弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2024年10月19日

源氏物語を楽しむための王朝貴族入門

日本史(平安)


(霧山昴)
著者 繁田 信一 、 出版 吉川弘文館

 女御(にょうご)と更衣(こうい)とでは、女御のほうが更衣よりも、はっきり格上。
 女御は、女性を敬意を込めて呼ぶもの。今の「ご婦人」に近い。更衣は、着換えを意味し、天皇の着替えを手伝う存在。今も「更衣室」というコトバがありますよね。
 ところが更衣であっても、天皇の「お手付き」となると、妃(きさき)のような扱いを受ける。
 しかし、更衣を母親とする皇子は誰ひとりとして天皇にはなっていない。天皇になったのは、皇后(中宮)か女御かを母親とする皇子だけ。ふむふむ、そうなんですか...。
 桐壺(きりつぼ)更衣に対しては全ての妃たちが一丸となって嫌がらせをしかけた。それは更衣の身でありながら、一つの殿舎を専用の寝所として与えられていたから。これは女御のように扱われたことを意味し、後宮の秩序を乱すものだった。なーるほど、ですね。
 天皇自身は天皇としての人生を幸福なものとは感じなかった。太上天皇は、一日も早い退位こそ熱望していた。退位したあと上皇となることのなかった天皇は、上皇としての余生のあった天皇に比べて、明らかに短命だった。39歳と45歳と、6年も平均寿命が短い。
 王朝時代の天皇は、朝、早起きする。午前5時から7時のあいだに起きた(起こされた)。毎朝、目をさますと、何よりまず風呂に入る。天皇は着衣のまま入浴する。そして自分で身体を洗うこともしない。それは女房の仕事。天皇は、毎朝、日課として伊勢神宮を遥拝する。これは、わが国の日々の安寧を確保するための行為。
 天皇は朝9時ころ、給仕係の女房の前で朝食をとる。家族である妃や皇子・皇女と一緒に食卓につくことはない。天皇の朝食は、毎朝、いつも同じものを食べる。当時の日本には、まだ醤油はない。
朝食のあと、天皇は読書した。つまり、漢文の書物を読んだ。
紫式部と同じ時代を生きた皇子は17人を上回っている。その前は30人もいただろう。
 更衣を母親とする皇子たちは、かなり大きくなるまで父帝と面会することはなかった。
皇子たちの平均寿命は、41歳ほど。上級貴族の男性の平均寿命は62歳ほど。
 天皇の結婚相手として、異母兄妹、異母姉弟も容認された。
 皇子たちが短命なのは、近親婚の歴史によってもたらされたもの。ときに精神面に障害を持つ皇子や知的障害を持つ皇子の誕生は、このような近親婚の「遺産」。
 皇子は、皇子とあるだけで、給料を朝廷から支給された。そして、本来なら無品(むほん)の皇子には品封(ほんふう)が支給されないはずなのに、200万の品封が支給された。五位の貴族に対して朝廷から支給される給料は米にして400石ほど。
 太上天皇とは、天皇を退位したあとの「名前」。「上皇」は、これを短縮したもの。上皇は、皇后や皇太子よりは上で、天皇よりは下位の存在。
 皇女たちは、ほとんど結婚していない。王朝時代、皇后の地位は藤原摂関家の女性によって独占された。同時に、天皇の結婚は、藤原摂関家によって管理されていた。
 皇女たちは、臣下との婚姻は許されなかった。平安時代には、女帝の即位はない。
 王朝時代の中級貴族の男性は、「殿上人(てんじょうびと)」と「地下(じげ)」の人と大きく2つに分かれる。地下たちは、殿上人を敬意と憧憬(しょうけい)を込めて「雲上人(うんじょうびと)」「雲客(うんかく)」とも呼んだ。
 四位・五位の中級貴族の人数は1000人ほど。このうち1割は女性。紫式部や清少納言も、自ら王位の位階をもっていたと考えられている。
王朝貴族のことを少しばかり知ることができる本でした。
(2023年11月刊。1700円+税)

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