弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2025年3月 1日
ユーラシアのなかの「天平」
日本史(奈良)
(霧山昴)
著者 河内 春人 、 出版 角川選書
聖武天皇は724年に即位し、729年に「天平」と改元した。この年2月、左大臣として政権トップにあった長屋(ながや)王が突然失脚した。長屋王は謀反の疑いがあるとされ、屋敷を包囲されるなか、妻や子どもたちともども自害に追い込まれた。貴族が死刑に処せられることはなかったので自害することが求められた。
この長屋王の謀反は、冤罪であったとされています。では、なぜ...?
長屋王は、皇親勢力に対する貴族官僚のトップとして聖武天皇を支えていた。皇親勢力は長屋王に抗していた。
著者は、長屋王事件の黒幕を聖武天皇その人だったと推察しています。長屋王の妻が産んだ子が皇位継承において有力になるのを恐れたというのです。いやあ、この指摘には信じられないほどの衝撃がありました。
この当時、皇位継承というのはきわめて不安定なものだった。「天平」という世は、初めから不穏な空気を漂わせていた。明るい雰囲気だけは、とても言えなかった。
このころ、中国は唐の時代。712年に即位した玄宗の治世は、唐の最盛期。楊貴妃がやがて登場し、詩人の李白が活躍している。政治の世界では、門閥や皇帝の寵を得て出世した恩蔭(おんいん)系貴族と、試験(科挙)に合格して栄達を果たそうとする科挙官僚の政争が激化していた。
日本は、法的なレベルで自らを中華と位置づけた。中国(唐)を自国に従属する格下の国として振るまった。これは日本国内で通用しても、対外的にはありえないこと。日本の遣唐使は唐に行くと朝貢使として振る舞うしかなかった。
ソグド人は交易に従事する者が多く、その風習は商業民族として史料に記録されている。
アラブ世界では、「馬が第一、妻は第二」というほど、馬は生命線だった。馬だけでなく、馬具、とくにあぶみ(鐙)の導入。そして、騎兵の重視につながった。
732年、日本で16年ぶりに遣唐使が任命された。聖武天皇にとっては初の「遣唐使」だった。
唐人を相手にして見劣りしない学識や人柄、あるいは見た目が問題とされた。体格も良く、威風堂々とした押し出しがあるのが前提。奈良時代の遣唐使は総勢5、600人という大所帯だった。大使、副使、判官、録事の四等から構成された。
734年4月、大和朝廷の遣唐使は玄宗に謁見した。遣唐使は長安を目指した。長安は現在は西安市。兵馬俑(へいばよう)を見に、私も二度行きました。
716年に留学生として唐に入った仲麻呂は、大学に入ることを許され、唐の官僚機構のなかで順調に出世していった。
このころ日本では金が全然とれていなくて、黄金は外国から入手するしかなかった。そのための遣唐使でもあった。ところが、749年に陸奥で金がとれはじめた。朝鮮半島には、金銀の採掘、鍛治の技術があった。
752年、大宰府に新羅の使節団が到着した。7隻で700余人という大人数だった。このとき、新羅は外交文書を持参せず、口頭で用件を述べた。文書で日本が優位に立っているという証拠を新羅側は残したくなかった。
交易が行われた場は、日本と新羅がそれぞれ自国の優位性を相手に認めさせようとする、もう一つの戦場だった。
遣唐使が唐の元会(大朝会)に参加することは、日本が唐に朝貢したことを内外に示すものだった。当時の唐において対等な外交というものは存在しなかった。
755年11月、玄宗の寵臣だった安禄山が反乱を起こした。安史の乱。安禄山は、父がソグド人で母は突厥(とっけつ)人。非漢族の安禄山は、中国的なシステムのなかで勢力を増やしていき、ついには唐を揺るがした。
このころ日本で政権を担っていたのは藤原仲麻呂。ところが仲麻呂の後ろ盾として君臨していた光明皇太后が亡くなってから、急速に失墜した。
仲麻呂の乱のあと、吉備真備が称徳天皇の腹心となり、右大臣となった。そして、次の桓武天皇は遷都を実現した。天武系皇統から天智系皇統に移行した。なお、桓武の母は渡来系氏族だった。
日本と朝鮮(新羅)そして中国(唐)とを横の結びつきで考えることの意義を感じることができました。
(2024年8月刊。2750円)
2025年3月 2日
インド沼
インド
(霧山昴)
著者 宮崎 智絵 、 出版 インターナショナル新書
インドに行ったことはありませんが、インド映画はそれなりに観ています。面白いからです。
『ムトゥ踊るマハラジャ』の踊り、大勢で所狭しと乱舞する姿に圧倒されました。『バーフバリ伝説誕生』も『RRR』も、そのスケールの大きさに思わず息を呑みました。
インド映画は今や日本だけでなく世界的に評価され、ヒットしている。
1857年に起きたインド大反乱をイギリス東インド会社軍が鎮圧し、ムガル帝国は滅亡した。そして1877年にイギリスのヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国が成立した。その実質はイギリス帝国の一部として、植民地になったということ。
『RRR』は、このインド帝国時代を舞台としている。
公開処刑は、民衆に恐怖の感情を植え付けるとともに、貴族の娯楽でもあった。
インドでは、法律上はともかくとして、現実には今なおカースト制が生きているようです。不可触民(ダリット)は人口の10~15%を占めている。
アンベードカルは、不可触民のコミュニティに生まれ、イギリスで博士号と弁護士資格を得た。差別を嫌って、ヒンドゥー教から仏教へ集団改宗したときのリーダーになった。インド独立後、法務大臣となり、インドの憲法起草委員長にもなった。
世界で一番映画を制作しているのはインド。年間2000本近い。アメリカは660本(2017年)。インドでは映画のチケット代が安く、庶民の娯楽。
インド映画には、突然、群舞のシーンが必ず登場してくる。ラブシーンでキスをするのが忌避されるので、その代わりに情熱的に踊って愛情を表現する。そもそもインドの演劇論では踊りも演劇の一部である。
インド中西部の都市ムンバイは旧名ボンベイなので、そこからハリウッドをもじって「ボリウッド」と呼ばれ、映画制作が盛んな都市になっている。
映画館では、観客が一体となって映画に入り込み、喜怒哀楽を共有する。
ヒンドゥー教では結婚は義務とされている。離婚はなかなか出来ない。親による結婚のアレンジは当たり前。結婚の相手が見つかって次の問題が持参財(ダウリー)。法律では禁止されているものの、現実には伝統なので続いている。花婿側は花嫁側に対して、年収の3倍も要求する。なので、娘が3人いると親は破産すると言われている。
親に結婚を反対された恋人が駆け落ちすると、探し出されて殺されることがある。これを名誉殺人という。この名誉とは、親や親戚にとっての名誉。
結婚式の日取りは星占いで決める。3日から7日もかけるので、年収の3倍から4倍も費用がかかる。
シク教徒の草本山の黄金寺院(ハリマンディル・サーヒフ)では、毎日10万食の食事が巡礼者や訪問者に無料で提供される。いやあ、これはすごい規模ですね。
日本の子ども食堂や大人食堂はとてもかないません。シク教はカーストを否定しているため、共食(共に食事を共にする)のを大切にしている。
ガンディーは、イスラム教徒の肩をもつ裏切り者とされ、ヒンドゥー原理主義集団民族義勇団のリーダーから暗殺された。
トイレは不浄であり、排せつ物はけがれているという意識から、トイレを家内どころか家の敷地内につくることすら拒否反応がある。トイレは野外ですればいい、するものだという感覚です。それでは女性は大変です。
女性の生理用ナプキンをインドに普及させた男性をモデルとした実話ベースの映画『パッドマン』は、私も観ました。
インドでは高学歴が尊重されるので、大学入試も卒業するのも大変。それで、学生の自殺が多い。15~29歳の年代層では自殺が死因のトップになっている。年に1万3千人をこえる。
『ダンガル』という映画も観ましたが、これは、女性のレスリング選出がオリンピックで活躍する話です。
映画を通じてインドという国のリアルを知ることができました。
(2024年8月刊。940円+税)
2025年3月 3日
先生、イルカとヤギは親戚なのですか!
生物
(霧山昴)
著者 小林 朋道 、 出版 築地書館
コバヤシ先生は、今や大学の学長先生。そして、このシリーズも19冊目。すごいものです。私の本棚にコバヤシ先生の本が何冊並んでいるか、数えてみました。18冊ありました。つまり、この本で19冊目になるというわけです(シリーズ以外の本もありますので、シリーズ全巻をそろえたわけではないようですd)。
さてさて、今回の対象は何かな...。
コバヤシ先生はタヌキが好きとのこと。実は我が家の隣はうっそうとした雑木林になっていて、少し前のことですが、朝、そこから一頭のタヌキが姿を現わし、悠然と団地内の道路を偵察に繰り出したのです。呆気にとられてしまいました。
日本に生息する、オオカミと同じ食肉目イヌ科の野生動物はタヌキとキツネだけ。
アカハライモリの背中は黒色で、腹側は赤い。これは、背中の黒色で見つからないようにしていて、認知されたときは体を回転させて腹側の赤色を見せて攻撃をためらわせる戦略。
シマヘビが交尾しているのをコバヤシ先生は邪魔したそうです。実は、私も同じ経験があります。庭にヘビがいるのを見つけたので、長い竿で叩いて驚かして追い払おうとしたのです。ところが、なんと、ヘビは2匹いて、からまりあっているのでした。いやはや驚きました。
コバヤシ先生は野生生物を扱う学者なので、ヘビを捕まえて観察したのです。すると、オスは肛門のところにヘビに特有な、球に棘(トゲ)がびっしり生えたようなペニスが露出していたのです(もちろん写真があります)。このペニスがメスの肛門に入って、ペニスが抜けないようになっているというわけです。こうやって、私も一つ賢くなりました。
コバヤシ先生が学長をつとめる大学ではモモンガを描いた可愛らしいグッズを製作しています。とてもよく出来たコースターです。
コバヤシ先生がビオトープ(池)をつくると、カエルを狙ってマムシが出没するようになった。鮮やかな模様の毒ヘビ。コバヤシ先生はこのマムシを追いかけ、正面からにらみあっていました。ちゃんと、その証拠写真があります。たしかにマムシの顔がこちらを向いて威嚇しているのです。マムシが怒って飛びかかってきたら、どうしましょう...。もちろんコバヤシ先生は一定の距離を置いていました。
コバヤシ先生のいる大学で学べる学生は幸せです。
(2025年1月刊。1760円)
2025年3月 4日
再審弁護人のベレー帽日記
司法
(霧山昴)
著者 鴨志田 祐美 、 出版 創出版
小柄な身体は闘志の魂(かたまり)のようです。私も何回か著者の話を聞きましたが、情熱がほとばしり出てくる、速射砲の展開に、心を射すくめられました。
この本は雑誌『創』の2021年6月号から3年間のコラムをもとにしています。この3年間に、日本の再審と刑事司法をめぐって大きな動きがありました。こうやって振り返ってみると、まさに激動した時代だとひしひしと実感させられます。
それにしても、2019年6月25日の最高裁判所の決定はひどい、ひどすぎます。せっかく大崎事件について地裁と高裁が認めた再審開始決定をとんでもない「事実」を認定して取り消したのです。許せません。
著者は、この5人の裁判官を忘れてはいけないとして、実名をあげ、国民審査で罷免しようと呼びかけました。まったく同感です。小池裕、池上政幸、木澤克之、山口厚、深山卓也の5人です。しょうもない連中だと言うほかありません。被告人とされた3人が自白しているんだから有罪で間違いないという捜査機関と同じ思い込みから、科学的な鑑定を無視し、はねつけたのです。ひどいものです。
そして、その後の再審請求について、ひどい最高裁決定をそのまま踏襲したような地裁決定が出されました。まさしくヒラメ裁判官です。勇気をもって自分の頭で考えようとしない裁判官が、いかに多いことか...。残念です。
再審事件の審理について、いつも納得できないことは、検察官が手持ち証拠を全部出さないこと、隠していること、あるいは袴田再審事件のように証拠を警察が偽造しているのに、それを容認して平然としていることです。大崎事件でも、検察官は、もう未開示証拠はないと断言したのに、鹿児島地裁の冨田敦史裁判長が証拠開示を勧告したら、18本ものネガフィルムが新たに開示されたそうです。検察官は嘘をついたわけです。
証拠は検察官の私物ではありません。公益の代表者として法廷で行動しているはずの検察官が自分に不利だと思った証拠を隠しもって提出しないということが許されていいはずはありません。
再審法は改正されるべきです。証拠開示手続の明文化、そして再審開始決定に検察官は不服申立(抗告)が出来ないようにすべきです。
