福岡県弁護士会コラム(会内広報誌「月報」より)
2008年2月18日
憲法リレーエッセイ 第3回よい子の憲法
憲法リレーエッセイ
堀 良一(33期)
ラバウルからの帰還兵だという伯父は、酒を飲むといつも戦争の話をした。そして、話の終わりに大きなため息をつき、目を細めながら、戦争はいかん、と言った。シベリアに抑留された父は、黙って頷いていた。
そんなとき、わたしは、背筋を伸ばし、しっかりと伯父や父の目を見て、はきはきした声で元気よく、はいっ、と答えることにしていたのだ。そうすると伯父は、うれしそうに、よい子だと言いながら、大きな手でわたしの頭をぐりぐりとなで、小遣いに10円をくれた。父もうれしそうだった。
当時、よい子の秘訣第1条は、元気のよいはきはきとした返事、であった。第2条は、背筋を伸ばす、第3条は、目を見て話す、である。よい子の秘訣3要件をみたすわたしの対応は、当然のように、いつも伯父を満足させた。
終戦からそう遠くない、わたしの人生の初期において、戦争は切っても切り離しがたくわたしの人生にまとわりついていた。何のことだかよくわからないけど、戦争に反対することは、すなわち、小遣いを確保することだったのだ。
その後も戦争は、子供時代を通じて、かなりわたしの身近にあった。
わたしの故郷は、温泉町の別府である。戦後、別府には駅の山手側のキャンプ・チッカマグアに進駐軍がいた。彼らはわたしが物心つく前に引き上げていったけど、そのときの米軍の忘れ形見が同級生や先輩にいて、施設から学校に通っていた。それに、別府は、その後も米軍の保養地になっていたらしく、別府湾には米軍の艦船が頻繁に寄港し、別府の街は、その都度、米兵であふれた。わたしは米兵をみるといつも手を振ってにこにこしていたので、彼らからガムやチョコレートをもらい、ずいぶんと写真を撮られた。だから、アメリカの元米兵の家庭の古いアルバムには、わたしの写真が少なからず残っているかもしれないのだ。見上げるように背の高い米兵は、わたしを空高く抱き上げたりしたので、わたしは遙か眼下の地上をみて恐怖におびえたりした。そして、ベトナム戦争に本格的にアメリカが介入することになったころ、大人から、あの人たちはベトナムに行って死ぬかもしれない、と聞かされた。
そんな子供時代を経て、戦争はいやだ、とはっきりと意識したのは大学に入り、大人の扉を開いてからだ。
ちょうど沖縄返還の時期で、沖縄戦の頃のことが、あれこれと目や耳に入る。しかも、ベトナム戦争がいよいよ泥沼に入り、わたしの友人がインドシナ問題研究会を立ち上げていたし、通称「インケン」というネーミングが気に入ったりしていたので、ベトナム戦争の悲惨な映像に触れることも多くなった。沖縄やベトナムでの戦争に触れるとき、いつも伯父や父の話が重なった。施設から通っていた同級生や先輩や、わたしにガムをくれた米兵たちの顔が心によぎった。子供から大人になって、ようやく、戦争の話をする伯父や父の心に直に触れた思いがしたのだ。米兵やインドシナの人々は、どんな気持ちで戦争をしているのだろうかと考えるようになった。自分の存在そのものが戦争と切り離せない施設の同級生や先輩を思った。
本格的に憲法に接したのは、そんな頃だ。
戦争の放棄。おおっ、それそれ、という、かなり高揚した気分であったのを思い出す。同時に、気に入ったのは、自由は戦って手に入れる、という憲法のスタンスである。当時、かたっぱしから読んだ戦争関係の本のなかに、ゲルニカの前に立つのがもっともふさわしい、などと評価されたスペイン人民戦線の女性闘士ドロレス・イバルリの「膝を屈して生き延びるよりも、立ち上がって死にましょう」という演説のフレーズを見つけたときは、思わずわたしも立ち上がって、拳を握りしめていた。
そして、初めて本格的に憲法に接したころの、若くて、センシティブで、息苦しいくらいに濃密だった数年から、長い長い年月が過ぎ去った。世間ではよい子がすっかり流行らなくなり、今では、要領やずるさで世の中にそれなりの場所を占めることに小賢しく反応したり、ますます「軽さ」に磨きがかかったりする自分がいる。だけど、その一方で、多少の気恥ずかしさをともないながらも、心の片隅のどこかには、反戦平和や、自由と正義のために戦うスタンスを確保して、少しばかりのファイティング・ポーズくらいはとり続けていたいと願う、もう一人の自分がいたりする。
すっかりおじさんになってしまったわたしに、そんなことをけっこうまじめに考えさせる憲法は、やっぱり、かなりいい。「ある意味すごい!」存在だと思うのだ。