弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

ドイツ

2011年12月16日

パリ日記

著者   エルンスト・ユンガー 、 出版   月曜社

 1940年6月14日、パリはドイツ軍に占領された。以来、1944年8月25日までの4年2ヵ月あまり、その占領は続いた。
 エルンスト・ユンガーは、現代ドイツ文学の巨峰、100歳を過ぎてなお、執筆活動を続けた。そのユンガーは、1941年2月から1944年8月まで、途中の転出を除いても3年半のあいだパリに駐留していた。そのときの日記が本書で紹介されています。
 ユンガーは、ナチスとは距離をとり続けていたため、ゲシュタポから家宅捜索を受けたこともある。パリでは、参謀本部付きの将校としてホテルに宿泊していた。
 この本によると、ユンガーは文学サロンに出入りしていて、ジャン・コクトーなどの文人と広く付きあって文学論をたたかわせ、ピカソやブラックのアトリエも訪れています。当時、ユンガーは48歳、まさに男盛りでした。
 この日記には、何度もクニエボロという人物を批判する記述が出てくるので、誰のことかなと不思議に思っていたところ、巻末でヒトラーのことだと分かりました。つまり、著者は一貫して反ヒトラーだったのです。
 ただ、1944年7月20日のヒトラー暗殺計画には直接の関わりはなかったようです。それにしても、この日記には、ヒトラー批判派の人々が多く登場してきます。彼らの多くは7月20日事件で逮捕され、処刑されたのでした。
 ドイツ国防軍の上層部に反ヒトラーの気分が少なくなかったことが、この日記からも十分にうかがえます。たとえば、1944年までフランス派遣軍総司令官だったシュテルプナーゲルはヒトラーに反乱しようと失敗し、処刑されてしまいます。ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺についても目撃者となり、また、そのおぞましい真相を聞いています。
 ユンガーは1942年7月17日のパリでのユダヤ人の大量逮捕・移送についても、パリで見聞しています。先日、日本でも公開された映画が、この事件を扱ったものでした。
 両親がまず子どもたちから切り離され、悲嘆の声が町中で聞かれた。私は不幸な人たち、骨の髄まで苦悩に満たされた人たちに取り囲まれたことを一瞬たりとも忘れることができない。そうでなくても、私は何という人間、何という将校なのであろう。
 1944年6月の連合軍によるノルマンディー上陸作戦もパリにいて情報を得ています。
 1944年6月12日の日記にユンガーは次のように書いています。
 クニエボロ(ヒトラー)と彼らの一味は、まもなく戦争に勝つと予言している。再洗礼派の領袖とまったく同じである。賤民は、どのような人物たちの後ろについて走るのだろうか。一切を包括して衆愚になってしまったのは、どうしてだろうか。
 この日記を読んでいると、どこで戦争があっているのだろうかと思えるほど優雅なパリ生活をユンガーは過ごしていると思えます。それだけ、ドイツのインテリの頭脳の一端が分かる本として、面白く読み通しました。
(2011年6月刊。3800円+税)

