弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2025年3月11日

采女、なぞの古代女性

日本史(古代)


(霧山昴)
著者 伊集院 葉子 、 出版 吉川弘文館

 采女(うねめ)は、律令で定められた女官。地方の行政組織である郡から、上級の役職である長官(大領)、次官(少領)の姉妹または娘が選ばれて都に赴き、朝廷に仕えた、地方エリート層出身の女性。条件は、形容端正であることと、13歳以上30歳以下であること。ただし、定年はなく、生涯現役で働くことも出来た。また、親や自分の病気などを理由として退任することも可能だった。
采女を選ぶのは、中央から任命されて赴任してきた国司。采女の名簿は天皇にまで報告された。中央の大貴族ほどの出世は難しかったが、才覚と能力次第では、女官組織の管理職にもなれた。ウネメの語源は不明。
采女は、出仕したあと天皇の傍らに仕えて、さまざまな用向きを処理した。『日本書紀』には、雄略天皇の時代に、子どもを育てながら宮廷で働く采女がみえる。
 皇室の新しい建物ができたときには、それを言祝(ことほ)ぐ宴(うたげ)が広くおこなわれた。この新室の祝いは、単なる宴会ではなく、神事であった。古代社会において建築・造営は高度な技術を駆使した重要なものだった。
 これまで、采女は、地方豪族から服属の証として朝廷に「貢進」された、いわば人質として考えられてきた。
 日本古代は、男女の格差が少ない社会である。男女個人がそれぞれ財産をもち、処分もできた。夫婦や親子であっても財産の保有は別々であり、男女とも父方母方双方から財産を相続できた。父方と母方とを区別する考えもなかった。
権力においても、政治から女性を排除する社会通念は乏しかった。したがって、女性を「みつぎもの」として扱う社会観は共有しにくい。
渡来人の活用は、倭国が先進国である朝鮮半島諸国を追い抜く原動力だった。繰り返し工女の渡来を求めたのは、新しい技術を摂取するため。
 河内の倭飼部は、乗馬の風習が朝鮮半島から伝来してきたこととあわせて、渡来系の氏族だったことを裏づけている。
 古代日本では、男女の性的関係が始まったときから、それは婚姻だと認識された。
 万葉集には「女郎」が登場するが、イラツメと読まれた。
 郎女と女郎は、成り立ちも意味も異なっている。郎女はイラツメと読み、男性を指す郎子の対義語。万葉集には、郎女も女郎も混在している。
 女郎は、江戸時代の初めには、身分ある女性を指すコトバとして通用していた。もともとは女性への敬称である「女郎」が、今日では遊女の別称となり、定着してしまった。
 ところが、中国では女郎は年若い女性のことで、遊女の代名詞にはならなかった。
 中国で采女(サイジョ)は、宮女の代名詞だった。「日本書紀」に記された采女(ウネメ)の姿は、中国の采女(サイジョ)とは、まったく異なる。
 日本では、豪族の女性たちが男性とともに政治的行動を担い、役割を果たしていた。古代東アジアの「女郎」に、日本で近世以降にイメージされる「遊女」の意味は、まったくない。
 古代の日本では、推古天皇をはじめ8代6人の女帝が誕生し、統治した。女帝は普通のことで、その存在を排除する通念は乏しかった。
 采女の正体に迫ったという気にさせる本です。
 
(2024年9月刊。1870円)

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