弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(室町)

2024年2月10日

二尊院の二十五菩薩來迎図


(霧山昴)
著者 小倉山二尊院 、 出版 図書刊行会

 京都の山城嵯峨、小倉山の麓にある二尊院の「二十五菩薩來迎図」は、室町時代(15世紀の前半から中頃)に描かれたもので、長らく京都国立博物館で保管されてきた。このたび修理が終了して、二尊院本堂の内陣に久しぶりに掛けられることになった。
 いやあ、実に素晴らしい仏様たちです。仏教心の乏しい私にも、これらの17点(17幅)の「来迎図(らいごうず)」には言葉が出ません。
 「来迎図」を黙って拝んでいるだけでは心もとないので、解説文を紹介しながら味わうことにします。
往生するとき、つまり自分が死に臨んだとき、阿弥陀如来や菩薩の姿を頭に焼き付けて、いざ臨終のとき、来迎聖衆が見えて、幸せな気持ちで往生できるようにイメージトレーニングする、そのための来迎図なのだ。
 聖衆が乗っている雲にはスピード感がある。たしかに、現代のマンガと同じように、雲は糸を引いています。往生を願う人にとって、すぐさま迎えに現れるというのは、とてもありがたいことだったことでしょう。
 二尊院の「来迎図」を描いたのは、土佐行広という画家。やまと絵の画派である土佐派の実質な祖。
 修理には3年間をかけ、古くからの積み重ねのある伝統的な手法によって、修理前の古びた趣を保ちつつ、仏画として再び本堂内陣にかけらえることを目ざした。
 この「来迎図」は、京都、嵯峨の地の「酒屋」などの裕福な人達の寄進によって作成された。当時の「酒屋」は、土倉(どそう)という金融業者を兼ねる裕福層だった。
 二尊院の菩薩は、細かいところにこだわりすぎない大らかさや、見る人の気持ちをゆったりさせてくれるような柔らかさを漂わせている。
この世から死者を送り出す「発遣(はっけん)」の釈迦如来と、極楽浄土から迎えに現れる「来迎」の「阿弥陀如来」を並びたてて描いているところに最大の特徴がある。
 太陽と月は、現世の風景。なぜなら、極楽浄土は仏の光明で満たされているから、太陽や月や灯火は不要。阿鼻地獄の炎の世界では、太陽も月も星も見えない。
 修理についても紹介されています。古糊(のり)を使ったというのですが、これは小麦デンプン粉を5年から10年も冷暗所で発酵させたものというのです。息の長い仕事です。そして、接着力が強くなるのかと思うと、まったく逆。きわめて弱いそうです。本紙への影響を小さくするための工夫の一つというのです。
 修理作業が写真とともに詳しく紹介されています。気の遠くなるような手作業がえんえんと続くのです。それにしても、今では「非破壊検査」で、いろんなことが対象物をこわすことなく、かなり知ることができます。そこは現代文明の到達点ですね...。
 たまには仏画を鑑賞して、目と心を洗うのもいいことだと、しみじみ思いました。
(2023年8月刊。税込4180円)

