弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2025年4月 4日

労働者の権利と労働法における現代的課題

司法


(霧山昴)
著者 井上幸夫・鴨田哲郎・小島周一 、 出版 旬報社

 堂々、570頁もの分厚さのハードカバーの本です。敬愛する徳住賢治弁護士の喜寿を祈念して発刊されました。冒頭に戦後の、今日に至るまでの労使紛争、労働争議の状況が徳住弁護士によって簡単にまとめられています。
 かつては日本でもストライキがしきりに起きていました。今や現代日本ではほとんど死語になってしまったストライキですが、労働争議が年に1万件を超していたのです。そして多くの争議団があり、集まって東京争議団としてまとまって闘い、大きな成果を上げていました。
東京争議団は、「勝利するための4つの基本」を定めた。第一に争議組合と争議団の団結の強化、第二に職場からの闘いの強化、第三に産業別、地域の仲間との団結と共闘の強化、第四に法廷闘争の強化。
 そして、勝つためには三つの必要条件がある。第一に要求を具体的に明確にする、第二に、情勢分析を明確にする、第三に闘う相手を明確にする。
戦後労働運動は、組合の団結力にもとづいて裁判闘争において重要な判例法理を確立させた。解雇権濫用法理。整理解雇法理、有期雇用雇止法理、安全配慮義務の法理、採用内定の法理。
 集団的労使紛争において労働弁護士は大いに闘い、重要な成果を勝ちとった。
 1975年の電業社事件では、組合員460人が賞与仮払仮処分を申請し、総額1億4千万円をこす仮処分決定を得た。
 職場では、「ころび屋」「当たり屋」の管理職が登場し、「刑事事件」が頻発した。これに対して労働者と労働弁護士は果敢に闘って、ついに裁判所に次々と無罪判決を出させた。
北平音響事件(1979年10月)では、申請人70人について整理解雇を無効とさせ、賃金総額500万円の仮払いの仮処分決定を得た。
 ところが、1975年11月の国鉄等の8日間のスト権ストが敗北すると、その後は公共部門のストは打てなくなってしまった。
 このスト権ストのとき、私は鎌倉・大船に住んでいて、川崎の職場まで京浜急行に乗って、いつもより2時間以上も余計にかけて出勤しました。裁判期日はみんな延期されたと思いますから、要するに様子をみながら事務所に出ただけのことです。
 1970年代の後半から、職場での組合活動を敵視し、抑圧する反対労組的な判決が続出するようになった。リボンを胸に着けて働くのは職務専念義務に反するなど、驚くべき反動的な判決が相次いだ。たかがスローガンを書いたリボンを胸につけたくらいで、それが職務専念義務に反するだなんて、そのバカバカしさに思わず笑ってしまいます。
1990年からバブルが崩壊して、日本経済は大変な状況になった。
 1993年1月、パイオニアの管理職35人が事実上の指名解雇された。それまで大手企業の管理職や正社員のリストラはなかったので、多くの国民が大きな衝撃を受けた。
 このころ、労働裁判が急増した。1990年に1000件だったのが、1995年に2300件、2000年には2700件、2005年には3000件と激増した。そして2006年から労働審判制度が始まると、2020年には7800件となった。
 ところが、労働争議のほうは、1974年の1万件超がピークで、1989年に1800件、2022年に270件と激減した。ピークの4分の1でしかない。
1990年以降は、個別労使紛争しかない状況にある。1989年、総評と同盟が解散し、連合が誕生した。
 ちなみに、労働裁判は、ヨーロッパでは今も相変わらず多い。ドイツ40万件、フランス17万件、イギリス10万件。これに対して1万件ほどでしかない日本は、あまりにも少ない。
 徳住弁護士は、団結力を基軸とする労働組合活動の再生が重要な課題になっていることを最後に強調しています。まことにもっとも、そのとおりだと私も思います。個別的な労使関係のなかで、労働者の権利意識を基軸として取り組みの強化が必要なことは、もちろんです。
