福岡県弁護士会コラム(会内広報誌「月報」より)

2011年9月号 月報

気仙沼・南三陸町被災地見聞録

月報記事

会 員 菅 藤 浩 三(47期)

平成23年7月17日、仙台空港に名古屋経由の飛行機で降りたつ。3・11から4ヶ月、機内から仙台空港の周辺が見える。たくさんの樹木が全てひとつの方向になぎ倒されている、津波の跡が大規模に記されていた。その樹木の周りには潮だまりがまだ残っている。到着した滑走路はきれいに整備されていたが、使わないところはほとんど手が付けられていないということか。
なんでも本来は仙台~羽田便の移動は、以前は東北新幹線で間に合っていたけれども、大震災後に政府関係者などが短時間で来れるように羽田便を設けたらしい。空港の荷物引き取り所の外のゲートをくぐるも節電のため空調はないも同然であり、ウチワで仰ぐ待合の人が目立つ。福岡よりも北なのに福岡よりずっと暑い状況、空港内の売店はまだ開いていず、3畳ほどのスペースで牛タンとか荻の月が売ってあるくらい。
仙台空港では日本の国旗にたくさんの激励の寄せ書きが書かれて壁に掲示されていた。また仙台空港が水に浸かった写真が拡大されて何枚も貼られていた。物凄い急ピッチで仙台空港が修復したことは写真を見れば一目瞭然。空港のバス待合所に壊れた自動車が何台も押し付けられている様子が写真に写っているのに、実際にバス待合所に行くとその形跡はなくなっていたのだから。
貸切タクシーを使って名取市ユリアゲ(閖上)の元漁港まで案内される。空港からわずか数キロの位置にある自衛隊の訓練基地の中に、何百台もの大量の車が廃棄場所もなくまとめて置かれている。でも車で移動する際の名取市内の主要道路は全く震災前と変わらない。クルマの量も多いし、ファミレスも客でいっぱい。道路も全く高低差もひび割れもない。あれから4ヶ月でここまで復興したのかと日本の技術力に驚く。15年前に旅行したアフリカなんて穴ぼこだらけのアスファルトが100km以上も続いていたのに。
貸切タクシーの運転手の話では、震災当日は関東地方へ戻る出張族を全社挙げて長距離輸送したし、震災後も全国から殺到する役人の送迎や案内で毎日てんてこ舞いの震災特需が発生し、震災前よりも空車率はぐっと低いと説明していた。仙台にはこんな形で中央からお金が落ちているのだ。
とはいえ、貸切タクシーの運転手には、ファミレス外食に地元客が殺到していたのは毎日おにぎりやカップラーメンの生活からようやく脱出できた反動のように見えるとのこと。たしかに、名取市内でもごくまれではあるが信号機に電気が通っていず、警察が手旗で信号機の替わりを務めていた。
「海から黒い巨大な壁が迫ってきた」
貸切タクシーの運転手が聞くところでは、津波について被災者は口をそろえてそう説明しているらしい。沖合の泥や堆積物を津波が侵食して迫ってくるからだとか。これは三陸地方の特色らしく、例えばスマトラ沖大地震の津波は白だったそうだ。津波が黒い泥と混じって背丈よりもはるかに巨大な高さで地上の建物や自宅や車やさまざまなものにぶつかっていく様は、ギリギリ安全地帯から撮影された素人動画でYouTubeでも確認できるが、実際に遭遇した人のトラウマは想像してもしきれない、そんな巨大な壁を見たことなんて映画以外にないからだ。津波が一気にざーっと引いたときに、地上のものを根こそぎ海に引きずり込み、海の底を初めて直に見た人もいる。
仙台市内では海岸から5キロの距離にある高速道路(仙台東部有料道路)が津波を食い止める堤防になったようで、その高速道路を境に海側に入ると、急にグチャグチャの廃車が何台もみつかる。まさに高速道路の右か左か、どちらに住んでいたが運命を分ける堤防になったようだ。廃車と言っても、フロントガラスは銃弾がぶつけられたような形で割れスクラップ同然で、まるで高速道路で猛スピードでぶつかった状態と同じ。プレスされたようにひしゃげたり屋根がもげたりしている。あれではクルマに乗っていても津波から助かるものではない、津波が起きたときはとにかく高い建物にのぼるしかない。貸切タクシーの運転手によると、その高速道路の脇でたくさんの遺体が津波で寄せられているのが自衛隊の探索で発見されたとのこと。