2024年1月14日

極楽征夷大将軍


(霧山昴)
著者 垣根 涼介 、 出版 文芸春秋

 植木賞受賞作品です。といっても私は、賞をもらった本だから読んでみようと思うことは、まずありません。書評を読んで面白そうだと思えば読んでみることにしています。その意味では同じく直木賞をもらった『木挽町(こびきちょう)のあだ討ち。』(永井紗耶子)には、ぐいぐいと書中の世界に引きずり込まれてしまいました。たいした力技(ちからわざ)の作家だと、ついつい唸ってしまいました。
本書も、よく出来ています。ともかく面白くて、ええっ、室町幕府を始めた足利尊氏って、こんな人間だったの・・・と、思わず首を傾(かし)げてしまったものです。それでも、戦(いくさ)になると、勝ってしまうし、周囲に武士たちが集まってくるのです。「やる気なし、使命感なし、執着なし」。これが足利尊氏だったというのです。呆れてしまいます。
 足利家には家政を取り仕切る高(こう)一族がいました。また、上杉家もまた足利家に仕える郎党。足利家を高家と上杉家が支えながら、さまざまな困難を乗り越えていきます。その過程が実に生き生きと描かれているのですが、結局のところ、勝利してしまえば、お定まりの内紛が始まります。鎌倉幕府において源頼朝が死んだあと、北条家が執権として全権を握りますが、次々に「邪魔者は消せ」とばかりに北条家に敵対し(そうな)武士集団は排除されていくのです。「鎌倉殿の13人」というテレビドラマが、それをテーマとしたようですね(私はテレビは見ません)。
 鎌倉の北条政権と敵対し、戦いに敗れて隠岐の島に流されていた後醍醐天皇が、ひそかに島を脱出して、倒幕の兵を厳げた。
 足利家は、源氏の嫡流に最も近い血筋の御家人だという強烈な自負心がある。むしろ、本来なら、平氏の木っ端に過ぎなかった得宗家(北条家)より以上に鎌倉幕府を引き継ぐ資格がある。足利「高」氏は後醍醐天皇から「尊」氏という名前を授かった。しかし、天皇は、尊氏を権力の中枢には近づけないようにした。そして、天皇が恩賞を与える権限をひとり占めにして次々と行使していった。まったくの身内優先。これには「選にもれた」武将たちの怒りと不満は当然のこと。
 足利尊氏が南朝と敵対しているとき、北朝を創立するのに活躍した公卿(日野資名(すけな)がいた。日野家は、歴代の足利将軍家に次々と正妻を送り込み、公卿としての権勢を極めた。史上もっとも有名な正室は八代将軍・義政の妻・日野富子。悪名高いというべきなのでしょうか・・・。
 征夷大将軍に就任したあと、向こう見ずな蛮勇を発揮したのは日本史上で尊氏のみ。さすがは変わった大人物でした。面白く読み通しました。
(2023年8月刊。2200円)

2023年10月20日

足利義満


(霧山昴)
著者 森 茂暁 、 出版 角川選書

 室町幕府の三代将軍・足利義満は、足利尊氏(たかうじ)の孫。
 義満は室町幕府体制を確立したが、その政治手法は、一筋縄ではいかない、したたかなものである。そのしたたかさ故に、義満は、それまでの父祖、それ以降の子孫たちがなしえなかった数々の偉業をなしとげることができた。義満には、目的のためには手段を選ばないところがあった。そして、専制君主としてのすごみすらあった。
 義満は38歳で出家したが、それ以降、義満の権勢はピークに達し、その権力は公武の「政道」(施政の大綱)を担当し、「朝務」(朝廷の政務)を代行するところまでに到達した。
そもそも室町時代について「暗黒の時代」「つまらぬ時代」と言われてきたのは、とんでもない間違いであって、この時代は日本の歴史にとって画期的な時期だと見直されている。
 義満は、南北朝の対立による動乱を収束させ、南北朝の対立を克服したうえで、公武統一政権を樹立し、国家体制を整備して合戦のない平和国家の骨格をつくりあげた。
 義満は、かつては「狡猾(こうかつ)姦獰(かんどう)の賊」と指弾されていたが、今日では、「公武に君臨した室町将軍」として評価されている。
 義満は、太政大臣(だじょうだいじん)にまで上りつめ、自らを上皇に擬するような振る舞いをし、子息の義嗣をあたかも皇太子にすえるかのような行動をしたことから、「王権の簒奪(さんだつ)」を狙ったのではないかとの指摘があった(今谷明『室町の王権』、中公新書の1990年)。私も、この本を読んで、大変な衝撃を受けました。しかし、今では「天皇家の血」という観点から、否定的な考えが優勢とのこと。なるほど、ですね。
 義満が51歳という若さで死んでしまったことが、「野望」達成を妨げたのではないでしょうか。
 足利尊氏も義満の父の義詮も、権大納言(ごんだいなごん)どまりだったが、義満は21歳で権大納言となったあと、最終的には太政大臣にまでのぼりつめた。
 この本では、将軍や管領(かんれい)が発する書面の形式をとても重視しています。本のオビには発給文書1000点を分析したようなことが書かれています。花押(かおう。ようするに、独特のサインです)の位置だけで、どんな状況で出されたのか、どれほど重要かが判明するのです。室町幕府と鎌倉公方(くぼう)との緊張関係についても初めて認識しました。
 同じことは、大内義弘との関係もあてはまるようです。義満に優遇された結果、大内義弘は強大化し、かえって義満に脅威を与え、警戒されるようになったのでした。
 室町幕府の運営にとって、九州はきわめて重要な地域であった。九州は変革のエネルギーの噴火口として、油断ならない地域だった。九州探題にはしかるべき一門の武将を置いて九州を統治させた。九州支配には格別の意を用いた。うひゃあ、そうなんですかー、九州なんて京都からみたら、とるに足りないところじゃないかと思うのですが、違うようです。
 お盆休み、涼しい喫茶店に入って400頁もの大著を必死で読みふけりました。著者は私と同じ団塊世代で、福大の名誉教授です。
(2023年4月刊。2300円+税)

2023年10月17日

室町幕府論


(霧山昴)
著者  早島 大祐 、 出版  講談社学術文庫

 室町時代の足利義満が天皇より上皇より権力を握っていたというのは私も知っていました。でも、この義満が高さ110メートルもある七重の塔を建立していたというのは知りませんでした。この塔は「七重七塔」とか単に「大塔」と呼ばれていました。落雷による火災にあい再建されても3度、焼失してしまったそうです。この「大塔」こそ、義満が権力を握っていたことの象徴でした。
最初の大塔が建ったのは応永6(1399)年のこと。
初期の室町幕府は軍事政権的な状況が濃厚だった。
 足利義満と後円融天皇とは同じ年に生まれ、当初はとても仲が良かった。ところが、義満が実権を握っていくにつれ、後円融はむくれて、仲が悪くなり、ついには修復不可能になってしまった。
義満は遅刻が大嫌いだった。遅参した公家たちに同席(参加)を許さなかった。なぜか...。義満は禅に傾倒していたから。禅の教典(「日用軌範」)は、時間厳守を教えていた。義満はそれに感化された。それまでの「国風文化」は遅刻・欠席だった。ところが、中国伝来の禅による「外来文化」は時間厳守だった。それが今では日本の「伝統」かのように確立している。
 後円融天皇は36歳の若さで亡くなり、長老たちも次々に亡くなって、義満は誰に遠慮することなく、自分の思うとおりに行動できた。
 義満が自分が天皇になろうとしていたという刺激的な説は、今では完全に否定されている。そして、義満は明に対しては「日本国王」と称したが、対国内では「日本国王」と自称することはなかった。
 義満は中国の明との交易についてはすこぶる積極的だった。というのも、それは巨利をもたらしたから。
義満がつくった「金閣」は、上層が禅宗様で、下層は寝殿造(朝廷文化)だった。そして、建物を「金」でコーティングした。義満が居を移した北山第(ほくざんてい)は、政務をとる場であり、巨大な宗教空間でもあった。
 義満の人柄は、大胆さと繊細さを兼ね備えていた。
 室町時代の貨幣は重たかった。1貫文は銅銭で4キログラムにもなる。これで10万円ほど。こんな重たいものを旅行するとき持ち運ぶのは、いかにも不便。そこで登場したのが割符(さいふ)。これは為替や替銭(かえぜに)とも呼ばれた。年貢の輸送は割符とともに進んだ。
この本を読んで初めて知ったのが「応永(おうえい)の外寇(がいこう)」(1419年6月)です。倭寇(わこう)が朝鮮半島に上陸し、あちこちで襲撃を繰り返したのに対して、朝鮮王朝が反撃したのです。1万7千人もの兵士が対馬に上陸したというのでした。韓国では「己亥(きがい)東征」と呼ばれているとのこと。まったく知りませんでした。
室町時代というのが面白い、変革の時代だというのが、よくよく分かる本です。
(2023年5月刊。1210円+税)

