弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
朝鮮
2025年3月21日
加耶/任那
(霧山昴)
著者 仁藤 敦史 、 出版 中公新書
古代の朝鮮半島に大和朝廷の出張拠点として「任那(みまな)日本府」があったという近年までの通説は現在、明確に否定されている。私もここまでは認識していました。
この本によると、「日本府」の「府」というのは「臣」だそうです。つまり、「日本府」は「倭臣」なのです。大宰府というと、大宰府政庁があって、九州における大和朝廷の出先官庁でしたが、それとはまったく異なるものです。
そして、「倭臣」といっても、大和王権(朝廷)とは独立した存在であって、臣従関係にはありませんでした。
5世紀後半の雄略天皇以降、加耶(かや)諸国には倭系加耶人が多く居住していたが、ヤマト王権とは独立した存在として、加耶諸国の独立を維持する活動をしていた。つまり、新羅(しらぎ)と百済(くだら)の侵攻を排除し、加耶諸国の独立を維持しようとしていた。
朝鮮語では、カヤ(加耶)とカラ(加羅)の発音は通用する。狗邪(くや)韓国も同じ。
高句麗の広開土王の功績を記念して建設された広開土王碑が今の中国吉林省集安市に残っている。高さ6.4メートルの方柱碑。四面に1775字が刻まれている。
この碑文については、日本の軍人が石灰を塗布して文面を一部改ざんしたという説もあったが、現在では改ざんは否定されている。ただし、広開土王の業績を誇るため、「倭」の脅威が誇張されていると考えられている。つまり、広開土王碑の碑文から、大和朝廷が任那を支配していたとすることはできない。
朝鮮半島の西端には前方後円墳が存在する。これは、5世紀後半から6世紀前半にかけて筑紫(つくし)出身の倭系の人々がつくったものと考えられるが、ヤマト王権の任那支配とは関係ない。
古代朝鮮に大和(ヤマト)朝廷(王権)の支配する拠点はなかったとしています。それでも朝鮮半島の南部に北部九州の倭人が進出していて、交流していただろうともしています。
筑紫の君・磐井(いわい)の反乱もあったわけですから、大和朝廷が日本を統一したうえで、朝鮮半島の一部まで支配していたかのような考えが明確に否定されています。大変勉強になりました。
(2024年12月刊。990円)