弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2025年2月25日
遊牧民、はじめました
アジア
(霧山昴)
著者 相場 拓也 、 出版 光文社新書
モンゴル大草原の掟(おきて)というサブタイトルのついた新書です。衝撃的な面白さでした。モンゴルの大草原で生活するということが、どれほど大変なことなのか、ひしひしと迫ってきました。
モンゴル草原の大地とは、人間にはあまりにも残酷な「失望の荒野」でもある。
凍りつく大地と、実りの少ない草の原野である。そんな場所での生活は、生きるだけでも精いっぱいで、人間本来の野生の生存本能が試される。
突然の生命の終わりや、命をつなぐための家畜群の全滅に向きあったとき、遊牧民が絶望しないための心理操作として、「自分の責任ではない」という単純明快な答えが用意されている。荒々しい自然と対峙したとき、巻き起こる災害に対処しなければならないとき、あらゆる不幸に対して、「自分のせいではない」と思えることこそが、草原の民の心の強さなのだ。うむむ、そういうことなんですか...。
モンゴルでは、酒は社会の悪しき潤滑油でもある。
単調でエンターテインメントのない草原の暮らしでは、気晴らしや息抜きが少なく、心のゆとりを感じにくい。酒を飲むこと、来客と世間話をすることが数少ないストレス発散になっている。
モンゴル人は、起きてほしくないことは、とことん口にしない。会話のなかで否定形を一切使わない返答は、自分の未来を否定しないためのモンゴル流の口頭技法。口に出して現実になることを恐れているため、未来や過去を否定しないような回避法が根底にある。
モンゴル遊牧民の心持ちは、悲観を前提とした悲壮感に満ちた生。単調で、死と隣りあわせの遊牧生活に、南国風の楽観論が育(はぐく)まれることはなかった。
遊牧民は、その歴史上、常に不知と暴力にまみれた社会だった。組織内や親族内でもめごとが発生したとき、「話し合い」による解決はほとんど実践されない。
モンゴル人とのあいだで、一度でも人間関係に亀裂が生じると、それはもはや回復できないほどの破綻を意味している。
遊牧民の社会には「末っ子」が家督を継ぐ末子相続という習慣が今でも連綿と受け継がれている。この末子相続は、親族間や氏族内関係を複雑にする原因にもなっている。
末子は、両親が死ぬまで同じ天幕で共に暮らすのが通例。末子相続は、地域コミュニティの富の偏在を肯定的に推し進める。末子相続というシステムのもと、遊牧民は、「富や名声とは、努力で勝ち得るものではなく、親の経済力や生まれで決まる生来所与のもの」という強い感覚がある。末子への羨望(せんぼう)と、それに由来する闘争こそが遊牧民の戦いの根源に直結している。
モンゴル人と接していると、人間関係を長続きさせるのが不得意だと実感される。
モンゴル人に対して、決して怒ってはいけないし、直接的に物事を伝えたり、批判してはいけないし、相手のへそを曲げさせてはいけない。
モンゴル人は、本質的に好戦的な心を宿し、暴力行使へのハードルの低い人々である。
遊牧民と親しくなるためには、手土産、酒盛りそして一芸披露が必要。
遊牧民はとにかく話題に飢えている。情報ネットワークを重視する遊牧コミュニティでは、隣人・知人の行動はきわめて重要な判断基準になっている。遊牧民の日常会話のほとんどは家畜と人間(親戚・知人・隣人)、そしてお金の3つしかない。
遊牧民が移動するのは、自らの意思というより、家畜を養うための水と草を探し求めて、家畜によって移動させられているというのが実態。遊牧民は、自由気ままに草原を放浪して生きていられるほど、楽な稼業ではない。移動とは、単純に牧草資源を探し求めているわけではない。家畜とは遊牧民のすべてであり、すべては家畜から育まれる。
モンゴル人の食文化では、ただ茹(ゆ)でただけのヒツジ肉がごちそう。調味料は塩を少々で、他には何もない。
モンゴル人の住居である天幕は、入って右側が「女性の場」、左側が「男性の場」と決まっている。そして、出入口の扉は、かつての遊牧民の王国が征服を目論む侵攻方向と一致している。
モンゴルの女性は、しっかりしていて、凛とした強さと、しなやかさで、男性優位のイスラームのコミュニティを生き抜いている。
かつての遊牧民の社会では、人生は30歳にみたない程度で終わっていた可能性がある。
遊牧民としてのモンゴル人の大草原での厳しい生活、そこから来る人間形成について、驚くばかりで、まったく目を開かされた気がしました。
(2024年9月刊。1100円)