福岡県弁護士会コラム(会内広報誌「月報」より)

2010年2月 1日

「息子と平和と」

憲法リレーエッセイ

会 員 近 藤 恭 典(58期)

昨年の初夏、釣りに出かける車の中で、小学6年の息子が、学校の先生に対する不満を話し出した。 修学旅行先の長崎平和公園で、「平和の誓い」という文章を読み上げる役になったらしいのだが、その文章を作って担任の先生に見せたところ、よくないから文章の一部変えろといわれたことが不満だというのだ。 二度と戦争をしないために、戦争を肯定するような政府は認めませんという趣旨の箇所を削るようにと言われたらしい。 何かと気を遣わなければいけない最近の学校の先生にすればそうなのかなと苦笑しながら、この子が戦争を避けることを具体的に考えることもあるのかと嬉しくなった。 私の両親は子どもに対する平和教育には熱心な方で、私は幼い頃から戦争被害を聞く集まりや反戦映画などによく連れて行かれた。その手の本もたくさん買い与えられ、絶対に買ってはもらえなかった漫画も「はだしのゲン」だけは頼みもしないのに家にあった。「はだしのゲン」は擦り切れるほど読み、おかげで、戦争に対する恐怖感は疑似体験として心に刻み込まれた。 湾岸戦争が起こり、PKO協力法の是非を巡って日本中が議論していた頃、当時高校生だった私も、同級生とときどき議論をした。議論の中身は忘れたが、新聞やテレビで聞きかじった言葉をぶつけ合うだけの拙いものであったと思う。 一つだけ覚えているのが、同級生が「お金だけ出しても国際的な信用は得られない。血を流さないといけない。」という当時よく使われていたフレーズを口にしたときに感じたことだ。その時私は、彼と自分とでは、「血を流す」という言葉で想像する情景が、決定的に違うのではないかと思ったのだ。私にとって「血を流す」情景は、焼けただれた皮膚にガラス片を刺したまま焼け野原をさまよう人の姿であり、手足を失い芋虫のような姿で戦場から帰ってきて「殺してくれ」と毎日叫んでいる人の姿である。そういう情景を思い浮かべてしまえば、「血を流さないといけない」などとは、口が裂けても言えるはずがないと思ったのである。 親となって、息子にもぜひ戦争被害を学ばせねばと思ったが、これがうまくいかない。戦争展に誘ってもついてこないし、長崎の平和記念館に連れて行っても早足で駆け抜けてしまう。「はだしのゲン」を買ってきても読んだ気配がないし、普段は見たがる金曜ロードショーも「火垂るの墓」のときはさっさと寝てしまう。 息子の感性は大丈夫だろうかと心配していたところに先の文章のことを聞いたのである。これは戦争と平和について息子と語れるチャンスと思い、じゃあ戦争を肯定する政府を作り出さないために何をしなければいけないだろうか、と話を膨らませようとしたが、これには乗ってこなかった。 息子も今春から中学生になる。漫画やアニメで平和教育をする手はもう使えないだろう。親とあまり話もしなくなるかもしれない。 急いで新しい手を考えないといけない。

  • URL

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー