弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2025年4月 2日

たたかいの論理

司法


(霧山昴)
著者 土肥 動嗣 、 出版 花伝社

 馬奈木昭雄弁護士オーラル・ヒストリーというサブタイトルの本です。
 久留米に事務所を構えている馬奈木弁護士は公害・環境問題で長く先頭に立って闘い、法理論の分野でも先進的な判例を次々に勝ち取り、日本社会を大きく揺り動かしてきました。
 この本は2019年から2023年までの4年間に20回ものインタビューをテープ起こしして、「久留米大学法学」に9回連載したものを加除修正して出来あがっています。なので、馬奈木弁護士が話しているのを直に聴いている気がしてきます。私自身は、何回も馬奈木弁護士本人から、いろんな場で話を聴いていますので、目新しい話はそんなにありませんが、このように順序立ててまとめられると、改めて大いに勉強になります。
国には初めから国民の安全保護義務がある。人格権の一番の中核をなすのは、もちろん生命身体の安全だけれど、それは人として尊厳を保ちながら法的権利主体として生活できるということ。「最低限の生活でいい」と考えるのは間違い。尊厳を保たない最低限度の生活なんてありえない。
 環境権をわざわざ法律に規定しないといけないという主張はバカバカしい。なんで憲法に書かないといけないのか。すでに憲法にきちんと書いてある。今さら書かないといけないというのは、憲法をよく分かっていない人。人格権は憲法に書いてあるに決まっている。
差止訴訟で勝つ要件は二つだけ。一つは、生命身体健康に被害が及ぶことを立証すること。もう一つは、現地で実際に止めていること。今まで勝った事件は、みんな、この二つの要件を満たしている。逆に、この要件を満たさない訴訟は勝てない。
反対運動の質問会では、司会を獲得する。司会を業者にやらせてはいけない。司会を獲得するテクニックはマイクを握って離さないこと。会場は住民の用意する公会堂。施設は住民が分かっている、マイクを絶対に渡さない。全部、住民がもっておく。
 馬奈木弁護士が産業廃棄物問題に取り組んでいたことは私も知っていましたが、次の言葉には驚きました。
 廃棄物をやっていた1990年代は、私が一番生き生きして取り組んでいた時代。2000年に入って、諫早干拓の開門裁判をやりだした。諫早も楽しかったけれど、諫早の楽しさはまた違うもの。廃棄物をやっていたときが、弁護士としての取り組みでは一番面白かった時代。危険性とは何かを正面から問いかけ、裁判所は曲がりなりにも答える。そんな時代だった。
 法律論としては、諫早での物権的請求権、権利とは何かというのが面白い。廃棄物では事実問題、危ないという事実とは何かを正面から向きあうことができた。私たちは、原発差止裁判では、それをつくりきっていない。
 筑後大堰(おおぜき)建設差止裁判も紹介されています。これは私も馬奈木弁護士に誘われて原告側弁護団の一員になりました。
 筑後川の平面流量は毎秒70トンから80トンある。この下流域の観光水利権を淡水(あお)取水という。筑後川と有明海の天然条件は干満の差が6~7メートルある。国は福岡都市圏の都市用水と工業用水として筑後川の水を取りたいと考えた。筑後大堰は、淡水取水を退治するための農業用の合口堰という位置づけ。毎秒60トンから70トンあった慣行水利権を左岸と右岸の両方あわせて23トンにまで抑え込んだ。これによって、新しく取水可能な水量が生み出された。つまり、筑後大堰が建設されたのは、農民から水利権を取り上げるため。
ところで、筑後川には江戸時代に生きた「五庄屋物語」がある。これは筑後川の豊富な水量を周囲の田圃に変えようとした感動的な話。
 水俣病にも、馬奈木弁護士はかかわっています。
 戦前、チッソは漁民とのあいだで補償協定を結んでいる。この協定の一番のポイントは、被害の発生を防止することが目的ではなく、今後も被害を出し続けることを漁民に認めさせる目的であるということ。
 水俣病にとって、安全とは何かという議論がある。それを国の基準を守ることとする。いやあ、これっておかしいでしょ。だって国の安全を定める基準というのは企業の存続優先であって、国民の生命・安全の優先など、まるで考慮していません。チッソの工場から廃液が海にたれ流されていて、それによって漁民をはじめ周辺住民に被害を及ぼしているのであったのに、廃液のなかの毒物が特定されないかぎり排水は原因ではない。というのは詭弁そのもの。基準を守ったらいいというけれど、現実に被害は出ている。
技術論争で被害者が勝てるわけがない。私たちが勝った裁判は裁判所が乗ってきた事件。
 私は予防原則は主張としても言葉でも言わない。日本の裁判所は予防原則という言葉を聞いた瞬間、即座に思考停止する。そんなのは日本の法制度にはない。問答無用。聞く耳をもたない。
 裁判所に聞く耳をもたないと言わせるアラジンの魔法のランプの言葉は、予防原則と環境権。ちなみに、予防原則とは、一定の危険があるものについては、安全性の証明を会社、開発者がやれ、というもの。
イタイイタイ病で激烈な病状を示したのは、全員が経産婦。これはカドミウムとカルシウムの構造が似ている。だから、骨のなかからカルシウムが抜けて、代わりにカドミウムが入ると、カルシウムの強さがないので、骨がボキボキ折れる。痛い痛いと泣き叫ぶ。寝返りをうっただけで骨が折れてしまう。カドミウムがカルシウムに一番多量に取ってかれる現象が出産。胎児に自分のカルシウムを与えると、不足する。カルシウムがなくなったところにカドミウムがどっと入ってくる。すると、骨の強さがないから、骨がボキボキ折れる。
 私たちは駅弁論争を展開した。駅弁で食中毒が出た。何が原因かは分からない。でも、駅弁の会社は分かっている。このとき、食品行政は、その会社の駅弁の全部を販売停止する、弁当のどのおかずか、どの菌が入っているか特定しなければ販売をしてよい、とはならない。おかずのなかのどの菌かを特定しなければ販売を許すなんて、バカなことはしない。
水俣病を防ぐためには、排水規制をしておけばよかった。原因物質を特定せよという議論は犯罪的。
 裁判を結審させ、判決をとるというのは、確実に勝つと社会的に明らかになっていて、マスコミも勝つと言っている、かつ、運動がもっとも充実したとき。判決で勝てると思っても、運動が充実していなければ、結審して判決をとってはいけない。
 国を絶対に勝たせるという確信をもって裁判に臨んでいる。裁判官に対して、そういう判決は書けないように、いかに取り組むのか...。それが弁護士にとっての課題。
勝った判決を思い返してみると、裁判官と心と心が触れ合った瞬間がある。裁判官に清水の舞台から飛び降りるだけの決意をさせる。どうしたら、その飛躍させることができるのか、どうやったらそんな場面をつくり出すことができるのか、それが弁護団の課題。
私たちは、裁判で負けたときの心配はしない。勝ったときの心配はしている。どうやって、勝ったときに追い打ちをかけることができ、一気に推し進めることができるのか...、と。
 裁判官が事実をごまかすようになった。これまでは、裁判官は正しい指摘には応じてきた。ところが、原告住民の指摘と証拠を無視し、国のごまかしにそのまま飛び乗ってしまう裁判官が出てきた。恐ろしいとしか言いようがない。
御用学者は、いつも、直ちに被害は出ないとごまかす。10年後、20年後のことは決して問題としない。
 裁判の目的は、責任の所在と、大きな被害の全体像を明らかにすること。
 裁判に何が何でも勝つために、とんでもないことを平気で主張し、実行するのが国の代理人。弁護士なら恥ずかしくて出来ないことを国の代理人が平然としてやる。そして、それが裁判官。自民党が代表している利益集団の利益を国の代理人(裁判官)が恥ずかしげもなく代表して主張する。
 弁護士は、演劇でいうと、脚本家であり、プロデューサーでもあり、ディレクターでもあり、場合によっては自分が舞台に立つ必要もある。出演者の1人として演出もしないといけない。ただ、1人で出来るわけではない。みんなの協働作業。そのためには、弁護団に加入して、大勢の仲間と議論し、集団で取り組む活動を続けていくことが大切。
馬奈木弁護士が縦横に語っている本です。ただ、聴き手の学者による補足や解説がないと理解しにくいところが少なくないと思いました。そこが少し残念でした。330頁もの大著ですが、弁護士として学ぶべきところの多い本として、一読をおすすめします。
(2024年10月刊。2800円+税)

