害を持つ子どもが障害のない子どもとともに通うことができる学校を地域に作ってきた。詳しいことは先生の著書「インクルーシブ教育の源流~1970年代の豊中市における原学級保障運動」に書いてあるので是非参照されたい。

国際的にも、70年代くらいから障害を持つ人たちが声を上げはじめ、それに関わる人たちも一緒になって分離された教育が批判されてきた。

日本でそのような声が最も大きかったのが関西、とくに大阪である。

(2) 分離して育ててもそれぞれ大事にしているからそれでいいのではないか、すなわち「分離すれども平等」であると考える人たちもインクルーシブ教育という言葉を使う。しかし、二見先生は「分離すれども平等」は差別であり条約の趣旨に反する、という立場からインクルーシブ教育を考えている。

海外での障害学研究や、日本の堀正嗣氏による障害学研究などをご紹介いただく中で、障害は社会にあるという社会モデルの考え方を説明するわかりやすい分析枠組として「SEAWALL:障壁モデル」という図を紹介された。そこでは、「構造の障壁」(階層的権力関係・構造、構造的不平等・貧困など)が一番下にあり、その上に「環境の障壁」(差別的言語、制度化された政策・組織・規則など)、一番上に「態度の障壁」(認知的偏見、感情的偏見など)がある。

(3) さて、本日の話の中心は豊中市における運動である。

1971年、障害児の教育をすべての教職員の課題にしようということで、市の教職員組合の中に障害児教育委員会が作られ、普通学級の教員も委員となった。一般的には障害児学級担当者だけが障害児教育について話し合うことが多いところ、普通学級の教員が一緒になって組織を作ったことがその後の豊中市の障害児教育を変える上で大きかった。

1972年~1973年にかけて、豊中市の障害児教育を歴史的に転換させる「ひろがり学級」設置の運動が起こった。ひろがり学級は、すべての子どもたちの就学保障のため設置された拠点型の重度障害児学級である。

教職員組合主導で就学猶予免除児家庭訪問を展開し、学校に行くことを猶予免除された子どもたちの実態を知った教師は障害児の置かれている現実を知ろうとしなかったことを深く反省し、親の思いを聞きながら就学猶予免除児童を学校に通わせるための教職員の運動が展開した。

それに対する行政の回答は「すべての就学猶予免除児童を受け入れるだけの条件を整えることができない」というものであったが、教組執行部及び障害児教育委員会は「条件が整わないなら整わない中で、すべての子どもたちを校区の学校で受け入れる」と組織的に決定した。

(4) このような動きの中で、ひろがり学級設置認可の直後に、設置予定校の職員会議で受け入れ拒否が決定された。しかし、教組による「就学先を決定するのは親と本人であり、学校がこれを拒否するのは間違っている」との指導により、市内における受け入れ拒否はなくなった。

併せて、豊中市では保育所(幼稚園)への障害児の優先入所(園)運動が展開した。

「うちの子どもは、地域の幼稚園や保育所に行ってはいけないのか」という親の声を受け、市に障害児保育基本方針を策定させ障害児の優先入所を制度化するとともに、障害児の個別支援と集団保育の質を高め、保育士の労働条件を緩和するために「一対一加配」を行政に約束させた。但し、加配保育士を雇用できないという財政上の問題を理由とした受け入れ不可という矛盾も生んだ。

(5) 1974年からは「校区の学校へ子どもを帰す」運動が展開された。

障害児教育委員会は、「ひろがり学級」設置を評価しつつも障害児のみが拠点化された学校に通うことを批判し、校区外の学校へ通う子どもたちを「校区の学校へ帰す」運動へと発展し、原学級保障運動が開始された。

これに対し、市教委が「転校先には条件が整っていない」として転校を認めないこともあった。市教委には、せっかく作った「ひろがり学級」が解体すれば市としての障害児教育がやりにくくなることへの苦悩もあったと思われる。

転校を認められなかった親子の中には、許可が降りないまま校区の学校への通学を実力行使するケースも生じ、教組はこれを支えるため市教委と交渉し、市教委は制度の規則を越える「全日交流」で黙認し、学校現場は制度の規則を越え在籍のない子どもたちを受け入れた。