2023年5月22日

阿弥衆


(霧山昴)
著者 桜井 哲夫 、 出版 平凡社

 阿弥(あみ)衆とは何者なのかを探った本です。
 黙阿弥(もくあみ)は、明治の初めころの歌舞伎の劇作者。本人は浄土真宗の徒でありながら、時宗(じしゅう)総本山の藤沢にある遊行寺(ゆぎょうじ)に出向いて、「黙阿弥」の号を受けた。
 阿弥(あみ)号は、時宗において許される法号。
 徳川家の先祖も、遊行上人に救われ、阿弥号をもらい、「徳阿弥」となのっている。
 能楽の観阿弥、世阿弥など、足利時代の芸能者もいる。足利将軍家が滅んだとき、芸能世界の「阿弥号」も消えた。
 著者は「室町時代」と呼ぶべきではなく、「足利時代」と呼ぶべきだと主張しています。鎌倉時代や安土・桃山時代そして江戸時代というのは幕府の所在地の地名。ところが室町は地名ではない。三代将軍の足利義満がつくった室町殿と呼ばれる邸宅の名前に由来する。しかし、義満以降の将軍がみな室町殿に住んでいたわけでもない。そして、明治、大正時代には、室町時代より足利時代というほうが多く使われていた。うひゃあ、そうなんですか...。
毛坊主(けぼうず)というコトバも初めて知りました。
 毛坊主とは、俗人ながら、村に死亡する者あれば、導師となって弔う存在。どこの村でも、きちんとした家系の、田畑をもち、学問もあり、経文を読んで筆算もできて品格のある存在。
 鐘打(かねうち)は、遊行上人の流れ。鉢叩(はちたたき)は、空也(くうや)上人の流れをくむ天台宗の一派。
客僚(きゃくりょう)は、合戦に負けたり、盗賊に追われたり、主君の命に背いたり、部族と対立して追われたり、当座の責任や被害から逃れるため遊行上人のもとにかくまわれて、にわかに出家した者のこと。
 こうした人たちをかくまう場所を「客寮」と呼んだ。客寮は日本版「アジール」。そして、これを廃上しようとしたのが豊臣平和令であり、刀狩令だったとしています。
 江戸時代、徳川家康に命じられた内田全阿弥に台まる「御同朋」という阿弥号を名乗る僧形の役職が存在した。ただし、時宗とのつながりはない。
 「世阿弥」はあまりにも有名ですが、実は、本人の存命中に使われたことはないとのこと。死後50年もたってから初めて文献に登場した。いやあ、これには驚きましたね...。では、本人は、どのように名乗っていたのか...。「世阿」「世阿弥陀仏」である。
 そして、世阿弥の生きていた時代には、まだ「同朋衆」という幕府の職制はできていなかった。
 足利期の時衆の同朋衆が美術品の鑑定・保管から売買・室内装飾、備品調達まで活発な経済活動に関わり、「倉」などの金融活動も営んでいた。ちょっとイメージが変わってきましたね...。
 同朋衆は、15世紀半ばころに職制として確立していた。かつての時宗(公方遁世者)と将軍とのつながりは、次第に薄れていた。西日本では、「鉢叩(はちたたき)」と呼ばれる念仏聖(俗聖)が活動していた。「鉢叩」は、中世に京都などで勧進芸をする念仏芸能者として始まっている。
 西日本では、東国よりも組織メンバーの自由度が高かった。
 明治の御一新のあと、「阿弥衆」は消えた。
天皇というコトバをあたりまえに使っていますが、日清・日露の宣戦布告文では「皇帝」だったとのこと。知りませんでした。祭祀のときも、「天皇」ではなく、「天子」と使いわけているとのこと。うひゃあ、そんなこともまったく知りませんでしたよ...。
 あれこれ、幅広く文献にもとづく主張が展開されていて、とても勉強になりました。
(2022年1月刊。3800円+税)

2023年5月13日

足利成氏の生涯


(霧山昴)
著者 市村 高男 、 出版 吉川弘文館

 足利尊氏(たかうじ)の四男・基氏(もとうじ)を始祖とする関東の足利氏の流れに、足利成氏(しげうじ)はある。
 基氏は、鎌倉公方(くぼう)家の祖。成氏は父が四代鎌倉公方の足利持氏で、成氏が9歳のとき、父の持氏が山内上杉勢に攻められ、永享11年(1439)年2月、謹慎中の永安寺で自害し、兄義久も自殺して鎌倉公方家は滅亡の渕に追い込まれた。
 そして、成氏(万寿王丸)も捕らえられたが、幸運にも処刑が中止されて助かり、信濃の禅寺に身を潜めた。
室町将軍・義教(よしのり)が赤松満祐(みつすけ)に殺害されたことから、鎌倉公方に成氏を推す勢力が盛り上がり、ついに成氏16歳の文安4(1447)年8月に鎌倉に帰還した。成氏が20歳のとき、江ノ島合戦が起きた。この実際の戦闘で成氏は上杉方に勝利して、実力と存在感を示すことができた。
 成氏は鎌倉に戻り、寺社の所領を回復し、徳政令も発した。成氏は、関東管領(かんれい)の上杉憲忠と張りあっていたが、享徳3(1454)年12月に上杉憲忠を御所に呼びよせて殺害した。これには公方近臣たちの意向が強く反映していたとみられる。憲忠を殺害された上杉方は、享徳4(1455)年正月、早々、成氏への報復合戦を始めた。享徳の乱の始まりである。
 足利幕府は、将軍義政や管領細川勝元らの方針で、成氏討伐を主張し、決定した。成氏は鎌倉を離れ、享徳4(1455)年12月、下総(しもうさ)古河(こが)に着陣した。
 京都で、応仁・文明の乱が始まったのは応仁元(1467)年5月のこと。
 文明14年(1482)年11月、成氏は、足利義政と都鄙(とひ)和睦(わぼく)を成立させた。鎌倉公方の成氏は、下総古河に移って古河(こが)公方と呼ばれるようになった。これは成氏が鎌倉を追い出されて古河に逃げたのではない。
 やがて、古河は鎌倉から移転した「鎌倉殿」の本拠であり、「関東の首都」としての位置を占めることになった。
 成氏は生まれたあとまもなく、鎌倉の大地震や富士山噴火などの災害被害の洗礼を受けた。また、永享9年に陸奥・関東で大飢饉が発生している。
乱世を駆け抜けてきた成氏は、50代半ばすぎに中風を患ったが、すぐには家督(かとく)を子に譲ろうとはしなかった。成氏は67歳で亡くなった。
 成氏の政治的交渉には柔軟性があり、自分の信念なしに時流に流されることのない良い意味で頑固さがあった。
 京都の幕府は、年中行事や儀式・典礼などの面で、公家世界の影響を強く受け、武家社会の伝統や儀礼を変質させた。かえって鎌倉府のほうが、儀式・典礼や年中行事などで武家政権の伝統や文化が良く保存されることになった。
 古河公方の実態を明らかにした本格的な書物として、最後まで興味深く読みすすめました。
(2022年10月刊。2700円+税)

2023年4月 9日

足利将軍と御三家


(霧山昴)
著者 谷口 雄太 、 出版 吉川弘文館

 江戸時代、徳川幕府の下で、尾張・紀伊・水戸は御三家として別格の存在だったことは、日本史の常識です。だって、この御三家のなかから、ときに将軍が生まれたのですから・・・。たとえば、吉宗は紀伊國の藩主から将軍になりましたが、そのとき、紀伊藩士をごっそり江戸城にひきつれていったのでした。
この本は、そんな御三家が実は室町時代にも足利(あしかが)御三家として存在していたことを明らかにしています。吉良(きら)、石橋、渋川の三家です。この吉良は、なんと赤穂浪士の討ち入りの対象となった吉良上野介(義英・よしひさ)に連なる名門として、室町時代から戦国時代を経て、江戸時代まで続いていたのであり、しかも、儀式に通暁した存在、高家(こうけ)として存在していたというのです。
足利将軍を中心とする室町幕府には三管領(かんれい)として斯波(しば)氏、畠山氏、細川氏がいて、四職(ししき)として一色氏、山名氏、京極氏、赤松氏がいた。そして、それらより御三家のほうが格が上だった。御三家は、管領家と同等以上の地位にあった。
室町幕府の支配は、政治権力体系と儀礼権威体系の両面(二本柱)から成り立っていた。
吉良氏は、御三家筆頭であり、斯波氏ら三管領家以上の存在だった。
当時の社会における儀礼権威というものの重要性を再認識すべきだ。将軍・公方に准ずる存在、それが御連枝(ごれんし)であり、足利氏の重要な一部を成した。この御連枝に准じたのが御三家だった。
吉良・石橋・渋川の三氏は、足利氏の兄を出自とする面々となる。吉良・石橋・渋川の三氏は、鎌倉時代、「足利」名家を名乗り、足利氏とは惣領一庶子の関係にあるなど、両者の関係は非常に濃いものがあった。
14世紀中葉、足利一族は分裂した。観応の擾乱で敵味方として戦ったとき、最終的には1360年ころ、吉良・石橋・渋川の三氏は幕府のもと再統合された。
足利御三家の役割は、足利氏がいなくなったときには、その立場を後継することにあった。吉良が絶えていたときには、今川氏が継ぐことになるが、本人が拒絶しているので、100%ありえない。
江戸幕府は、室町時代の儀礼制度や身分格式を色濃く受け継いでいた。関東吉良氏は、「蒔田(まいた)」氏として存続した。石橋氏は、戦国時代、当主(忠義)はキリシタン(サンチョ)となって生き抜き、滅んでいった。渋川氏は里民となって生き抜いた。
さすがに学者ですね。よくぞ調べあげたものだと驚嘆しながら読みすすめました。

(2022年12月刊。1700円+税)

2022年1月 6日

室町は今日もハードボイルド


(霧山昴)
著者 清水 克行 、 出版 新潮社

「日本人は温和」なんて、大嘘。これが本のオビに書かれています。むしろ、日本人は昔から好戦民族だったのです。
戦後76年間、一度も日本人が戦争していないなんて、過去の歴史からすると、泰平の江戸時代に匹敵するほどの大事件なのです。
室町時代の日本なんて、それこそ武力=暴力をもっている人間がまかり通っていたのでした。
「士農工商」は、中国の古典に由来する言葉で、あらゆる職業の人とか全国民という意味。その順番には、何の上下関係もない。江戸幕府が成立する前からある言葉であって、江戸幕府の政策スローガンというものでもない。私も、このことはごく最近になって知りました。
鎌倉時代150年間のうちに、年号は、なんと48回も変わった。ほぼ3年に1回の割合で改元された。甲子園球場の「甲子」は、1924年に出来たということ。
天皇の在位と年号を一体化させた近代(明治以降)は、決して一般的なものではない。年号には、「時間のものさし」としては期待されず、むしろ世の中がリセットされたことを世間に示す「厄払い」の意味でしかなかった。
世の中、知らないことが多いものです。とりわけ、明治以降の日本を江戸時代より前と同じものだと考えると、まったく間違ってしまいます。その勘違いをしている最大集団の代表が自民党の国会議員団です。江戸時代まで、女性は嫁に入っても自分の姓を変えることはなく、死んだあとに入る墓も実家のそれだったのです。知らないということは恐ろしいことです。
(2021年7月刊。税込1540円)

2018年12月 6日

徳政令

(霧山昴)
著者 早島 大祐 、 出版  講談社現代新書

徳政とは、ある日突然、借金が破棄され、なくなってしまうこと。公権力が徳政令という法令を出して債務破棄を追認していた。
徳政一揆というものがあり、当時の庶民がおしなべて徳政、つまり借金の破棄を求めていたというイメージがあります。でも、この本によると、必ずしもそうとは限らないようです。
徳政をめぐる摩訶不思議な社会のカラクリを見事に謎解きしてくれる新書です。といっても、それはあまりに謎にみちみちていますから、私が全部を理解できたというわけではありません。ほんの少しだけ分かったかな・・・というところです。
中世の公権力であった朝廷や幕府は、基本的に金銭貸借などの民事紛争には関心がなく、裁判のような面倒くさいことに関わりたくはなかった。ところが15世紀以降、室町幕府は民事訴訟を積極的に取り扱うようになった。
中世前期・鎌倉幕府は御家人救済政策として債務破棄のための徳政令を発布した。そして、中世後期には、民衆による徳政一揆が主体となって債務破棄を主張する徳政要求があった。つまり、徳政観念と徳政を求める主体が変化したのだ。
京都近郊の農民を中心とする徳政一揆は京の高利貸である土倉(どそう)を襲撃し、幕府はその動きに突き動かされて債務破棄を認める徳政令を発令した。
ところが時代が移って、武士・兵士たちが兵粮代わりに土倉たちを襲撃し、幕府がその動きを追認するかたちで徳政令を出した。これを人々は嫌った。
中世社会では、借りたお金は返さなければならないという法が存在すると同時に、利子を元本相当分支払っていれば、借りたお金は返さなくてもよいという法も、条件つきながら併存していた。
中世の利子率は、一般に月利5%。年に60~65%で、2年ほど貸せば、元本と利子をあわせて2倍になる。
中世の人々は、勝つまで何度も訴訟を提起した。
室町幕府の第四代将軍の足利義持は、訴訟制度を整備するなど、裁判に熱心な権力が誕生した。
日本人は昔から裁判が嫌いだったという俗説がいかに間違っているか、ここでも証明されています。
徳政は、当初は民衆が結集する旗印だったのが、次第に変わっていき、ついには逆に社会に混乱をもたらし、民衆を分断させる要因へと変質していった。
戦争に参加する兵士たちを除けば、多くの人々にとって徳政令のメリットは減少し、ただ単に秩序を乱すものに過ぎなくなってしまった。
徳政とは借金帳消しという単純なものではなく、当時の人々の意識、土地売買契約など、さまざまな観点から考えるべきものだという点が、よく分かりました。
中世社会を知るために欠かせない視点が提示された新書だと思います。
(2018年8月刊。880円+税)

2017年7月22日

足利尊氏

(霧山昴)
著者 森 茂暁 、 出版 角川選書

足利尊氏の実相に迫った本として、興味深く読みとおしました。なにより後醍醐(ごだいご)天皇との関係については目新しい説であり、なるほどと驚嘆してしまいました。
そして、足利尊氏は聖なる天皇に反抗した「逆賊」なのかという点の考察にも感嘆するほかありませんでした。足利尊氏逆賊説は、狂信的な南朝正統論の落とし子だった。
足利尊氏は後醍醐に対して、最後まで報謝と追幕の念を抱いていた。
足利尊氏と後醍醐とは、政治的また軍事的に対立する立場に立ったことは事実だが、かといって尊氏が後醍醐を追討や誅伐(ちゅうばつ)の対象とした事実は史料的に裏付けられてはいない。
足利尊氏は後醍醐に対して明確な謀叛(むほん)を企んだとはいえないので、尊氏に「逆賊」というレッテルを貼るのは、歴史事実のうえからみて、御門違い(おかどちがい)と言わなければならない。
足利尊氏は歴史的人物であるが、その評価は、英雄と逆賊の間をゆれ動いた。これほど、評価の振幅の大きい人物は、日本史においては珍しい。
後醍醐天皇の主宰する建武政権の存続期間は、2年半ほど。
御教書(みぎょうしょ)は、どちらかというと、私的性格をもつ文書。下文(くだしぶみ)は所領をあてがう公的文書。
尊氏の尊は、後醍醐天皇の偏諱(へんき)の尊をもらって「高氏」を「尊氏」としたもの。尊氏は、20ヶ国にわたる45ヶ所の北条氏旧領を天皇から獲得した。
恩賞納付のための文書の様式として、鎌倉将軍にならって袖判下文(そではんくだしふみ)を初め発給した。
歴史上に有名な人物を見直すことができる本でした。
(2017年3月刊。1700円+税)

1

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー