弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2024年12月27日
朝鮮植民地戦争
朝鮮・韓国
(霧山昴)
著者 愼 蒼宇 、 出版 有志舎
近代日本の曲がり角には必ず朝鮮がある。そうなんでしょうね。
帝国日本は朝鮮半島を植民地として支配していた。これに抗して朝鮮の人々が戦闘を挑んだ。1875年の江華島事件、1882年の壬午軍乱後における公使館守備隊名目の日本軍駐屯、1894~95年の甲午農民戦争、1904~05年の日露戦争、1906~15年の義兵戦争、1919年の三・一独立運動、1918~25年のシベリア戦争と間島虐殺、1931~39年の満州抗日戦争。これらを朝鮮植民地戦争と総称する。
火賊とは、朝鮮の盗賊団のこと。火賊は、一般人扱いされなかった。
日本の東北地方を歩いたイギリス人女性イザベラ・バードは、1895年1月に東学農民軍の梟首(きょうしゅ)を見ている。
甲午改革は単なる内政改革ではなく、日本の朝鮮膨張と深く関連したため、その改革の正統性が根本的な秩序・法意識への求心力を強化することにつながった。
朝鮮王朝末期に起きた最大の民衆反乱が1894年の甲午農民戦争。東学農民戦争ともいう。日清戦争が起きた年です。農民軍は行動網領を定め、厳格な規律を維持した。参加したのは半プロ・貧農下層民などが中心。
11月20日、日本軍と朝鮮政府軍の連合軍と4万人の農民軍とのあいだで、最大の激戦となった(公州の戦い)。当初は数に優る農民軍が優勢だったが、その後は近代的兵器をもつ日本軍による大虐殺となった。
日露戦争(1904年)のころ、朝鮮半島に日本は鉄道を敷設していった。この苛酷な労働に対して朝鮮の民衆は激しく抵抗した。サボタージュ、逃亡、そして運行の妨害。
1895年、日本軍の三浦梧楼は閔妃を虐殺した。
1907年7月、ハーグ密使事件をきっかけに朝鮮王朝高宗が退位に追い込まれ、韓国軍が突如として解散させられた。当時の韓国軍は中央・地方あわせて8480人。そのうち、745人だけが残された。92%の軍人が失業した。これらの失業軍人が各地で義兵となった。
1919年3月、三・一独立運動が始まった。朝鮮全土で200万人以上が「独立万歳」を唱えて参加した。この三・一独立運動における朝鮮人の被害はわずか2ヶ月間に934人の死者を出した(7500人が殺害されたという学者もいる)。
日本は、「五家作統」という連座制によって、共同体をコントロールしようとした。
また、村落を植民地戦争の最前線にし、抗日運動の根拠地のせん滅を図ろうとした。
ただ、苛烈なせん滅作戦は、他方で逆効果でもあった。
豊臣秀吉による朝鮮出兵(壬申倭乱)のときも、朝鮮半島の各地で義兵が抵抗しましたが、日本の植民地支配に対しても何波となく義兵が決起しています。近代的兵器を装備した日本軍に圧殺されてしまうわけですが、朝鮮の人々の反抗ぶりもすさまじいものがあったようです。日本側の資料に残っています。
関東大震災直後の朝鮮人虐殺に日本軍部が手を下したことは事実ですが、その軍人たちは、朝鮮の農民戦争を戦った経験があったという指摘がなされています。なるほど、そうだったのか...と思いました。
いま多くの日本人に読まれるべき大変貴重な労作だと思いました。
(2024年7月刊。3500円+税)