 鵜飼良昭弁護士が「労働審判制度の誕生」という論稿を寄せています。鵜飼弁護士こそ労働審判制度の産みの親の一人です。というのも、司法制度改革審議会の意見書(2001年6月12日)にもとづき、その具体化のため、内閣に労働検討会が設置されましたが、座長の菅野和夫教授のもとで、鵜飼弁護士は、労働側の委員として、毎回の検討会を積極的にリードしていったのです。私は、このとき、担当の日弁連副会長として傍聴していました。鵜飼弁護士は、ともかく毎回、発言しました。どんなに消極論が出てきても、決してへこたれず、なんとか議論が前向きに進むように、あくまで粘るのです。毎回、その姿を身近に眺め、ひたすら感服しながら見守っていました。傍聴している私は拍手も野次を飛ばすことも出来ませんでした。
 このとき、裁判官委員は当初はきわめて消極的でした。そんな必要はないとか、素人が入ってもうまくいくわけがないという姿勢です。裁判官って、どうしてこんなに過剰なまでに自信満々なのか、私には不思議でなりませんでした。当時、東京地裁の労働部にいた山口幸雄判事(今は福岡で弁護士)は、途中で、方針変更したようです。もちろん、個人の判断とは考えられません。裁判所は消極論から、成立を妨げないというように方針転換したのです。
 そして、3回の審理で終わらせるという労働審判制度が始まったのでした。
司法制度改革は失敗だったと単純に決めつける人が、当時も今もいますが、私は、そのようなオールオアナッシングで物事を見ても何の意味もないと考えています。裁判員制度と労働審判制度は、司法改革がなかったら決して誕生しなかったことでしょう。これらを全否定してしまうのは許されません。
 「東京地裁労働部における最近の不当な判断について」を棗(なつめ)一郎弁護士が描いています。これまでの労働部の判決に反して、常識的な判断では考えられないような判決が次々に出ているようです。労働者や労働組合に対する偏見や思い込みに今の裁判官はとらわれているのではないかと指摘されています。深刻な事態です。ストライキのない日本で起きている悪循環の一つだと思います。
川人博弁護士が「過労死110番」の取り組みを紹介しています。宝塚歌劇団では、結局、大きな成果を上げています。それにしても華やかな舞台の裏に、前近代的な労使慣行が続いていたのは本当に残念なことでした。同じく、過労死問題では松丸正弁護士も論稿を寄せています。
 川人・松丸両弁護士は私と同じ世代で、徳住弁護士を含めて大学生時代から知己のある関係です。
 最後に徳住弁護士の人柄を少しだけ紹介します。熊本県八代市の生まれですので、福岡県に生まれ育った私とは同じ九州人です。そして、大学も弁護士も徳住弁護士は私より1学年・1期だけ上になります。
 徳住弁護士は日本労働弁護団の幹事長のあと会長もつとめています。東大ではロースクールの教授として労働法を教えました。
 熊本出身なのにスキー好きで、苗場に別荘までもっているそうです。うらやましい限りです。
 徳住弁護士は発想が柔軟で、アイデアマン。誰に対しても分け隔てなく接する人。その言葉のひとつひとつが生き生きとしていて、真剣な表情とにこやかな表情の切り替わりが印象的。ウィングの広さ、対応の柔軟さ。労働弁護士という言葉では語れない多面体の弁護士なので、まさしく快人二十面相!こんな人物紹介に思わず、ほほ笑んでしまいました。
 最後に、こんな分厚い本なのに、ないものねだりをあえてすれば、アメリカでは最近バイデン政権のときからストライキが増えていて、労働運送が活性化している面もあると聞きました。そんな日米労働事情の対比を通して、日本での労働運動を再び高揚させるための提言があれば良かったと思いました。
このような貴重な本をありがたくも贈呈していただき、ありがとうございました。徳住先生の今後ひき続きのご活躍を心より祈念します。
(2025年3月刊。7700円)

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