  • URL

2025年4月 1日

戦後日本学生セツルメント史の研究

社会


(霧山昴)
著者 岡本 周佳 、 出版 明石書店

 私は大学1年生の4月から3年生の秋まで学生セツルメントにどっぷり浸っていました。2年生のときに東大闘争が始まって1年近く授業がなかったので、なおさら地域(川崎市幸区古市場)をうろうろすることが多かったのです。
セツルメントで初めて社会の現実、そして日本社会の構造というものを認識するようになりました。あわせて自己変革が迫られたり、大変な思いもしました。でも、そこには温かい人間集団(セツラーの仲間たち)があり、とても居心地のいいところでした。
いったいセツルメントって何なの...、そう訊かれると、簡単には今なお言葉で表現できません。ボランティア活動なんでしょ、と言われると、いや、ちょっと違うんだけど...、そう思います。学生の慈善事業なんでしょ、そう言われると、もっと違う気がします。
 私は、地域の子どもたちを相手にする子ども会パートではなく、青年労働者と一緒のサークル(やまびこサークル)で活動する青年部パートで活動していましたが、サークルとは別にセツラー会議を開いて議論していましたから、「お前たちは俺たちをモルモットみたいに観察してるのか?」という疑問をぶつけられたこともありました。もちろん、そんなつもりはまったくありませんでした。
ただ、サークルに来ている若者たちの職場や家庭環境などを踏まえて、出てきたコトバや態度の意味をみんなで考えて深めていきました。これを総括と呼びます。この討論を文章化して合宿のなかで討議するのです。おかげで文章を書くのが苦にならなくなりました。それどころか、ますます好きになり、今もこうやって文章を書き、モノカキと称するようになったのです。
 セツルメントでは、実践記録を書くことが重視された。実践記録を通して「何を書くか」セツラーは鍛えられる。まさしく、そのとおりです。
 著者は、現在は静岡福祉大学社会福祉学部の准教授ですが、大阪府立大学でセツルメントのセツラーとして、児童養護施設に毎週通い、子どもたちと一緒に遊ぶという活動をしていました。
 この本は、学生セツルメントについて、通史として実証的に戦後の展開を明らかにしたものです。「学術書という性質上、全体を通してやや堅く、読みづらいと感じられるかもしれない」とありますが、たしかに、セツルメントに従事していたときの感動、そして、それを今、どのように仕事や生活に生かしているかという生々しい証言レポートがありません(実践記録の紹介はありますが...)ので、面白みにやや欠ける気はします。
 それでも、さすがに学生セツルメントの通史というだけあって、その歴史的変遷がよく分かりました。学生セツルメントは完全に消滅したと思っていましたが、実は今なお全国に10ヶ所ほど残っているということも知りました。でも、それは地域というより養護施設であったりするので、果たして学生セツルメント活動と言えるのかどうか、いささか疑問も感じられるところです。
 私が学生セツルメント活動に参加したのは1967(昭和42)年からのことですが、前年(1966年)に全国で活動しているセツラーは1万人を超えていました。そして、年1回の全セツ連大会は1000人ほども集まり、大盛況でした。大阪か名古屋で開かれた大会に参加するため東京駅から大垣どまりの夜行列車に乗って、みんなで行ったこともありました。東京駅のホームで「団結踊り」を踊ったり、まるで修学旅行気分の楽しさでした。