この取り組みについては市議会から市教委が繰り返し追及・批判されたが、市教委がその声を学校現場に降ろすことはなかった。

(6) 養護学校設置運動から原学級保障運動への方向転換はそれまでの教組の教育論、教育実践を根底から覆す重みをもつものであったが、「もしこの運動が正しいとしたら私たちはまたあやまちをおかすことになるのではないか」という思いの中での苦渋の決断だった。

豊中市の運動の中には、「障害児学級を設置して原学級保障運動」か、あるいは「普通学級保障」かという議論もある。

原学級保障は、「分ける」制度の障害児学級を活用して「分けない」教育を推進するという矛盾を孕んだ制度であるが、「矛盾を排除せず矛盾と共に進む」という、本運動の優れた特徴ともいえる。

(7) 1979年の養護学校義務化に先立つ1978年、豊中市教育委員会は「豊中市障害児教育基本方針」を策定した。

そこには、(1)就学猶予免除制度に抗し、すべての障害児の教育権の明記、(2)分離教育制度に抗し、校区就学保障の明記、(3)就学指導体制を取らず、保護者の希望の優先、(4)校区間移籍を認めた、(5)各学校は、障害児が健常児と共に学ぶための教育目標を設定することを明示という形で原学級保障運動のエキスが反映された。

豊中市は、「共に生きる教育」の運動と実践に対する国家の分離教育制度の強制を一定程度回避することに成功したのである。

3 橋村さん講演

(1) 橋村さんの子・ももかさんは重度の仮死状態で生まれ、一命は取り留めたが医師からは重度の障害が残ると告げられた。

そのとき橋村さんは、命が助かった喜びよりも暗闇に突き落とされたように感じた。自分がこの子を一生背負って生きていかなければならないのだと。

その後、治療や訓練のため通った病院や訓練施設で会う子どもたちに、ももかさんがスーッと手を伸ばすことがあった。脳性麻痺の子は身体を動かそうと思えば思うほど硬直したような状態になるのに、近くを通る子どもたちに不思議と自然に手を伸ばすももかさんを見て、この子に必要なのは一緒に生きていく子どもなのではないかと思うようになった。

(2) それでも我が子は養護学校しか行くところがないと思っていた。地元の学校に行ってももかさんを道徳の教材にされるのは願い下げだという思いもあった。 そんな中、地元の小学校の先生がももかさんのことを知り小学校に遊びにきませんかと誘ってきた。

養護学校に行くと決めていた橋村さんは、不信感すら抱きながらも行ってみることにした。

小学校で子どもたちになんて言われるのかドキドキした。―「なんで車椅子に乗ってるの?」「なんで動かないの?」「なんで喋らないの?」―

しかし、ももかさんに子どもたちが話しかけた言葉は「名前はなんていうの?」だった。

「ももかだよ」と答えると「ももちゃん一緒に遊ぼう!」と言って車椅子のももかさんを取り囲んで走り去った。

橋村さんはそれまでももかさんの車椅子を誰にも、看護師にすら触らせたことがなかった。この子の面倒は私がみるんだと手元に引き寄せて生きてきた。

しかし、橋村さんは不思議と手を放してしまい、走り去る子どもたちの後ろ姿を呆然と眺めた。

先生としばらく話をしてももかさんのいる体育館に戻ったとき、ももかさんはスヤスヤ眠っていた。

音に敏感で、車のエンジン音で泣き叫び、スーパーなどでは大きな音でずっと泣いてしまう。それなのに、声が反響してうるさい体育館で、橋村さんの心配をよそにももかさんは眠っていた。

先生から、ずっと子どもたちに手を伸ばして周りでワイワイしているのを笑って見ていてスーッと眠りましたという説明を聞き、橋村さんはなんとも言えない気持ちでただももかさんの顔を見ていた。

家に帰るとき、一人の女の子が2人のところに寄ってきて、橋村さんではなくももかさんに「来年登校班一緒だけんね」と言った。

その一言で橋村さんは頭の中をぐるっと180度回転させて、もうこの子が行ける学校はここだ、ここしかない、この学校に絶対行かせよう、地域の学校に入学させようと心に決めた。