2011年9月27日

ヒトラー『わが闘争』がたどった数奇な運命

著者   アントワーヌ・ヴィトキーヌ 、 出版   

 ヒトラーの『わが闘争』を読んだことはありません。本の名前を知っているだけです。
この本が1200万部も売れたというのに驚くほかありません。この本は内情を探り、その意味をじっくり考えています。
政治の分野で『わが闘争』ほど発行部数の多い本はこれまでにない。
1933年、ヒトラーが権力の座につくまでに、既に10万部が売れていた。第3帝国において、1200万部という恐るべき発行部数を達成していた。今でも、英語版だけで、毎年2万部の売り上げになる。
 1920年2月、ドイツ労働者党の集会で30歳のヒトラーは弁舌の才で注目を集めた。
 1921年7月、ヒトラーは国家社会主義ドイツ労働者党の党首になった。ヒトラーは、軍の命令で党に潜伏した若き放浪者だったが、古参党員を抑えて大抜擢された。
 1923年11月。ミュンヘン一揆にヒトラーは失敗し、逮捕された。このとき、ナチス側の死者は16人、警官も4人が死んだ。ところが、クーデターは失敗したものの、ヒトラーは一躍、有名人になった。そして、刑務所には収監されたものの、独房は簡素ながらも清潔な部屋であり、食堂を自由に使うことも許された。収監されている間、ヒトラーは仲間たちと豪勢な食事をとり、何不自由なく暮らした。日に2回は面会があり、10人もの面会者があった。そこでヒトラーは『わが闘争』を自らタイプライターを打ち、ときに口述筆記させた。ヘスとの共同執筆ではなく、ヒトラーが語り、ヘスは筆記しただけである。
 1920年代、テレビはまだなく、ラジオはNSDAPにとって手の届かないメディアだった。出版物や新聞こそがプロパンガンダの主要手段だった。
 ヒトラーの書いたものを、近しい者が文章を直し、手を入れ、文体を整え、思想を明確にする作業をすすめた。そして、ついに700頁に及ぶ『わが闘争』が刊行された。
 ヒトラーはインテリでも文学家でもなく、学歴もない。学校の成績は悪く、早々に学業を投げ出している。しかし、ヒトラーは書物を通して膨大な情報を集め、その際に立った記憶力で自分のものにした。
『わが闘争』には欠けている視点がある。経済力だ。当時、ヒトラーは、すでに実業家たちから援助を受けており、彼らを敵にまわすのは避けた。ヒトラーは社会主義色を薄め、クルップやティッセンといった大企業との関係を隠そうとはしなかった。
 『わが闘争』の中で使用頻度が最も高い言葉は「ユダヤ人」である。
 ヒトラーのユダヤ人嫌悪は、実に根深く、絶対的なものだ。ヒトラーはユダヤ人を非人間的な存在と見なし、人間とは異なる、動物に近い別生物のようにとらえている。
 ヒトラーは『シオンの長老の議定書』というまったくのでっちあげの本を真に受けた。この本はロシアの秘密警察がつくりあげたデマだったのに・・・。
 ドイツ国民が抱える挫折感、ヒトラー個人の挫折感などあらゆる挫折感に対して、すべてはユダヤ人のせいなのだという答えを見つけたというのが『わが闘争』であり、だからこそドイツ国民に受け入れられた。
ゲッペルスは、もともとはヒトラーに好意をもたず、ヒトラーと対立する派閥に属していた。しかし、『わが闘争』を読むと、たちまちヒトラーを「天才」とみて、その信奉者となった。
 1932年、ドイツの経済危機が政治危機を呼んだ。この政治危機こそ、ヒトラー、そしてNSDAPを権力の座に導いた最大の要因だった。「恐慌」がドイツを襲い、人々はみな不安を抱えていた。地位を失う不安、共産党に対する不安、新進勢力への不安があった。1932年末、『わが闘争』の売り上げ部数は23万部に達した。
 ヒトラーは首相になっても国費から給料をもらわないと公言し、実際に約束を守った。金融危機のもたらした多大の損失に苦しんでいたドイツの小市民たちは、ナチスの誇大宣伝を通して、ヒトラーのこの禁欲的態度を知り、大いに共感を覚えた。だが、ヒトラーは既に金持ちだったから、首相の給料など必要としなかった。『わが闘争』の印税収入だけで、数十億円もあった。
 『わが闘争』を扱う出版社であるエーア出版は従業員3万5000人という大企業となり、ドイツ国内の出版社の75%を傘下におさめていた。『わが闘争』は、ヒトラーにとって「儲かる商売」であったことは間違いない。
 ヒトラーは続編を企画したが、政権を握ったとき、「手の内」を明らかにしすぎることになるのを恐れて、続編の刊行を中止した。
ドイツ共産党は『わが闘争』に対して、まったくと言っていいほど無関心だった。
 ヒトラーと『わが闘争』の運命は驚くほど似ている。どちらも、初めのうちは信じがたいほど過小評価され、そのことがのちの運命を決めた。
 1933年、この1年だけで、100万人のドイツ人が『わが闘争』を自分の意思で購入した。企業家たちも、ヒトラーのご機嫌をとろうとして、『わが闘争』を購入して社員に配布した。クルップ、コメルツ銀行、そしてドイツ国鉄である。
 ヒトラーは、ドイツ国民が『わが闘争』を注意深く読むことを恐れた。ヒトラーが戦争を望んでいることがばれてしまうから。『わが闘争』は、「白日にさらされた陰謀」だった。あまりにも大量にばらまかれたことで人々はかえって著者の意図を明確にとらえることができなくなった。
 『わが闘争』の子ども向け版そして絵本も登場した。しかし、翻訳版については慎重に対処した。要するに、排外的なことを書いているため、それが外国人にバレるのを防ごうとしたわけです。
ヒトラーは裁判所に訴え出ることをいとわなかった。ヒトラーは、またもや民主主義を悪用し、民主的な思想を撃破した。
 ヒトラーを再評価しようという動きが世界的にあるそうです。とんでもないことだと私は思います。
(2011年5月刊。2800円+税)