 私は若者パートでしたが、そこでは労働者教育というものはまったく感じられず(別に労働文化部があり、そこでは学習活動もすすめられていたようです)、むしろ私たち「学生が働く若者から学ぶ部分が非常に大きかった」というのは、まったくそのとおりです。セツラーは実践を通して学ぶということです。
 「労働の場に拠点を置いて労働者を変革するという考え方」を「生産点論」としていますが、私の実感にはあいません。それよりむしろ「学生自身が労働者との関わりを通して、何を学ぶかに力点が置かれている」という評価こそ私にはぴったりきます。「学びの内実は、観念的なものではなく、事実を通して現実を考える」ということです。
子ども会や栄養部の活動においては、「地域や住民らの要求を受けて住民とともにその生活課題の解決を図るという運動的性格」もありましたが、私にとっては、「セツラーの人間形成の場」としての意義が最大でした。
 1989年に全国学生セツルメント連合(全セツ連)は機能停止を宣言しました。しかし、これをもって全国一斉にすべてのセツルメントが解散し、機能を停止したというものではありません。すでに1983年には学生セツルメントの置かれた厳しさの指摘があります。これは1980年代に入って学生運動が衰退していったことと無関係ではありません。ところが、1980年代に入っても量的には拡大していったという事実もあるというのです。1983年時点でも全セツ連には全国67のセツルが加盟していて、新しく加盟しようとしているセツルもありました。
しかし、社会矛盾が以前ほどストレートに見えない状況にあり、セツルが財政難に直面し、運動に意義を見出せないセツラーが増加していくなかで、書記局体制が確立できなくなったのでした。全セツ連が1989年に機能停止をしたあとも、全国的なセツルの交流会は開かれました。1990年には第1回全国学生セツルメントフェスティバルが開かれ、2005年まで定期的に開催されたのでした。
 2019年の時点では、9つのセツルで確認されていますが、北海道、東北、関西であり、関東にはありません。ただし、名称からセツルをはずして子ども会としているのが、池袋や堀の内などにもあります。また、川崎セツルメント診療所やセツルメント菊坂診療所のようにセツルメントの名称をそのまま残しているところもあります。
 大阪府立大学セツルは、地域実践を離れて、児童養護施設で今も実践しています。
 最後に、終章の一文を紹介します。
 「戦後の学生セツルメントは、主体的かつ継続的な地域実践を通して地域の現実や要求に応じて新たな実践を創り出しており、結果ではなく、その過程を重視した。また、徹底的な討論や、地域住民とともに地域の現実に向きあって創り出された実践を通してなされたセツラー自身による主体的意味づけには一定の評価ができるのではないだろうか。また、人間形成・自己教育の側面もあった」
 350頁もの大作です。私も取材を受けましたし、私の本も紹介していただきました。本当にお疲れさまでした。学生セツルの通史を、こんなに立派にまとめていただいて、心よりお礼を申し上げます。著者より贈呈していただきました。重ねてお礼を申し上げます。
(2025年2月刊。5400円+税)

