弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2025年3月20日
ナチズム前夜
ドイツ
(霧山昴)
著者 原田 昌博 、 出版 集英社新書
ワイマル共和国と政治的暴力というサブタイトルがついています。ヒトラーのナチスが政権を握る前、ワイマル共和国体制の下で、政治的暴力が日常茶飯事だったことを初めて認識しました。主としてナチスのSAと共産党のあいだでの暴力です。それは銃器も用いていて、たびたび人が何人も死んでいます。
当時のベルリンは人口400万人というドイツ最大の都市。市の西側に高級住宅街やブルジョア地区が広がり、東側はプロレタリア的色彩の濃い地区だった。
政治的にみると、ベルリンでの左翼陣営の得票率は常に50%をこえていて、1930年に入ると共産党への支持が社会民主党を上回っていた。1930年初頭のベルリンでは、ナチ党、共産党、社会民主党が三つ巴(どもえ)の闘いを展開していた。
ナチスと共産党は、互いを明確な敵として認識していた。共産党は「ファシストを見つけたら叩きのめせ」というスローガンを唱えた。ファシストとはナチスだ。
ナチスのSA隊員は急増した。30年春に3千人だったのが32年初めに1万人をこえ、夏には2万2千人となった。その50%以上が労働者であり、失業者と若者から成った。
SAの急成長と労働者地区への侵入の本格化は、そこを牙城とする共産党の敵愾(てきがい)心を刺激し、ベルリンの治安状況を悪化させた。
ワイマル共和国の不安定さの中で、暴力で状況を変えられるという誤った信念が社会に浸透していった。
共産党は1928年以降、コミンテルンの方針を受けて戦闘的な極左路線をとり、社会民主党についてファシズムの片棒を担(かつ)ぐ「社会ファシスト」と呼び、ときにナチス以上の主要敵とみなした。そのため、1930年代にフランスやスペインで成立する社共統一の人民戦線はドイツでは非現実的だった。
ベルリンの東側に位置する労働者地区は、老朽化した建物が密集し、生活環境は劣悪で、人口密度や犯罪発生率の高さ、ひどい衛生環境が特徴的だった。
住民たちにとって何より重要だったのは、侵入してくる「敵」に対して自分たちの「縄張り」を守り通すことだった。
ワイワル期には、政治的党派ごとにメンバーやシンパがたむろする酒場が発展した。「常連酒場」と呼ばれSAの酒場は「突撃隊酒場」と称した。1930年2月に、ベルリン市内に共産党の常連酒場が193軒、ナチスの酒場が51軒あった。その後、ナチスSAの酒場は急増し、同年末には144軒となった。酒場の出入り口には歩哨を立てて周辺を警戒した。
政治的暴力が日常化した結果、人々が行きかう街頭は暴力で対抗した。ナチスであれ、共産党であれ、若者たちの一部が暴力に魅せられ、日常生活の中で暴力に手を染めていった。
1933年1月30日、ヒンデンブルグ大統領はヒトラーを首相に任命した。ナチスは政権成立から1ヶ月足らずでSA隊員を補助警察官とし、経済界から半ば強制的に資金援助を受け、政敵(共産党)を撲滅に乗り出した。
ワイマル前期から中・後期にかけてのドイツ社会には左翼から右翼に至るまで暴力を忌避しない政治文化が広がり、「暴力の政治化」あるいは「政治の暴力化」とも呼ぶべき状況が生み出されていた。社会に蔓延(まんえん)する政治的暴力は、それを忌み嫌う市民感情とは別に、暴力に魅力を感じ、積極的にコミットしようとする人々(とくに若者と失業者)を惹きつけ、各党派の「政治的兵士」を生み出した。暴力に直接的に関わらなかった人々も、暴力を公然と行使する政党に票を投じた。1932年7月の国会選挙において、ベルリンではナチ党と共産党の得票率の合計は56%であり、投票者の過半数が両党のどちらかを選択した。逆に暴力に消極的な政党の得票は減少した。暴力を忌避しない政党であるからこそ、ナチスや共産党を支持したという人々が多数存在した。
暴力で「こと」を動かそうとすると、その結果として生まれる新たな状況もまた暴力の洗礼を受ける。暴力は結局のところ暴力で回収せざるをえなくなり、暴力が暴力を呼ぶ負のスパイラルが生じていく。
皮肉なことだが、意見表明の自由が保障されたワイマル憲法の下で、党派間の激しい対立が暴力の行使を常態化させた。
ワイマル共和国の実態、人々が政治的暴力の日常化するなかで生きていて、結局、ナチスの暴力という圧政を招き入れたという教訓は今日なお大切なものだと痛感します。
ウクライナもガザも、暴力の連鎖を断ち切る必要があります。それもトランプ流のやり方ではなくて...。大変刺激的な内容で、とても勉強になりました。今日に生かすべき教訓にみちた新書だと思います。
(2024年8月刊。1320円)