2011年9月 1日

慈しみの女神たち(下)

慈しみの女神たち(下)
著者   ジョナサン・リテル   、 出版  集英社 

 プロパガンダは、確かにある役割を果たしているが、実際はもっと複雑だ。SS看守が乱暴になり、サディストになるのは、被拘禁者が人間でないからではない。逆に、被拘留者が他人から教わったような下等人間であるどころか、詰まるところは彼自身と同じ一人の人間なのだと気づくときに、看守の怒りは激化してサディズムに変化する。看守に耐えられないのは、他者が無言で持続していることなのだ。
 看守は自分たちと共通する人間性を消し去ろうとして、被拘留者を殴る。もちろんそれは失敗に終わる。なぜなら、看守は殴れば殴るほど、被拘留者が自らを非=人間とは認めまいとしていることに気づかずにいられないからだ。ついに、看守は相手を殺すより外に解決法がなくなるが、それは取り返しのつかない失敗の証なのである。
 ユダヤ人を殺すことによって、私たちは私たち自身を殺し、私たちのなかのユダヤ人を殺し、私たちのなかにある私たちのユダヤ人についての考えに似たものをすべて殺したかったのよ。私たちのなかのブルジョワ、お金を勘定し、名誉を追いかけて、権力を夢想する、そんな太鼓腹をしたブルジョワを殺し、ブルジョワ階層の偏狭で強固な道徳を殺し、勤倹を殺し、服従を殺し、奴隷の隷属根性を殺し、ご立派なドイツ的美徳をすべて殺す。なぜかというと、下劣さ、無気力、吝嗇、貪欲、支配欲、安っぽい悪意などと称して、私たちユダヤ人に特有とみなしている性質は、実は完全にドイツ的な性質であるし、ユダヤ人がそういう性質を身につけているのは、彼らがドイツ人に似たようになりたい、ドイツ人でありたいと渇望してきたからである。
 これって、言い得て妙なる指摘ではないでしょうか。ユダヤ人とはドイツ人そのものだったと私にも思われます。
元ナチ親衛隊将校の回想記という体裁の小説です。2段組400頁を超し、改行もない文章が続きますので、読みにくくもありますが、そこで描かれる生々しくも残酷な現実が目を逸らさせません。いえ、目をそむけるのを許さないのです。
 主人公は戦中を生きのびて、戦後はフランスで何十年も平穏な生活を過ごしたという設定になっています。戦争犯罪の追及が甘かったということを意味するのでしょうか・・・・・。
(2011年5月刊。4000円+税)