海岸に隣接するユリアゲ漁港施設は明らかに3階建ての建物だったのに、いまは上2階を撤去して下1階しか残っていない。上2階はどういう被害だったのか、想像できない形になったが、翌日赴いた気仙沼や南三陸町の建物被害から察するに残っていても骨だけだったのだろう。漁港施設から周辺数キロにわたって家屋も撤去されている。それでも道路だけは綺麗に凹凸なく整備されていた、道なき道を切り開く訓練はされているのだろうが、それにしても自衛隊の復旧力はすごい。
田には雑草が生い茂り、同じ緑でも経済作物を育てるような前向きな緑ではない。田の土も少なからず陥没してるし、塩に浸かった田を回復するには一体どれだけの土が要るのだろう。
ユリアゲ漁港のすぐそばに、墓碑銘のように小高い丘があり、卒塔婆が何本も刺され、たくさんの人が祈りをささげていた。小高い丘の隣にはボロボロのJAバスがまだ放置してあった。3階建ての市営住宅も残っているが海から数百メートルの位置では、電気もガスも水道もまだまだ復旧しようが無くまるでゴーストタウン。海に隣接する3階建ての団地では津波の高さを超えていず、付近の住民は屋上に逃げても助かりようがなかったのではないか、あくまで想像であるが。
防風林であったろう松の木が津波で根元から何本も抜きだされている。残っている松も揃って津波に押された方向に斜めに生えている。次に訪れたのは仙台で唯一の深沼海水浴場。ここでもクルマとバスがひしゃげていくつも放置してある。家はほとんど全て解体され、残っていたコンクリの個人宅は斜めに屹立していた。荒浜小学校には「たくさんの力をありがとう」の横断幕があるが、そのとき子供は誰もいない。ただ、こんなに人が殺到する場所ならば、移動式のアイスクリーム屋とか、有料の被災ガイドを置けば、不謹慎ではなく、地元の人にスピーディにお金を少しでも落とすことで寄与できるのではないかと思った。
1日目の夜は仙台市青葉区国分町で過ごしたが、今年急きょ開催することが決まった東北六魂祭の2日めにぶつかり、繁華街の人混みは半端ない。「みながにわか震度評論家になっているんだよ、あっ今震度いくつだ。TV見て外れた―とかほらーとかね。」
あれから4か月、すし屋の大将が明るく話す、躁状態にも見えたけどそうでもないのかな、当事者でないのでよくわからない。すし屋もどの店も大変混んでおり簡単に入れなかった。実際博多よりも混んでいる印象。仙台はしたたかで少なくとも東京よりもよほど力強かった。東京、元気出さないとみっともないぞ。東北復興のために地元に貢献しようと、普段は焼酎なのに、日本酒をしこたまたしなむ。
1日めの夜、ホテルで日本酒を飲み過ぎて7月18日午前5時過ぎに目が覚めてしまう。時間を確認しようとTVをつけたらなでしこジャパンVS.USAの女子サッカーWC決勝戦の延長戦に突入していた。日本が劣勢を跳ね返して澤選手のおかげで同点においついた瞬間を見てしまった、もうTVは消して寝れない。PK戦で海堀キーパーのファインセーブが続く、まさかの優勝である。結局、寝不足のまま出かける時間を迎えてしまった。
同行する会社社長やツアコン全員がなでしこジャパンの優勝に興奮していた中、東北自動車道を北上して内陸にある一関インターから気仙沼に向かう。所要時間は2時間半。一関インターは世界遺産の平泉に近く、向かう途中も降りてからも道路は大変混雑していた。貸切タクシーの運転手の話だと、休日は非常に混んでおり行くにしても平日を勧める、ただし山奥で雪深いので春から秋までが見ごろとのこと。せっかく世界遺産まで近づいたものの、移動そのものに思いのほか時間を要していたので気仙沼の方向に向かう。
道の駅かわさきでトイレ休憩するも、駐車場はクルマで非常に混雑していた。すわ平泉効果か?と思いきや人形芝居の慰問団の移動バス、子供たちを応援する川崎市民のバスツアー2台というボランティアグループが多いのが目につく。 道の駅では農産物が多く、要するに岩手県は第1次産業にほとんど依拠している地域ということだ。道の駅かわさきには達増拓也の「がんばろう!岩手」宣言(2011/4/11)が貼られていた。岩手は過去、明治の大津波・昭和の大津波・チリ地震津波など、リアス式海岸のため何度も大きな自然災害に見舞われてきたそうだ、知らなかった。
人家で大規模火災が発生した焼け跡のある気仙沼に到着。下水がないため生臭いにおい。船が陸にあがっていたが、海からは何キロも離れた場所だった。いったいどうやってここまで船が移動したのか貸切タクシーの運転手に尋ねると、おそらくまっすぐやってきたのではなく、家などにぶつかりながらジグザグにやってきたのではないかとのこと。
電信柱が津波もしくは運ばれた物体にぶつけられて引っこ抜かれた跡、オバQの頭のように地面から鉄線が生えている。もろ1階が流されたセブンイレブンの中にあったカップヌードルは全て空っぽだった、たぶんカラスがついばんだのだろう。
ワンピース3月19日公開の映画前売券販売の垂れ幕が7月なのにそのまま残っているのが痛々しい。ナンバーのわかるクルマは勝手に持っていけないのか、移動を催促する紙が貼られていた。被災した自宅を延焼防止のために同意なく取り壊しできるのは阪神大震災後にそのような立法を講じたからなのかもしれないが、クルマを廃棄できないのはまだ立法措置がないからなのか、道路の上からの移動しかできていなかった、国会議員は早急に法律をつくるべき、菅総理はいつ退陣するとか次は誰だとか政争など税金の無駄。
気仙沼の港近くに移動すると、家屋を撤去した後なのか、家屋が流れたので鉄骨の建物だけ残っているのか、どちらとも判然としないたいへん酷い有様。クルマもおもちゃのように上に何台も積み重ねられている。地上では潮水がひかず水鳥が何十羽も足を休めている。スズキ自動車の販売店も壊滅していた。
それでも小さいながら気仙沼市場が開いていたのは、仕事をしないと回らないからか。海に近接していても高いところにある家は完全にセーフだったが、低いところにある工場は全壊アウトだったりと、リアス式海岸での津波被害は全く予測がつかない。
仙台への帰路は国道45号線をつかって松島経由。途中、被災の大きかった南三陸町を予期せず通過するが、気仙沼と変わらぬひどい被害。一時期町長が行方不明になったり、防災無線で亡くなる最後までアナウンスをしていた女性職員のいた町。気仙沼線の線路やコンクリート橋が至る所で破壊というか消し去られていた。
そんな中でも移動車両のセブンイレブンやガリバーを見つける。私企業はタフである。南三陸町では3階建てのビルの上にクルマが載っていた。一番びっくりしたのは、移動式のトラックにバイクを何台も積んで売っている業者がいたこと。地元民も屋根のないガソリンスタンドを営業中であった。地震に強い墓石とか、明らかに地震後につくられたリフォーム宣伝の看板もあった。
貸切タクシーの運転手によると、地震保険の加入率が高いこともあって意外と建て替えをする人も多く、住宅業者の下請負人にもバブルが到来しているとのこと。
南三陸町にある一番大きいホテルの隣の喫茶店で遅い昼食。そのホテルはクルマでいっぱいだった、なんでも報道関係の人が被災中継のためにずっと泊まっているらしい。喫茶店には、たくさんの寄せ書きが置かれていたが、営業時間は午前11時から午後15時と本調子の時間からはほどとおい。エアコンが効き水洗トイレが復旧しただけ最悪の状況を脱しているのだろう。
