弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(明治)

2024年12月22日

鍋島閑叟と江藤新平


(霧山昴)
著者 毛利 敏彦 、 出版 明治維新史研究会

 幕末のころ、佐賀藩は鉄製大砲の鋳造に成功し、長崎砲台に備え付けた。
 江戸幕府も品川の沖合に砲台をつくって大砲を並べることにした。それで、佐賀藩に200門を至急つくるよう注文した。一度に200門は無理なので、佐賀藩はまず50門を納入した。つまり、江戸湾品川台場に備え付けられた大砲は佐賀藩が製造した鉄製の大砲(アームストロング砲)だったのです。
 そして、明治維新を迎え、鍋島閑叟は岩倉具視とともに大納言になった。つまり、明治新政府は、岩倉・鍋島連立政権だった。
 この鍋島は岩倉と個人的にも親しく、岩倉は二人の子を鍋島に預けて教育してもらった。鍋島は長崎に宣教師のフルベッキに英語学校で教えてもらっていたので、岩倉の長男・次男も、そこで勉強している。
 ところが、鍋島閑叟は病気のため明治4(1871)年に58歳で亡くなった。
 このとき、葬儀委員長になったのは江藤新平。候補者のなかで身分は一番下だったのに、閑叟がもっとも信任していたことから選ばれたのでした。
 そして、岩倉も閑叟を通じて江藤新平を深く信頼していたのです。
 明治新政府で江藤新平は学校制度について、国民皆教育を打ち出し、また、初代司法卿として、行政と司法の分離、裁判所の設置、検事と弁護士制度の新設、さらには日本人の人権のための司法を目ざした。このような流れを大久保利通は江藤新平を抹殺することによっておし止めようとした。
 なーるほど、まったく知らない話のオンパレードでした。
(2005年9月刊。非売品)

2024年12月 8日

佐賀戦争、130年目の真実


(霧山昴)
著者 毛利 敏彦 、 出版 明治維新史研究会

 佐賀に行って出会った冊子です。いま、佐賀では江藤新平の見直しがすすんでいるそうです。そして、江藤新平が刑死することになった「佐賀の乱」も「佐賀戦争」と呼び名が変わりました。
 佐賀戦争は明治7(1874)年2月に起きた。5300人が出動した政府軍側の戦死者184人、負傷者174人。これに対して、佐賀士族の戦死者も173人、負傷者170人です。双方、同じくらいの死傷者が出ました。
そのきっかけとなったのは、佐賀士族が小野組を襲って官金20万円を略奪したとされている件です。-実は、県と小野組とのあいだでお金が動いたことはあっても、略奪されていないというのです。2月11日の電信で、「金みなある。安心すべし」と東京に知らされています。
 ところが、大久保利通は、土佐出身の岩村高俊を佐賀県の県令に抜擢(ばってき)して、熊本鎮台に兵を出させ、この兵を率いて佐賀県庁に乗り込み、江藤新平たちを呼び出したのです。いわば挑発したのでした。それに対抗して江藤新平たちは急に戦争準備を始め、ついに戦争が始まりました。
 要するに、大久保利通は岩村を鉄砲玉として利用して、江藤新平の抹殺を狙ったのです。なぜか...。
 大久保利通は、江藤新平のすぐれた能力・頭脳に対して異常な嫉妬心をもち、憎んでいた。三条実美・太政大臣も岩倉俱視右大臣も江藤新平に対して絶大な信頼を寄せていた。江藤新平が政府に復活したら、明治政府のトップは江藤がなり、薩摩閥はその下に扱われる心配がある。そこで、江藤新平は抹殺された。
また、このころ、民戦議院建白が動いていた。江藤新平は地元の佐賀に戻って、自由民権運動の組織をつくろうとしていた。大久保利通は、民選議院が設立されることを大いに恐れていた。うむむ、そうだったのですか...。
(2005年3月刊。非売品)

