弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2025年3月19日
わたしの人生
日本史(戦前)
(霧山昴)
著者 ダーチャ・マライーニ 、 出版 新潮クレスト・ブックス
第二次大戦中、イタリア人が日本で収容所に入れられているということを初めて知りました。
著者は2歳のとき日本に来ました。父親は北海道帝国大学でアイヌ文化を研究していました。なので、札幌で幸せな生活を過ごしました。その後、京都に移っていたところ、1943年にイタリアが連合国軍に降伏したため、日本政府は在留イタリア人に踏み絵を迫ったのです。あくまでファシスト政権に忠誠を誓うかどうか、です。
両親そろって拒否したため、名古屋郊外の天白村にあった民間人抑留所に入れられました。両親は孤児院に入れるか問われたとき、それも拒否し、一家4人(娘2人)で収容所で厳しい・苦しい生活を過ごすことになりました。
7歳から9歳まで、育ち盛りの少女なのに、すさまじい飢えを体験することになったのです。
監視する警察官たちは、日本政府の支給する食料を横取りしたため、収容されていた人たちは栄養不足から病気になっていきました。警官たちの残飯まであさり、野菜をとって食べ、ヘビやカエルを捕まえて子どもたちに食べさせたのです。
たまに親切な日本人もいましたが、たいていは敵性外国人だとして、またイタリア人は裏切り者だと罵倒する日本の軍人たちがほとんどでした。日本の風習を知っている著者の父親は彼らの前面で包丁で指を切断して抗議までしています。
野菜不足から脚気になり、すると頻尿になった。
収容所では、子どもがいても子どもは配給の対象にはなっていなかった。なんということでしょう...。子どもだった著者は空腹のあり、地面をはっているアリまで食べたとのこと。指でつぶして口に入れ、かみもしないで呑み込んだ。しばらくして中毒にかかって、もう食べられなくなった。いやはや、アリを子どもが食べただなんて...。
毎晩、死ぬ準備をした。輪廻(りんね)観を信じていたから、死んだらすぐに、生前のふるまいによって、別の姿に生まれ変わると思っていた。
収容されたイタリア人は16人。ユダヤ人教授、宣教師、商人、元外交官など...。
日本人の警官たちは、毛布を1枚ふやしてとか、ノミやシラミ退治のための殺虫剤がほしいと頼むと、「おまえらは裏切り者だから死んであたりまえなんだ。寛大だから生かしてやってるんだ」と答えた。
日本の敗戦が色濃くなっていくと、配給が減っていった。1日の配給はひとり生米一ゴウ(130グラム)のみ。
日本の敗戦によって解放された。自由の味は、かけがえのないものだった。そして生命と太陽に恋する肉体を回復させるエネルギーが戻った。
著者は、過去の記憶を未来に生かすべきだと考え、自分の収容所での体験を語り、また書いたのです。
(2024年11月刊。2145円)