福岡県弁護士会コラム(会内広報誌「月報」より)

2014年6月 1日

◆憲法リレーエッセイ◆ 君ゆでガエルとなりたもうことなかれ

憲法リレーエッセイ

会 員 原 田 美 紀(59期)

ゆでガエル理論というのをご存知だろうか。
熱いお湯にカエルを入れると驚いて飛び跳ねる。
ところが、常温の水に入れ、徐々に熱していくと、カエルはその水温に慣れていく。そして、熱湯になったときには、もはやカエルは跳躍する力を失って飛び跳ねることができずに、ただただそのままにゆであがってしまう、というものである。

今の憲法改正や集団的自衛権の行使容認の動きをみるにつけ、私はこのゆでガエルを思い出す。
じわじわと自分たちが知らないうちに、為政者の意図する方向に導かれ、あっと気づいたときには、取り返しのつかない、どうしようもない事態に陥ってしまっている。そんなゆでガエルになってはならないのだが・・・

縁あって、私は今、福岡県弁護士会の憲法委員会委員長を務めさせていただいている。
法学部出身ではなかった私は、受験時代に初めて憲法というものに触れたと言ってよい。そして、個人の人権を守り、国家権力を制限するという憲法というものを作り出した人々の英知に感動したのを覚えている。
もっとも、弁護士になって、諸先輩方の熱い議論を聞くにつけ、自分の不勉強を自覚せざるをえなかった。
また、恥ずかしながら、今まで護憲、特に9条を守るということについて回りの委員ほどの熱い思いを持っていなかった。
理想と現実の間の妥協点というものは常に必要であり、全面的にイエスとかノーという結論を出すよりもよい結果となることの方が多いと思っているし、積極的妥協というのはあってよいと思っていた。

その私が、である。おかしいと思うのである。
テレビでの議論などを見ながら、「憲法が古いぃ?時勢に合わない?個人を尊重するのが憲法の目的で、そのために最低限に必要なものが平和だという根本に古いも新しいもないだろうが・・・」「解釈改憲...なんですとぉ。」といちいち突っ込んでいる。

解釈改憲、その言葉自体に矛盾を感じる。
ときの政府を縛るはずの憲法を、縛られる立場の政府が、国民の意思を問うという議論も手続もなしに解釈によって実質的に変えてしまう。ありえない話ではないか。
「改正」というとドラスティックな印象を与えて多くの反対者が出ることが予測されるから、あえて、「改正」という手続を採らず、「解釈」という手段をつかう。あまりにも姑息な手段ではないか。
集団的自衛権の行使容認にしても、こんなに国民生活に影響を与える問題を、十分な議論も、その議論の前提となる資料も示されないで(ここが重要だと思うのです)、強行することが許されるのだろうか。
それに、そもそも、集団的自衛権の必要性をいうときによくつかわれる「近隣諸国との摩擦」、これは個別的自衛権の強化の問題であって、集団的自衛権とは無関係のはずである。集団的自衛権の行使容認の目的が、一国との関係を強固にしたいというところにあることは明々白々である。
そんなことで、多くの人の犠牲のうえに成り立った今の平和を壊してなるものかと思うのである。
長年にわたり容認されてきたものを変えるというにはそれなりの積極的論証が必要なはずだが、どの意見を聞いても問題のすりかえにしか思えない。

この時勢の変化に、敏感に反応できる行動できる人間になれるか、私の課題である。

  • URL

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー