弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2024年12月18日

沖縄県知事・島田叡と沖縄戦

日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 川満 彰 ・ 林 博史 、 出版 沖縄タイムス社

 1945年、日本敗戦の直前、沖縄では本土の捨て石とされて、日本軍がアメリカ軍と死闘を展開していました。そのとき、沖縄県知事と警察部長は沖縄県民を必死で守ろうとしていたという「美談」がほぼ定着しています。でも果たして、「美談」は本当に成り立つものなのか、冷静に分析した本です。これまで、つくられた「美談」に乗せられていた私は大いに反省させられました。
 沖縄戦当時の県知事・島田叡と県の警察部長・荒井退造は、2人とも内務省から任命された官選の知事であり、警察部長だった。
この本では、2人とも特高警察の幹部だったという経歴も明らかにしています。昭和の特高は小林多喜二をはじめとして、多くの罪なき人々を拷問にかけ殺し、また精神的に追い詰め変調をきたした人々を数多く生み出した官許の犯罪者集団でもあります。
 島田叡と荒井退造が沖縄の苛酷な戦場において、人間味を失わず、勇猛果敢に住民を保護したとして英雄視される「物語」は、沖縄戦の実相を知らない人々に誤った沖縄戦後を植え付けるものだ。人々が戦争の本質を見えなくなったとき、再び戦争は歩みよる。著者たちは、このように警告しています。
沖縄戦で亡くなった人は少なくとも20万人。沖縄県民が13万人近くいる。
 沖縄戦は日本軍(第32軍)が地上戦で持久戦を遂行したことから、住民はさまざまな戦場で、さまざまな戦没のありようで犠牲となった。
「集団自決」は、日本軍による強制された集団死だった。
 当時の沖縄の人口は60万人。食糧は3ヶ月分しかなかった。住民の一般疎開は、軍隊のための食糧確保が目的だった。8月22日、学童や一般人を九州に疎開するため航行中の対馬丸がアメリカ軍の潜水艦に撃沈され、1484人が亡くなった。
 日本政府は沖縄県民10万人を県外へ疎開させるという方針を立てた。これに対して、当時の県知事らは反対していた。
大阪府内政部長だった島田叡が沖縄県知事として着任したのは1945年1月末のこと。
 このころ沖縄県民を北部へ疎開させようとしていたが、これは戦えない住民の棄民政策(北部に十分な食糧は確保されていなかった)、また戦場に残された「可動力ある」住民は、「根こそぎ動員」の対象者だった。
 荒井警察部長は、アメリカ軍が沖縄に上陸したあと、沖縄の人々がアメリカ軍の捕虜となって日本軍の動向をスパイすることを恐れていた。島田知事も荒井警察部長も二人とも、住民が捕虜となってアメリカ軍に機密情報を漏らすことを恐れていた。そのため、島田知事は、アメリカ軍に対する敵意と恐怖心をあおった。そして、国民義勇隊なるものを創設して、アメリカ軍と戦わせようとした。これは、男女を問わず、50歳以下の人は全員招集させられ、前線での弾薬運びなどに使役させられるものであった。
 島田県知事と荒井警察部長は日本軍の要請に応じて県民(この時点では避難民)を戦場に駆り出し続けていた。島田県知事も荒井警察部長も、捕虜になって生きのびることは認めず、アメリカ軍への恐怖心を煽り、竹槍でも鎌でも、何でも武器にして最後まで戦うことを求めた。この二人は、「恥ずかしくない死に方」を一般県民に指導した。その責任を不問に付してはならない。
島田叡の経歴は、1925年から1945年までの20年間のうち15年間は警察官僚だった。
 荒井退造は、東京の警察署長を歴任したあと、満州でも警察の幹部となって、日本に戻ってからは特高警察の幹部であった。この経歴から、当然、二人とも、見図史観、「団体護持」思想を受け入れていたと思われる。
 島田知事の人柄は良かったようだが、そこからは沖縄戦の実相は見えてこない。
 沖縄戦において、アメリカ軍が上陸したあと、県民の生命を本気で守る気があったのなら、戦場への県民駆り出しなどやるべきではなかったし、アメリカ軍への恐怖心を煽って、最後まで戦えと指示することなんてするべきではなかった。そうではなく、アメリカ軍は民間人を殺さないから安心して捕まるべきで、それは恥ではないと、もっと早くから呼びかけるべきだったとしています。
 なるほど、まったくもって、ごもっともです。いやあ、目の覚める思いのする大変刺激的な本でした。
(2024年4月刊。1650円)

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