  • URL

2025年3月31日

ヘタレ人類学者、沙漠をゆく

インド


(霧山昴)
著者 小西 公大 、 出版 大和書房

 大学2年生、19歳のとき、一人でインドに乗り込んだ。「自分懐しの旅」が始まると、例のごとく散々な目にあう。ようやくたどり着いたホテルに、3日間ほど、引きこもり状態になる。
 そして、有名なインド映画『きっと、うまくいく』の決めゼリフ、「すべて良し」の青年に出会って開眼。ああ、いったい自分は何を悩んでいたのだろう。ホテルに閉じこもり、自分自身の来し方を採点しながら、あれがダメだった、これが失敗だった、こんな自分が情けない...と自己否定ばかりしていた。なんと浅はかなことだろう...。
 外の通りに出て、おそるおそる歩きはじめた。あまりにも刺激的で魅惑的な存在の数々が押し寄せてくる、躍動感にあふれた場が目の前にあった。
 世界は、自分の認識のあり方を少し変えるだけで、恐怖と不安に満ちた世界から、魅力あふれたワクワクする世界へと簡単に変貌するのだ。恐怖心が少しずつ薄れていった。
 歩き方を変えると、「カモ」からそうでないようになる。うつむき加減で歩幅を小さくし、あたりをキョロキョロ物色しながら歩いていると、腹黒い下心のある人々を「カモ」と思って引きつける。これに対して、胸を張って、少しガニ股風に大きく歩幅をとり、首はキョロキョロ動かさず、進行方向に固定し、ときにゆっくりとあたりを見渡。これで腹黒い連中は寄ってこなくなる。
 いやあ、そういうものなんですね。いいことを知りました。早速、実践してみることにしましょう。
 インドという異質性の波の中でもまれるなか、自分が育ってきた環境、いつの間にか身につけた価値観、自分でつくりあげてきた自己イメージなるものを意識することが出来るようになった。
 私の場合は、大学1年生の4月、セツルメントのサークルに入って、徹底的に仲間と話し込むなかで、それまで当たり前だと思っていた価値観や習慣が、当たり前でもなんでもないものだということに気づかされました。親を小馬鹿にしていた私ですが、親を敵だと言ってのける人がいるのには、驚きを通り越して呆然としてしまいました。
 著者は偶然の連鎖のなかで、インドの沙漠地帯で生活するようになりました。「砂漠」ではなく、「水の少ない土地」という意味の「沙漠」です。そこには、トイレもなく、シャワーを浴びるにしても、素っ裸になるのは男であっても許されません。
 家の中には家具らしきものは何もない。もちろん、周囲には店もコンビニも何もない。
食べた食器を洗うにしても、家の周囲のサラサラの砂でゴシゴシ洗って終わり。生ゴミは家の外に放り出したら、犬や山羊や虫がきれいに片づけてくれる。
沙漠の世界では、人間と人間のつながりやネットワークをいかに駆使するかが、生きていく街のカギとなっている。
 著者は、何をやっても「ありがとう」と感謝されたことがない。なぜなのか...。
 「ありがとう」と言いたくないだけでなく、「ありがとう」と言われたくもない。これが、現地の人々の社会。それはタブーであり、感謝してはならないという鉄の掟(おきて)がある。
 受けた恩を忘れることはない。しかし、こんな露骨な表現は、とても嫌われる。感謝の表現は、無音でなされる。言葉にしてしまうと、関係そのものが崩れてしまう。そんな感覚をもっているのだ。
 日本人は、いつだって「ありがとう」「ごめんなさい」を絶えず言い続けなければならない。どうしてなのか...。
 異質なものとの出会いは、常に可能性に開かれている。まったくそのとおり。そんな確信を与えてくれる本でした。
 著者は人類学者になった。そして、2006年にこの沙漠で結婚式を開いた。200人もの人々が集まってくれたとのこと。すごいですね。
 50歳になる人類学者が19歳の大冒険談を昨日のことのように語っていて、とても新鮮でした。あなたにも一読をおすすめします。
(2024年12月刊。2200円)