2011年8月25日

キリスト教とホロコースト

著者    モルデカイ・パルディール  、 出版   柏書房

 ヒトラーによるユダヤ人絶滅作戦が進行するなかで、自らの生命を賭してユダヤ人を救った人がいたのを知るのは本当に救いです。
 ホロコーストの時代、ナチからユダヤ人を救命するために自分の生命を賭した非ユダヤ人2万1000人以上が「正義の人」として栄誉をたたえられている。残念ながら、日本人はセンポチウネただ1人である。
 キリスト教の聖職者は、そのうち600人ほどです。本書は、その聖職者を主として紹介しています。
 ユダヤ教とキリスト教の関係は、まぎれもなく親密な性格を有している。そもそも、キリスト教の崇敬の主たる対象は、ユダヤ人に生まれユダヤの信仰を実践し、唯一かつ万物の造り主である神と同じ位格の神であり人であると考えられる一人の人物である。彼の直の弟子は皆ユダヤであったし、最初に彼の復活と再臨を信じたのは数千人の人々であった。
 彼の故郷ナザレにおいてのみ受け容れられなかったが、その行く先々で群衆は彼を追った。宗務当局は彼を逮捕しようとしたが、群衆の人気に押されて手を下せなかった。
 イエスについて、人々は好意的に受けとめるのが通例だった。
中世のカトリック神学者の一人であるトマス・マクィナスをはじめとする神学者たちはユダヤ人が教勢促進も挑発もせず、騒々しい戦いを避ける以外に何も望まなかったにもかかわらず、ユダヤ人を激しく非難し続けた。プロテスタントの偉大な改革者であるマルティン・ルターは、後期中世のもっとも悪質なユダヤ人迫害者の一人として突出している。うひゃあ、そうだったのですか、ちっとも知りませんでした。
 1933年1月、ヒトラーが権力を握ったとき、ドイツ全土にユダヤ人は52万人ほど、ベルリンに7割近い38万人がいた。ユダヤ人の多くはドイツ人の暮らしの中に完全に同化していた。
 ヒトラーは、自らの反キリスト教の見解を表明するのは注意深く、公衆の面前では教会の忠実な支援者という建て前を装った。
 推定で2万人のユダヤ人がドイツ国内で生きのびた。そのうちの1万5000人は地下生活に潜ることなく、非ユダヤ人配偶者との結婚によって保護された。推定5000人近くのユダヤ人が潜伏して生きのびた。
 ドイツでは、ほとんどのプロテスタント聖職者、とりわけルター派が1937年1月のヒトラーの権力掌握に際して、強い高揚感を表明した。
 フランスには30万人のユダヤ人がいて、パリには18万人いた。ビシー政府はドイツの圧力を待たずにユダヤ人を差別する法律を布告した。フランスの解放までに7万5000人以上のユダヤ人がドイツに引き渡された。フランス警察が、ドイツ軍以上に多くのユダヤ人を逮捕した事実は、フランスの名と民族的名声に汚点を残している。しかし、ユダヤ人を助けるため、カトリック司祭とプロテスタント牧師が共に連携して動いたことも事実である。フランスにおけるユダヤ人の生存率は、他の西側諸国に比べて相対的に高かった。
 1980年代のフランス映画『さよなら子どもたち』は私もみましたが、ユダヤ人の子どもたちを救おうとするフランスの取り組みが描かれています。
ゲシュタポは、ユダヤ人の所在の通報者には報奨金100から1000フランを約束していた。重要人物については5000フランだった。当時の平均月収は3000フランだったので。月収に匹敵するものだったが、人々は応じなかった。
イタリアのユダヤ人の80%はドイツ軍の占領時代を生きのびた。ファシストと呼ばれるムッソリーニ政府が1943年9月にドイツによって占領されるまでユダヤ人をナチスに引き渡すことがなかったことをはじめて知りました。イタリア人は、ナチの論理にしたがって、ユダヤ人として生まれたことだけを理由として人間の命を奪い取る気になれなかった。そのため、官僚的な口実や嘘をふくめ、想像しうる限りのありとあらゆる計略、逃げ口上を弄して、ドイツの要求に応じなかった。
 うへーっ、すっかりイタリア人を見直しましたよ。たいしたものです。
 イオニア海にあるザキントス島では、ドイツ人将校がやって来てユダヤ人の引き渡しを求めたとき、カトリックの主教がユダヤ人リストに自分の名前を目の前で書き加え、「あなたは私を逮捕できる。それで満足できないのなら、私もユダヤ人と共にガス室に直行するつもりだ」と宣言した。ドイツ軍将校はあっけにとられ、折れた。
 560頁もの大部な本です。キリスト教会がユダヤ人絶滅にいかに関与したのか、よく分かる本となっています。
 バチカンはユダヤ人絶滅策が進行していることを熟知していたにもかかわらず、公にホロコーストを非難することはなかった。しかし、イタリア全土のカトリック施設に数千人のユダヤ人をかくまっていた事実はある。
 ユダヤ人絶滅について、キリスト教会が全体として手をこまねいていたことは争いようのない事実です。しかし、そのなかでも、個々の聖職者は自分の生命と家族を危険にさらすことを承知しながらユダヤ人の救出にあたっていたのでした。その矛盾をどう考えたらいいのかを改めて考えてみました。
(2011年5月刊。4800円+税)

2011年8月23日

慈しみの女神たち(上)

著者  ジョナサン・リテル    、 出版  集英社 

 ずっしり重たい本です。読みすすめるのが辛くなる物語です。
 上巻だけで上下2段組、500頁あります。ユダヤ人を大量虐殺したナチ親衛隊将校の手記という構成なので、大虐殺状況を目撃して、それをずっとずっと語っていくのです。気が滅入ってしまいます。
いくらユダヤ人を豚以下の存在だと言われても、目の前にいるユダヤの人々はやはり同じ人間なのだから、どうしても、そこにためらいが生じる。
女性や、それ以上に子どもたちの場合、私たちの仕事はときに非常に困難で、胸を抉られるようなものとなった。兵士たちは絶えず不満を漏らしており、とりわけ家族のいる年長のものたちがそうだった。無防備なあの人々、子どもたちを護ることもできず、ただ殺されるのを見ていなければならない。そして子どもたちとともに死ぬことしか出来ないあの母親たちを前にして、わが軍の兵士たちは極度の無力感に苛まれ、自分たちもまた無防備であることを感じていた。
このような状況に何ヶ月もさらされたなら、健康な精神の持ち主であれば、後遺症、それもときに重大な後遺症に見舞われないことは不可能なのだ。
あるSS少尉は正気を失い、幾人もの将校を殺害したのちに、自らも射殺された。上層部は前代未聞の命令を下した。良心からにせよ、弱さからにせよ、ユダヤ人を殺すことを自らに課すことが出来ないものは、他の任務への配属や、さらにはドイツの送還のために全員が幕僚部へ出頭しなければならないというもの。
恐るべき虐殺が証明していることがひとつあるとすれば、逆説的なことに、それはまさに人類の、痛ましい、変わることのない連帯である。
 どんなに獣のようになり、どんなに慣れてしまっても、我々の兵士の誰ひとりとして、自分の妻、妹、あるいは母を思うことなしにユダヤ女性を殺すことはできないし、目の前の穴に自分自身の子どもたちの姿を見ることなしにユダヤ人を殺すことはできない。
彼らの反応、彼らの暴力、アルコール中毒、神経衰弱、自殺、私自身の悲しみ、これらすべてが証(あかし)立てているのは、他者が存在すること、他者として、人間として存在することであり、また、どんな意志も、どんなイデオロギーも、どれだけの量の愚行やアルコールも、細いけれども堅固なこの絆(きずな)を断ち切ることはできないということだ。これは事実であって、意見ではない。
38歳のアメリカ人が大量の本を読みつくして4ヶ月で書きあげたというのです。恐るべき筆力です。
(2011年2月刊。1000円+税)

2010年12月 9日

ヒトラーとシュタウフェンベルク家

著者:ペーター・ホフマン、出版社:原書房

 映画「ワルキューレ」は残念ながら見逃してしまいました。なるべく話題作の映画はみたいと思っているのですが、それなりに仕事をかかえていますので、なかなか思うようにはいきません。
 この本を読むと、ドイツ国防軍のなかはナチス・ヒトラー一辺倒ではなかったことがよく分かります。少なくともヒトラーへの幻想がさめてからは、反ヒトラーの気分が横溢していたようです。それは、対ソ連戦で予想外に大敗してしまったこと、ユダヤ人の大量虐殺現場を見てしまった(知った)ことによるようです。
 ヒトラー暗殺に失敗してしまったけれど、あと一歩で成功するところではあったシュタウフェンベルクは、ドイツの由緒正しい貴族出身でした。ヨーロッパでは現在なお貴族の家柄が生きているそうです。そのときの条件は背の高いことだそうですので、私などは、それだけでなれないというわけです。ずんぐりむっくりの貴族というのはいないのです。
 ダンケルクからイギリス軍の逃走を許してしまったことについて、シュタウンフェンベルクは、マンシュタイン将軍の功績と考え、ダンケルク戦についてヒトラーを非難した。ヒトラーの誤った命令のせいで、敗走するイギリス軍を逃した。軽蔑をこめてヒトラーを非難した。ヒトラーについて、決して軍事専門家とは認めなかった。ただ、その軍事的才能は認めていた。
 1942年5月、シュタウンフェンベルクは、ユダヤ人の大量虐殺を知り、ヒトラーを排除しなければならないと考えた。上級将校には、それを実行に移す義務があると信じていた。
 1942年8月、シュタウンフェンベルクは親友のヨアヒム・クーン少佐に、ユダヤ人などへの扱いを見ると、ヒトラーの戦争が醜悪であること、ヒトラーが戦争の原因について嘘をついていたこと、したがってヒトラーは排除されるべきだと語った。
 ただし、1942年にはドイツで1000人をこえる将兵が軍法会議で死刑に処せられていた。ヒトラー反対を唱えるのは、とても危険なことだった。
 1943年4月、シュタウンフェンベルクはアフリカのロンメル軍団のなかにいて、イギリス軍の爆撃で倒れた。右手の手首から上を切断し、左手の小指と薬指、そして左目も切除しなければならなかった。
 この年、1943年2月、ミュンヘン大学で「白バラ」グループの反戦活動が発覚し、首謀者たちは死刑(斬首)に処せられていた。
 ヒトラーを打倒するには、精力的な中心組織と強力なリーダーシップが必要だが、それに欠けていた。
 ヒトラーは、グデーリアン大将、クルーゲ元帥などを大金で買収した。
 ヒトラーを暗殺したとの暫定的な元首・軍の最高司令官は、ベック大将が引き受けることになっていた。
 ヒットラー暗殺を志願する若手の将校はたくさんいた。しかし、彼らはヒトラーに近づくことが出来ない。
 シュタウンフェンベルクは、ヒトラー暗殺に成功したら、生きてベルリンに戻ってクーデターの指揮をとる必要があった。
 ヒトラー暗殺計画はよく練りあげられていました。しかし、結局のところ、制度を運営する人間が肝心です。シュタウンフェンベルクは、すさまじいほどの緊張の下で生きていたようです。よくぞそれに耐えて実行したものです。
 ヒトラー暗殺計画について、さらに少しばかり戦場感覚をつかんだ気がします。
(2010年8月刊、3200円+税)

