弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2025年1月 3日
写真が語る満州国
日本史(戦前)
(霧山昴)
著者 太平洋戦争研究会 、 出版 ちくま新書
日本が中国東北部につくりあげた満州国の実相を豊富な写真とともに明らかにした新書です。かなり前に大連に行ったことがあります。日本統治下でつくられた大連ヤマトホテルがそっくり残っているのに驚きました。その前は大きな広場になっていて、朝早くは太極拳を練習している老若男女でいっぱいでした。
ヤマトホテルは主要都市15ヶ所にあったそうです。いずれも満鉄直営です。
関東とは、万里の長城の東端にあたる山海関から東の地方を指す中国語。当時の満州の省である奉天・吉林・黒龍の三省を総称した。つまり関東とは、満州全体の呼称だった。
ロシアが旅順・大連周辺を関東州と命名したのを日本も踏襲した。
1906年11月に発足した満鉄は1万3000人の社員を擁した。このうち中国人は4000人で、全員が社員より格下の日給の雇人だった。
満鉄の軌道は世界標準の広軌にした。日本は狭軌。
日本は満州を我が物とすべく、関東州の租借期間を1997年までの99年間に延長した。同じく満鉄は2002年まで経営できることにした。
満州国が「建国」されたのは1932(昭和7)年3月のこと。日本の繁栄は満州であってこそというキャンペーンが功を奏していた。「満蒙は日本の生命線」というスローガンです。
上海事変は、満州国の実態を調査するため国際連盟が派遣したリットン調査団に対する目くらまし戦法の一つでした。ところが、中国軍はドイツの軍事顧問団の指導を受けていて、近代的兵器も備えてクリークで待ち構えていたので、日本軍は予想外に苦戦させられた。このとき「肉弾三勇士」の話があり、日本人の戦意高揚に役立てられた。
満州国の国防・インフラ建設、官署の人事などは、すべて関東軍司令部が握っていたので、リットン調査団が満州国を独立国家ではないと認定したのも当然でした。その結果、1933年2月、日本は国際連盟から脱退してしまったのです。
文字どおりのカイライ政権だった満州国ですが、幻想を抱いて日本から満州に渡った大勢の日本人は、日本敗戦後、大変な辛酸をなめさせられました。生きて日本に戻ることのできなかった人が無数にいました。
今、再び戦前の日本へ復帰しようという動きが現実化しています。とんでもないことです。
(2024年8月刊。1200円+税)