  • URL

2025年3月30日

僕には島の言葉がわかる

生物・鳥


(霧山昴)
著者 鈴木 俊貴 、 出版 小学館

 シジョウカラは言葉を使って文を作っている。そして同じシジュウカラだけでなく、似た鳥にもその言葉が通用している。このことを軽井沢の森のなかに1人で何ヶ月も籠って観察し、ついに突きとめたのです。すごいことですよね、これって...。人間だけが言葉を使っているのではないというのです。
 そして、ジェスチャーで、「お先にどうぞ」と意思表示もしているとのこと。よくぞ見届けましたね。たいした辛抱強さです。驚嘆します。著者は今や東大准教授として動物言語学の世界的権威です。盛大なる拍手を心から捧げます。
「ジャージャー」という鳴き声はヘビを意味しているので、シジュウカラはちじょうのどこかにヘビがいないか探す。「ヒヒヒ」という鳴き声が聞こえてきたら、それはタカを見つけたときの警戒音なので、空を見上げて確認する。
エサ台にヒマワリの種を置いてあるのを見つけると、シジュウカラは「ヂヂヂヂ」、コガラは「ディーディー」、そしてヤマガラは「ニーニ―」と鳴く。群れの仲間がエサ台に集まって来ると、鳴くのをやめて、ヒマワリの種をつつき始める。鳥たちが混群をなしてヒマワリの種を食べることで、お互いに警戒行動を分担している。常に空を見張っていないと、いつ襲われるか分からないから。
軽井沢の山のなかに3ヶ月こもる。大学の山荘なので、風呂もシャワーもない。けれど、1泊500円で利用できる。3ヶ月いても4万5千円と安いもの。食料は持ち込み。肉・野菜そしてレトルト・冷凍食品など...。
 ところが、お米以外は2ヶ月でなくなってしまった。5米は5キロの白米を3袋買って持っていったので、あと1袋だけ残っている。1ヶ月間、白米だけで過ごさないといけない。片道1時間かけたら最寄りのスーパーに行けるけれど、往復2時間のタイムロス。観察・実験が出来ないので、白米だけでガマンする。白米だけの三つのメニュー。なんと、普通に炊いたごはん、お湯をかけたごはん、水をかけただけのごはん。ええっ、これだけで森の中に1ヶ月...。気が遠くなりそうです。死にはしないでしょうが、味気ないこと、おびただしい限りです。これを知ったネイチャーガイドをしている女性が気の毒に思ってキャベツ一玉を差し入れてくれた。
 著者は、このキャベツをすぐには食べず、調査が完了したときの「ごほうび」にしたのです。3ヶ月たって、いよいよキャベツを食べます。キャベツ炒めとキャベツの千切り。それを食べていると、初めのうちこそ、幸せ一杯だったのに、なぜか口内に独特の臭みが感じられるようになった。おかしい...。キャベツは美味しい。だけど、キャベツひと玉を一気に食べるものではない。いやはや、いかにも物悲い話でした。
それにしても、3ヶ月間、山の中に籠ってシジュウカラをじっとじっと見つめ、観察し、実験したなんて、若さもあったのでしょうが、とても真似できることではありませんよね...。この野外調査で体重は8キロも減り、ガリガリにやせてしまったのでした。
 さて、そこで、こんな大変な野外調査によって何が判明したのか...。
 シジュウカラのヒナは、巣箱の外の親の声を聞き分ける。カラスの時は、巣の中にいてカラスからつつかれないように、みなうずくまってしまう。そして、ヘビの時は、巣の中にいたら食べられてしまうので、巣の外へ思い切って飛び出す。ヒナは、ふ化して17日目にはもう飛べる。食べられるより、飛び出したほうがまし。こんな違いを親の鳴き声を聞き分けてヒナは行動するというのを発見したのです。すごいことです。
 ヒナは巣立ってからも、1ヶ月以上は親鳥に世話をしてもらう。
 毎年、6ヶ月以上も一人で森にこもって、朝から晩まで鳥たちと暮らす。そんな生活を何年間も過ごすなんて、並の人に果たして出来ることでしょうか...。私は出来ません。だって、寂しいでしょ。いくらなんでも森の中に一人で何ヶ月も過ごすなんて...。
 鳥をつかまえて足輪をつけ、ヘビも捕まえて実験材料にします。これまた、簡単には出来ませんよね。山荘にはツキノワグマもやってきます。
言葉を持つのは人間だけ。動物の鳴き声は感情表現に過ぎない。それを覆す事実を著者は森の中の生活で確認したのです。
 シジュウカラの「ピーツピ、ヂヂヂヂ」は「警戒して・集まれ」という意味。これを、「ヂヂヂヂ、ピーツピ」と順番を逆にすると、反応がない。
フィンランドのテレビ局から求められて日本のシジュウカラの音声を送ると、フィンランドのシジュウカラも同じ反応だった。万国共通のコトバらしい。ただし、フィンランドでは「ピーピー・ジュジュジュ」と鳴く。方言のような違いがあるのでしょうね、きっと。
 いやあ、とても面白い本でした。あなたにも一読を強くおすすめします。
(2025年2月刊。1870円)

