弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2025年3月 1日
ユーラシアのなかの「天平」
日本史(奈良)
(霧山昴)
著者 河内 春人 、 出版 角川選書
聖武天皇は724年に即位し、729年に「天平」と改元した。この年2月、左大臣として政権トップにあった長屋(ながや)王が突然失脚した。長屋王は謀反の疑いがあるとされ、屋敷を包囲されるなか、妻や子どもたちともども自害に追い込まれた。貴族が死刑に処せられることはなかったので自害することが求められた。
この長屋王の謀反は、冤罪であったとされています。では、なぜ...?
長屋王は、皇親勢力に対する貴族官僚のトップとして聖武天皇を支えていた。皇親勢力は長屋王に抗していた。
著者は、長屋王事件の黒幕を聖武天皇その人だったと推察しています。長屋王の妻が産んだ子が皇位継承において有力になるのを恐れたというのです。いやあ、この指摘には信じられないほどの衝撃がありました。
この当時、皇位継承というのはきわめて不安定なものだった。「天平」という世は、初めから不穏な空気を漂わせていた。明るい雰囲気だけは、とても言えなかった。
このころ、中国は唐の時代。712年に即位した玄宗の治世は、唐の最盛期。楊貴妃がやがて登場し、詩人の李白が活躍している。政治の世界では、門閥や皇帝の寵を得て出世した恩蔭(おんいん)系貴族と、試験(科挙)に合格して栄達を果たそうとする科挙官僚の政争が激化していた。
日本は、法的なレベルで自らを中華と位置づけた。中国(唐)を自国に従属する格下の国として振るまった。これは日本国内で通用しても、対外的にはありえないこと。日本の遣唐使は唐に行くと朝貢使として振る舞うしかなかった。
ソグド人は交易に従事する者が多く、その風習は商業民族として史料に記録されている。
アラブ世界では、「馬が第一、妻は第二」というほど、馬は生命線だった。馬だけでなく、馬具、とくにあぶみ(鐙)の導入。そして、騎兵の重視につながった。
732年、日本で16年ぶりに遣唐使が任命された。聖武天皇にとっては初の「遣唐使」だった。
唐人を相手にして見劣りしない学識や人柄、あるいは見た目が問題とされた。体格も良く、威風堂々とした押し出しがあるのが前提。奈良時代の遣唐使は総勢5、600人という大所帯だった。大使、副使、判官、録事の四等から構成された。
734年4月、大和朝廷の遣唐使は玄宗に謁見した。遣唐使は長安を目指した。長安は現在は西安市。兵馬俑(へいばよう)を見に、私も二度行きました。
716年に留学生として唐に入った仲麻呂は、大学に入ることを許され、唐の官僚機構のなかで順調に出世していった。
このころ日本では金が全然とれていなくて、黄金は外国から入手するしかなかった。そのための遣唐使でもあった。ところが、749年に陸奥で金がとれはじめた。朝鮮半島には、金銀の採掘、鍛治の技術があった。
752年、大宰府に新羅の使節団が到着した。7隻で700余人という大人数だった。このとき、新羅は外交文書を持参せず、口頭で用件を述べた。文書で日本が優位に立っているという証拠を新羅側は残したくなかった。
交易が行われた場は、日本と新羅がそれぞれ自国の優位性を相手に認めさせようとする、もう一つの戦場だった。
遣唐使が唐の元会(大朝会)に参加することは、日本が唐に朝貢したことを内外に示すものだった。当時の唐において対等な外交というものは存在しなかった。
755年11月、玄宗の寵臣だった安禄山が反乱を起こした。安史の乱。安禄山は、父がソグド人で母は突厥(とっけつ)人。非漢族の安禄山は、中国的なシステムのなかで勢力を増やしていき、ついには唐を揺るがした。
このころ日本で政権を担っていたのは藤原仲麻呂。ところが仲麻呂の後ろ盾として君臨していた光明皇太后が亡くなってから、急速に失墜した。
仲麻呂の乱のあと、吉備真備が称徳天皇の腹心となり、右大臣となった。そして、次の桓武天皇は遷都を実現した。天武系皇統から天智系皇統に移行した。なお、桓武の母は渡来系氏族だった。
日本と朝鮮(新羅)そして中国(唐)とを横の結びつきで考えることの意義を感じることができました。
(2024年8月刊。2750円)