2009年12月30日

武装親衛隊とジェノサイド

著者 芝 健介、 出版 有志舎

 パウル・カレルという有名な戦記作家がいます。『バルバロッサ作戦』などの著者です。このカレルが、元ナチ党員で、親衛隊(SS)の中佐だったということを初めて知り(認識し)ました。
 このカレルは独ソ戦を戦い抜いたドイツ国防軍は、戦争犯罪を犯しておらず、軍兵士とまったく変わらなかった武装親衛隊(SS)兵士も同様にユダヤ人大虐殺などの犯罪にコミットしていないという伝説をまき散らした。
 この本は、その伝説がまさしくウソであることを克明に明らかにしています。
 独ソ戦開始後、ソ連にいたユダヤ人に対してジェノサイドを初めて展開したのは、フューゲライン(ヒトラーの妻となったエーゲ・ブラウンの妹の夫となった。終戦直前にヒトラーを裏切った罪によって銃殺された)麾下の武装親衛隊騎兵旅団だった。文字どおりユダヤ人専門の射殺部隊だった行動部隊の構成員のなかでもっとも多かったのは、武装親衛隊兵士だった。絶滅収容所への強制移送作業の中心を担ったのも、収容所での殺戮に直接関与したのも、圧倒的に武装親衛隊だった。
 ツィクロンB(毒ガス)によるアウシュヴィッツ収容所でのユダヤ人などのガス殺作戦も、武装親衛隊が決定的に関わっていた。武装親衛隊は、ユダヤ人ジェノサイド実行部隊の中核をなしていた。これらの事実は打ち消し難い。
 アメリカは、初めナチスドイツ軍の戦争犯罪追及に熱心ではなかった。しかし、1949年、ナチスドイツ軍の最後の大反攻中、ベルギーのマルメディで捕らえたアメリカ兵71人を射殺した事件を知って、ナチスドイツ軍のイメージを大転換し、ニュルンベルグ裁判へと進めて行った。そうなんですか……。そういえば、ユダヤ人を絶滅収容所でナチスが大量虐殺しているのを知りながら、アメリカは何の手もうちませんでした。
 親衛隊に入るためには、身長170センチ以上、30歳まで、身体適格を証明する医療証明が必要であった。
 自らの軟弱さが暴露されるのを恐れ、昇進のチャンスがなくなることを恐れるために、命令を実行し続けるSS隊員は多かった。除名、追放という代価を払ってまで、忠誠義務・服従義務を疑ってみるだけの自発性を持ち合わせた隊員はほとんどいなかった。
 1941年6月22日、ナチスドイツ軍は宣戦布告なしにソ連へ攻め込んだ。ドイツ軍の捕虜となったソ連軍兵士350万人の6割が死亡したが、これは異常に高い、高すぎる。
 アスファルト兵士という言葉があるそうです。ヒトラーを前にパレードしかやらない。血を流す経験もせず、ただ綺麗な舗装道路を行進するだけの存在。ドイツ国防軍が武装親衛隊を揶揄した言葉のようです。でも、事実はそんなものではなかったのです。ユダヤ人大虐殺の実行犯の集団だったのです。ただ、その点はドイツ国防軍も責任を免れないわけです。
 国民大衆に情報が行きとどかないときには、大変な惨禍が生じるものですよね。
 
(2009年6月刊。2400円+税)

2009年11月19日

映画大臣

著者 フェーリクス・メラー、 出版 白水社

 ナチスのゲッベルスは、毎日詳しい日記をつけていたのですね。それも、他人に読まれることを意識していたとは驚きです。秘書に口述筆記させたり、また、出版社に専属契約して多額の印税をせしめたり……。日記の持つ私的なイメージとは、かなり異なります。
 それでもゲッペルスの書いたものである以上、そこには真実が反映しているのでしょう。その膨大な日記を全部読んで分析したというのですから、たいしたものです。
 この本は、ナチスの宣伝大臣ゲッペルスと映画との関連に焦点をあてています。ヒトラーもゲッペルスも映画が大好きでした。アメリカ映画の大ファンだったようです。そして、ナチス・ドイツの考え方を映画に反映したかったのです。
 ヒトラーが好んでいたアメリカ映画が、なんとウォルト・ディズニーのアニメ作品だったというのです。とんでもない、信じがたい話です。かの『白雪姫』まで、アメリカから輸入していたようです。
 ところが、映画界は、アメリカ(ハリウッド)だけでなく、ドイツでも、あの「いまいましい」ユダヤ人がその才能で「牛耳っていた」のでした。そこで、ヒトラーもゲッペルスもユダヤ人絶滅政策を映画界では緩和せざるを得なかったのでした。だって、そうしないと、ドイツの一般大衆からソッポを向かれてしまい、映画館に人々が足を運んでくれないのですから、仕方ありません……。ナチスのいいかげんさは、ここにも表れています。
 映画館の観客、つまりドイツ国民は、ナチズム色が強いほど信用しなかった。
 ユダヤ人を映画界から追放したため、ドイツ映画のレベルが低下し、ヒトラーが皮肉を言ってゲッペルスが弁解に追われるという状況だったようです。とんだ歴史の皮肉ですね。
 ヒトラーと同じく、ゲッペルスも、ドイツ国民に絶望することがたびたびだった。
 ゲッペルスは、ソ連の「戦艦ポチョムキン」を評価しつつ、ドイツ映画の不出来を嘆いた。
 ゲッペルスは、1945年4月22日、妻マグダと5人の子どもたちと一緒にドイツ帝国宰相官房の地下にしつらえてあった「総統」防空壕に引っ越した。そして、ゲッペルスはヒトラーが自殺した翌日、家族を道連れに命を絶った。
 このあたりは、『ヒトラー最期の10日間』という最近の映画に描かれていました。
 ゲッペルスは、20年以上ものあいだ、毎日1時間以上日記をつけていた。ゲッペルスは自筆で20冊の日記をつけ、口述筆記でタイプ打ちされた3万5000枚の日記を残した。その大部分は、戦後、ソ連に持ち去られた。
 ゲッペルスの日記は、熱狂的で大仰な文章が大変多い。しまりのない、乏しいキーワードだけで綴られた貧弱な言葉の日記である。
 ゲッペルスの日記には、ヒトラーに対するグロテスクなほどの賛歌が目立つ。
 ゲッペルスの妻マグダは、夫の浮気を止めさせようと、上司であるヒトラーに仲介を依頼した。しかし、その妻も秘書官と浮気していたのでした。
 ナチスのユダヤ人絶滅政策が、映画製作の分野でも、実は破綻していたことを示す本でもあると思いました。
 
(2009年6月刊。4500円+税)

2009年10月24日

縞模様のパジャマの少年

著者 ジョン・ボイン、 出版 岩波書店

 映画を見損なったので、せめて本を読もうと思ったのでした。ナチスがつくったユダヤ人の強制収容所には、いくつかの種類があったようです。選別して殺すだけの絶滅収容所。働かせられる労働者を選別して働かせていた強制労働所です。
 この本は、恐らく絶滅収容所を舞台にしているのでしょうか、実際にはあり得ない、収容所内外の子どもの交流を描いています。収容所の責任者として家族連れで着任してきたナチス親衛隊の高官には、9歳の息子と12歳の娘がいたのです。その9歳の男の子が、友達ほしさに収容所周辺をうろうろしているうちに、縞(しま)模様のパジャマを着た少年と仲良くなってしまうのです。
 実際、収容所の周辺にいた人々との交流が皆無ではなかったようです。でも、子どもが1対1で話し込む状況というのは、いくらなんでもありえなかったのではないでしょうか……。
 しかし、あり得ないことを本の中では可能として、それを通じていろんなことを考えさせるのが作家の腕前です。この本を書いた著者は、なんと1971年にイギリスで生まれています。やはり、想像力が豊かなのです。
 ありえないことを、ありえることとして、ナチス高官の息子が収容所に入れられて死を待つユダヤ人の子どもと交流したらどういう展開になるのか、それを考えさせてくれるのです。やはり、映画そのものを見たかったものだと思ったことでした。
 
