弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
インド
2024年10月14日
インドの台所
(霧山昴)
著者 小林 直樹 、 出版 作品社
インド各地の民家に入れてもらって、その台所を視察し、ついでに家庭料理をふるまってもらうという迫力あふれた体験記です。
ちょっと私には真似できません。それが出来るのは、ともかく30年来、インドに通いつめているからでしょう。インド各地のコトバもかなり出来るようです。でなければ、台所に入っても会話が成り立ちませんよね。
多くのパンジャーブ人は、今でも薪火でつくった料理をありがたがる傾向が強い。インド人一般が加工食品へ不信感をもっている。コルカタという大都会にある高級住宅街でも、ガスの調理より薪火のほうが健康的だし、素材にガスの臭いが移らないから料理も美味しく仕上がるから...。
スロークッキングされた料理は、単に味が良くなるだけでなく、健康に良いと信じているインド人は少なくない。逆に、ガスで手早く調理した食べ物は身体に良くないと発想する。同じ理由で、冷蔵庫も多用しない。肉や野菜などの生鮮食品は常温のものをなるべく冷蔵保存せずに使い切ろうとする。「冷たいものは身体に良くない」という考えから、瓶ビールも常温で売られていた。
レストランの厨房で働いているのは全員が男性。ところが、男性は、家庭内で調理した経験がないのがほとんど。調理経験ゼロの状態で店に入る。
インド料理の作り手は、その店のレシピがこなせれば、国籍は不問。インド国内の厨房で働いているネパール人は多い。
南インドのケーララではキリスト教徒だけでなく、ヒンドゥー教徒も牛肉をよく食べている。北インドのヒンドゥー教徒に聞かせたら驚くような話だ。ケーララでも、昼ごはんが一日の食事の中心。
保守的なインドでは、自宅内で初対面の客のもてなしにいきなり酒を出すことはあまりない。妻が客にお酌をする習慣もない。インドでは、酒は背徳性の高い存在。
ところが、ネパールは違う。カトマンズでは、どの食堂に入ってもビールが飲める。酒に対する寛容度が違う。
インド料理の本場では、本物のバナナの葉の上に料理を載せて並べる。ところがバナナの葉を模した紙皿が高級的で使われている。というのも、紙皿のほうが日常性を感じさせないから...という。ちょっとよく分かりませんよね。
そして、バナナの葉をテーブルにどう置くのかも決まっている。バナナの葉の先端部分が頭で、葉柄が右の横向きが正しいとされている。ところが、実際には、店によって、テーブルにてんでんバラバラに置かれている。
それにしても、バナナの葉の上に熱々のライスなどが載せられて湯気とともにモワッと顔面に漂ってくる芳香が食欲をくすぐる大切な要素の一つだという説明には驚かされました。そんなこと、考えたこともありませんでした。
行く目的の家がないときには、乗ったタクシーの運転手と話して、その自宅に連れていってもらうこともあるというのです。すごい行動力ですね。圧倒されました。
写真がまた素晴らしい本です。
(2024年8月刊。2700円+税)
2024年10月 2日
ブッダという男
(霧山昴)
著者 清水 俊史 、 出版 ちくま新書
2500年前、北インドにゴータマ・シダッタ(サンスクリット語では、ガウタマ・シッダールタ)が生まれた。ブッダである。
シャカ族の王子として生まれ、裕福な生活を送っていたが、輪廻(りんね)の苦しみから逃れるべく、出家した。修行の末、35歳のとき悟りを得てブッダとなった。その後、45年間の伝道の末、80歳で死亡。
天上天下唯我独尊。この世で自分こそが尊い。私は世間でもっとも優れた者である。ブッダは、初期仏典のなかで自画自賛を繰り返している。
現代的な価値観に合致した人間ブッダを考えたら、神格化の間違いを犯してしまう。はるか昔の常識は、現代の常識とはまた違うことに留意すべき。
日頃の振る舞いの良い仏教信者でなければ、生命(いのち)の値段は「1人」として数えられない。邪教を信じて行動するタミル人たちは、獣に等しいから、いくら殺しても「人殺し」として計上されない。生命の価値に貴賤(きせん)を設ける、このような考え方は古代において珍しいものではない。
弟子のアングリマーラは、大量殺人鬼であったにもかかわらず、出家が許され、しかも世俗的な刑罰を受けることなく悟りを得ている。
ブッダは戦争の無益さを説いたが、王に対して戦争そのものを止めるよう教えてはいない。古代インドにおいて、国を支配し、武器をもって戦うことは、武士階級に課せられた神聖な生き方として認められていた。これがブッダが戦争を非難し、止めなかった理由である。
ブッダは、現代的な意味で、暴力や戦争を否定したわけではない。ブッダは漁師や狩人など殺生を生業とする人々も在家信者になれるとした。不殺生と殺生は相矛盾しながらも、両立する。古代インドにおいては、征服戦争も、武士階級である神聖な生き方として認められていた。
ブッダは、業と輪廻の実在を深く信じており、苦しみの連鎖から抜け出すことを真剣に考えていた人間である。
ブッダによるカースト批判は、司祭階級批判の一つ。
ブッダによるカースト批判は、貧困問題の解消や富の再分配を意味しない。仏教が強調しているのは、スーストを問わず、出家すれば悟ることができるという、聖の側の平等であって、俗の側の平等ではない。
仏教教団の序列は、出家前の階級にもとづくものではなく、出家してからの年月も応じて決まる。
インドの憲法を起草したアンベードカルは、50万人の不可触民とともに仏教に改宗した。現在インドには800万人以上いる、新仏教運動の母体となった。
初期仏典には、ブッダが女性を蔑視しているものが複数確認される。現代的な価値観からすると、初期仏典に現れるブッダは、明白に女性差別者である。
托鉢修行者たちよ、女は、歩いているときでさえ、男心を乗っ取る。女性は男性を墜落させる原因であるというのが、古代インド一般の理解である。初期仏典も、その理解にしたがい、男性の修行の妨げになるという点から、女性は批判されている。
ちなみに、キリスト教の聖書でも、女性蔑視の表現が多数あり、カトリック教会では、今なお女性は司祭につけない。ふむふむ、そうなんですか...。
仏教は、バラモン教と対立する沙門宗教の一つとして生まれた。
バラモン教では、死んだら雲散霧消するので、死後の生活などありえない。
ブッダは、決して不可知論者ではない。ブッダは一面智者として、懐疑論者を破折(はしゃく)する。
仏教は、コツ然と生まれたのではない。バラモン教を頭ごなしに否定するのではなく、彼らの築きあげた世界観を引き継ぎつつ、それを再解釈し、仏教の優秀性を強調した。
仏教、そしてブッダの真の姿をとらえようとする新書でした。ブッダが生きていたころの政治、社会状況をきちんと踏まえることの大切を自覚させられました。
(2023年12月刊。880円+税)
2024年9月 8日
アーリヤ人の誕生
(霧山昴)
著者 長田 俊樹 、 出版 講談社学術文庫
新インド学入門というサブタイトルのついた刺激的な文庫本です。
本論に入る前に、最後の補章にある論述がとても印象に残りました。文系と理系の研究のすすめ方の違いです。理系では再現可能性の有無が重要になる。同じ条件なら、誰がやっても同じ結果が得られなければならない。しかし、文系ではそんなことは必要ない。ひたすら、独創性があるかどうかがカギとなる。理系の評価基準で文系の成果物を「零点」と評価するのは、おかしい。なーるほど、そうですよね。文系では、誰がやっても同じ結果というのを求められることはまずありません。
ついでに言えば、私が50年にわたって扱ってきた裁判では、民事も刑事も、双方の主張がくい違っているとき、どちらが正しいのか、最後まで分からないということは決して珍しくありません。最高裁判所まで行って確定した判決が、実は間違っていたというのは、今も、そして、これからも決して珍しいことではないと思います。真実(真相)は、思い込みも含めて、簡単に分かるものではないのです。
「役に立つ大学教育」というのは、大変な問題があると私も思います。何が「役に立つ」のかは、実のところ、長い目で見ないといけないものです。目先の、投資したらすぐにでも回収できるか、という近視眼的なモノの見方だけで大学を運営するのは、大変危険だと私も思います。大学は、いろんな意味で、「遊び」が必要なところなのです。