南三陸町は霧で覆われていた。松尾芭蕉で有名な松島にもちょいと寄るがトイレはまだ復旧していない。人も非常に少なかった。景勝地なのに全く記憶に残っていない。それほど被災のインパクトは大きかった。南三陸には気仙沼と異なり農業と軽めの漁業しかない。つまり加工業など第2次第3次産業がなく、回復はそのためかずっと後回しにされている。なんでも公民館や消防署を解体する費用だけで当年の町の税収に匹敵すると試算されたらしい。いっそ原爆ドームのように、あえて一部を復興しないまま残して、記念館を築造して数十年にわたりわずかでも雇用が維持され観光収入が入る形をつくるのが好ましいのではないか。不謹慎だが、南三陸町には役場の放送で最後まで呼びかけて亡くなられた遠藤未希さんという象徴的な存在がいる。津波を前にして彼女が呼びかけていた音声を流す施設を設けるなりすることで、修学旅行先なり職業とは何か、使命とは何かを考える機会を持つことができ、南三陸町のリピーターを増やすことにもつながるように思う、南三陸町には気仙沼や石巻のような大企業がかかわる産業がないからなおさらである。遠く九州から甚大な被害の復興に寄与するには継続的な消費活動しかない、産業のない南三陸町の人口や税収が自発的に復興するのは相当至難のはずであり、気が遠くなる。
2日目の夜も繁華街に赴いたが、祭りのあとだからか、灯りの自粛もあって暗かったし一般人の人通りも少なく呼び込みの方が多いくらいだった。青葉区国分町の規模は熊本市くらいか。店も日曜なので閉まっているところも多かったが、それでも開いている店はなかなか空いてなかった。よその店から手伝いに来たりと、仙台市内の繁華街はプチバブルが持続しているようだ。
とにかく東北全体を復興するには、第1次産業に依拠する町が多くて、とてつもない費用と時間がかかることは残念ながら事実のようだ。政府が赤字国債でも発行しないとどうしようもない。国会のグジグジした討議の仕方に腹が立つことしきりである。
平成23年7月19日帰りの仙台空港の規模は、佐賀空港とか天草空港くらいに小さくなっており、エアコンも建物設置のものではなく移動式のデカいものだったし、アナウンスはなんとマイクではなく、TVで学生運動のモノクロ記録映像に出てくるスピーカーをグランドホステスが使用していた。仙台空港は津波の被災地でありかろうじて稼働しているレベルということか。
同行者にはこのような時期に東北に行く機会を設けていただいたことに感謝したいが、余りに被害が酷い、繰り返しになるがこれしか伝える表現がないのが今の感想である。九州の人間はぜひ東北にあえて足を運んでほしい、そして、継続的にお金を落とすことを被災の現場を見て決意してほしい。それほどまでに甚大な被害としか言いようがない。
最後に、東北の現地では至る所で「がんばろう宮城」「がんばろう岩手」なるのぼりや個人宅にステッカーが貼られていた。被災者は生きていること自体ががんばっていることなのだから、そこにガンバロウということは禁句だとしたり顔の評論家もいる。
じゃあ、東北に住んでいる人たちが率先して「がんばろう」の言葉を至る所に頒布している現象は一体なぜなのか。私が思うに、山奥で遭難したチームがお互い「眠るな!」「歌を歌おう!」と励ましあっている姿に近いと思う。下卑た例でいえばリポDのCMで「ファイトーいっぱーつ!」といってお互いを助け合う姿だろうか。お互いに頑張っていることは知りつつも「がんばろう」とでも掛け声をお互いにかけないとくじけてしまうのだ。
あの言葉はかけられる相手と同時に、自分にあえて鞭打って生存本能の1つとして必要な行動なのではないか。被災者のその姿を見て感激すると同時に、原発と同じで評論家のしたり評論を鵜呑みにしてはいけないという教訓を1つ体感したのである。
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