(2009年5月刊。1800円+税)

2009年10月13日

アウシュヴィッツでおきたこと

著者 マックス・マンハイマー 、 出版 角川学芸出版

 1920年にチェコスロヴァキアで生まれたユダヤ人が生き延びた体験を語った本です。著者は1943年にアウシュヴィッツへ入れられ、労働用ユダヤ人としてワルシャワ、そしてダッハウ収容所に入れられました。家族は8人いましたが、弟を除いて全員が収容所で死亡しています。
 殴打、下痢、高熱……。死人、死人、死人、死人、死人、死人、死人、死人、死人、死人、死人、死人、死人、死人、死人、死人、死人……。
 この本で著者が書いただけ書き写しました。収容所のなかが少しでもイメージできるようにと思って書いたのです。
 飢餓と汚水が私たちの隊列のメンバーをひとりまたひとりと、どんどん減らしていった。
 一番抵抗力の強かったのは、ポーランドから移送されてきたユダヤ人たちだった。彼らは、もともと職人や作業員だったから、肉体的にもはるかに優れていた。オランダ人やチェコスロヴァキア人のような軟弱体質ではなかった。
 収容所の一日は、何もせずにバラックの前にただ立っていることと、シラミ検査、ほんの一握りの配給食をむさぼり食うことで過ぎていった。
 この本には、まさに奇跡そのものの話が紹介されています。
 ナチスは、収容所についたユダヤ人からすべてを奪います。持っていたトランクの中身全部です。ところが、トランクのなかを点検したユダヤ人が、一枚の写真を見つけました。なんと、友人の家族がうつっていた写真なのでした。そして、その写真を友人に渡すことができたのです。その写真がこの本の表紙を飾っています。いかにも裕福で賢そうな家族です。この人たちが、ユダヤ人だというだけで人間扱いされずに虐殺されたなんて、信じられません。
 ユダヤ人大虐殺は嘘だったなどと言う人が今もいることに私は驚き、かつ、呆れます。真実に目をふさいでしまったら、この世は終わりではないでしょうか。
 著者は収容所で病気で倒れたあと、ナチスの医師の選別の前に立たされます。労働不能と判定されるとガス室行きです。医師によって労働不能と判定された直後、著者は恐る恐る、「話があります。仕事させてください」と申し出たのです。その医師は、疑わしそうな目で著者を見たあと、「まあ、いいでしょう」と言ってくれたのでした。これで助かったのです。最後の最後まで、あきらめてはいけないということなんですね。大変な教訓です。
 この本の救いは、大虐殺のなかを生き延びた人がいて、今もそのことを語り続けているという事実です。いやはや、たいしたものです。すごいです。

 土曜日に鹿児島に行ってきました。弁護士会の主催する憲法シンポに参加しました。東京新聞の半田滋記者のスライドをつかいながらの講演は、日本の自衛隊の実情を知ることが出来て、大変勉強になりました。
 半田記者によると、北朝鮮は日本に侵攻する能力はまったくないし、防衛省もそんな想定はしていないということです。空軍のパイロットはジェット燃料がないので訓練飛行もろくにしていない。ロケットも目標にあてる精度は高くない。海軍の艦船は弱体であり、海上自衛隊は演習したらたちまち大勝利してしまい、今では演習もしていない。陸軍は人数こそ多いが、日本に攻めて行くことは想定していない。
 ただ、朝鮮半島有事のとき、人口の1%が難民化すると言われていて、20万人の難民の多くが日本にやってきたとき、そのなかに特殊部隊員が混じっていたら厄介になる。といっても、それは北朝鮮が攻めてくるという話ではない。
 なるほど、北朝鮮の脅威をあおるのは一部の政治家がためにするものなんですね。
 このシンポジウムのとき、オバマ大統領へのノーベル平和賞について、まだ実績をあげていないから辞退すべきだったという話が出ました。しかし、核問題では下手な「実績」は怖いことを意味しかねません。なるほど、アメリカはイラクやアフガニスタンで侵略戦争をしています。しかし、核廃絶を呼びかけたオバマ大統領はえらいし、みんなで後押しする必要があると私は考えています。その意味で、ノーベル賞委員会も偉いと思います。


(2009年7月刊。1500円+税)

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