その意味で、北欧のように、大学には20歳過ぎてからゆっくり入学できるようにしたらいいと思いますし、大学生にはアルバイトしなくても勉強し、生活できるように、学費をタダにし、生活費も支給してやったらいいのです。日本は今、軍事予算を倍増しようとしていますが、そのお金を教育予算に振り向けたら、すぐに簡単に実現できます。
さて、ここから本題です。インダス文明は大河文明ではない。インダス川流域に分布する遺跡は多くないし、川の水だけでなく、モンスーンによる降雨を利用した農業もあった。インダス文明の時代、すでに大河ではなかった。
「古代四大文明は、いずれも大河文明だ」と教えられてきたし、今も教科書はそうなっている。なので、これが簡単に書き改められることはないだろう。でも、違うものは違う。いやあ、これには大変驚きました。そうなんですか...。
世界一の人口を誇るインドについて、人名、地名のカタカナ表記は、現地発音を無視している。たとえば、マハートマー・ガーンディー。日本では「ガンジー」と表記される。しかし、おかしい。ヒンドゥーをヒンズーと表記するのもおかしい。世界一の人口を誇るインドには多種多様な民族と言語がある。なので、単一的なインド観から、多元的インド観へ改められるべき。
インドのことは、すべてサンスクリット語文献で理解できるというのは勝手な、間違った思い込みというのが著者の主張です。「あるべき」インドから、「ありのままの」インドに、ということです。よく分かります。
著者は、ムンダ語族を専門に研究した学者であり、6年間の留学経験もあります。奥様もムンダ人のようです。
さて、「アーリヤ人」です。「アーリヤ」とは、サンスクリット語で、「高貴な」という意味のコトバ。「インド、ヨーロッパ語族」の自称。そして、「アーリヤ人の侵入」というのは、考古学的な痕跡がないというのです。それでも、サンスクリット語とギリシア・ラテン語は系統関係を有する。つまり、ことは単純ではないということ。
ムンダ人は、農業を生業とする農民族であり、インドに東南アジアから稲作をもたらしたのは、ムンダ人の先祖たち。ムンダ人は、乳製品をまったく摂取しない。
知らない世界が目の前に一気に広がった気のする文庫本でした。
(2024年6月刊。1100円+税)
2024年9月 7日
スラムに水は流れない
(霧山昴)
著者 ヴァルシャ・バジャージ 、 出版 あすなろ書房
そもそもの問題は水不足にある。インド有数の大都会であるムンバイ。そこのスラムにはムンバイの人口の40%もの人々が住んで生活している。ところが、水はムンバイ市全体の5%しか供給されていない。水不足は3月がきびしい。
そんなスラム街に住む15歳の兄と12歳の妹(主人公)と両親。
ムンバイに水道はあっても各家庭まではなく、家の外にチョロチョロ流れる蛇口まで、毎日、水をバケツを持ってもらいに行かなければいけない。水が出るのは朝2時間と夕方1時間のみ。各家庭はタンクを備えて、そこに水を貯めておく。蛇口で水をバケツに入れるためには列をつくって並ばなければならない。
ところが、よからぬ連中が夜に盗水し、それを売って莫大な利益を上げている。それを偶然、兄は目撃し、良からぬ男に顔を見られてしまった。
これはタダではすまされない。仲の良い兄は遠くの親戚の農場に身を隠すことになった。
そのうえ、母親が病気になったので、実家に戻って静養するという。その期間、主人公は母がメイドとして働いている家でメイド見習いとして働かなくてはいけなくなった。
その家は、高級マンション。主人公と同じ年齢の娘がいて、その部屋にはバス・トイレがある。これに対して、主人公のスラム街では、7つの個室が並んだ1ヶ所のトイレを30家族で使っている。
そして蛇口をひねると、時間制限なく、勢いよく流れ出てくる。そこは、スラムとはまったく別世界なのだ...。
主人公には大の仲良しの女生徒がいて、お互いに助けあっている。ヒンズー教とイスラム教の違いはあっても、子どもには関係がない。
さて、水泥棒とは誰なのか、主人公は学校と仕事を続けられるのか...。
スラムでは女の子はどんなに頭が良くても、本人が学校に行きたいと思っても、途中で学校を辞めて働きはじめるのが普通だった。でも主人公は学校に行きたいし、パソコン教室に行けるようになった。さあ、どうする、そして、どうなる...。インドのスラム街に住む少女のみずみずしい感性が生かされている物語です。