2024年10月22日

二〇三高地


(霧山昴)
著者 長南 政義 、 出版 角川新書

 日露戦争が始まったのは1904年(明治37年)2月。同年6月から翌年1月まで190日間も続いた旅順をめぐる戦闘で、日本軍はのべ16万人の将兵を投入し、6万人もの死傷者を出した。まことにむごい戦闘です。大勢の日本人青年が機関銃に向かって突撃させられ、死んでいったのでした。私も現地に行って、戦争のむごさを体感しました。
第三軍の司令官であった乃木希典について、長く名将とされてきたが、他方で、突撃を繰り返す人海戦術による大量の戦死者を出したことから愚将とする見方も有力となっている。この本は結論として、愚将説をとっていません。むしろ、この本では陸軍の指導部の認識不足と情報不足をまずもって問題としています。
 旅順要塞の構造を強固な野戦築城程度としか認識せず、その攻略を安易に考えていた。つまり、旅順要塞の強度判断に誤りがあった。そして、旅順のロシア軍兵力を1万5千人とみていて、実際にいた4万2千人よりかなり低く見積もっていた。
 当時55歳の乃木希典が第三軍の司令官に就任したのは順当で常識的な人事であり、落閥人事とか無理な人事というものではなかった。
著者は、むしろ軍参謀長の伊地知(いぢち)幸介に問題があったとしています。ぜん息もちの伊地知は、前線の巡視、偵察活動をあまりしなかった。伊地知は優柔不断な性格。「決心の遅鈍」な伊地知は、自分の意見をはっきり表明しなかった。
 日本軍は当初、砲弾数が少なく、継続した砲撃は不可能だった。それで、将兵の突撃攻撃を命じざるをえなかった。また、砲種も砲弾も強力な効果をあげる能力がなかった。前述したとおり私は二〇三高地の現地に立ったことがあります。さすがに感慨深いものがありました。
日本軍の死傷者の75%が銃創、主として機関銃によって突撃が阻止された。
 さすがの日本軍も、「要塞に対しては強襲的な企画はほとんど成功の望みがない」という教訓を得た。そこで、大本営は8月下旬、28サンチ榴弾砲を要塞攻撃に投入することにした。この28サンチ榴弾砲は、砲身だけで11トンもの重量があり、大口径重砲を山上まで運び上げる必要がある。結局、人力で運び上げた。速度は1時間あたり、700~800メートルだった。そして、10月1日から、二十八サンチ榴弾砲を据え付け、試し撃ちをしたところ、予期した以上の命中精度があり、破壊力が高いことが判明した。命中率は55%。
 この二十八サンチ榴弾砲は6門から18門に増強された。ただ、この二十八サンチ榴弾砲には不発弾が多いという欠点もあった。
 第3回の旅順総攻撃のときは、突撃した歩兵たちは1時間に平均して1キロしか進めなかった。
 この日本軍による旅順総攻撃に際して、乃木希典の子ども二人も戦死しています。
 日本軍の手投弾は、ロシア軍のそれより著しく劣っていた。
乃木と児玉の関係は...。西南戦争のとき、乃木は軍旗を西郷軍に奪われ、その責任をとるため切腹しようとした。それを児玉が止めた。このことから、二人には深い信頼関係があった。
 日本軍とロシア軍は結果として消耗戦を戦った。攻囲下にあって兵力の補充のできないロシア軍は消耗戦で敗れた。こういう見方が出来るのですね...。
 第三回総攻撃による日本軍の死傷者は1万7千人。二〇三高地攻略戦で主役をつとめた第七師団の損害は大きく、減耗率は56%に達した。ロシア軍の手榴弾が猛威を振るった。
乃木には戦術的な判断ミスはたしかにあったが、決断力はすぐれていた。
 第一回の総攻撃で全軍の3割もの死傷者を出して失敗したあとも、乃木司令官に対して不満の声が上がらなかった。それほどの統率力が乃木にはあった。第一線を絶えず巡視して将兵をねぎらっていた効果だろう。そして、戦死傷者を多く出したこと、自己の失敗に対する旺盛な責任感があった。
 乃木は軍司令官として名称と評されて然るべきだというのが著者の結論です。新しい資料も紹介していて興味深い記述が満載でした。
(2024年8月刊。1056円)

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