福岡県弁護士会コラム(会内広報誌「月報」より)
2005年9月号 月報
英国便りNo.5 イギリスのクリスマスと新年の迎え方(2004年1月24日記)
月報記事
刑弁委員会の皆様 松井です。
年末となり、皆様忙しい日々を送っておられることと思います。今年最後の便りは、最近英国のマスコミを賑わせた、Soham 殺人事件についてご報告いたします。少々長くなってしまい申し訳ありませんが、英国の刑事手続の特徴が具体的に分かっていただけると思います。
一 事件の概要
二〇〇二年の八月六日、England 東部の街 Soham で、二人の小学生女児が行方不明になりました。
警察総出の捜索の後、八月一七日に二人の死体が発見され、同日、二人の通っていた小学校の男性職員(二九才)が殺人の主犯容疑で、その恋人が従犯容疑で逮捕されました。
二 起訴から公判まで
二人は、当初から犯行を否認していましたが、逮捕の三日後の八月二〇日に殺人罪で起訴されました。日本と違い、起訴前の身柄拘束時間が原則三日しか許されていないためです。当然、その後に様々な客観的証拠収集が行われたものと思われます。
公判(陪審裁判)が始まったのは、二〇〇三年の一一月です。つまり、起訴後一年三ヶ月も経過しています。
このうち最初の二ヶ月は、精神鑑定に費やされています。
その後は、検察側と弁護側で、証拠開示や争点整理などが徹底的になされたものと思われます。
このことは、公判開始直後、弁護側が詳細な事実認否をしたことからもうかがえます。陪審による集中審理のためには、相当の準備期間がいることを物語っています。
三 メディアと陪審員
この事件は、二人の少女が行方不明になったときから世間の注目を集め、容疑者逮捕後は、日本と同じように憶測も交えたセンセーショナルな報道がなされていました。
そのため、弁護側は、公判開始前、「被告人らは、すでにメディアによって有罪とされてしまっている。公正な陪審裁判は期待できない」として、公訴棄却の申立をしました。しかし、裁判長は「陪審員はこれまで報道に接しただろうが、漠然としか記憶していないはず。私は、彼らが証拠だけに基づいて判断できるものと信じる」として申\立を棄却しています。ただし、報道機関に対して、偏見をもった報道をしないように警告するコメントを出しています。報道の自由と裁判の公正との兼ね合いは、どこの国でも難しい問題です。
四 陪審裁判
一一月にはじまった裁判は、六週間のあいだ、ほぼ連日開廷され、毎日次々と証拠が提出され、たくさんの証人が証言をしていました。
時には、陪審員は皆でバスに乗せられて、少女らが死亡した男性職員の家や、死体発見現場の実況見分にも連れていかれていました。
また、一度陪審員の一人が病気になったため、その人が回復するまで、数日間審理が中止したこともありました。
陪審員の心理的・肉体的負担は大変なものだろうと思いました。(もちろん検察側・弁護側も連日開廷に対応するのは大変でしょう)。
五 評議と評決
審理当初の弁護側認否のなかで、弁護側は、二人の少女が男性職員宅で死亡したこと、そのとき男性職員がその場にいたという重大な事実を認めていました。しかし二人とも風呂場で溺れて事故死したという主張でした。
ところが、その後の審理の過程で、男性職員は、「少女のうち一人が風呂場で溺れて死んだ。それを見たもう一人が悲鳴をあげたので、黙らせようと首をしめていたら死んでしまった」と供述を変遷させました。
このようなことから、私も含め、多くの新聞が、男性職員の供述を信用しておらず、有罪は間違いないといった論調でした。
しかし、審理が終わって陪審が評議にはいってもなかなか結論がでず、四日間も評議は続きました。そして、本年一二月一七日、一一対一で男性職員に対して二人の少女に対する殺人の有罪判決が出ました(英国では、一二人のうち一〇人以上の多数決で評決を出せます。ちなみに恋人については殺人従犯は無罪、偽証で有罪)。ある新聞は、「この事件で陪審員が四日間真剣に討議し、一人は最後まで無罪主張を譲らなかったということは、英国で無罪推定原則が陪審員にもよく理解されているということを示している」と評価していました。私も感心しました。
六 量刑
ご承知のように、英国では、陪審員は有罪無罪を決めるだけで、量刑は裁判官が決めます。英国は死刑制度がありませんので、最高刑は無期懲役となります(*一)。
本件も、陪審評決をうけて、裁判官は男性職員に無期懲役を言渡しました。
英国の無期懲役は、日本と同じように仮釈放がありますが、最低何年現実に服役しなければならないかは、高等裁判所の裁判官が別途決めることになっています。
本件でも、それが決まるのは来年一月とのことです。
なお、最近Criminal Justice Act二〇〇三という法律が新しくできて、連続して性的動機から子どもを殺した場合には、文字通りの終身刑が適用できることになったのですが、本件でそれが適用されるかは微妙とのことです(本件での性的動機は必ずしも立証されていません。なお後記七参照)。
(*一) 最近、野党保守党の幹部の一人が、「連続殺人犯には死刑を導入すべきだ」と主張しましたが、与党労働党はもちろん、野党内同僚からも大反発を受けていました。ある議員は「近年で最も恥ずべき政治家の発言だ。この三〇年間、もし死刑があったなら間違って処刑されていたであろう者が何人いると思うか」、と怒っていました。死刑は当分導入されないでしょう。
七 事後談
判決後、センセーショナルな事実が公表されました。
有罪とされた男性職員は、一九九五年から一九九九年までの間に八回も、一二歳から一八歳までの少女に対してセックスをしたりレイプをしたという容疑をかけられた「前歴」があったのです。
しかしこれらはいずれも証拠不十分として起訴されず、男性職員は小学校で仕事をし続けていたということです。このことに対して、世論は「いったい警察やソ\ーシャルワーカーは何をしていたのか!?」と反発が巻き起こり、政府は早急な調査を開始しました。
しかし、私が逆に感心したのは、これらの「前歴」がこれまで法廷にも全く提出されず、したがって報道もされていなかったことです(日本の刑事裁判では前歴票などですぐ出てきますよね)。おそらく、証明されていない前歴により、陪審員が予断偏見をいだくおそれがあるので厳しく制限されていたものと思われます。
八 さいごに
以上のように、英国の刑事手続では、公判開始後に集中審理は行われるものの、事前準備に十分な時間をかけたり、証拠の提出にも細心の注意が払われるため、時として裁判終了まで時間がかかってしまうことも多いようです。
このことについて、ある検察官は述べています。
「無期懲役を言渡された被告人が、その後、何を望みに人生を生きると思いますか? 自分の裁判手続に過誤があることを理由に判決を覆すことができないか、そればかりを考えるのです。そして、本当に高裁は判決を覆すのです(*二)。だから、凶悪事件ほど、手続の隅々まで気を使う必要があるのです」
(*二) 陪審の有罪評決および裁判官の量刑に対しては、当該裁判官が許可しないかぎり控訴ができません。ただし法律問題については権利として控訴ができます。
それでは皆さん、よいお年をお迎えください。