福岡県弁護士会コラム(会内広報誌「月報」より)
2010年9月号 月報
シリーズ―私の一冊―「失踪日記」吾妻ひでお (イーストプレス、2005年刊)
月報記事
会 員 甲 能 新 児(42期)
格調高い本書評欄にマンガを採り上げるとは何事か!そんなことだから漢字もロクに読めないマンガ好きが総理大臣になったりするのだ!!(…って話やや古い)とお怒りの会員もおられるかもしれないので、若干の権威付けをしておきますと、本書は「かの朝日新聞書評欄」で絶賛され沢山の書評で取り上げられて、遂には2006年度の日本漫画家協会大賞・文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞・手塚治虫文化賞マンガ大賞をトリプル受賞するという史上初の快挙をやってのけた快作(怪作)マンガなのです。
内容は、マンガ家である著者がある日失踪しホームレスになっての日常生活、成り行き上ホームレスから肉体労働者になっての日常生活、マンガ家生活の一部の自伝、アル中患者になってのアル中病棟入院生活、という4つの中身から成り立っているのですが、やはりホームレスの日常が一番おもしろく、その次がアル中病棟でしょうか。
私小説ならぬ私マンガで、全部著者の実体験だそうです。
家庭を捨て仕事を捨てマトモな社会人生活から失踪してホームレス生活へと転落する話で、自殺未遂から始まり、ゴミ袋漁り、残飯漁り、シケモク拾い、野宿、深夜徘徊等など様々なホームレスのエピソードが語られ、話の進め方次第では随分深刻且つ暗く波乱万丈のストーリーになりそうなのですが、さすがにそこはマンガです。淡々と飄々とそこここにギャグが散りばめられ、笑いながら読めてしまいます。それには、四頭身にデフォルメされた丸まっちい主人公やトボケた登場人物の昔ながらのマンガマンガした絵柄が与って力があります。これが写実的な細密画が主流のいわゆる劇画調であれば、とても陰惨なものにしかなり得なかったでしょう。
私は、中学くらいまで手塚治虫先生クラスのマンガ家に本気でなるつもりでした。ご存知の方も多いかと思いますが、手塚先生は大阪大学医学部卒で医師資格どころか医学博士号まで持つ大インテリで、私は手塚先生クラスのマンガ家になるために勉強もそれなりに頑張ったのですが、手塚先生の書かれた「マンガの描き方」という単行本をボロボロになるまで熟読玩味して、その本の指導に従い、絵の基礎力をつけるために暇があれば人物デッサンやクロッキーをやっていました。だから嫌味を覚悟で言えばマンガの絵については一家言持っており、デッサン力のないマンガは一見して分かるつもりでいます。その私から見て、吾妻先生の絵はデッサン力にやや難がない訳ではありませんが、それを補って余りある絵の味があります。特にホームレス編の中で、真冬に林で野宿し、朝目覚めると周り一面が銀世界というコマなどは、何故か心打たれるものがあります。
ホームレスはこうやって生きているのかという新鮮な(しかし他愛ない)エピソードが積み重ねられ特にストーリーがある訳ではないのですが、日常から非日常へという多くの芸術が求める普遍的テーマが立ち現れます(尤も著者はそれほど大それた考えはなく深読みのし過ぎだと思いますが)。アル中病棟の話もその意味で面白いです。
マンガ嫌いの人あるいはマンガを馬鹿にしている人にはお薦めはしませんが、マンガゆえ短時間で読めてしまうので、一時のトリップには格好の読み物だと信じて疑いません。
ちなみに、そんなに手塚ファンなら何故手塚マンガを挙げないのかと思われるかも知れませんが、手塚治虫漫画全集は講談社版で全400巻もあり(買いたくても自宅に置き場がなくて買えずにいます)、とても1冊だけ挙げる訳には行きません。手塚「論」も山の様に出版されているので、ここでは「手塚治虫=ストーリーマンガの起源」(竹内一郎、講談社、サントリー学芸賞受賞)を挙げておきましょう。当然ながらマンガではなく活字本です。「アトムと寅さん 壮大な夢の正体」(草森紳一・四方田犬彦、河出書房新社)という戦後サブカルチャーの二大ヒーローを論じたものも捨て難いのですが(これも活字本)。
なお、「梶原一騎伝 夕焼けを見ていた男」(斎藤貴男、文春文庫、これも活字本-しつこいな)もマンガ(劇画)原作というものを再認識させてくれます。ご存知ない方のために解説しておくと、梶原一騎とは「あしたのジョー」「巨人の星」「タイガーマスク」「空手バカ一代」など一世を風靡したマンガ(劇画)の原作者で、50歳の若さで亡くなった人です(尤も晩年は余り恵まれず事件を起こしたりしていましたが)。
「鉄腕アトム」始め日本アニメは世界に輸出され、日本アニメで育った欧米・アジアの世代が「クール(かっこいい)ジャパン」と称して日本アニメとコミックに憧れる時代です。その意味で宮崎駿監督のアニメがアカデミー賞を取ったのは偶然ではありません。日本のマンガ・アニメが日本の戦後サブカルチャーに止まらず世界の確固たるサブカルチャーとなっている現在、国内で評価の高い本書を手にとって見られるのも一興ではないでしょうか。