弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2025年1月 8日

島津氏と薩摩藩の歴史

日本史(江戸)


(霧山昴)
著者 五味 文彦 、 出版 吉川弘文館

 薩摩藩と島津氏の強さがどこから来るのか、私は前から大変興味があります。
 島津という地名は都城市にあり、そこに島津荘があった。
島津氏も、いろいろ内紛が起きています。総州家と奥州家との争いというのもありました。
 室町時代の遣明船は細川氏が中心で、堺の商人が主導権を握っていた。薩摩の坊津(ぼうのつ)で硫黄を積み込み、島津氏の警護で中国へ渡航していた。坊津は日本の津の一つとされるほど、対明(外)貿易で栄えた。島津氏はまた、琉球貿易を独占していた。
 ザビエルは薩摩出身のアンジローに接し、当時の日本人が名誉を重んじ、盗みに厳しい罰を与え、知識欲が旺盛で、食事は少量で肉食せず、米で作る焼酎を飲み、海岸の砂を掘って温泉に入ると書いた。
 またザビエルは鹿児島で布教を許された。次のように報告した。
 「今まで発見された国民のなかでは最高であり、日本人より優れている人々は、異教徒のなかには見出せない。日本人は親しみやすく、一般に善良で、害意がない。知識欲が旺盛で、善良で、社交性が高い。」
足利学校の七代の当主は、大隅の伊集院氏の一族。
城下士は半農半士の外城(とじょう)衆中を「肥(こえ)たんで士(さむさい)」と呼んで軽視していた。安永9年、外城衆中を郷士と呼び改めた。
 江戸幕府の初期のころ、島津氏は、日本最大の貿易大名だった。
 薩摩藩は藩士の子弟の教育にも熱心に取り組んだ。子どもは年齢により、二才(にせ)と稚児に分けられた。二才は14.5歳から24.5歳までの青年。稚児は小稚児(6~10歳)、と長(おせ)稚児がいた。小稚児の教育は長稚児が、長稚児の教育は二才が行った。二才たちは互いに鍛錬しあった。
 薩摩藩の産金量は佐渡に次ぐ2位。全国の3分の1の産金国だった。薩摩国で金がとれていたなんて...、知りませんでした。
 島津重豪は、その娘(茂姫)が将軍家斉の御台所になったので、将軍の岳父として権勢を振った。いやあ、これは知りませんでしたね...。
 万延元年(1860年)の8月に生麦事件が起きた。そして、イギリス海軍が鹿児島市中に放火し、3分の1を焼失させた。イギリス海軍はアームストロング砲で砲撃した。薩摩藩は果敢に反撃し、イギリス艦隊も大破一隻、死傷者63人。これに対して、薩摩側は城下の市街地の10分の1が焼失した。しかし、当時、世界最強を誇っていたイギリス軍が退却した結果に世界は驚いた。
 「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということ。日本は勇敢であり、ヨーロッパ式の武器や戦術にも長(た)けていて、降伏させるのは難しい」
 長州藩のほうは四国連合艦隊にたちまち砲台を占拠されるなど、屈服させられましたが、鹿児島湾での戦いは「日本が勝った」のでした。
 ざっとざっと薩摩藩の歴史をおさらいした気分です。
(2024年9月刊。2200円+税)

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