弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2024年12月 4日
奪還
日本史(戦後)
(霧山昴)
著者 城内 康伸 、 出版 新潮社
日本が敗戦した1945年夏、朝鮮半島には70万人の日本人がいた。そのうち北朝鮮には25人、それに満州からの7万人の避難民が加わった。南朝鮮に進駐した米軍は日本人を早朝返還方針をとり、日本人45万人の引き揚げ作業は1946年春までにほぼ完了した。
ところが、北朝鮮では違った。進駐したソ連軍は、38度線を封鎖し、南朝鮮への移動を許さなかった。北朝鮮での栄養失調と劣悪な環境下に置かれた日本人は発疹チフスなどのため次々に死亡し、地域によっては6人に1人が死ぬ惨状となった。その苦境に置かれた日本人を北朝鮮から大量脱出させるのに活躍した日本人がいた。それが松村芳士男(ぎしお)だ。この本は、松村の経歴と苦難にみちた活動状況を刻明に追跡し、復元しています。貴重な記録です。
松村は、当時34歳、日本では労働運動していて、治安維持法違反で2度も検挙された、元左翼活動家だった。
松村が直接・間接に脱出を援助した日本人は6万人に達するとみられている。
日本敗戦時、日本政府は食料不足の状況にあるから、海外からの引揚者が急増するのは避けたい気持ちが先に立ち、できる限り現地にとどまり、引き揚げを遅らせようとした。しかし、南朝鮮に進駐した米軍は日本人全員を早期送還する方針だった。それには朝鮮人にある激しい反日感情を踏まえていた。
松村義士男は、1911(明治44)年12月に熊本市で生まれた。私の亡父は明治42年の生まれですから、ほとんど同世代です。亡父は一度、応召したものの、中国大陸で病人となって本土に送還されて命拾いしたのでした。
松村は大阪そして北九州で労働運動をしていて、1936年12月に特高警察に検挙された。そして、1940年に朝鮮に渡り、北朝鮮(咸興)に住んだ。戦後、松村は咸興市に「朝鮮共産党咸興市党部日本人部」の看板を掲げて活動を始めた。
北朝鮮にいた日本人は次々に倒れていき、死亡者は1946年春までに2万5千人に達した。うひゃあ、これは多いですよね...。
日本人の置かれている窮状を目の当たりにして、松村たちは動いた。集団脱出の方法・経路を考えた。在留邦人(日本人)の惨状に接していた朝鮮当局は日本人が南下するのはやむをえないと黙認した。
当初は、試験的な鉄道輸送であり、1日30人だった。それが、50人、100人と増やしていった。そして、ソ連軍に陳情し、日本人4000人の疎開命令を出させた。
しかし、鉄道輸送だけでなく、徒歩で38度線を越えて南下しなくてはいけない。それがまた大変だった。次に、海路での脱出が試みられた。
コレラが流行しはじめたことから、日本人の移動、南下に再び制限がかかった。
なーるほど、ですね。アメリカ軍が日本人の南下を防止しようとしたのでした。
日本のなかにも、北朝鮮の要請にこたえて残留し、産業振興に力を貸そうという技術者もいた。
「このまま冬を迎えたとき、日本人の命を保証することができるのか?」
松村たちは、ソ連や朝鮮の関係機関に詰め寄り、日本人の一斉帰還を強く訴えた。
ソ連軍や朝鮮当局のなかに、技術者を除いた一般の日本人は帰国させて良しとする認識が広まっていた。
いやあ、こんな取り組みがあったのですね、そして、松村という人物が仲間と一緒に取組を成功させたのです。すごい活躍ぶりです。
松村は戦後の日本ではあまり恵まれなかったようです。朝鮮では「引き上げの神様」とまで言われたのに、戦後しばらく宮崎県延岡市で工務店を経営していたものの、突如、姿を消し、大阪で病死したようです。
まあ、それはともかくとして、朝鮮半島の北半分から日本へ帰国するときの苦労がよく掘り起こされていました。
(2024年10月刊。1900円+税)