著者はアーティストでもあります。ライブコンサートでピアノを弾き、歌っています。福岡で八尋光秀弁護士と一緒に、そして見事に再審無罪を勝ち取った桜井昌司さんと共演しています。すごいものです。再審法改正の実現まで、どうぞ健康に留意されて、引き続きのご奮闘を心より祈念しています。
ここまで書いたあと、大崎事件でまたもや最高裁が再審しないと決定したことを知りました。本当にひどいです。学者出身の宇賀克也裁判官ひとり再審を認めるべきとしています。それだけが唯一の救いです。
(2025年1月刊。1870円)
2025年3月 5日
象徴天皇の実像
日本史(戦後)
(霧山昴)
著者 原 武史 、 出版 岩波新書
昭和天皇は根っからの反共主義者だったようです。吉田茂については、日本共産党を甘く見ている、少し過小評価していると批判していました。著者は、天皇が逆に共産党を過大評価しているとしています。
昭和天皇のホンネは、独立回復を機に憲法9条を改正して自衛軍をもつことだった。
吉田茂については、いろいろ不満たらたらだったのですが、それでも代わる人間がいないから、首相を続けさせるしかないという現実認識だった。岸信介は主戦的だったのに公職追放から解除されたのはおかしいと昭和天皇は考えていた。
東条英機はちゃんとやったが、近衛文麿は無責任のそしりを免れない。近藤はよく話すけれど、あてはならない。
皇太子(今の上皇です)が東大に行くのを昭和天皇は反対したようです。東大総長の南原繁が全面講和や天皇退位を唱えていたから、その影響を皇太子が受けるのを心配したから。結局、皇太子は学習院大学に入りましたが、中退しています。
この本は、宮内庁長官をつとめた田島道治による『昭和天皇拝喝記』にもとづいていますが、昭和天皇の肉声が聞こえてくるような気にさせられるような生々しさがあります。
昭和天皇については、口数が少ないというイメージがあるが、その素顔は、むしろ多弁で、話しだしたら止まらなかった。その雰囲気がよく伝わってくる本になっています。
敗戦後、新しい憲法が出来て「象徴」になったあとも、昭和天皇は依然として天皇大権をもっていると思い込んでいた。これには驚くほかありません。
戦後の日本で、政治不信が強まれば、共産主義の影響を受けた学生や労働者が直接行動を起こして、暴発しないか、天皇には危機意識があった。
天皇は自らの退位を真剣に考えていたというより、もとからあまり退位する気はなかったようです。
そして、国民の多くが敗戦後、カトリック信者になるのなら、自分も改宗しようか、真面目に検討したとのこと。でも、敗戦後の日本人にカトリック信者が急増したという現象もないので、早々にやめたそうです。
天皇は皇太子(今の上皇)のことを「東宮(とうぐう)ちゃん」と呼び、その身体が弱いので、天皇がつとまるか心配していた。
敗戦後、昭和天皇は日本全国を皇后と一緒に巡業したが、最後に北海道が残った。行けば、「共産化に対する防御」になるので、ぜひ北海道に行こうということになった。そして、行ったのです。
昭和天皇が、「国費を使ってアカ(赤)の学生を養成する結果となるような大学もどうかと思う」と言ったとき、それは東大や京大を指していた。いやはや、なんという感覚でしょうか...。
天皇が皇道派の中心人物の一人である真崎甚三郎を特に嫌っていたというのを初めて知りました。
戦前、日本軍による南京大虐殺があったことを三笠宮は自分の本のなかで書いていますが、昭和天皇も「支那事変で南京でひどい事が行われていることを、ウスウス聞いていた」としています。
昭和天皇の実像を知ることのできる貴重な新書だと思いました。一読を強くおすすめします。
(2024年10月刊。960円+税)
2025年3月 6日
地下鉄サリン事件はなぜ防げなかったのか
社会
(霧山昴)
著者 垣見 隆 、 出版 朝日新聞出版
1995年3月20日、地下鉄サリン事件が発生。その前年(1994年)6月27日に起きた松本サリン事件では被害者なのに犯人と間違えられた事件が発生。そして地下鉄サリン事件の直後の3月22日、山梨県の上九一色村にあったオウム教団拠点への大捜索、3月30日に國松孝次警察庁長官の狙撃事件があり、オウムの麻原彰晃が逮捕されたのは5月16日。ちなみに、阪神淡路大震災が起きたのは、この年の1月17日です。これらの大事件の当時、警察庁刑事局長だった垣見隆弁護士から、6年に及ぶ準備期間を経て15時間もの聞き取りが一冊の本にまとまっています。日本の警察の中枢にいた人の話は傾聴に値すると思いました。
垣見氏はオウムの一連の事件を考えるにあたって、坂本弁護士一家殺害事件の解明が遅れたことを大きな問題とみています。オウム教団から大金を持ち逃げした岡崎容疑者が坂本弁護士一家の遺体を埋めた場所を警察にタレ込んできたとき、きちんと捜査しておけば、地下鉄サリン事件は起きなかったとしています。このタレ込みの書面に描かれた埋設場所は基本的には正確だったのです。
そして、警察庁長官狙撃事件は結局のところ、犯人は中村泰(病死)である疑いは強いとされています。ところが、時効が成立した時点で警視庁公安部は犯人はオウムだと宣言したのでした(民事裁判で警察は敗訴)。
この当時は村山首相(社会党)だったのですね。刑事局長として首相官邸に直接報告に行っていたことを警察の政治的中立性から問題にして批判した人たちがいたそうです。私には政治的中立性がなぜ問題とされるのか、さっぱり分かりません。
垣見氏は警察庁刑事局長から警察大学校長への異動を命じられた。明らかに更迭(こうてつ)人事。本人も「閉門蟄居(ちっきょ)を命じられた心境」、移動先では「配所の月を眺める」といった心持になった。これって菅原道真の心境でしたが...。まだ53歳の若さです。しかも、警察大学校長もわずか1年弱で退職勧奨を受けた。このときは、「言われるまま素直に、という気持ちではなかった」と語っています。
当時の國松長官に対する怒りがあったのではないかという問いに対しては、「コメントするつもりはありません」と返して、否定していません。警察官僚トップ(長官)へあと一歩のところに来ていたのに、オウム対策で目立った失敗をしたわけでもないのに、なぜ自分だけ更迭されるのか...という怒りがあったようです。キャリア組同士の抗争というか、葛藤が感じられる状況です。
垣見氏は司法試験にも合格していましたので、司法修習生となって弁護士活動を始めました。以来、弁護士になって25年たちました。
1989年11月に発生した坂本一家殺害事件こそ、オウム教団の一連の犯罪行為の原点。これについて警察は、当初は行方不明事件として扱うなど、初動段階の対応が的確でなかったと批判し、反省点にあげています。
神奈川県警は坂本弁護士について過激派だったとか、当初はデマを飛ばしたりして、まともに対応せず、オウムをきちんと捜査対象にしていませんでした。
垣見氏は。マスコミ対応について、適切に出来ていなかったと自己批判しています。マスコミ陣から嫌われたというのも、更迭の一因になったのかもしれません。
大変貴重なオーラルヒストリーだと思って、東京からの帰りの飛行機のなかで、一心に読みふけりました。
(2025年2月刊。1900円+税)
2025年3月 7日
忘れられた無差別爆撃
日本史(戦前)
(霧山昴)
著者 纐纈 厚 、 出版 不二出版
検証・錦州爆撃というサブタイトルのついた本です。
1931年9月18日に始まった満州事変の翌月(10月)8日に日本軍は錦州を爆撃した。世界最初の都市への無差別爆撃だった。日本軍が攻撃したのは中国軍の兵営というより、錦州駅など市内の中心地。錦州市は当時の人口180万人、日本人も多く住んでいたが、日本人居住区は攻撃対象からはずされた。錦州爆撃はきわめて用意周到な計画にもとづくものだった。
この錦州無差別爆撃はアメリカやイギリスをひどく怒らせ、国際世論は日本を厳しく糾弾した。錦州爆撃は国際社会から猛烈な批判を浴びた。それまでは日本の軍事行動をある程度は容認していたアメリカも姿勢を一変させた。
このとき石原莞爾は自ら出撃機に搭乗して陣頭指揮した。石原ら関東軍と陸軍中央は目ざすところは同じだったが、主導権をどちらが握るかで争っていた。石原莞爾の性急ぶりに、陸軍中央が振り回された。
関東軍が独走し、それを陸軍中央が追認するというパターンが常だった。
錦州爆撃で出撃した日本陸軍機は、複合機の八八式偵察機とポテー機。まだ専用の爆撃機は完成していなかったのです。25キログラムの爆弾を吊しておいて、結局、手で放り投げたようです。出動した飛行機は11機で、爆弾は80個。この爆撃による死者は35人で、うち1人はロシア人の教授だった。その未亡人に対して150円の見舞金が支給された。
日本軍は、この爆撃について偵察飛行していると、地上から中国軍が銃撃してきたので、自衛のために爆弾を投下しただけだと強弁した。もちろん国際世論は納得しなった。
昭和天皇は、当初こそ関東軍の独断専行を心配していたが、錦州を占領すると、勅語によって関東軍をたたえた。
「朕、深くその忠烈を嘉(よみ)す」(1932年1月8日)
これによって、満州事変が天皇によって正当化された。そして、もはや関東軍の独走を止める者はいなかった。
1932年2月に来日したリットン調査団も、10月に発表した報告書で、満州事変における関東軍の行動を自衛的行為とは認め難いとし、錦州爆撃も非難した。
この錦州は、1948年10月、毛沢東の八路軍と蒋介石の国民党軍の満州を舞台とする決戦場にもなっています。八路軍20万人に包囲され、国民党軍10万人は激戦の末、降伏した(『八路軍とともに』花伝社に詳しい)。大変勉強になりました。
(2024年11月刊。3300円)
2025年3月 8日
朝鮮通信使にかける魂の軌跡
日本史(江戸)
(霧山昴)
著者 嶋村 初吉 、 出版 東方出版
通信使とは、朝鮮王朝が派遣した外交使節。通信とは、信(よしみ)を通(かわす)という意味。
徳川家康が豊臣秀吉の朝鮮侵略で断絶した国交修復に乗り出し、通信使の派遣を要請した。これに応え、朝鮮王朝は1607年から1811年まで12回、300人から500人もの使節団を派遣した。
江戸城で国書を交換する。使節団は漢城(現ソウル)から江戸までの2000キロを踏破した。通信使が来日するたびに、日本では朝鮮ブームがまき起こり、大きな文化交流がなされた。
与謝(よさ)蕪村(ぶそん)の句。
高麗船(こまぶね)の よらで過ぎ行く 霞(かすみ)かな
瀬戸内海を往く6隻の朝鮮通信使船をうたった句。
朝鮮通信使は100人ほどで、それに航海士などが加わるので、総勢は300人から500人になる。船は6艘。正使船、副使船、従事官船という3艘に、貨物船が加わる。対馬藩の船が先導する。朝鮮通信使絵巻や船団図などに描かれている。
馬上才は、日本にはない、朝鮮ならではの馬上の曲芸。徳川将軍家光が来日を熱望し、江戸城馬場で馬上才が披露された。馬上横臥、馬上立倒といったいろいろな曲芸が演じられている様子が『馬上才図巻』に残っている。
朝鮮通信使を饗応(きょうおう)した料理が再現されていた。ツバメの巣、カラスミ、焼きウズラなどの山海の珍味10種類の料理が、7つの饗応膳に盛り付けられた。
江戸時代の対馬藩の朝鮮貿易は仲介貿易だった。博多商人を通して国内産を、琉球を通して南方産を入手し、それを釜山にある草梁倭館で売買した。
宗義智に嫁いできたマリアは小西行長の娘。関ヶ原の戦いでの敗戦後、マリアは義智から離縁されて長崎へ下っていった。
国書は朝鮮国王から日本の将軍へ送る書面。書契は朝鮮国王から対馬島主にだけ出している書面。
朝鮮通信使に関する記録は、2007年10月、ユネスコ世界記憶遺産に登録された。この登録は日本政府を通してではなく、日韓の民間団体が共同しての申請だった。
今では、文科省のHPにも紹介されている。
この朝鮮通信使は、日本が朝鮮を植民地支配するなかで意図的に消した大きな友好の歴史だった。
ドキュメンタリー映画『江戸時代の朝鮮通信使』というのがあるそうです。ぜひ観てみたいものです。テレビで放映されたのでしょうか...。
朝鮮通信使ゆかりのまち全国交流会が1995年に第1回が対馬市で開催されて以来、2023年まで既に30回も開かれている。いやあ知りませんでした。たいしたものです。
釜山市では、その三大祭りの一つに朝鮮通信使祭りがなっているそうです。
厳原(対馬)と博多を結ぶ海運学を生業とする松原一征氏の通信使復興を目ざす歩みが紹介されている本でもあります。
(2024年10月刊。2500円+税)
2025年3月 9日
一身にして二生、一人にして両身
日本史(戦前)
(霧山昴)
著者 石田 雄 、 出版 岩波書店
東大の社会科学研究所(社研)の教授であり、政治研究者として高名な著者が父親のこと、戦後日本のことを語った本です。
父親は戦前、内務官僚として警視総監もつとめました。熊本の五高時代からの親友である大内兵衛(東京帝大経済学部教授)が治安維持法違反で特高警察に逮捕された。