  • URL

2025年3月29日

バルセロナで豆腐屋になった

社会


(霧山昴)
著者 清水 建宇 、 出版 岩波新書

 ええっ、こんなタイトルで岩波新書になるの...、それが読む前の第一印象でした。
 読み終わってみると、違和感はきれいさっぱり消えていました。サブタイトルは「定年後の『一身二生』奮闘記」となっています。朝日新聞の記者が定年後、スペインのバルセロナで豆腐屋を開業して10年間がんばった体験記です。家業が豆腐屋というわけではありません。それなのに、なぜ豆腐屋を、それもスペインのバルセロナという地方都市なんかで...。
 著者は記者時代、ヨーロッパ絵画の特集記事のためスペインにも行っています。 そのとき、どこよりもバルセロナが気に入ったのでした。街が美しく、食べ物がおいしい。そして、アジアから来た異国の人という奇異の目で見られることがなかった。これが、バルセロナを気に入った理由です。
 では、なぜ豆腐屋なのか...。豆腐や油揚げ、納豆が大好きなので、それなしの生活は考えられない。ならば、自分でつくってやろう。いやはや、とんだ(飛んだ)思考法ですね。私にはとても真似できません。大学生の長男、中学生の長女、次女に計画を話すと、すんなり受け入れられた。その前に妻(カミさん)の了解は得ている。
 2010年4月、62歳のとき、バルセロナで豆腐屋を開業した。今から15年も前のことなのに、とても詳細かつ具体的に話が展開していくのに驚きます。当時のメールやら計画書、領収書などが全部保存されていたからのようです。さすがは元記者ですね。まずは豆腐づくりの修業です。もちろん日本でします。
 油揚げの生地は、豆腐よりはるかに薄い豆乳でつくる。凝固せず、無数の小片が浮かんでいる状態にしてから水を抜き、型箱で固める。それを短冊状に薄く切り、最初は低温で、次に高温で揚げると、ふくらんでキツネ色になる。油揚げの生地の固さは、親指と人差し指で押して確かめる。がんもの生地は練っている途中でヘラを突っ込み、その手ごたえで判断する。大豆の煮え具合いは湯気のにおいでつかむ。青臭いにおいがするうちは、まだ煮えていない。甘いにおいがするようになれば出来あがりだ。豆腐づくりは全身をセンサーにしてやる仕事。手ごたえやにおいは数字に出来ないから、書くことも出来ない。途中からメモ帳とペンの出番はなくなった。
 なーるほど、手指の感覚にモノを言わせるのですね。私には出来そうもありません。
 著者の妻は佐賀市出身、名門の佐賀西高卒です。バルセロナでは鍼灸師そしてヨガの師匠として活躍しました。
豆腐屋の朝は午前5時起床に始まる。そして、店に着くと豆腐づくりを開始。午前中の販売を終えて、午後3時に一日で最初の食事をとる。
 ええっ、大丈夫なの...と驚くと、なんと著者は体重92キロだったのが、豆腐屋を始めて75キロまで落ちたとのこと。つまり、肥満だったのです。1日2万歩も歩いたそうです。
 豆腐屋には一年中、完全な休日というものはない。丸一日オフとなるのは、年に数回ある連休の初日だけ。忙人不老。忙しい人は老(ふ)け込まない。
 「あなたは、なぜその仕事を辞めないのですか?」
 この質問に対する答えこそ、職業選択の参考になる。なるほど、そのとおりでしょう。五大ローファームに入って企業法務の大きな歯車の一つになって何十年もして、果たして人生に満足できる人がどれほどいるか、私には疑問でなりません。
 奥付の上に著者紹介があり、はたまた驚きました。なんと、私と同世代(正確には私より1年だけ上)、団塊世代なのです。『論座』の編集長、「ニューステーション」のコメンテーター、論説委員を経たあと、スペインで豆腐屋を開業したわけです。その勇気と行動力に対して、心より敬意を表します。
 面白い本でした。
 
(2025年1月刊。960円+税)

  • URL

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー