弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2025年2月21日
八鹿高校事件の全体像に迫る
社会
(霧山昴)
著者 大森 実 、 出版 部落問題研究所
八鹿(ようか)高校事件といっても、今では完全に忘れ去られた出来事ですよね。1974年11月に兵庫県の但馬(たじま)地域で起きた「我が国教育史上未曽有の凄惨な集団暴行」事件です。加害者は部落解放同盟の役員たちで、被害者は八鹿高校の教職員です。加害者は刑事犯罪として有罪になり、民事でも損害賠償義務が課せられました。被害者の教職員側では、48人が加療1週間以上、4ヶ月、うち30人が入院して治療が必要となりました。長時間にわたって、一方的な集団的暴行が加えられたのです。
この事件のとき出動した警察官600人は、眼前で展開されている解同側の暴行・傷害事件をまったく傍観視し、制止しませんでした。なので、あとで八鹿警察署長は職権濫用として問題になったのも当然です(不起訴)。
この冊子を読んで、その背景事情が判明しました。警察庁トップで介入するかどうか二分していたというのです。
ときの警察庁長官(浅沼清太郎)や警視庁公安部長(三井某)、兵庫県警本部長(勝田某)は不介入方針のハト派。この一派は「ハブとマングースの闘い」だ、要するに、放っておけば互いに自壊するから、傍観しようとする。これに対して、断固として無警察状態を排除するという方針は、警察庁の前長官(高橋幹夫)、警備局長(山本鎮彦)、警察庁次官(土田国保)、そして兵庫県知事(坂井時忠)。
警察庁警備課長だった佐々淳行によると、結局、高橋前長官の決断により、兵庫県警本部長に長官指示が伝えられ5500人の機動隊が投入された。つまり、但馬地方に無法状態をつくったのは警察だったわけです。「ハブとマングース」というのは、共産党と解同を戦わせ、どちらも勢力を傷つき、消耗するのを期待しようというもので、いかにも支配者層、権力者が考えそうな発想です。
もう一つ、この本で、八鹿高校の生徒会執行部を先頭とする高校生たちの涙ぐましい果敢な取り組み、そしてそれを先輩(八鹿高校OB)たちが力一杯に支えたという事実が掘り起こされていて、私はそこに注目しました。
生徒たちは、暴行現場に駆けつけ、ひどい惨状を目撃し、警察に出かけて教師の救出を訴え、町を集団進行(デモ)をして町の人々に叫んで訴え、近くの八木川原に集まり集会で訴えたのです。
もちろん生徒大会も開いて暴力反対を決議しています。
そして、カンパを集め、文集をつくって、町内を一軒一軒、訴えて歩いてまわりました。そのとき、「共産党に利用されているだけだから、やめろ」「解同に不利になるようなことをするな」と制止する声がふりかかってきましたが、生徒たちはそんな妨害を振り切って死にもの狂いで動いたのです。すごいです。
12月1日には、八木川原に1万7千人もの人たちが集まり、解同の暴力を糾弾したのでした。
この事件については、警察が動かないだけでなく、実はマスコミがほとんど報道しないという特徴がありました。解同タブーが生きていたのです。
1974年11月から12月というと、実は私が弁護士になった年の暮れのことでした。なので、私はまだ関東(川崎)にいて、事件の推移をやきもきして見守るばかり。これほどの大事件をマスコミがまったく報道しないのに怒りを感じる日々でした。共産党の「しんぶん赤旗」だけが大きく報道していました。自民党の裏金づくりをマスコミが当初まったく報道しなかったのと同じです。「しんぶん赤旗」も購読者が激減して経営がピンチのようです。紙媒体がなくなって、インターネットばかりになってよいとは思えません。
部落解放の美名で暴力を振るうのを許してはいけません。そんなことをしたら、差別意識がなくなるどころか、差別は拡大するばかりです。その後、「暴力糾弾闘争」が消滅していったのは当然ですが、喜ばしいことだったと考えています。
それにしても、八鹿高校事件って、もう50年もたつのですね。当時の高校生たちも全員が60代後半になっているわけですが、みなさん元気に社会で活躍していると信じています。いかがでしょうか...。
(2024年11月刊。1100円)