(2024年4月刊。1500円+税)
2024年8月 1日
「モディ化」するインド
(霧山昴)
著者 湊 一樹 、 出版 中公選書
この本を読んで、インドのイメージをすっかり考え直しました。インドは教育大国で、優秀な頭脳をもつ著者を日本を含めて世界中に送り出していると思っていました。それ自体は間違いないのですが、インドの圧倒的多数の子どもたちが十分な教育機会を与えられていないというのです。深刻な格差と教育システムの欠陥によります。そして、14億人をこえて、中国を抜いて世界一の人口だと言われるものの、2011年に国勢調査したあとはなく、正確な人口統計はないとのこと。驚きました。
イスラム教徒はインドの全人口の14%を占めているのに、あからさまなヘイトや直接的暴力によって、イスラム教徒を社会生活から排除して、「2等市民」に追いやるような差別的法律をモディ政権は次々に制定している。
インド経済は、コロナ禍の下での、突然の全土封鎖(2020年3月に始まった)により、大きな打撃を受けた。農村部は疲弊し、雇用不足が深刻化している。また、若者のあいだで雇用不足が深刻になっている。著者は雇用の安定を求めて、公的部門に殺到している。
インドがロシアとの関係を重視しているのは、兵器の調達先としてロシアに大きく依存しているから。
モディは、人の意見を聞かず、独断専行で物事を進め、派手な行動で注目を集める傾向が昔からあった。2020年2月末から数ヶ月もモディが州首相となったグジャラート州で多くのイスラム教徒がヒンドゥー至上主義組織によって虐殺された(グジャラート暴動)。このとき、モディは、人々に手静を保つように呼びかけるどころか、イスラム教徒への敵愾(てきがい)心をかきたてるような言動を繰り返した。そして、自らの責任を認めないばかりか、遺憾の意を表明することもなく、釈明もしなかった。
モディを支持するゴータム・アダニの資産は9年間で80億ドルから1370億ドルにふくれあがった。2022年だけで、720億ドルを稼いでいる。
「モディ旋風」はインド全部で吹いたわけではない。インド全体では3割ほどの支持でしかない。
グジャラート州は、学校への子どもの出席率、子どもの栄養不良、予防接種率のいずれでもインド全体の数値を下回っている。
モディ政権は、都合の悪いデータを隠し、改ざんしている。モディという一人の政治指導者が絶対的な権力と圧倒的な存在感を誇っている。まるでワンマンショーの世界。
これって、中国における習近平政権と似ているというか、そっくりですよね。
モディ首相は、記者会見を開かないし、記者からの質問を受けつけない。メディアの個別インタビューは、モディが一方的に自説を述べるだけの場。
そして、モディ政権に批判的なジャーナリストに対して集中砲火をたきつけるため、モディは、SNSを活用している。
コロナ禍に対してモディ政権は2020年3月25日から3ヶ月、全土封鎖に踏み切った。これは事前準備も周到な計画もないままトップダウンによって突然はじまった。この全土封鎖は、インド経済を直撃した。モディ政権は、大規模な選挙集会や宗教行事を規制しなかったので、コロナ感染の拡大をむしろ助長した。
中国からインドへの輸入は増え続け、貿易面での中国への依存は、むしろ深まっている。
モディ政権は、貧困層に対して、政策的に無関心。モディ政権は、個人支配型統治と専門知識の軽視が特徴。
突然の雷雨のため、福岡空港で2時間も飛行機のなかに閉じ込められたときに一心に読みふけった本です。インドと中国、そしてロシアに大きな共通項があると思いました。ご一読を強くおすすめします。
(2024年5月刊。1980円)
またぞコロナ禍が広がっています。どうしたことでしょう。私の身近な人が何人も発症しました。ワクチンを6回うったのに、コロナに2回かかったという人もいます。軽症の人が多いようですが、なかには重症の人もいるそうです。
そして、信じられないほどの炎暑の毎日です。熱中症で次々に倒れる人がいます。私の孫2人も次々に熱中症にかかりました。幸い、早く寝たら、翌日には軽快しました。地球環境がおかしくなっているようです。気をつけましょう。
2024年4月20日
『RRR』で知るインド近現代史
(霧山昴)
著者 笠井 亮平 、 出版 文春新書
インド映画はすごいです。その爆発的なエネルギーには、まったく圧倒されます。暗い映画館の座席に座っていても、ついつい身体が動き出し、飛び出してしまいそうになります。
『RRR』というのはアカデミー賞を受賞したインド映画です。インドはかつてイギリスの支配する植民地でした。そして、イギリス支配を脱して独立しようとする試みが何度も試みられたのです。
『RRR』の主人公であるラーマとビームはいずれも実在の人物。二人とも1900年前後に生まれて、武装蜂起を展開します。
ラーマは、1924年5月7日に銃殺された。ビームは1940年に藩王国の警官に殺された。このラーマとビームが踊る「超高速ダンス」は、思わず息を呑む踊りです。なんと、その撮影場所はウクライナであり、大統領の迎賓館だというのです。驚きます。ロシアの侵攻する数カ月前に撮影されたそうです。
場所はともかく、この踊りだけでもユーチューブで鑑賞できるそうですので、ぜひみて下さい。必ずや圧倒されることを保証します。
そして、この本は、映画で紹介される「8人の闘士」についての解説があります。そこにはガンディーもネルーもいません。ボース以外は日本人にはまったく知られていない人たちです。この8人の存在を知れたことだけでも、本書を読む意味がありました。
日本におけるインド映画ブームに火を付けたのは『ムトゥ 踊るマハラジャ』でした。映画の途中に、突如として大勢の男女によるダンスシーンが入るのですが、それがまさしく圧倒される素晴らしさなのです。
インドのボースには2人いて、新宿・中村屋のカレーで有名な「中村屋のボース」は、ラーマ・ビハーリ・ボースであり、もう1人は、スパース・チャンドラ・ボース。こちらは、インド国民軍を組織して、日本軍と一緒に、あの悲劇的なインパール作戦をともにしました。
インターネットの世界では世界を支えているインドの知識人の層の厚さにも圧倒されますよね。ガンディー、ネルーだけでない、インドの熱気にあてられてしまう新書でした。
(2024年2月刊。1100円)
2024年1月27日
ガラム・マサラ!
(霧山昴)
著者 ラーフル・ライナ 、 出版 文芸春秋
インドの若き作家によるデビュー作のミステリー小説です。
登場人物がやるのは、まずは替え玉受験です。貧困地域に生まれ、暴力親父とともに屋台のチャイ屋で働いていた少年が替え玉受験して、なんと全国共通試験で全国トップの得点をあげ、大金持ちのドラ息子がインド最高の天才少年として、持ち上げられるところから話は始まります。もちろん、ドラ息子は天才ではなく、それどころか怠け者です。
日本でも韓国でも受験競争は「戦争」と言われるほど苛烈ですが、インドも同じようです。そこで登場してくるのは「教育コンサルタント」。これは、進路指導とか受験指導というのではなく、裏口入学を斡旋するという違法行為に手を染める業者なのです。
日本でも少し前に替え玉受験が発覚しましたが、発覚しなかったケースもあったのでしょう。そのとき、本人はそれを自覚していると思います。どんな気持ちで卒業していったのでしょうか、私は少し気になります。
替え玉受験のおかげで「天才少年」として注目されたドラ息子は、テレビのクイズ番組に出演するようになり、ますます注目を集めます。代わって受験をした少年は、その世話役としてずっと身近にいて付き添いとして活動します。そして、誘拐事件が発生...。あとはドタバタの活劇映画さながらで展開していきます。
私は、インド映画を、決して多くはありませんが、それなりにみています。最近では、「バーフバリ」や「RRR」です。インド映画特有の歌と踊りが途中で何度も登場してきますから、いつだって面白い活劇として堪能しています。
この本は、貧困や教育の格差を背景としつつ、悪いことって本当に悪いことなのか...と問いかけている小説なんだと解説に書かれていました。
日本のIT産業にインド人のIT技術者が大量に入ってきていますが、その背景を知るのにも役立ちそうなミステリー小説です。
(2023年10月刊。2200円+税)