(3) クラスの在籍自体は特別支援学級だったが蓋を開けてみるとほとんどを通常クラスで過ごした。

ももかさんの親離れは小学校1年生、入学した翌日だと言う。その日、ももかさんを学校で見送った橋村さんは、なんだか寂しい思いを抱きつつ、給食のときは呼び出されるに違いないと思っていた。ももかさんは橋村さんからしか食事を受け付けず、プロが食べさせようとしてもダメなほどだからだ。

しかし、学校から呼び出しはなかった。

ちゃんと給食を食べたことを聞いて驚く橋村さんに先生は言った。「ももちゃん教室にまでお母さんに入ってきてもらうのは恥ずかしかったんじゃないかな。だって学校にはお母さんはいないでしょ?」

子どもたちと一緒に給食も食べることができた。もう私、できること何もないじゃん。

なんでも自分たちでやりたがる子どもたち。掃除当番も給食当番も、周りの子どもたちはももかさんにもできる役割をいろいろ考えて、決してさぼらせない。そんな子どもたちだった。

(4) 小学校1年生の秋、ももかさんは原因不明の多臓器不全に陥り生死の境をさまよった。

子どもたちはどうしたらももかさんが寂しくないかと考え、みんなが学校の中でしゃべっている様子を録音して担任の先生を通じて毎日届けてくれた。

子どもたちが歌った「君といれば楽しかった 君といれば温かかった 忘れないで、忘れないよ だって僕らはいつまでも友達」という歌を聞いて、意識がないももかさんの目からポロっと涙がこぼれた。

あれ、おかしいな?その頃はもう腎臓もほとんど動いておらずおしっこも出ないような状態だ。

不思議に思いながら再度テープを聴かせると、やはり同じ歌詞のところで涙を流した。

聞こえている。帰りたい。学校に、友達のところに戻りたい。ももかさんからそう聞こえた気がした。

(5) 数日後、ももかさんは意識を取り戻した。

医師は奇跡だと言ったが、橋村さんは奇跡ではないと思った。ももかさんをこの世に呼び戻してくれたのはクラスの子どもたちの力だと。

ももかさんが小学校に入学してから橋村さんは周りの人たちに謝ってばかりいた。謝れば受け入れてもらえる、最悪受け入れてもらえなくても、仕方ない、いさせてやるか、そう思ってもらえる。

しかしそれが周りの人たちを裏切ることだと気づいた。クラスでただ一緒にいるだけで子どもたちは共に生きていた。それが自分には見えてなかった。

障害を持つ子どもが出会う最初の差別者、最初の差別の大きな壁は親だと橋村さんは言う。自分自身がそうであったように。

(6) 小学校、中学校と地元の学校で過ごした後、ももかさんは特別支援学校の高等部に入学した。

普通高校の選択肢もあるよと問いかける橋村さんに、ももかさんは筆談で返した。

私はやりたいことをすべて中学校で仲間たちと一緒にやってきた。今度は支援学校に行ってそこでやりたいことをする。それは、支援学校の先生に、自分たちにも豊かな思いがあって伝えたいことがたくさんあるんだということを伝えること、そのために私は支援学校に行く。

そう言って特別支援学校の高等部に行ったももかさんの人生は、17歳で突然終わりを迎えた。葬儀には同級生や先生方の列が途切れることなく続いた。支援学校の高等部の先生方から言われた言葉。―「これがももかさんが地域の中で大きくなってこられた証なんですね。」―

(7) どんな障害があっても、どこに住んでいても、どの時代でも、子どもは仲間とともに学校に通い、ともに生き、学び合う権利がある。

共に生きることは心地いいことばかりではない。お互いなじり合ったり憎み合ったりすることもあるだろう。でもそれがすべて大切なことだ。

子どもたちが最初に出会う社会は学校だ。インクルーシブな社会は、インクルーシブな教室からしか始まらない。

ももかさんが伝えたかった思いは、命を懸けて届けたかったことは、共に生きる社会を作るには共に生きていくしかないんだということ。

4 おわりに

インクルーシブ教育を作り上げてきた地域における教職員や保護者たちの国や行政の方針をものともしない姿勢、重度の障害を持つ子どもを実際に育てられた保護者の苦悩や葛藤、そしてその考えを覆した子どもたちとの関わり、すべてに圧倒されました。

インクルーシブな教室を、そしてインクルーシブな社会を作らなければ。

さあ、12月は長崎で人権大会です。

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