福岡県弁護士会コラム(会内広報誌「月報」より)

2012年3月 1日

◆憲法リレーエッセイ◆ 子どもとケンポー

憲法リレーエッセイ

会 員 永 尾 廣 久(26期)

拳法、剣法そして憲法

子どもとケンポーというと、子どもたちが少林寺拳法とか剣道でもするのかと連想してしまうのではないか。いや、子どもたちこそ憲法で守られるべき存在なんだと声を大にして叫んでも、憲法というとなんだか縁の遠い気がしてしまいそう・・・。

ところで、先日、九弁連は人権救済申立を受けて勧告を決議した。その理由は九弁連のホームページにも載っているので、ぜひ一度たしかめてほしい。私は、それを読んで腰を抜かしそうになった。なんと国が7歳の子どもを妨害禁止の仮処分申立の相手方にしたというのだ。訟務検事をそろえて法律実務に精通しているはずなのに、7歳の子どもを相手として国のやる軍用ヘリコプター基地の建設事業を妨害するなと申立したという(もちろん、7歳の子どもだけを相手としたものではない)。訟務検事の属する法務局には人権擁護部門もある。たとえ、7歳の子どもが親に連れられて、基地建設工事のための通行を「妨害」していたとしても、その子どもまでも相手方とするなんて、その発想がまったく信じられない。

いま、「憲法改正」をめぐって、成人年齢を18歳に引き下げるかどうかで大騒ぎしているのに、国が7歳の子どもを裁判(仮処分)の当事者に仕立てるとは、どう考えても突飛としか言いようがない。

グローバル社会と子ども

グローバル社会に乗り遅れず、それに打ち勝てというのは大人の世界の話だと考えていた。ところが、鉄は熱いうちに打てという格言どおりなのか、そのためには教師をがんじがらめに統制するしかないと言い出す政治家があらわれた。しかも彼は同業(弁護士)である。

エリートを育成するには、教師をその目標に向かって駆り立てる必要がある。ついていけない奴は切り捨てる。エリートなんて、ひとにぎりでいいんだ。この発想で大阪府は教育基本条例を制定しようとしている。

でも、本当にそんなことが可能なのだろうか。出来る子どもを育てるつもりで目標達成の出来ない子どもたちをバッサバッサと切り捨てていったら、決して裾野は広がらない。そして、勝ち抜けなかった子どもたちはいったいどうしたらよいのか。人間の才能は多面的なものだから、たとえ学校の成績が悪くても、別の方面の才能を開花させる子どもだっている。みんな違って、みんないいという金子みすずの発想こそ、実はグローバル化社会を勝ち抜く秘策ではないのか。

すべて目標を数値化し、それに見合う成果をあげなければ教師をどんどん切り捨てていくというのが先ほどの教育基本条例案の内容だ。 教師の専門性はそこでは完全に無視され、教師は首長の命じるままに動くロボットと化してしまう。教師は厄介なことを言う子どもにじっくりかまっていられない。だって、そんなことしていれば自分の業績評価が下がり、ついには身分が危なくなるのだから・・・。

10月4日、佐賀でシンポジウム

卒業式において日の丸・君が代への起立斉唱を強制する教育委員会が行なった処分について、最高裁が次々に判決した。これらの判決では、教育委員会の命令に反したからといってなんでも処分していいものではないことが明らかになり、大阪の条例制定にも一定の歯止めをかけた。

私は宮川光治最高裁判事の反対意見に注目した。宮川判事は、「教員における精神の自由は、とりわけて尊重されなければならないと考える」という。なぜか。子どもたちが学校で自由にのびのび育つことこそが教育に求められているからだと思う。

いったい、卒業式を子どもたち本位にして何が悪いのだろうか。少しくらい騒々しくても、子どもたちを型にはめて抑え込むよりよほどいい。自分はどうせダメなんだと思いがちな子どもたちを、いや、そうじゃないんだと大いに励ます卒業式であってほしい。

いま私は日弁連憲法委員会の委員長として10月4日に佐賀で開かれる人権擁護大会シンポジウムの準備をすすめている。シンポジウム第一分科会のタイトルは「どうなる どうする 日本の教育~子どもたちの尊厳と学習権を保障するための教育の在り方を問う」だ。日本の明日をになう子どもたちが学校で生き生きと学べるために、今、私たちが考えるべきこと、やるべきことは何かをともに考えようというシンポジウムである。1000人収容の会場を満杯にして熱い議論をたたかわせたい。

ぜひ、あなたにも参加してほしい。

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