人民戦線事件。前年まで警視総監をして管内各署を巡視していて、すべてを知り尽くしていたと思っていたところ、大内兵衛が留置されていた淀橋警察署に出かけて想像もしない状況を見聞した。自分の親友が狭い雑居房でスリや強盗と一緒に劣悪な条件でスシ詰めにされていたのを知った。それを知った父親はすぐに警視庁に行き、そのときの警視総監である安倍源基(特高の警察の元締として悪名高い)に会い待遇改善を要請した。大内兵衛は「憎むべき」思想犯なので、安倍警視総監が快く改善に乗り出したとは考えられない。ただ、先輩の頼みなので、無下には扱えず、淀橋署より混み方の少ない早稲田警察署に大内兵衛は移された。そういうことがあったのですね。留置場のひどさは想像できます。
日本の敗戦後、父親は、「たくさんの人を縛った罪滅ぼし」をするため、刑事被告人の国選弁護人をしはじめた。そして、国選弁護人として何回も小菅刑務所(東京拘置所)で被告人に面会し、話しているうちに、犯罪者に対する観方が180度変わった。
権力の側から見ていたときは、被疑者・被告人は悪い人間で、それを捕えて罰するのは必要だし、当然のことだと思っていた。ところが、被告人の眼で見ると、彼らは、まさしく社会的矛盾の被害者だと考えられる。また、死刑囚の弁護をしているうちに、死刑制度は廃止すべきだと考えるようになった。
そうなんですね。昔も今も、目の前の現実をしっかり受けとめると、考え方が180度変わってしまうことがあるのですね...。
著者は、「政治改革」をマスコミと多くの学者が礼賛するなかで、結局、小選挙区制が導入されたことを苦々しく振り返っています。今の日本の政治をおかしくしている原因の一つが、この小選挙区制です。元の中選挙区制に戻すか、全国完全比例代表制に変えて、民意が国政に正確に反映されるようにすべきだと思います。
日本人が第二次世界大戦の被害者であることは間違いありません。しかし、同時に加害者側でもあったことを忘れてはいけないと、著者は再三強調しています。まことにそのとおりです。朝鮮半島そして中国大陸への侵攻だけでなく、東南アジアへ広く進出していって、多くの罪なき民衆を殺し、資源を奪い、市民生活を破壊していったのです。
それは、戦後の朝鮮戦争そしてベトナム戦争についても言えます。日本は明らかに加害者であり、戦争による利益を受けたのです。
考えさせられる事実、そして指摘がありました。
(2006年6月刊。2400円+税)
2025年3月10日
鳥の惑星
生物
(霧山昴)
著者 日経サイエンス編集部 、 出版 日経サイエンス社
鳥は恐竜の子孫というより、恐竜そのもの。しかも、小型肉食恐竜が進化した生き物。鳥は獣脚類恐竜から進化したというのが現在の通説。
これまでは白亜紀末の大絶滅(大きな隕石の衝突によるものというのが現在の有力説)よりあとに鳥類が恐竜のなかに誕生したというものだったが、最近では大絶滅の前に鳥類は誕生したと考えられている。すると、どうやって大絶滅から生きのびることが出来たのかという疑問が生まれる。この謎は今なお解明されていない。
オオソリハシシギはアラスカのツンドラから太平洋を縦断して1万2千キロ先のニュージーランドまで少なくとも7昼夜も飛び続ける。毎年、数万羽が無事に渡っている。
オオソリハシシギは、1万3千キロを1回の休憩もなく、11日間ぶっ通しで、アラスカからタスマニア島まで飛び続けた。時速50キロで、1日24時間、ずっと飛び続けた。地上にも海上にも降りることなく、食べも飲みもせず、ひたすら羽ばたき続けた。
どうやって、何の目印もない海の上を飛び続けて迷い鳥にもならず、目的地にたどり着けるのか...。
渡り鳥は、天体をナビゲーションの手がかりとして使い、また、地磁気(融解した地球コアによって生じた磁場)を検知して飛んでいる。
鳥の眼の中には光化学反応によって「ラジアル対」という短寿命の分子ペアが形成されていて、鳥のコンパスは、このラジカル対に生じる微妙で本質的には量子的な効果に依存している。
渡り鳥は、視覚と嗅覚そして磁気感覚を頼りとして飛んでいる。磁気に反応するクリプトクロムというタンパク質は、蝶のオオカバマダラや哺乳類のクジラにも見つかっている。
鳥の羽の拡大写真は思わず息を呑みこむほど見事です。そして、羽の先端に切れこみが入っていると、それは飛ぶうえで特別の効用があるというのです。
フクロウの無音飛行にも、翼の前縁の羽毛に櫛(くし)のようなふさふさのフリンジ(ふさ)があることによって音が生じない。
羽毛と空気の相互作用による振動が起こらないので音が発生しない。
ホバリングの得意なハチドリは、非常に高い羽ばたき周波数と蜜を吸いながら花の前でホバリングする際の独特の羽ばたき動作に適応するためハチドリの羽毛はきわめて硬い。
キンカチョウは、お互いの地鳴きに含まれる小さな違いを聞き分け、お互いの性別やアイデンティティーなどの情報を交換しているらしい。そしてメスもオスと同じように歌う。オスとメスのペアが高度に入り組んだデュエットを歌う。人間の耳には、連続した単一の歌のように聞こえる。
カレドニアガラスが賢い鳥だというのは有名です。道具を使ってエサをとるのです。そして、なんとチームを作って作業できるというのも判明しました。
カササギは、鏡に映った自分の姿を検分できる。
いやあ、鳥という生き物の驚異的な能力には圧倒されてしまいます。しかも、鳥は、かの恐竜の一種だというのですからね...。
(2024年12月刊。2200円+税)
2025年3月11日
采女、なぞの古代女性
日本史(古代)
(霧山昴)
著者 伊集院 葉子 、 出版 吉川弘文館
采女(うねめ)は、律令で定められた女官。地方の行政組織である郡から、上級の役職である長官(大領)、次官(少領)の姉妹または娘が選ばれて都に赴き、朝廷に仕えた、地方エリート層出身の女性。条件は、形容端正であることと、13歳以上30歳以下であること。ただし、定年はなく、生涯現役で働くことも出来た。また、親や自分の病気などを理由として退任することも可能だった。
采女を選ぶのは、中央から任命されて赴任してきた国司。采女の名簿は天皇にまで報告された。中央の大貴族ほどの出世は難しかったが、才覚と能力次第では、女官組織の管理職にもなれた。ウネメの語源は不明。
采女は、出仕したあと天皇の傍らに仕えて、さまざまな用向きを処理した。『日本書紀』には、雄略天皇の時代に、子どもを育てながら宮廷で働く采女がみえる。
皇室の新しい建物ができたときには、それを言祝(ことほ)ぐ宴(うたげ)が広くおこなわれた。この新室の祝いは、単なる宴会ではなく、神事であった。古代社会において建築・造営は高度な技術を駆使した重要なものだった。
これまで、采女は、地方豪族から服属の証として朝廷に「貢進」された、いわば人質として考えられてきた。
日本古代は、男女の格差が少ない社会である。男女個人がそれぞれ財産をもち、処分もできた。夫婦や親子であっても財産の保有は別々であり、男女とも父方母方双方から財産を相続できた。父方と母方とを区別する考えもなかった。
権力においても、政治から女性を排除する社会通念は乏しかった。したがって、女性を「みつぎもの」として扱う社会観は共有しにくい。
渡来人の活用は、倭国が先進国である朝鮮半島諸国を追い抜く原動力だった。繰り返し工女の渡来を求めたのは、新しい技術を摂取するため。
河内の倭飼部は、乗馬の風習が朝鮮半島から伝来してきたこととあわせて、渡来系の氏族だったことを裏づけている。
古代日本では、男女の性的関係が始まったときから、それは婚姻だと認識された。
万葉集には「女郎」が登場するが、イラツメと読まれた。
郎女と女郎は、成り立ちも意味も異なっている。郎女はイラツメと読み、男性を指す郎子の対義語。万葉集には、郎女も女郎も混在している。
女郎は、江戸時代の初めには、身分ある女性を指すコトバとして通用していた。もともとは女性への敬称である「女郎」が、今日では遊女の別称となり、定着してしまった。
ところが、中国では女郎は年若い女性のことで、遊女の代名詞にはならなかった。
中国で采女(サイジョ)は、宮女の代名詞だった。「日本書紀」に記された采女(ウネメ)の姿は、中国の采女(サイジョ)とは、まったく異なる。
日本では、豪族の女性たちが男性とともに政治的行動を担い、役割を果たしていた。古代東アジアの「女郎」に、日本で近世以降にイメージされる「遊女」の意味は、まったくない。
古代の日本では、推古天皇をはじめ8代6人の女帝が誕生し、統治した。女帝は普通のことで、その存在を排除する通念は乏しかった。
采女の正体に迫ったという気にさせる本です。
(2024年9月刊。1870円)
2025年3月12日
追悼ー大石進さんー
社会
(霧山昴)
著者 大石進さん追悼文集 編集委員会 、 出版 左同
日本評論社の社長・会長を歴任した、布施辰治の孫である大石進が亡くなったのは2024年2月のこと(享年89歳)。
大石進は若いころ、日本共産党員として、山村工作隊員の一人だった。オルグ活動の一環でリヤカーに映画ファイルを積んで、関東近郊の農村に出かけて無声映画の弁士をしたこともあった。つまり、暴力革命を信奉して活動していたこともあったということなんでしょう。中国共産党の毛沢東の影響が日本に強かったころのことです。「農村から都市を包囲する」というのは、広大な中国大陸ではありえても、狭い国土の日本でうまくいくはずもありませんでした。この体験が『私記・白鳥事件』にも生かされていると私は思います。
つまり、戦後まもなくの混沌とした社会情勢のなか、戦争(兵隊)体験者がうじゃうじゃいた世相とともに白鳥事件の真相に迫ったのです。同時に、白鳥事件を担当した上田誠吉弁護士(私も親しくさせていただきました。偉大な先輩として、今も敬愛しています)の苦悩にも言及しています。
大石進は布施辰治の孫であることを長らく周囲に口外していなかった。祖父のことを話したのは1983年、石巻市での布施辰治30回忌追悼会が初めてではないかとされています。大石進が48歳のときですから、ずい分と長く、祖父のことを語っていないわけです。
大塚一男弁護士の息子さん(茂樹氏)の紹介文には驚きとともに、なるほど、そうかも...と思いました。
「父思いではない息子」とあり、「大塚(一男)も、息子には無理筋の追及および罵倒を惜しまないのが日常的だった。60年代はパワハラなど当たり前の時代であった」
まあ、私なんかも胸に手を当てて、息子に対してどうだったのかと、いささか反省もさせられました。申し訳ないことです。真剣ではあったのですが...。
私は、亡父の昭和初めの東京での7年間の生活を本にして刊行しました(『まだ見たきものあり』。花伝社)が、そのなかで布施辰治が弁護士資格を奪われ、治安維持法違反で逮捕されたとき、両国警察署の留置場内で盛大な歓迎会が開かれたことを紹介しています。信じられない実話です。どうぞ私の本もお読みください。
石川元也弁護士、そして森正先生より贈呈していただきました。ありがとうございます。
(2025年2月刊。非売品)
2025年3月13日
異端
社会
(霧山昴)
著者 河原 仁志 、 出版 旬報社
本のタイトルからは、何をテーマとする本なのか、見当もつきません。
新聞記者たちが有力者や社上層部の意向に従わず、思ったことを、事実にもとづいてニュースにして報道する。これが異端。でも、読まれるし、ついには社会を動かしていく。
昨今のSNSで、オールドメディアと決めつけられ、軽く馬鹿にされている風潮があるのは、活字大好き人間の私にはとても残念です。ただ、NHKが典型的ですが、権力の言い分をそのまま垂れ流しているとしか思えない記事があまりに多いというのも情けない現実ではあります。
西日本新聞の傍示(かたみ)文昭記者の名前を久しぶりに見ました。弁護士会が大変お世話になった記者です。当番弁護士や被疑者の言い分を知らせる報道に大いに力を入れてくれました。
1992年2月、2人の小学女児が殺された事件の報道では、久間(くま)三千年(みちとし)被告を犯人と決めつける報道ばかりでした。ところが、本人は一貫して否認していて、当時、始まったばかりのDNA鑑定もきわめて杜撰なものだったのです。
久間被告は、それでも死刑判決となり、刑が確定すると2年後には執行されてしまいました。異例のスピードです。傍示記者は、自らがスクープを放った身でありながら、事件を再検討する企画を立て、社内の異論を抑えて連載記事を始めました。たいしたものです。
次は、沖縄防衛局長が記者たちとの懇談の場で、オフレコとされているなかで、「犯す前に犯すと言いますか」などと、いかにも下品なたとえで、辺野古埋立の環境アセスメントについて語ったことを報道した琉球新報の内間健友記者の話です。
オフレコと断った場での発言であっても報道することが許されることがあることを私は改めて認識しました。政治家などの公人が「オフレコ発言」をしたとき、市民の知る権利が損なわれると判断させる場合には、報道してもかまわないのです。
