弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2024年10月18日
戦友会狂騒曲
日本史(戦後)
(霧山昴)
著者 遠藤 美幸 、 出版 地平社
著者はビルマ戦を研究している学者であり、二児の母親でもある。元兵士の遺族でもないのに、ひょんなことから戦友会の「お世話係」となって月1回の戦友会に顔を出すようになった。2005年のこと。しかし、年月がたって、元兵士たちが次々に亡くなっていき、この戦友会は2007年12月に解散した。そのあと有志が集まるようになったのにも関わる。
現在、もはや元兵士が主導する戦友会は日本には存在しない。当然ですよね。戦後80年になろうとしているのですから、終戦時に20歳の人は100歳なのです。著者が関わった戦友会は「第二師団勇(いさむ)会」。第二師団の通称号は「勇」。第二師団は福島、新潟、宮城三県から編成された部隊。第二師団はガダルカナル、中国雲南省、ビルマ方面の激戦地で戦った。
戦友会は多様な形態があり、明確に定義が出来ないのが特徴。
戦友会は、あくまで任意の民間団体。戦友による会費と寄付が財源。1965年から1969年までが戦友会設立のピークで、その最盛期は短かった。1980年代には3分の1に減少した。
戦友会の「勇会」は1980年代の最盛期には130~150人の参加があったが、2003年にはわずか15人にまで激減した。
この戦友会に、著者たちが接近してきて加入した。「自虐史観」を排し、大東亜戦争は聖戦だった、東南アジアの虐げられた貧しい民衆を解放してやったと主張する集団。日本軍が強制連行してつくった慰安所の存在を否定する。しかし、元兵士たちには自ら慰安所を設立したという体験があるので、話がかみあわない。
ガダルカナル島戦に従事した第二師団は1万人余。そのうち8千人近くが戦死した(戦死率76%)。ビルマ戦線の総兵力は1万8千人で戦死者は1万3千人(戦死率68%)。この戦死率の異常な高さに思わず息を呑みます。これって、戦病傷者を考えたら全滅というレベルですよね。
ビルマ戦線の日本軍総兵力は33万人でうち19万人が戦死した。まさに「地獄のビルマ戦」です。そんな苛酷な戦場体験をもって生還した水足中尉は、もし今、戦争が起きたらどうするか...と自問して答える。
「私は戦争になったら逃げます。戦争に行って最大の卑怯者になりました。戦争は何としても阻止しなければいけません。勝ってもダメです。自衛隊もいけません」
金泉軍曹の口癖は...。
「私は軍隊が大嫌い。二度と戦争してはいけない。最初から相手が憎いわけではないのに殺しあう。相手にも親兄弟がいて、死んだら悲しむでしょう。戦争ほど愚かなことはない。勝っても負けても意味がない。しょせん、国同士の関係だからね」
磯部憲兵軍曹は、即答する。
「戦争に行けと言われたら、私は一目散に山にでも逃げますね。米袋をかついで逃げますよ」
ところが、戦場体験のない人は、その「負い目」から勇ましい言葉を発することがある。
戦友会では階級がモノをいう。元兵士たちは、かつての上官の前では本音を言わない。言えないのだ。
激戦のなか、どのようにして生き残ることが出来たのかと問われ、金泉軍曹はこう答えた。
「自分だけ生き残ろうとずるいことをした人は、みな死んでしまった。他人(ひと)のことを助けて初めて他人に助けてもらえる」
偕行社は自然消滅の危機にあったが、陸上自衛隊OBとつながって、「陸修偕行社」として存続している。
実は私も「偕行社」を利用させてもらったことがあります。亡母の異母姉の夫(中村次喜蔵中将)の軍歴を知りたかったのです。すぐ調べていろいろ親切に教えてもらいました。ありがたかったです。
(2024年7月刊。1800円+税)