弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2025年4月 1日
戦後日本学生セツルメント史の研究
社会
(霧山昴)
著者 岡本 周佳 、 出版 明石書店
私は大学1年生の4月から3年生の秋まで学生セツルメントにどっぷり浸っていました。2年生のときに東大闘争が始まって1年近く授業がなかったので、なおさら地域(川崎市幸区古市場)をうろうろすることが多かったのです。
セツルメントで初めて社会の現実、そして日本社会の構造というものを認識するようになりました。あわせて自己変革が迫られたり、大変な思いもしました。でも、そこには温かい人間集団(セツラーの仲間たち)があり、とても居心地のいいところでした。
いったいセツルメントって何なの...、そう訊かれると、簡単には今なお言葉で表現できません。ボランティア活動なんでしょ、と言われると、いや、ちょっと違うんだけど...、そう思います。学生の慈善事業なんでしょ、そう言われると、もっと違う気がします。
私は、地域の子どもたちを相手にする子ども会パートではなく、青年労働者と一緒のサークル(やまびこサークル)で活動する青年部パートで活動していましたが、サークルとは別にセツラー会議を開いて議論していましたから、「お前たちは俺たちをモルモットみたいに観察してるのか?」という疑問をぶつけられたこともありました。もちろん、そんなつもりはまったくありませんでした。
ただ、サークルに来ている若者たちの職場や家庭環境などを踏まえて、出てきたコトバや態度の意味をみんなで考えて深めていきました。これを総括と呼びます。この討論を文章化して合宿のなかで討議するのです。おかげで文章を書くのが苦にならなくなりました。それどころか、ますます好きになり、今もこうやって文章を書き、モノカキと称するようになったのです。
セツルメントでは、実践記録を書くことが重視された。実践記録を通して「何を書くか」セツラーは鍛えられる。まさしく、そのとおりです。
著者は、現在は静岡福祉大学社会福祉学部の准教授ですが、大阪府立大学でセツルメントのセツラーとして、児童養護施設に毎週通い、子どもたちと一緒に遊ぶという活動をしていました。
この本は、学生セツルメントについて、通史として実証的に戦後の展開を明らかにしたものです。「学術書という性質上、全体を通してやや堅く、読みづらいと感じられるかもしれない」とありますが、たしかに、セツルメントに従事していたときの感動、そして、それを今、どのように仕事や生活に生かしているかという生々しい証言レポートがありません(実践記録の紹介はありますが...)ので、面白みにやや欠ける気はします。
それでも、さすがに学生セツルメントの通史というだけあって、その歴史的変遷がよく分かりました。学生セツルメントは完全に消滅したと思っていましたが、実は今なお全国に10ヶ所ほど残っているということも知りました。でも、それは地域というより養護施設であったりするので、果たして学生セツルメント活動と言えるのかどうか、いささか疑問も感じられるところです。
私が学生セツルメント活動に参加したのは1967(昭和42)年からのことですが、前年(1966年)に全国で活動しているセツラーは1万人を超えていました。そして、年1回の全セツ連大会は1000人ほども集まり、大盛況でした。大阪か名古屋で開かれた大会に参加するため東京駅から大垣どまりの夜行列車に乗って、みんなで行ったこともありました。東京駅のホームで「団結踊り」を踊ったり、まるで修学旅行気分の楽しさでした。
私は若者パートでしたが、そこでは労働者教育というものはまったく感じられず(別に労働文化部があり、そこでは学習活動もすすめられていたようです)、むしろ私たち「学生が働く若者から学ぶ部分が非常に大きかった」というのは、まったくそのとおりです。セツラーは実践を通して学ぶということです。
「労働の場に拠点を置いて労働者を変革するという考え方」を「生産点論」としていますが、私の実感にはあいません。それよりむしろ「学生自身が労働者との関わりを通して、何を学ぶかに力点が置かれている」という評価こそ私にはぴったりきます。「学びの内実は、観念的なものではなく、事実を通して現実を考える」ということです。
子ども会や栄養部の活動においては、「地域や住民らの要求を受けて住民とともにその生活課題の解決を図るという運動的性格」もありましたが、私にとっては、「セツラーの人間形成の場」としての意義が最大でした。
1989年に全国学生セツルメント連合(全セツ連)は機能停止を宣言しました。しかし、これをもって全国一斉にすべてのセツルメントが解散し、機能を停止したというものではありません。すでに1983年には学生セツルメントの置かれた厳しさの指摘があります。これは1980年代に入って学生運動が衰退していったことと無関係ではありません。ところが、1980年代に入っても量的には拡大していったという事実もあるというのです。1983年時点でも全セツ連には全国67のセツルが加盟していて、新しく加盟しようとしているセツルもありました。
しかし、社会矛盾が以前ほどストレートに見えない状況にあり、セツルが財政難に直面し、運動に意義を見出せないセツラーが増加していくなかで、書記局体制が確立できなくなったのでした。全セツ連が1989年に機能停止をしたあとも、全国的なセツルの交流会は開かれました。1990年には第1回全国学生セツルメントフェスティバルが開かれ、2005年まで定期的に開催されたのでした。
2019年の時点では、9つのセツルで確認されていますが、北海道、東北、関西であり、関東にはありません。ただし、名称からセツルをはずして子ども会としているのが、池袋や堀の内などにもあります。また、川崎セツルメント診療所やセツルメント菊坂診療所のようにセツルメントの名称をそのまま残しているところもあります。
大阪府立大学セツルは、地域実践を離れて、児童養護施設で今も実践しています。
最後に、終章の一文を紹介します。
「戦後の学生セツルメントは、主体的かつ継続的な地域実践を通して地域の現実や要求に応じて新たな実践を創り出しており、結果ではなく、その過程を重視した。また、徹底的な討論や、地域住民とともに地域の現実に向きあって創り出された実践を通してなされたセツラー自身による主体的意味づけには一定の評価ができるのではないだろうか。また、人間形成・自己教育の側面もあった」
350頁もの大作です。私も取材を受けましたし、私の本も紹介していただきました。本当にお疲れさまでした。学生セツルの通史を、こんなに立派にまとめていただいて、心よりお礼を申し上げます。著者より贈呈していただきました。重ねてお礼を申し上げます。
(2025年2月刊。5400円+税)