オフレコ発言であっても、公共・公益性があると判断した場合、メディアは報道する原則に戻るべきなのです。なるほど、そうですよね...。
オフレコ発言だとあらかじめ宣言されていたとしても、無条件で何を言っても書かないとメディアが約束しているのではないということです。
中国新聞は週刊文春の記事と張りあいました。自民党の河井克行・元法務大臣と妻の河井案里の選挙違反報道です。このとき、広島の議員、首長に対して、広く現金がバラまかれました。自民党の県議に対して1人50万円の現金が「当選祝い」として手渡されました。やがて、その出所は首相官邸つまり安倍晋三首相のもとであることが疑われはじめました。例の内閣官房機密費から1億5千万円が出たとみられています。
前に、このコーナーで河井克行元法相が出獄後に刊行した本を紹介しましたが、河井元法相は、今なお事件の全貌を明らかにせず、深く反省している様子もありません。そして、中国新聞を左翼の新聞とばかりに非難しています。呆れたものです。
この本を読みながら、やはりジャーナリズムに求められるのは権力の腐敗を暴き、それによって庶民の目を大きく見開かすことにある、そう確信しました。
(2024年11月刊。1870円)
2025年3月14日
大本営発表
日本史(戦前)
(霧山昴)
著者 辻田 真佐憲 、 出版 幻冬舎新書
「大本営発表」というコトバは、今でもデタラメなことを公然と言って恥じないという意味で使われることがあります。この本では、「あてにならない当局の発表」とされています。
3.11福島第一原発事故は、危く東日本全滅という超重大事故になるところでしたが、政府(原子力安全・保安院)と東京電力はあたかも重大事故ではないかのような発表を繰り返しましたので、これこそまさしく現代の「大本営発表」だと批判されたのは当然のことです。
大本営発表とは、1937年11月から、1945年8月まで、大本営による戦況の発表のこと。大本営とは、日本軍の最高司令部。
ところが、当初の大本営発表は事実にかなり忠実だった。なぜなら、緒戦で日本軍は次々に勝利していたからです。嘘をつく必要なんてありませんでした。
問題は、日本軍が次々に重大な敗退をきたすようになってからです。本当は敗北したのに、それを隠そうとして、「大戦果」を華々しく報道しはじめました。
大本営発表によれば、日本は連合軍(その内実はアメリカ軍)の戦艦を43隻も沈め、空母に至っては戦艦の2倍、84隻も沈めたとする。ところが、実際に喪失したのは、戦艦4隻、空母は11隻でしかなかった。ひとケタ違います。これに対して、日本軍の喪失は戦艦8隻か3隻、空母19隻が4隻に圧縮された。そして、撤退は「転進」、全滅は「玉砕」。本土空襲はいつだって「軽微」なものだった。
大本営のなかで、作戦部はエリート中のエリートが集まる中枢部署で、傲岸(ごうがん)不遜であり、発言力がきわめて強かった。報道部は、作戦部に逆らうのが難しかった。
新聞は、部数拡大をめぐってし烈な競争をしていた。そこで新聞は前線に従軍記者を送り込み、「従軍記」を連載し、世間の耳目を集めることによって販売部数を伸ばしていった。
新聞は結局、便乗ビジネスに乗ったわけで、それは毒まんじゅうだった。事態を批判し検証するというメディアの使命を忘れ、死に至る病にむしばまれてしまった。
しかも、大本営は新聞用紙の配分権を握っていたので、報道機関をコントロールできた。こうして、日本の新聞は、完全に大本営報道部の拡声器になってしまった。
戦果の誇張は、現地部隊の報告をうのみにすることに始まった。ミッドウェー海戦で、日本の海軍は徹底的に敗北した。アメリカ軍は日本軍の暗号を解読していた。日本軍には情報の軽視があった。日本軍は、そもそも情報収集と分析力が不足していたので、戦果を誤認しがちだった。
「転進」発表が相次ぐなかで、国民のなかに大本営発表を疑う人々が出てきた。決して大本営発表のいいなりばかりではなかった。
山本五十六・連合艦隊司令長官が戦死したことを知り、海軍報道部の平出課長はショックで卒倒した。さらに、山本の次の古賀峯一司令長官も殉職してしまった。
海軍は敗北の事実を国民に伝えなかっただけでなく、陸軍にも真実を告げなかった。その結果、陸軍はフィリピンで悲惨な戦いを余儀なくされた。
特攻隊に関する華々しい大本営発表によって、地上戦の餓死や戦病死という現実は、国民の視界から巧みに消し去られた。
アメリカ海軍の空母は1942年10月以来、1隻も沈んでいない。それほどまでに頑丈だった。逆にいうと、日本海軍はアメリカ海軍にほどんど太刀打ちできなかった。
大本営発表は、確たる方針もなく、その時々の状況に流されやすい性質をもっていた。とりわけ損害の隠蔽は、これに大きく影響を受けた。
今のマスコミが、かつての大本営発表のように、当局の意のままに流されないことを切に願います。と同時に、SNSにおけるフェイクニュースの横行を同じく大変心配しています。
(2016年8月刊。860円+税)
2025年3月15日
韓国、男子
韓国
(霧山昴)
著者 チェ・テソプ 、 出版 みすず書房
日本の若者の多くが非正規雇用ばかりの労働環境のなか、低賃金・長時間労働で結婚難に直面し、先の将来展望が見えないという大変な状況に置かれています。この本によると、韓国でも似た状況があるとのこと。
21世紀の若者には希望を抱けるだけの客観的な拠りどころがひとつもない。まともな職業に就くことが難しく、だから稼ぎを手に入れるのも難しい。学んだこととは違って、現実はもどかしくてうっとうしい。生き残るために競争せざるをえないのは当たり前のことではあるが、戦う前から既に敗北している。
いやあ、これはまったく同じですよね...。実は、私には韓国に住む孫(男の子)がいるのです。祖父として心配なのは兵役です。この本を読んで、ますます心配になりました。
軍での経験は、韓国男子がもっとも大きく、広く共有する一種の集団的トラウマだ。なぜなら、韓国の徴兵制度は、人格を剥奪(はくだつ)することを前提に設計されているから。入隊後の新兵訓練プログラムには、新兵を着実に一般社会から切り離そうという意図が強い。
単に独立させるのではなく、ある種の人間工学にもとづいた「人間改造」に近い。
訓練兵たちは、それまでの話し方、歩き方、食べ方といった人間のもっとも基本的な動作をガラリと変えることを求められる。それに早く適応できないと、処罰と不利益を受けることになるが、それは、所属集団全体にまで影響を及ぼす。
聞き覚えが悪い人、ミスを犯す人を軍隊では「顧問官」と呼ばれ、怒りを向けることを学習させられる。
韓国の軍隊では、2000年以降、毎年最大182人から最低でも75人が死亡していて、その死因の第一位は自殺。
1948年に軍が創設されてから、軍で死亡したけれど国家から何の礼遇もされていない死亡者は累計で3万9千人もいる。
軍隊では、軍の主張どおりの安保・反共イデオロギーを徹底して叩きこまれる。
軍隊では、上司によって、すべてがひっくりかえってしまうことが少なくない。非体系的、恣意的に物事が運用されている。
いやあ、いかに効率良く人殺しするかという訓練をさせられるうえに、上司の理不尽な仕打ちについてもひたすら耐え忍ばなければいけないというわけです。耐えられません。
今なお英雄視する人もいる朴正熙は、任期芸能人や若い女性を呼びつけて手当たり次第に弄(もてあそ)び、国家機関を遊興のために動員し、国庫を自分の小遣いのように使う、典型的な独裁者だった。
韓国の男は、家庭で、尊敬され、愛される家族の一員ではなかった。韓国の男たちは、長い間、そうなる必要がなく、そうなってはいけないと教え込まれてきた。
韓国の若い男たちの一部(多くか...)が、女性にも兵役の義務を課すことを求めたりしているようです。とても私には理解できません。むしろ、男性にも徴兵義務をはずし、アメリカのように志願兵制度にしたらどうかと考えています。大いに考えさせられる本でした。
(2025年1月刊。3300円)
2025年3月16日
フロントランナー、いのちを支える
社会
(霧山昴)
著者 朝日新聞be編集部 、 出版 岩崎書店
フロントランナーとは、自ら道を切り拓く人。10人のフロントランナーが本書に登場します。
若者を孤独の淵(ふち)から救い出すサービスを提供するNPO法人。24時間365日体制で、チャットで相談に乗る。大学生のときに始めた大空幸星さん。
カルト宗教の被害者を救済にいち早く取り組んできた紀藤正樹弁護士。
野宿者支援、賃貸物件に入るとき保証人を300人分も引き受けた「反貧困ネットワーク」事務局長の湯浅誠さん。
大牟田市の不知火病院の徳永雄一郎医師も登場します。全国に先駆けて1989年、うつ病専門病棟「海の病棟」を開設したのです。川に面して、陽光が降り注ぐ開放的な病棟です。私も見学したことがありますが、なるほど、こういう施設だと気が安まると思いました。
天井は雨の音が聞こえる設計、天井には川のゆらぎが映り、潮の満ち引きが感じられる。部屋に入る光の角度や風向きも綿密に計算。徹底的に五感を刺激するため。
4人部屋だが、座ると本棚の陰になって互いに見られない。プライバシーを保ちつつ、寂しくはない、安心できる空間。38床の病棟を建てるのに4億円かけた。
海の病棟に入院すると、同じようにうつ病に悩んでいる人に出会って、良くなっていくケースを見ることで、自分も回復するというイメージができ、治療効果が上がることが多い。
うつ病にかかる職種は変化している。開設して初めの数年間は、公務員や教師といった「きまじめタイプ」、バブル末期の90年代初めは接待漬けの商社員、働き過ぎのIT系社員、そして最近は、超高齢社会となっている関係で看護師や介護職員が多い。
実は徳永医師は私と中学校で一緒だったのです。二代目の医師ですが、時代の要請にこたえて意欲的に取り組んでいることにいつも刺激を受けています。
徳永医師から贈呈を受けました。ありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いします。
(2024年10月刊。1900円+税)
2025年3月17日
宇宙(そら)を編む
宇宙
(霧山昴)
著者 井上 榛香 、 出版 小学館
宇宙ライターを業とする著者は福岡県小郡(おごおり)市の出身です。
小郡市には「七夕(たなばた)の里」、こんなキャッチコピーがついているというのです。私は初めて知りました。そして、中心部には「七夕会館」があり、天体ドームが併設されていて、天体望遠鏡で星空を眺めることができるそうです。
著者は、大学では法学部でした。宇宙法を勉強したいというので選んだそうです。うひゃあ、そんな法律があったんですかね...。
ロシアが人工衛星を破壊して、その破片が宇宙空間をさまよっていて、宇宙船に衝突する危険もあるそうなので、宇宙空間の規制もたしかに必要でしょうね。今や、軍事偵察衛星が北朝鮮の動向を毎日詳細に観察しているそうです(どうやら、日本は情報を共有してもらえていないようなんですが...)。
九州にも鹿児島の内之浦と種子島だけではなく、大分空港を人工衛星の打ち上げ基地にする計画がすすんでいるそうです。
そして、北九州の九州工業大学は、小型・超小型衛星の運用数が、世界の大学、学術機関のなかで世界1位を7年連続で占めているとのこと。これまた知りませんでした。
宇宙旅行について、ZOZO創業者の前澤友作は数百億円かけて12日間、ISS(国際宇宙ステーション)に滞在した。今や4時間のフライトで成層圏への遊覧サービスが1人2400万円で利用できるようになりそうだとのこと。恐らくスーパーリッチ層の楽しみになるのでしょうね。
著者の宇宙ライターというのは、まったくフリーでの取材。宇宙船ならロシア語が必須なので、著者もウクライナに留学し、ロシア語をマスターしたそうです。
それで、ロシアのウクライナ侵略戦争に心を痛め、避難のお手伝いもしているとのこと。
それにしても、北海道の牧場で発生する牛の糞尿からのガスをロケットエンジンの燃料として利用するというのには驚きました。実際にやられているのです...。
宇宙業界には、日本でもベンチャー企業がいくつもあって、それなりに活躍していることも知りました。でも、かかるお金が桁(ケタ)違いです。
「ロケット開発の会社をつくりたいので、50億円を集めてほしい」
びっくり驚天の金額です。
著者の宇宙ライターとしてのますますの活躍を大いに期待しています。
(2025年2月刊。1870円)
2025年3月18日
当山法律事務所40周年記念誌
司法
(霧山昴)
著者 弁護士法人当山法律事務所 、 出版 非売品
沖縄で活躍している当山(とうやま)尚幸弁護士は私と同じ団塊世代です。40周年記念誌が送られてきましたので、早速、法廷を待つあいだ、市民相談の隙間時間に読んでみました。それがまた、とても面白くて、区切りのよいところまで読み上げたいと、少しばかり相談者を待たせてしまいました。ゴメンナサイ!
当山法律事務所の入っているテミスビル(自社ビルです)には私も行ったことがありますが、小高い丘に威風堂々としていて、当山弁護士そっくりの偉容です。
当山法律事務所は、県庁前、リーガルプラザ、松尾公園テミスビルと返遷し、2021年に法人化した。当山弁護士は弁護士になったとき33歳、独立創業時は36歳だったが、昨年9月、喜寿を迎えた。奥様(恵子様)は、もと裁判所書記官であり、当山弁護士と結婚してから税理士そして司法書士の資格を取得した。
当山弁護士の活動歴の紹介のなかで圧倒されたもの、私がとても真似できないと思ったものに、後進の養成法曹人材育成をライフワークとし、物心両面で支えてきたし、今も支えているということです。受験生に月10万円を半年間にわたって送り続け、琉球大学に当山フェローシップ(給付型奨学金)というシステムをつくって支給している。これは当山弁護士自身が沖縄から東京に出て苦しい受験生活を過ごしたという原体験にもとづいています。養鶏業をしていて楽ではない両親から月3万円の仕送りを受けていたのです。下宿の家賃は月7千円でした。
当山法律研究室(虎の穴)の紹介も落とせません。当山法律事務所にいて朝9時から夜9時まで1日12時間勉強することを条件として月に10万円を支給するというものです。神戸で活躍している韓国出身の自承豪弁護士も出身者の一人で、北九州で弁護士をしていた我那覇東子さんも出身者です。
さらに、当山法律事務所にかつて在籍していた弁護士、また弁護修習した弁護士や裁判官たち全員からメッセージが寄せられているのにも驚かされます。私の場合は双方にとって不本意な退所者が2人いて、その後は、まったく没交渉です。
当山弁護士は沖縄県の選管委員長ですが、これは本人自身が選挙に出る可能性がないことにもよります。父親の選挙での「悲惨な」体験があるのです。
その前に県の収用委員会の会長もつとめています。沖縄県の土地収用問題となると、米軍そして日本の防衛施設局が関係し、地権者は基地反対運動に組織化されているので、収用委員会は政治的に大きく注目される存在。会長は過激派から狙われ襲われる危険もあるというので、自宅の南北の側に、24時間立哨の警官が1ヶ月のあいだ配置されたとのこと。これは大変です。そして、公開審理では、「野次怒号のない円滑な審理」にすべく、関係者に協議を申し入れて実現。たいしたものです。
有村産業という負債300億円の会社更生法の保全管理人としての活動にも刮目(かつもく)しました。税務署が滞納金の差押をしてきた。これを解除しないと清算手続がすすまない。いったん決裂しかけたとき、考え直して、滞納金の10回分割支払いを提案し、税務署に承諾させた。これまたすごいです。粘り勝ちですね...。
当山弁護士は2001年4月から1年間、沖縄弁護士会の会長をつとめた。私も同じころ福岡で役員をつとめていましたので、それ以来、当山弁護士とはお互いよく知っている関係なのです。
当山弁護士の反対尋問は、相手(敵性証人)に9割も言わせておいて、いい気になったところで不利な証拠をつきつけ、そこからそれまでの証言との矛盾を次々に指摘して、信用性を一枚一枚はいでいって、裁判所の相手の信用を完全にぶち壊してしまう。その迫力は聞いている味方もトラウマになるほどの強烈さがある。身近にいて震えるほどの鋭さでした。
イソ弁が裁判の期日を間違っても、すぐにフォローして楽天的な方向にもっていき、カバーする。弁護士は間違えても、それを学んでいけばいいという楽観主義に徹している。
当山弁護士はアメリカの弁護士倫理を翻訳しています。60歳のとき英語研修でハワイに2週間いて、満点で卒業したそうです。私はフランス語をずっとずっと勉強していますが、ちっとも上達せず、翻訳するなんて考えたこともありません。
当山法律事務所にも税務調査が来ました。税務訴訟で全面勝訴したことの報復だろうとしています。ありうることです。そして、「おみやげ」なしで終わらせたそうです。えらいです。
当山弁護士は、ゴルフ大好き人間ですが、「ゴルフなんて亡国の遊びを自分はしない」と言っていたことがあるそうです。人間は変わるものです。
この記念誌のハイライトは、本人抜きで率直に語りつくした座談会。ところが、当山弁護士の悪口がちっとも出てこないのは、やはり人徳ですね。「大里の赤マムシ」と恐れられる男性事務員(近藤哲司さん)の発言が出色です。
最後に、当山弁護士の人柄について紹介します。
お節介だ。不言実行の人。カラオケ大好き、裕次郎大好き。奥様メロメロの愛妻家。人望の人。公聴心を持ちつつ、経済的にも成功をおさめている稀有(けう)な弁護士。
いやあ、こんな楽しく、実に豊かな内容の40周年記念誌(260頁)を読んで、なんだか心がほっこりしてきて、心も軽く、浮き浮きしてきます。沖縄タイムス社が編集協力しているとのことで、レイアウトも見事です。ありがとうございました。
(2024年7月刊。非売品)
2025年3月19日
わたしの人生
日本史(戦前)
(霧山昴)
著者 ダーチャ・マライーニ 、 出版 新潮クレスト・ブックス
第二次大戦中、イタリア人が日本で収容所に入れられているということを初めて知りました。
著者は2歳のとき日本に来ました。父親は北海道帝国大学でアイヌ文化を研究していました。なので、札幌で幸せな生活を過ごしました。その後、京都に移っていたところ、1943年にイタリアが連合国軍に降伏したため、日本政府は在留イタリア人に踏み絵を迫ったのです。あくまでファシスト政権に忠誠を誓うかどうか、です。
両親そろって拒否したため、名古屋郊外の天白村にあった民間人抑留所に入れられました。両親は孤児院に入れるか問われたとき、それも拒否し、一家4人(娘2人)で収容所で厳しい・苦しい生活を過ごすことになりました。
7歳から9歳まで、育ち盛りの少女なのに、すさまじい飢えを体験することになったのです。
監視する警察官たちは、日本政府の支給する食料を横取りしたため、収容されていた人たちは栄養不足から病気になっていきました。警官たちの残飯まであさり、野菜をとって食べ、ヘビやカエルを捕まえて子どもたちに食べさせたのです。
たまに親切な日本人もいましたが、たいていは敵性外国人だとして、またイタリア人は裏切り者だと罵倒する日本の軍人たちがほとんどでした。日本の風習を知っている著者の父親は彼らの前面で包丁で指を切断して抗議までしています。
野菜不足から脚気になり、すると頻尿になった。
収容所では、子どもがいても子どもは配給の対象にはなっていなかった。なんということでしょう...。子どもだった著者は空腹のあり、地面をはっているアリまで食べたとのこと。指でつぶして口に入れ、かみもしないで呑み込んだ。しばらくして中毒にかかって、もう食べられなくなった。いやはや、アリを子どもが食べただなんて...。
毎晩、死ぬ準備をした。輪廻(りんね)観を信じていたから、死んだらすぐに、生前のふるまいによって、別の姿に生まれ変わると思っていた。
収容されたイタリア人は16人。ユダヤ人教授、宣教師、商人、元外交官など...。
日本人の警官たちは、毛布を1枚ふやしてとか、ノミやシラミ退治のための殺虫剤がほしいと頼むと、「おまえらは裏切り者だから死んであたりまえなんだ。寛大だから生かしてやってるんだ」と答えた。
日本の敗戦が色濃くなっていくと、配給が減っていった。1日の配給はひとり生米一ゴウ(130グラム)のみ。
日本の敗戦によって解放された。自由の味は、かけがえのないものだった。そして生命と太陽に恋する肉体を回復させるエネルギーが戻った。
著者は、過去の記憶を未来に生かすべきだと考え、自分の収容所での体験を語り、また書いたのです。
(2024年11月刊。2145円)
2025年3月20日
ナチズム前夜
ドイツ
(霧山昴)
著者 原田 昌博 、 出版 集英社新書
ワイマル共和国と政治的暴力というサブタイトルがついています。ヒトラーのナチスが政権を握る前、ワイマル共和国体制の下で、政治的暴力が日常茶飯事だったことを初めて認識しました。主としてナチスのSAと共産党のあいだでの暴力です。それは銃器も用いていて、たびたび人が何人も死んでいます。
当時のベルリンは人口400万人というドイツ最大の都市。市の西側に高級住宅街やブルジョア地区が広がり、東側はプロレタリア的色彩の濃い地区だった。
政治的にみると、ベルリンでの左翼陣営の得票率は常に50%をこえていて、1930年に入ると共産党への支持が社会民主党を上回っていた。1930年初頭のベルリンでは、ナチ党、共産党、社会民主党が三つ巴(どもえ)の闘いを展開していた。
ナチスと共産党は、互いを明確な敵として認識していた。共産党は「ファシストを見つけたら叩きのめせ」というスローガンを唱えた。ファシストとはナチスだ。
ナチスのSA隊員は急増した。30年春に3千人だったのが32年初めに1万人をこえ、夏には2万2千人となった。その50%以上が労働者であり、失業者と若者から成った。
SAの急成長と労働者地区への侵入の本格化は、そこを牙城とする共産党の敵愾(てきがい)心を刺激し、ベルリンの治安状況を悪化させた。
ワイマル共和国の不安定さの中で、暴力で状況を変えられるという誤った信念が社会に浸透していった。
共産党は1928年以降、コミンテルンの方針を受けて戦闘的な極左路線をとり、社会民主党についてファシズムの片棒を担(かつ)ぐ「社会ファシスト」と呼び、ときにナチス以上の主要敵とみなした。そのため、1930年代にフランスやスペインで成立する社共統一の人民戦線はドイツでは非現実的だった。
ベルリンの東側に位置する労働者地区は、老朽化した建物が密集し、生活環境は劣悪で、人口密度や犯罪発生率の高さ、ひどい衛生環境が特徴的だった。
住民たちにとって何より重要だったのは、侵入してくる「敵」に対して自分たちの「縄張り」を守り通すことだった。
ワイワル期には、政治的党派ごとにメンバーやシンパがたむろする酒場が発展した。「常連酒場」と呼ばれSAの酒場は「突撃隊酒場」と称した。1930年2月に、ベルリン市内に共産党の常連酒場が193軒、ナチスの酒場が51軒あった。その後、ナチスSAの酒場は急増し、同年末には144軒となった。酒場の出入り口には歩哨を立てて周辺を警戒した。
政治的暴力が日常化した結果、人々が行きかう街頭は暴力で対抗した。ナチスであれ、共産党であれ、若者たちの一部が暴力に魅せられ、日常生活の中で暴力に手を染めていった。
1933年1月30日、ヒンデンブルグ大統領はヒトラーを首相に任命した。ナチスは政権成立から1ヶ月足らずでSA隊員を補助警察官とし、経済界から半ば強制的に資金援助を受け、政敵(共産党)を撲滅に乗り出した。
ワイマル前期から中・後期にかけてのドイツ社会には左翼から右翼に至るまで暴力を忌避しない政治文化が広がり、「暴力の政治化」あるいは「政治の暴力化」とも呼ぶべき状況が生み出されていた。社会に蔓延(まんえん)する政治的暴力は、それを忌み嫌う市民感情とは別に、暴力に魅力を感じ、積極的にコミットしようとする人々(とくに若者と失業者)を惹きつけ、各党派の「政治的兵士」を生み出した。暴力に直接的に関わらなかった人々も、暴力を公然と行使する政党に票を投じた。1932年7月の国会選挙において、ベルリンではナチ党と共産党の得票率の合計は56%であり、投票者の過半数が両党のどちらかを選択した。逆に暴力に消極的な政党の得票は減少した。暴力を忌避しない政党であるからこそ、ナチスや共産党を支持したという人々が多数存在した。
暴力で「こと」を動かそうとすると、その結果として生まれる新たな状況もまた暴力の洗礼を受ける。暴力は結局のところ暴力で回収せざるをえなくなり、暴力が暴力を呼ぶ負のスパイラルが生じていく。
皮肉なことだが、意見表明の自由が保障されたワイマル憲法の下で、党派間の激しい対立が暴力の行使を常態化させた。
ワイマル共和国の実態、人々が政治的暴力の日常化するなかで生きていて、結局、ナチスの暴力という圧政を招き入れたという教訓は今日なお大切なものだと痛感します。
ウクライナもガザも、暴力の連鎖を断ち切る必要があります。それもトランプ流のやり方ではなくて...。大変刺激的な内容で、とても勉強になりました。今日に生かすべき教訓にみちた新書だと思います。
(2024年8月刊。1320円)
2025年3月21日
加耶/任那
朝鮮
(霧山昴)
著者 仁藤 敦史 、 出版 中公新書
古代の朝鮮半島に大和朝廷の出張拠点として「任那(みまな)日本府」があったという近年までの通説は現在、明確に否定されている。私もここまでは認識していました。
この本によると、「日本府」の「府」というのは「臣」だそうです。つまり、「日本府」は「倭臣」なのです。大宰府というと、大宰府政庁があって、九州における大和朝廷の出先官庁でしたが、それとはまったく異なるものです。
そして、「倭臣」といっても、大和王権(朝廷)とは独立した存在であって、臣従関係にはありませんでした。
5世紀後半の雄略天皇以降、加耶(かや)諸国には倭系加耶人が多く居住していたが、ヤマト王権とは独立した存在として、加耶諸国の独立を維持する活動をしていた。つまり、新羅(しらぎ)と百済(くだら)の侵攻を排除し、加耶諸国の独立を維持しようとしていた。
朝鮮語では、カヤ(加耶)とカラ(加羅)の発音は通用する。狗邪(くや)韓国も同じ。
高句麗の広開土王の功績を記念して建設された広開土王碑が今の中国吉林省集安市に残っている。高さ6.4メートルの方柱碑。四面に1775字が刻まれている。
この碑文については、日本の軍人が石灰を塗布して文面を一部改ざんしたという説もあったが、現在では改ざんは否定されている。ただし、広開土王の業績を誇るため、「倭」の脅威が誇張されていると考えられている。つまり、広開土王碑の碑文から、大和朝廷が任那を支配していたとすることはできない。
朝鮮半島の西端には前方後円墳が存在する。これは、5世紀後半から6世紀前半にかけて筑紫(つくし)出身の倭系の人々がつくったものと考えられるが、ヤマト王権の任那支配とは関係ない。
古代朝鮮に大和(ヤマト)朝廷(王権)の支配する拠点はなかったとしています。それでも朝鮮半島の南部に北部九州の倭人が進出していて、交流していただろうともしています。
筑紫の君・磐井(いわい)の反乱もあったわけですから、大和朝廷が日本を統一したうえで、朝鮮半島の一部まで支配していたかのような考えが明確に否定されています。大変勉強になりました。
(2024年12月刊。990円)
2025年3月22日
算数を教えてください!
社会
(霧山昴)
著者 西成 活裕 、 出版 かんき出版
フルタイトルは「東大の先生!文系の私に超わかりやすく算数を教えてください」です。
私の場合、大学入試は文系一択でしたが、高校3年まで理系クラスにいて、「数Ⅲ」まで履修しました。微分・積分も理解でき、不得意科目ということではありませんでしたが、図形問題は苦手でした。そこは直観がモノを言う世界で、私には直観が欠けていたのです。つまり、図形を眺めて、ひらめくところがありませんでした。こればかりは練習問題や過去をいくら積み上げても身につかないと決断し、高校2年の終わりの春休みに文系志望を固めたのです。今考えても正解だったと思います。論理的思考力とちょっとした文章力(たとえば「30字以内に大意を要約せよ」といった設問を得意としていました)で生きていくことにしたのです。これは今に生きています。
さてさて、この本です。「実は、算数は奥が深い」と表紙に書かれています。まったくそのとおりです。小学校の算数を身につけ、中学校の数学が理解できたら、世の中に理解できないものはない。私は、そう考えています。
なので、今回は小学生を対象とする算数の本に挑戦してみました。少し前には中学数学にも挑戦しました。高橋一雄の『語りかける中学数学』(ベレ出版)です。800頁をこす大部の本なのですが、私は中学数学を真面目に学ぼうと思って、最後まで読み通しました。6年前のことです。ただし、「最低でも3回は復習してください」とありましたが、1回通読しただけなので、理解できたという自信はありません。でも、この本には著者の数学を理解してもらいたいという真剣な情熱はよくよく伝わってきました。
この算数の本に戻ります。ひらめきが必要。あれ、なんか違わない?こっちじゃないの?そんな動物的嗅覚が大切。
意識的に直感と論理を行き来する脳を鍛えることは算数や数学に限らず、大人になったときに絶対に役立つ。
日本は、計算は10進法、時刻などは12進法と使い分けてきた。
干支(えと)も12進法。和算は算木やそろばんを使っていたので、計算を紙に書く習慣がなかった。1,2,3...。そして0(ゼロ)を導入したことによって初めて、紙での計算ができるようになった。
数学とは言語。算数の世界を旅するためには、その世界の言語を覚えないといけない。無駄がなく、解釈の違いが起きないからこそ数学は世界共通言語になれた。
文章の理解とは、その状況を頭の中でイメージできるかどうかの勝負。
九九を習う目的は「掛け算の筆算が出来るように、81パターンが暗算できるようにすること。九九のなかで、絶対に覚えないといけないパターンは36しかない。
小数は中国生まれで、ヨーロッパに伝わったのは、わずか500年ほど前のこと。
分数は数ではなく、計算途中をあらわしたもの。時間、速さ、距離の関係は、実は割合。
図形は、数学の原点。図形の決め手は、妄想力。想像力や妄想力、イメージをする力をどうやって養うか...。それは、小さいときから、どれだけ遊んできたかによる。いろんな「形」に実際に触れる体験を伴う遊びをどれだけしたか...。円は三角形の集まりでできていると、イメージする。
予備校で講師のアルバイトをしていた経験を生かした本でもあるそうです。なんとなく分かった気にさせるのは、さすがです。400頁近い本なのに、2000円しないのもいいですよね。
(2024年10月刊。1980円)
2025年3月23日
クラクフ・ゲットーの薬局
ヨーロッパ
(霧山昴)
著者 タデウシュ・パンキェヴィチ 、 出版 大月書店
ポーランドの南部、クラクフにナチス・ドイツはユダヤ人を集めたゲットーをつくった。
このとき、ユダヤ人ではない著者の営む薬局がそのままゲットー内での営業を認められ、ゲットー内での出来事を目撃していったのです。それはナチスによる殺人が日常的に起きる異常な光景でした。
始まりは1941年3月のこと。ユダヤ人でない「アーリヤ人」は誰ひとりとしてゲットー内に住むことが許されなかった。例外は薬局を営む著者と拘置所(翌年、移動)の看守のみ。
ゲットーの住民は1万6千人ほど。大勢の人が集まったことで、経済生活は活性化し、オーケストラ演奏のあるレストランまで生まれた。
人々は日常につきまとう緊張、生活不安からイライラを募らせ、意気消沈することが多かった。ナチスの親衛隊員は粗野な本能に息抜きを与えるかのように通行人を殴ったり、蹴ったりした。
ゲットー内ではユダヤ人の抵抗組織が活動していた。そして、それをナチスに通報する密告者(スパイ)がいた。密告者はあらゆる事業所そして作業場にいた。これらの密告者のほとんどはゲシュタポの手によって、あるいはレジスタンスの地下組織によって殺害された。
ゲットーには銃声が鳴り響き、死者と負傷者がバタバタと倒れ、歩道と車道に残った血痕がドイツ人の犯罪を物語った。
人々が水を手に入れることは出来なかった。万一、そんなチャンスがあったとしても、与えることを禁じられた。
薬局の前には小型の軍用車が停っていて、親衛隊員がトランクを次々に社内に運び込んでいった。それは家宅捜索のとき、ユダヤ人から奪ったトランクで、中には指輪、腕輪、金時計、シガレットケース、ライターなどの貴重品が入っていた。
行列をつくっているユダヤ人の顔には無感動と諦観の表情が浮かんでいた。もう何事も、どうでも良かったのだろう。
親衛隊の秘密メンバーでもあったドイツ人警察官ブスコは、ナチスに加わった最初の一人であったが、ナチスに背を向けた最初の一人となった。ユダヤ人に対して比較的に誠実な態度をとり、可能な限りの支援を惜しまなかった。「自分が怒鳴るのは偽装のためだ」と言ったが、それはみんな理解していた。やがて前線に召集されそうになって逃亡した。しかし、ついに見つかり、1944年10月、銃殺された。
ユダヤ人たちは祈った。
「神よ、あなたはどこにいるのですか?」
「神はいる。神は休暇で出かけているが、戻ってくる」
そうなんですよね、私が神を信じないのも、この現実があるからです。
ゲットーで自然死するのは、決して容易なことではなかった。移送行動の際、多くの人が自殺した。
ワルシャワではゲットー蜂起が起きたけれど、クラクフのユダヤ人はそれほどの規模の自由を求める闘争は起こさなかった。それでも、ユダヤ人たちは決して自尊心を失わず、占領者に対して自らを卑下することなく非業の死を遂げた。
さまざまな事業所の労働者はほとんど全員が意識的に一貫性のあるサボタージュ行為を起こした。それは作業ペースを落とし、納入期限を守らず、ゲットーで製品の重要部分を取り除き、破壊し、燃やし、ドイツ人の手に入らないようにするサボタージュ行為だった。
ゲットーでは、ユダヤ戦闘団が壁の外の地下組織と協力して活動していた。ユダヤ戦闘団の闘争手段はサボタージュと占領者に対する破壊工作だった。ユダヤ戦闘団はポーランド語の「民主主義者の声」という新聞を発行した。部数は40部で、60号まで発行された。
大変貴重なゲットーの目撃記録です。
(2024年11月刊。2400円+税)
2025年3月24日
SF脳とリアル脳
人間・脳
(霧山昴)
著者 櫻井 武 、 出版 講談社ブルーバックス新書
人間は脳の能力の10%しか使っていないという俗説は間違い。ええっ、そ、そうなんですか...。
人間の脳は何もしていないときでも、すべての領域が活発に働いている。まったく機能していない部位は脳には存在しない。
脳全体が常に活発に動いているので、特定の課題で活動が上がる部分はわずかでしかない。ぼーっとしているときでも、すべての脳領域で、活発な活動と情報交換が行われている。脳は、状況によって使う領域や神経回路のパターンを変えているが、どんな状況でも、ほぼすべての領域に活動がみられる。
脳は、右半球・左半球を問わず、全体で、もてるリソースを総動員して、情報をやりとりしながら作業している。
人間の行動は「意識」がなくても起こる。睡眠中に、起きあがって絵を描き、本人は、まったく自覚していないということが起こりうる。いやあ、そんなこともあるんですね...。
脳は成長が期待できる臓器である。脳は学習や経験にともなって変化する可塑性をもつ組織だから。
睡眠は脳にとって「休んでいる」のではなく、能動的に心身をメンテナンスしている過程。
マウスを完全に断眠(眠らせない)と、わずか4日で8割が死んでしまう。断眠は、視床下部の恒常性維持機構の破綻を招く。断眠させられると、ラットは感染症のため次々に死んでいく。免疫系の機能に重篤な影響を与える。
睡眠を断つと、脳の記憶システムにとどまらず、恒常性の維持機構や免疫系、ひいては全身の機能を狂わせてしまう。人間が眠っているとき、脳も「眠っている」のではなく、実はさまざまな作業をしている。その一つが記憶の固定化。
人間の脳は1000億もの神経細胞(ニューロン)から成り、高次機能をつかさどる大脳皮質だけで140億個のニューロンが稼働している。
人間が見ているのは、ばらばらな情報を脳が組み合わせたヴァーチャルリアリティ。たとえば、色は脳がつくり出したもので、脳がつくり出したもので、脳が感じないかぎり、色というものは存在しない。これって不思議ですよね。色は物質に付着したものばかり思っていました。でも、あの
玉色の金属光沢は複雑な構造が生み出したものなんですよね...。
情動は、脳の中の「大脳辺縁系」と呼ばれる領域が、視床下部との共同作業によって引き起こされているもの。感情を生むのは、大脳辺縁系だ。脳機能のうち、意識ののぼるのは、ごく一部だけ。
海馬は、新たな記憶をつくるために大脳皮質の働きを助ける装置。記憶後の初期の段階では、海馬がないと、記憶の成立も想起もできないが、記憶は最終的には大脳皮質、とくに側頭葉の皮質で保持され、数ヶ月から2年くらいの期間を経て、海馬の助けがなくても、大脳皮質から取り出し、前頭前野で認知できるようになる。これが長期記憶だ。
脳の話は、いつ聞いても(読んでも)面白さにみちみちています。今回も、とても刺激的な内容でした。
(2024年12月刊。1100円)
2025年3月25日
江戸の犯罪録
日本史(江戸)
(霧山昴)
著者 松尾 晋一 、 出版 講談社現代新書
長崎奉行「犯科帳」を読む、というのがサブタイトルなので、出島があり、オランダとの貿易の窓口になっていた長崎ならではの密貿易犯罪が多く紹介されています。
ところで、「犯科帳」とは、そもそも何なのか...。
この新書が扱っているのは長崎奉行所での審理にもとづく刑罰の申し渡し、不処罰の申し渡しが記録されている。期間は1666(寛文6)年から1867(慶応3)年までのもので、145冊ある。
長崎奉行は単独で判断を下すことはできず、必ず上級機関の指示を仰ぐことになっていた。刑事案件については、老中から幕府評定所に下付され、評定所において評議が行われ、その結論が老中にあげられるという手続きだった。
そして、江戸に伺いを出すときには、長崎奉行は事件の経緯をまとめた報告書に加え、その判決案も添えていた。ほとんどの場合、判決案はそのまま採用されたが、なかには覆されることも時々あった。
有名なジョン万次郎も日本に帰国したときは、長崎に送られ、揚屋(あがりや。上級身分の者が拘束された)に入れられて取り調べを受けている。
長崎奉行は原則2人。1人が江戸にとどまり、1人が長崎に常駐する体制がとられている。奉行に伴われて江戸から長崎に派遣される武士は多くはなく、200人ほどで、年々、減っていった。
通事は通訳するだけでなく、唐人関係の捜査権も付与されていた。
長崎は、幕府にとって「頭痛のタネ」だった。長崎で死亡した長崎奉行も数人いる。
長崎では公事方御定書が軽んじられる土地柄だった。
長崎には、「ケンカ坂」と呼ばれる坂がある。1700(元禄13)年12月19日に発生した大ゲンカでは、28人が裁かれ、うち18人が死罪となった。これは、鍋島藩の家臣と長崎の町年寄をつとめる名家の下人との大乱闘事件。
オランダ船を舞台とする抜け荷(密貿易)は多かった。
1732(享保17)年秋から翌18年の春にかけてウンカ類が大量発生し、西日本は大飢饉となった。そこで、長崎奉行は諸国の米を長崎に送られ、なんとか一人の餓死者も出すことはなかった。しかし、住民の不満から米屋の打ちこわしが起きた。
1667(寛文7)年には朝鮮への武器輸出が問題になった。
1675(延宝3)年には、唐船を購入してカンボジアとの交易を図ったことが露見した。信じられないような密輸事件が起きていたのですね...。
本来、抜荷は発覚したら死罪だったが、将軍吉宗は罰則を寛刑化した。罪人に自訴(自首)を促し、それで抜荷を抑制しようとするものに変わった。死を覚悟しても抜荷するのは、なんといっても利益が膨大だったから。元手の8倍もの利益が上がることがあった。
1686(貞享3)年、オランダ人8人が関わる密貿易事件が起きた。このとき日本人が28人も関与していたし、日本人には死罪が命じられた。
朝鮮へ渡海して、人参を買い求めて日本で高く売ろうとする人々もいた。仕入れ値の6倍で日本で売れた。偽(にせ)人参として、桔梗(ききょう)の根を売りさばいた悪人もいた。
「犯科帳」には、長崎で起きた事件であっても、必ずしもそのすべてを記録したものとは言えない。
「犯科帳」は、現在の犯罪書のような、当時の長崎における犯罪とその処罰が整理され、系統書に記された記録だとは単純に言いきれない。
長崎の遊廊は、丸山町の遊女屋30軒、遊女335人、寄合町には遊女屋44軒、遊女431人いた。遊女は基本的に自由に遊郭を出入りできていた。
長崎をめぐる犯罪、そして処罰の実例がよく分かって勉強になりました。
(2024年10月刊。1200円+税)
2025年3月26日
日本弁護士総史
司法
(霧山昴)
著者 安岡 崇志 、 出版 勁草書房
江戸時代に公事師(くじし)がいて、公事宿(くじやど)があったことは小説にも描かれていて、今ではかなり知られていると思います。ところが、この公事師を幕府は禁止していたとか、不当に軽く低く評価する人がいます。私は、いろいろの文献を読んで江戸時代の裁判手続において、公事師・公事宿の果たした役割は決して軽視すべきものではないと考えています。この本も、私と考えが共通しているようで、安心しました。
「公事宿・公事師は長い間、法制史・近世史の研究から打ち捨てられていた」
しかし、今では、「江戸時代の公事師や公事宿があまねく存在し影響を及ぼしたことにより、19世紀最後の四半世紀に劇的な法の変化への道が開かれた」として、積極的に評価されるようになっているのです。そして、明治以降の日本の法制度は、江戸時代の法制度と明らかに連続面をもっているとまで指摘されています。日本人の心性が明治ご一新の前後で、まったく異なったなど言えるはずはないのです。
そして、明治になって、初代の司法卿(法務大臣)になった江藤新平(佐賀戦争で敗れて大久保利通によって刑死)が民事訴訟に関する手続きを整備し、代言人に関する規則を定めました。
明治の初めに代言人となった人々は、江戸時代の公事宿・公事師の流れをくむ人だったと考えられる。つまり、訴訟代理の実態は、江戸から明治への「地続き」でした。
代言人が誕生して3年半後の1876年2月、司法省は代言人規則を制定した。
1876年に代言人の免許をとったのは、わずか174人。しかし、この当時民事訴訟(新受件数)は32万件もあった。つまり、無免許の代言人がほとんど代人として訴訟を請け負った。1880年7月、東京に代言人組合が誕生した。
1890年7月の第1回衆議院議員選挙のとき、300人の当選者のうち25~31人が代言者だった。
1893年5月、弁護士法が施行され、代言人は弁護士登録し、弁護士会を設立した。
代言人は、フランスの訴訟代理人の訳語として福沢諭吉が考え出したとされる造語。弁護士は、漢籍にもある古い「弁護」と「士」を組み合わせた半造語。
「三百代言」は下賤(げせん)な代言人を「三百」として、「安物」と見下したコトバ。
1896年6月に結成された日本弁護士協会は任意団体だったが、職能団体として時代に先駆けた功績をいくつもあげている。あとになって、弁護士法施行後の明治期を「黄金時代」だったとされた。(島田武夫・1958年度日弁連会長)。
1918年7月、富山県で半騒動が勃発したとき、日本弁護士協会は全国調査に乗り出し、総会で決議を採択した。
1933年当時の弁護士について、「弁護士には家主が家を貸さない。米屋からも酒屋からも鼻つまみにされる。既に人心を失った」とされた。「三百追放」は実現したが、弁護士層全般が下り坂になってしまった。
1929年、弁護士が背任、横領詐欺などで20人も逮捕された。1930年、日本弁護士協会が弁護士の経済状況をアンケート調査した。それによると、収入平均額は年2700円で、検事の平均俸給の8割程度だった。弁護士の6割近くが「弁護士純収入だけでは生活費をまかなえない」と回答した。金融恐慌の影響だとみられる。同時に、弁護士人口の過剰。毎年250人から350人増えていて、訴訟事件が減少していた。過当競争があり、非弁護士が暗躍していた。非弁取締の法律が1936年4月から施行された。
明治から終戦まで、弁護士がもっとも多かったのは1934年の7082人。翌1935年もほぼ同数の7075人。ところが、1936年に5976人に急減する。1937年から1938年にかけても945人減って、4866人になった。このように会員が減少したのは、①戦時の進行で国民の権利主張が圧迫され、弁護士の活動範囲が狭くなった。②満州国へ転出していった。③応召によって軍務についたほか、司政官となったなどがあげられる。
江戸時代の公事師、明治になってからの代言人、そして戦前の弁護士の実情がよく分かります。
(2024年12月刊。4400円)
一気に春めいてきました。団地の桜も気がつくと3分咲きです。日曜日の朝、庭に出るとチューリップ1号が咲いています。午後に帰って庭に出ると、至るところにチューリップが咲いていました。一気に開花したようです。今年は地植えのヒヤシンスが見事に咲いてくれました。紅、ピンク、黄色の花が華麗に咲きほこっています。
庭にジョウビタキがやってきました。そろそろお別れです。旅に出る挨拶に来てくれたようです。春はいいのですが、花粉症に悩まされ、目が痛く、鼻水したたるいい男なので、辛いです。
2025年3月27日
裁判官、当職もっと本音が知りたいのです
司法
(霧山昴)
著者 岡口基一・中村真ほか 、 出版 学陽書房
九弁連主催の研修会で著者たちが語ったものが第一部となり、第二部として追加の座談会がもたれ、そこでの問答が紹介されています。とても実践的な内容で、すぐ今日から役に立ちますので、本書が発刊後たちまち増刷されたというのも納得です。
裁判官には二つのタイプがあること、高裁(控訴審)の1回結審を前提として、控訴理由書をどう書くか、裁判官はどのように事件を処理しているのか、まさしく弁護士なら誰でも知りたいことが明らかにされています。
私は長らく裁判官評価アンケートに関わっています。この回収率は単位会によってひどいアンバランスがあります。宮崎の9割、熊本の8割が突出していますが、福岡や北九州では2割に達しません(筑後部会だけは5割)。回答率が低い理由の一つに、担当裁判官の氏名を知らないので、アンケートに回答できないということがあげられます。自分の裁判を担当する裁判官の氏名を知らないということは、裁判官のタイプそして傾向も知らないということです。でも、裁判官の性向を知らず、自分の言いたいことを言ったら、あとは裁判官にすべておまかせというのはプロフェッショナルの弁護士としてあるまじきことなのです。ぜひ、裁判官評価アンケートにも協力してください。
裁判官には、相対的真実派と実体的真実派の二つのタイプがある。これを見分けるには、日頃から裁判官について情報を共有すること。そうなんです。裁判官をよく見きわめる必要があるのです。「敵」を知らずして勝てるはずはありません。
主張は要件事実でいき、立証はストーリーでいく。
準備書面にアンダーラインを引いておく必要はない。普通の文章を普通の感じで書くのが一番。読み慣れている書式が一番。といいつつ、この本は大事なところは、ゴシック(太字)になっています。
攻撃的な表現の書面は裁判官は迷惑に感じるだけ。
書面は短いにこしたことはない。意味もなく長いのは時間のムダ。
裁判官は1週間前に提出されると1回目はざっと見て、期日の前日にちゃんと読む。1週間前に提出されると、裁判官は考える時間が確保できる。期日の直前に提出する弁護士が今なお少なくありません。当日の朝に提出されることも珍しくはありません。私は1週間前の提出励行を心がけています。
裁判官は証拠はあまり見ないが、証拠説明書はしっかり見ている。
裁判官は訴状でファーストインプレッションを持つ。そして、しばらくその心証に拘束される。
とはいえ、証人尋問によって裁判官が心証を変えることはよくある。本人の顔を見て人柄を見抜く。尋問で、裁判官は自分の心証に間違いないかを検証している。
陳述書で裁判官の心証をとり、尋問には頼らない。陳述書が始まったときは、私も大いに懐疑的でした。でも、今は活用しています。やはり、なんといっても便利なのです。
裁判官にとって、当初の心証が変わらない事件は多い。
控訴審裁判官は、起案マシンのように毎日起案を強いられているので、基本的に控訴棄却、原判決維持で書きたいもの。
最終準備書面は、証拠評価であれば、裁判官は参考にする。新しい主張であれば時機に遅れたものとして、問題にもされない。
裁判官は録音は聞かないが、短い動画なら見る。
控訴審において、原判決の心証をいかに崩していくかも語られていて、いくつかのパターンが紹介されています。大変勉強になりました。
この本の作成にあたっては佐賀の半田望弁護士が大活躍しています。
(2025年3月刊。3300円)
2025年3月28日
ルポ・京アニ放火殺人事件
社会
(霧山昴)
著者 朝日新聞取材班 、 出版 朝日新聞出版
2019年7月18日、京都アニメーションの第1スタジオの正面入り口から入って、バケツに入れたガソリン10リットルをまいて放火し、たちまち3階建てのスタジオを全焼させた。このとき70人いた社員のうち36人が殺され、32人は重軽傷を負った。犯人の青葉真司(当時41歳)も大火傷して逮捕された。
火傷の回復を待って青葉被告の裁判員裁判は2023年9月に始まり、23回におよぶ裁判があり、被害者遺族が次々に被告人に質問した。
青葉被告の弁護人は責任能力のないことを主張したが、判決では責任ありと認定され、死刑判決が下された。
青葉被告の両親は父親のDVによって母親が逃げ出し離婚したあと、無職の父親が兄と本人、そして妹の3人と一緒に暮らしたが、絶えず父親に殴られる生活を送った。青葉被告が21歳のとき、父親は亡くなった。
青葉被告はコンビニで店員として働いたり、派遣社員になって工場で働いた。やがてネットのゲームにはまり、昼夜逆転の生活を続けた。そして2012年にコンビニ強盗事件を起こして実刑判決を受け、刑務所に入った。刑務所生活のなかで京アニの作品を鑑賞し、自分もノートに小説のアイデアを書いていった。
2016年、長編小説を京アニ大賞に送って落選。2018年11月、京アニ作品をテレビで見て、自分の小説に書いたアイデアが盗用されたと思った。
「小説がつっかえ棒だった。そのつっかえ棒がなくなったら、倒れるしかない。どうでもいいやと思った」
犯行直前、京アニ近く、現場脇の路地に腰かけ、十数分間、考えごとをした。
「自分のような悪党にも、少なからず良心の呵責(かしゃく)があった」
法廷で次のように答えた。
「底辺は押し付けあい。押し付けあいの世界は、食いあいになっている世界で、どう生きるかしか考えていなかった」
判決は2024年1月25日。朝から京都地裁周辺は雪がちらついていた。
この本によると、被害者遺族に3回も被告人質問をした人がいるそうです。よほど納得できなかったのでしょうね。そして、意見陳述もしていますので、5回も法廷に立ったとのこと。
大変むごい、残酷な放火大量殺人事件です。その犯人の人間像を明らかにするのは、この日本社会の病巣を究明するという大きな意味があると思います。再び起こしてはいけない犯罪ですから...。
(2024年11月刊。1980円)
2025年3月29日
バルセロナで豆腐屋になった
社会
(霧山昴)
著者 清水 建宇 、 出版 岩波新書
ええっ、こんなタイトルで岩波新書になるの...、それが読む前の第一印象でした。
読み終わってみると、違和感はきれいさっぱり消えていました。サブタイトルは「定年後の『一身二生』奮闘記」となっています。朝日新聞の記者が定年後、スペインのバルセロナで豆腐屋を開業して10年間がんばった体験記です。家業が豆腐屋というわけではありません。それなのに、なぜ豆腐屋を、それもスペインのバルセロナという地方都市なんかで...。
著者は記者時代、ヨーロッパ絵画の特集記事のためスペインにも行っています。 そのとき、どこよりもバルセロナが気に入ったのでした。街が美しく、食べ物がおいしい。そして、アジアから来た異国の人という奇異の目で見られることがなかった。これが、バルセロナを気に入った理由です。
では、なぜ豆腐屋なのか...。豆腐や油揚げ、納豆が大好きなので、それなしの生活は考えられない。ならば、自分でつくってやろう。いやはや、とんだ(飛んだ)思考法ですね。私にはとても真似できません。大学生の長男、中学生の長女、次女に計画を話すと、すんなり受け入れられた。その前に妻(カミさん)の了解は得ている。
2010年4月、62歳のとき、バルセロナで豆腐屋を開業した。今から15年も前のことなのに、とても詳細かつ具体的に話が展開していくのに驚きます。当時のメールやら計画書、領収書などが全部保存されていたからのようです。さすがは元記者ですね。まずは豆腐づくりの修業です。もちろん日本でします。
油揚げの生地は、豆腐よりはるかに薄い豆乳でつくる。凝固せず、無数の小片が浮かんでいる状態にしてから水を抜き、型箱で固める。それを短冊状に薄く切り、最初は低温で、次に高温で揚げると、ふくらんでキツネ色になる。油揚げの生地の固さは、親指と人差し指で押して確かめる。がんもの生地は練っている途中でヘラを突っ込み、その手ごたえで判断する。大豆の煮え具合いは湯気のにおいでつかむ。青臭いにおいがするうちは、まだ煮えていない。甘いにおいがするようになれば出来あがりだ。豆腐づくりは全身をセンサーにしてやる仕事。手ごたえやにおいは数字に出来ないから、書くことも出来ない。途中からメモ帳とペンの出番はなくなった。
なーるほど、手指の感覚にモノを言わせるのですね。私には出来そうもありません。
著者の妻は佐賀市出身、名門の佐賀西高卒です。バルセロナでは鍼灸師そしてヨガの師匠として活躍しました。
豆腐屋の朝は午前5時起床に始まる。そして、店に着くと豆腐づくりを開始。午前中の販売を終えて、午後3時に一日で最初の食事をとる。
ええっ、大丈夫なの...と驚くと、なんと著者は体重92キロだったのが、豆腐屋を始めて75キロまで落ちたとのこと。つまり、肥満だったのです。1日2万歩も歩いたそうです。
豆腐屋には一年中、完全な休日というものはない。丸一日オフとなるのは、年に数回ある連休の初日だけ。忙人不老。忙しい人は老(ふ)け込まない。
「あなたは、なぜその仕事を辞めないのですか?」
この質問に対する答えこそ、職業選択の参考になる。なるほど、そのとおりでしょう。五大ローファームに入って企業法務の大きな歯車の一つになって何十年もして、果たして人生に満足できる人がどれほどいるか、私には疑問でなりません。
奥付の上に著者紹介があり、はたまた驚きました。なんと、私と同世代(正確には私より1年だけ上)、団塊世代なのです。『論座』の編集長、「ニューステーション」のコメンテーター、論説委員を経たあと、スペインで豆腐屋を開業したわけです。その勇気と行動力に対して、心より敬意を表します。
面白い本でした。
(2025年1月刊。960円+税)
2025年3月30日
僕には島の言葉がわかる
生物・鳥
(霧山昴)
著者 鈴木 俊貴 、 出版 小学館
シジョウカラは言葉を使って文を作っている。そして同じシジュウカラだけでなく、似た鳥にもその言葉が通用している。このことを軽井沢の森のなかに1人で何ヶ月も籠って観察し、ついに突きとめたのです。すごいことですよね、これって...。人間だけが言葉を使っているのではないというのです。
そして、ジェスチャーで、「お先にどうぞ」と意思表示もしているとのこと。よくぞ見届けましたね。たいした辛抱強さです。驚嘆します。著者は今や東大准教授として動物言語学の世界的権威です。盛大なる拍手を心から捧げます。
「ジャージャー」という鳴き声はヘビを意味しているので、シジュウカラはちじょうのどこかにヘビがいないか探す。「ヒヒヒ」という鳴き声が聞こえてきたら、それはタカを見つけたときの警戒音なので、空を見上げて確認する。
エサ台にヒマワリの種を置いてあるのを見つけると、シジュウカラは「ヂヂヂヂ」、コガラは「ディーディー」、そしてヤマガラは「ニーニ―」と鳴く。群れの仲間がエサ台に集まって来ると、鳴くのをやめて、ヒマワリの種をつつき始める。鳥たちが混群をなしてヒマワリの種を食べることで、お互いに警戒行動を分担している。常に空を見張っていないと、いつ襲われるか分からないから。
軽井沢の山のなかに3ヶ月こもる。大学の山荘なので、風呂もシャワーもない。けれど、1泊500円で利用できる。3ヶ月いても4万5千円と安いもの。食料は持ち込み。肉・野菜そしてレトルト・冷凍食品など...。
ところが、お米以外は2ヶ月でなくなってしまった。5米は5キロの白米を3袋買って持っていったので、あと1袋だけ残っている。1ヶ月間、白米だけで過ごさないといけない。片道1時間かけたら最寄りのスーパーに行けるけれど、往復2時間のタイムロス。観察・実験が出来ないので、白米だけでガマンする。白米だけの三つのメニュー。なんと、普通に炊いたごはん、お湯をかけたごはん、水をかけただけのごはん。ええっ、これだけで森の中に1ヶ月...。気が遠くなりそうです。死にはしないでしょうが、味気ないこと、おびただしい限りです。これを知ったネイチャーガイドをしている女性が気の毒に思ってキャベツ一玉を差し入れてくれた。
著者は、このキャベツをすぐには食べず、調査が完了したときの「ごほうび」にしたのです。3ヶ月たって、いよいよキャベツを食べます。キャベツ炒めとキャベツの千切り。それを食べていると、初めのうちこそ、幸せ一杯だったのに、なぜか口内に独特の臭みが感じられるようになった。おかしい...。キャベツは美味しい。だけど、キャベツひと玉を一気に食べるものではない。いやはや、いかにも物悲い話でした。
それにしても、3ヶ月間、山の中に籠ってシジュウカラをじっとじっと見つめ、観察し、実験したなんて、若さもあったのでしょうが、とても真似できることではありませんよね...。この野外調査で体重は8キロも減り、ガリガリにやせてしまったのでした。
さて、そこで、こんな大変な野外調査によって何が判明したのか...。
シジュウカラのヒナは、巣箱の外の親の声を聞き分ける。カラスの時は、巣の中にいてカラスからつつかれないように、みなうずくまってしまう。そして、ヘビの時は、巣の中にいたら食べられてしまうので、巣の外へ思い切って飛び出す。ヒナは、ふ化して17日目にはもう飛べる。食べられるより、飛び出したほうがまし。こんな違いを親の鳴き声を聞き分けてヒナは行動するというのを発見したのです。すごいことです。
ヒナは巣立ってからも、1ヶ月以上は親鳥に世話をしてもらう。
毎年、6ヶ月以上も一人で森にこもって、朝から晩まで鳥たちと暮らす。そんな生活を何年間も過ごすなんて、並の人に果たして出来ることでしょうか...。私は出来ません。だって、寂しいでしょ。いくらなんでも森の中に一人で何ヶ月も過ごすなんて...。
鳥をつかまえて足輪をつけ、ヘビも捕まえて実験材料にします。これまた、簡単には出来ませんよね。山荘にはツキノワグマもやってきます。
言葉を持つのは人間だけ。動物の鳴き声は感情表現に過ぎない。それを覆す事実を著者は森の中の生活で確認したのです。
シジュウカラの「ピーツピ、ヂヂヂヂ」は「警戒して・集まれ」という意味。これを、「ヂヂヂヂ、ピーツピ」と順番を逆にすると、反応がない。
フィンランドのテレビ局から求められて日本のシジュウカラの音声を送ると、フィンランドのシジュウカラも同じ反応だった。万国共通のコトバらしい。ただし、フィンランドでは「ピーピー・ジュジュジュ」と鳴く。方言のような違いがあるのでしょうね、きっと。
いやあ、とても面白い本でした。あなたにも一読を強くおすすめします。
(2025年2月刊。1870円)