弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2025年2月23日
蔦屋重三郎、江戸を編集した男
日本史(江戸)
(霧山昴)
著者 田中 優子 、 出版 文春新書
法政大学の元総長である著者は江戸文化の研究者で、NHKの大河ドラマ「べらぼう」の主人公として蔦屋(つたや)重三郎が目下、売り出し中なので、急きょ書き下ろしたのです。
蔦屋重三郎は「地本(じほん)問屋」の一人。文字と絵が合体した本をつくるのが仕事。江戸には146軒の地本問屋が存在した(1853(嘉永6)年)。1850年ころの江戸の寺子屋への就学率は70~80%。
江戸時代の浮世絵は肉筆画ではなく、その中心は印刷物。そして、1765(明治2)年ころ、「見当(けんとう)をつける」という技法が完成し、浮世絵は突然、あざやかな色彩を帯びた。画期的なカラー浮世絵を始めたのは鈴木春信。
浮世絵は多色刷りの時代となり、下絵師、彫師、摺師という分業でつくられた。
中国版画のきわめて高い技術が導入された。多色にするには、色ごとに重ねて刷る。
平賀源内は高松藩の武士だった。源内はゲイだったから吉原には出入りしなかったが、吉原細見の序文を書いた。
1777(安永6)年、蔦屋重三郎は洒落本(しゃれほん)を刊行した。道陀楼(どうだろう)麻阿と名乗る著者の正体は、秋田藩江戸留守居役・平沢常富だった。そして、この洒落本から黄表紙が生まれた。洒落本を絵本にしたもの。
1785年、蔦屋重三郎は、山東京伝の洒落本を刊行した。
1791年、蔦屋重三郎は身上半減(財産の半分を没収)、山東京伝は手鎖(てじょう)50日の刑を受けた。これは、老中・松平定信の寛政改革に逆らったから。手鎖は庶民のみに科せられる刑だった。
天明時代、狂歌師たちが集まり、活躍した。この集まり(連)には、武士も町人も職人も、そして版元も役者も参加していた。そのほとんどが20代から30代。
蔦屋重三郎は、天明狂歌という文学運動を粘り強く編集・出版して歴史に残した。
東洲斎写楽が活躍したのは1794(安政6)年から1795年にかけての10ヶ月間のみ。おおざっぱで乱暴なアマチュアの絵。しかし、緊迫感がある。
役者の舞台における劇的な瞬間がとらえられている。写楽は誰にも師事しておらず、挿絵や表紙のプロセスもなく、いきなり出現した。
写楽は浮世絵の素人。なので、繊細で精密な線は描けない。毛髪も着物も大雑把。写楽の芝居絵は、人間が登場人物のキャラクターを化粧や鬘(かつら)や衣装や表情や身体全体で表現して成り立っている。そうなんですか...、ちっとも知りませんでした。
遊里、吉原を含む江戸の文化の奥深さを感じさせる新書でした。
(2024年12月刊。1100円)