弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2024年12月 1日
筆の音
社会
(霧山昴)
著者 中山 伸 、 出版 大田文化の会
東京都大田区で活動している民主的な人々が創立46周年を記念して発行した本です。私が大学生のころ川崎セツルメントに所属して活動していたときの先輩(太田政男さん)から贈呈されました。
今は亡くなられた人を含め、有名人がずらり並んでいて壮観です。
まずは、マルセ太郎(2001年1月22日没、67歳)。私は直接、その劇を見聞きしたことはありませんが、映画「泥の河」をひとり舞台で演じたのは圧巻でした(と聞いています)。50歳すぎまで売れなかったそうです。でも、最後は華々しい活躍でした。
そして、井上ひさし(2010年4月9日没、75歳)。私のもっとも敬愛する作家です。「知の巨人」、「稀有(けう)の文豪」という評価に、まったく偽(いつわ)りはありません。
井上ひさしの人生は、「言葉」で時代や世の中と真剣勝負をしつづけた生涯だった。日本語の素晴らしさを身をもって示した人間だった。何事も笑いに変える能力にたけた人間だった。これは畑田重夫の井上ひさしの評言ですが、ずばりそのとおりです。
そして永井智雄(1991年6月17日没、77歳)の名前に久しぶりに接しました。NHKテレビ「事件記者」の相沢キャップ役が大当たりでした。私が小学生のころに観ていた、なつかしい番組です。いかにも知的で、いつだって物事を深く考えようとする表情・姿勢がとても印象深く残っています。この本を読んで、戦前から劇団員として活躍していて、召集されて兵隊にもとられていたことを知りました。戦後は、劇団員、俳優として活動しながら、革新懇話会などでも活躍していたのですね...。
そして、映画「ドレイ工場」です。大学生のころに観た映画です。「男はつらいよ」では倍賞千恵子の夫役の前田吟が主役を演じました。志村喬が社長を演じています。
この映画の苦労話として、ギャラが日給制だったということが紹介されています。すべてのスタッフ・キャストが1日3500円から2000円までの日給制だったなんて、信じられません。
そして、撮影はすべてオールロケ。12ヶ所でロケした。エキストラも、のべ2700人。1968年に始まった上映運動は150万人の観客動員を成功させた。いやあ、すごい映画でしたし、迫力がありました。いまの日本でも、労働組合は労働者の生活を守り、権利を伸ばすために不可欠なものだということを広めるため、ぜひ見てほしい映画です。
いま、アメリカでもヨーロッパでも、労働組合運動が盛り上がっていて、どんどんストライキをやっていて、成果を勝ちとっています。今どきストライキをやっていないのは日本くらいです。委員長に人を得て(連合の芳野女史のような自民党べったりのダラ幹部ではなく、資本家と対等にわたりあえる人)、若者を広く結集して活動しているのです。
日本だって、出来ないわけがありません。投票率53%という低すぎる壁を打ち破る力が労働組合にはあると確信しています。
(2024年9月刊。2000円)
2024年12月 2日
体内時計の科学
人間
(霧山昴)
著者 ラッセル・フォスター 、 出版 青土社
私たちの身体は、しかるべき時間と場所において、適量の最適な資源を確保する必要がある。体内時計は、このニーズを予期することができる。体内時計は、単に時間を知らせるだけでなく、時間の予測や、少なくとも環境内の規則的な出来事の予測を可能にする。
睡眠中に記憶のほとんどが確立され、問題が解決され、情動が処理される。さらに、日中の活動で蓄積された有害物質が除去され、代謝経路が再構築されてエネルギー貯蔵庫のバランスがとられる。逆に、十分な睡眠がとられなければ、脳の機能、情動、身体の健康はすべて、すぐに混乱をきたす。
異常な睡眠は、心臓疾患、2型糖尿病、感染症、がんを引き起こしやすくする。
睡眠は、目覚めているときの生活能力を規定し、睡眠不足や睡眠における概日リズムの混乱は、健康全般に甚大な悪影響を及ぼす。
平均的な人間の脳には、86億本のニューロンがある。そのうちの5万本のみが、24時間周期の概日リズムを調整する「マスター生物時計」として、連携しあいながら機能している。
この「マスター時計」は、視交叉上核(SCN)」と呼ばれる脳の部位に存在する。SCNには5万本のニューロンが含まれており、注目すべきことに、それらのおのおのが独自の時計を備えている。SCNは哺乳類における「マスター時計」ではあるが、唯一の時計ではない。おそらくあらゆる身体器官や身体組織の内部に時計が存在している。
人間はノンレム睡眠中も、レム睡眠中のどちらにも夢を見る。しかし、レム睡眠中の夢は鮮明で、長く続き、複雑怪奇である。目が覚めても、しばらくは最後の夢を覚えていることがある。
人間は、全人生の36%を睡眠に費やしている。睡眠とは、個体がうまく適応できていない環境内で活動することを避ける、身体的な不活動の時期を指す。この時期に、活動期に最適な結果が得られるようにする一連の基本的な生物学的活動が実行される。
人間を含むほとんどの動植物において自己の概日リズムを昼夜のサイクルにあわせる、つまり「引き込む」ときのもっとも重要なシグナルは、光、とりわけ日の出時と日没時の光である。
時差ボケは、睡眠と概日リズムの混乱をSCRDという。SCRDは、コルチゾールが関与する、さまざまな健康リスクを高める。
不適切な睡眠はSCRDの重要な特徴である。交替勤務の年数、交替の頻度、1週間あたりの夜間勤務時間が増えれば増えるほど、がん発症のリスクは高まる。夜勤とがんの相関関係は非常に強い。
年長者はコルチゾールのレベルが高く、そのためSCRDの影響を受けやすい。そして、それがストレスの増大、認知能力の低下、さらには記憶を司(つかさど)る脳領域の縮小につながっていく。
天才として高名なアインシュタインは、夜の睡眠時間は10時間、そして日中は規則正しい生活を送っていました。天才の脳を動かすのには、夜の10時間の睡眠が必要だったというんですが、とてもマネできません。私は、7時間の睡眠と、ちょっとした「昼寝」を大切にしています。睡眠はとても大切にしています。ともかく睡眠不足では頭がまわらなくなるからです。
でも、アインシュタインのように10時間を確保しようとは考えていません。もちろん、天才ではありませんし...。
(2024年8月刊。2800円+税)
2024年12月 3日
ドキュメント・民営刑務所
アメリカ
(霧山昴)
著者 シェーン・バウアー 、 出版 創元ライブラリー
2020年に発刊された「アメリカン・プリズン」が改題し、文庫本になりました。
アメリカのジャーナリストが刑務官として民営刑務所で働いた4ヶ月間の体験が生々しく語られています。刑務所内に隠しカメラとマイクを持ち込んだのです。
アメリカの刑務所や拘置所に入れられている人は220万人(2017年)、過去40年間で500%の増加率。アメリカの人口は世界の総人口の5%しかないのに、囚人数では全世界の25%を占めている。そして、150万人の受刑者(拘置所の収容者70万人を除く)のうち、民営刑務所に13万人が収容されている。
アメリカでは、8万人が独房に入れられている。そのなかには10年以上、20年以上も独房で生活させられている囚人がいる。
アメリカの歴史の大半を通じて人種差別と人の自由を奪うことと、利益の追求とは常に結びついている。奴隷制が廃止されたあとは刑務所の囚人がそれに代わった。
潜入取材をしたのは、ウィン矯正センター。警備が中程度の刑務所のなかではアメリカ最古の民営刑務所。経営する会社、CCAのCEOの年収は400万ドル(2018年)。
潜入取材の用具として、録音機付きのペン、そして蓋の部分に小型カメラが仕込まれたステンレスの保温マグを持ち込んだ。結局、4ヶ月間、バレることはなかった。
刑務官の心得。囚人としゃべりすぎないこと。囚人は、刑務官の性格や反応を探っている。
刑務官には精神力が大切。
CCAは受刑者ひとりにつき、1日34ドルをもらっている。州の運営する刑務所では受刑者ひとりにつき52ドルの費用がかかっている。
CCAは売上高18億ドルで、2億2100万ドルの純利益を計上した(2014年)。
州にとっては民営刑務所にすれば15%もコストが低い。ところが、逆に公営刑務所のほうが14%だけ安上がりだという調査結果もある。結局、民営刑務所は、実は、それほどの費用節約にはならない。
働いている刑務官の大多数はアフリカ系黒人で、その半分以上が女性、そして多くがシングルマザー。
監獄はジェイルで、刑務所はプリズン。
刑務所内では自殺未遂は処罰できない。しかし、自傷行為と認定すれば処罰は可能となり、CCAは受刑者に損害の回復を求めることができる。
刑務所は白人の優越性を脅かすものではなく、むしろそれを後押しするものだ。
民営刑務所では囚人の更生よりも収益性が重視される。これは、どこでも同じこと。
平均で3分の1の刑務官がPTSDに悩まされる。刑務官の自殺率は一般市民より2.5倍も高い。刑務官の寿命は短い。
一般的な刑務所では、医療費が人件費に次いで多い。ルイジアナ州の刑務所は予算の31%を医療費に充てている。カリフォルニア州の刑務所では、予算の31%を医療費が占めている。というのも、ウィンの受刑者の40%が糖尿病・心臓病そしてぜん息などの慢性疾患をわずらっている。
全米で、男性受刑者の9%で、獄中で性的暴行被害を受けている。実際には、もっと多いとみられている。ゲイの受刑者の3分の1以上、トランスジェンダーの受刑者の3分の2が刑務所で性的暴行を受けた。刑務所での性的被害の訴えの半分近くに職員が関与している。
民営刑務所は、公営刑務所より受刑者どうしの傷害事件が28%も多い。また、民営刑務所の受刑者は、公営刑務所の受刑者の2倍近く武器を持っていた。
奴隷と同じく囚人も金もうけの手段になっているのですね。大きく目を見開かされる本でした。
(2024年8月刊。1300円+税)
2024年12月 4日
奪還
日本史(戦後)
(霧山昴)
著者 城内 康伸 、 出版 新潮社
日本が敗戦した1945年夏、朝鮮半島には70万人の日本人がいた。そのうち北朝鮮には25人、それに満州からの7万人の避難民が加わった。南朝鮮に進駐した米軍は日本人を早朝返還方針をとり、日本人45万人の引き揚げ作業は1946年春までにほぼ完了した。
ところが、北朝鮮では違った。進駐したソ連軍は、38度線を封鎖し、南朝鮮への移動を許さなかった。北朝鮮での栄養失調と劣悪な環境下に置かれた日本人は発疹チフスなどのため次々に死亡し、地域によっては6人に1人が死ぬ惨状となった。その苦境に置かれた日本人を北朝鮮から大量脱出させるのに活躍した日本人がいた。それが松村芳士男(ぎしお)だ。この本は、松村の経歴と苦難にみちた活動状況を刻明に追跡し、復元しています。貴重な記録です。
松村は、当時34歳、日本では労働運動していて、治安維持法違反で2度も検挙された、元左翼活動家だった。
松村が直接・間接に脱出を援助した日本人は6万人に達するとみられている。
日本敗戦時、日本政府は食料不足の状況にあるから、海外からの引揚者が急増するのは避けたい気持ちが先に立ち、できる限り現地にとどまり、引き揚げを遅らせようとした。しかし、南朝鮮に進駐した米軍は日本人全員を早期送還する方針だった。それには朝鮮人にある激しい反日感情を踏まえていた。
松村義士男は、1911(明治44)年12月に熊本市で生まれた。私の亡父は明治42年の生まれですから、ほとんど同世代です。亡父は一度、応召したものの、中国大陸で病人となって本土に送還されて命拾いしたのでした。
松村は大阪そして北九州で労働運動をしていて、1936年12月に特高警察に検挙された。そして、1940年に朝鮮に渡り、北朝鮮(咸興)に住んだ。戦後、松村は咸興市に「朝鮮共産党咸興市党部日本人部」の看板を掲げて活動を始めた。
北朝鮮にいた日本人は次々に倒れていき、死亡者は1946年春までに2万5千人に達した。うひゃあ、これは多いですよね...。
日本人の置かれている窮状を目の当たりにして、松村たちは動いた。集団脱出の方法・経路を考えた。在留邦人(日本人)の惨状に接していた朝鮮当局は日本人が南下するのはやむをえないと黙認した。
当初は、試験的な鉄道輸送であり、1日30人だった。それが、50人、100人と増やしていった。そして、ソ連軍に陳情し、日本人4000人の疎開命令を出させた。
しかし、鉄道輸送だけでなく、徒歩で38度線を越えて南下しなくてはいけない。それがまた大変だった。次に、海路での脱出が試みられた。
コレラが流行しはじめたことから、日本人の移動、南下に再び制限がかかった。
なーるほど、ですね。アメリカ軍が日本人の南下を防止しようとしたのでした。
日本のなかにも、北朝鮮の要請にこたえて残留し、産業振興に力を貸そうという技術者もいた。
「このまま冬を迎えたとき、日本人の命を保証することができるのか?」
松村たちは、ソ連や朝鮮の関係機関に詰め寄り、日本人の一斉帰還を強く訴えた。
ソ連軍や朝鮮当局のなかに、技術者を除いた一般の日本人は帰国させて良しとする認識が広まっていた。
いやあ、こんな取り組みがあったのですね、そして、松村という人物が仲間と一緒に取組を成功させたのです。すごい活躍ぶりです。
松村は戦後の日本ではあまり恵まれなかったようです。朝鮮では「引き上げの神様」とまで言われたのに、戦後しばらく宮崎県延岡市で工務店を経営していたものの、突如、姿を消し、大阪で病死したようです。
まあ、それはともかくとして、朝鮮半島の北半分から日本へ帰国するときの苦労がよく掘り起こされていました。
(2024年10月刊。1900円+税)