弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2024年10月 1日
特殊害虫から日本を救え
生物
(霧山昴)
著者 宮竹 貴久 、 出版 集英社新書
いまわが家の庭には、サツマイモとカボチャを植えて、収穫を楽しみにしています。
実は、サツマイモはジャガイモより難しいのです。なかなか大きく育ってくれません。今年は場所を変えたので、今年こそは、と期待しているのですが、どうなりますやら...。
地上部分は元気一杯にツルを伸ばし、葉を繁らせてくれているのですが、肝心な地下で太ってくれなければどうしようもありません。
この本には、このサツマイモに寄生する害虫の話が出ていて驚きました。
アリモドキゾウリムシという害虫がいます。熱帯起源でアメリカ南東部とハワイにかけて分布する虫です。1903年に沖縄で発見されました。台湾から入ってきたようです。
卵から孵化(ふか)した幼虫はサツマイモを食べて育つ。幼虫にかじられると、サツマイモは、大変苦い物質を発するので、とても食べられなくなる。人どころか、家畜のエサにもならずブタさえ見向きもしない。これは、イモが自らを防御するために発するイボメアユロンと呼ばれる苦み物資。虫だけでなく、人間が傷つけてもこの物質を出すので、広く敵に対するサツマイモの防御物質と考えられる。
こんな害虫をどうやって駆除するのかという苦労話が紹介されています。時間もかけて、物量作戦でいくのです。
殺虫剤の散布は簡単だけど、他の昆虫も殺してしまう。そこで、オスのみを誘引する物質を探しあて、殺虫剤と混ぜてオスに食べさせ、オスを殺す。すると、メスは卵を産むことができなくなる。
不妊虫放飼法というのは、蛹(さなぎ)のときに放射線を浴びせて不妊にしたウリシバエの大量の成虫をヘリコプターからばら撒(ま)くやり方。これはウリミバエを増産する必要がある。なんと、毎週2億匹のウリミバエを生産したそうです。沖縄の島々に21年もかけて撒いていって、ついに根絶した。いやあ、たいした取り組みですね。
ところが、あまり強い放射線を浴びせると、オスの競争力が低下してしまい、弱すぎると不妊オスにならないので、その加減が難しかったようです。
毎週3000万匹の不妊虫がヘリコプターで宮古諸島の林や畑に空からばら撒かれたというのですから、壮大な作戦です。
それでも殺虫剤などの農薬を空中散布するより、よほどいいですよね。
ところが、害虫根絶というのは、一度根絶したら終わりかと思うと、そうではなく、終わりなき再侵入との戦いに突入しているというのです。つまり、周辺の諸外国から害虫が侵入してくる危険が絶えずあるということなのです。
害虫のミカンコバエは、50キロも離れた島まで海上を飛んでいくとのこと。すごいです。
なので、著者は最後に、ネット販売で南西諸島の果物やサツマイモを島外に郵送しないように訴えて(警告して)います。
農作物の移動を制限するのは根拠があること、初めてしっかり認識しました。
(2024年5月刊。1100円)
2024年10月 2日
ブッダという男
インド
(霧山昴)
著者 清水 俊史 、 出版 ちくま新書
2500年前、北インドにゴータマ・シダッタ(サンスクリット語では、ガウタマ・シッダールタ)が生まれた。ブッダである。
シャカ族の王子として生まれ、裕福な生活を送っていたが、輪廻(りんね)の苦しみから逃れるべく、出家した。修行の末、35歳のとき悟りを得てブッダとなった。その後、45年間の伝道の末、80歳で死亡。
天上天下唯我独尊。この世で自分こそが尊い。私は世間でもっとも優れた者である。ブッダは、初期仏典のなかで自画自賛を繰り返している。
現代的な価値観に合致した人間ブッダを考えたら、神格化の間違いを犯してしまう。はるか昔の常識は、現代の常識とはまた違うことに留意すべき。
日頃の振る舞いの良い仏教信者でなければ、生命(いのち)の値段は「1人」として数えられない。邪教を信じて行動するタミル人たちは、獣に等しいから、いくら殺しても「人殺し」として計上されない。生命の価値に貴賤(きせん)を設ける、このような考え方は古代において珍しいものではない。
弟子のアングリマーラは、大量殺人鬼であったにもかかわらず、出家が許され、しかも世俗的な刑罰を受けることなく悟りを得ている。
ブッダは戦争の無益さを説いたが、王に対して戦争そのものを止めるよう教えてはいない。古代インドにおいて、国を支配し、武器をもって戦うことは、武士階級に課せられた神聖な生き方として認められていた。これがブッダが戦争を非難し、止めなかった理由である。
ブッダは、現代的な意味で、暴力や戦争を否定したわけではない。ブッダは漁師や狩人など殺生を生業とする人々も在家信者になれるとした。不殺生と殺生は相矛盾しながらも、両立する。古代インドにおいては、征服戦争も、武士階級である神聖な生き方として認められていた。
ブッダは、業と輪廻の実在を深く信じており、苦しみの連鎖から抜け出すことを真剣に考えていた人間である。
ブッダによるカースト批判は、司祭階級批判の一つ。
ブッダによるカースト批判は、貧困問題の解消や富の再分配を意味しない。仏教が強調しているのは、スーストを問わず、出家すれば悟ることができるという、聖の側の平等であって、俗の側の平等ではない。
仏教教団の序列は、出家前の階級にもとづくものではなく、出家してからの年月も応じて決まる。
インドの憲法を起草したアンベードカルは、50万人の不可触民とともに仏教に改宗した。現在インドには800万人以上いる、新仏教運動の母体となった。
初期仏典には、ブッダが女性を蔑視しているものが複数確認される。現代的な価値観からすると、初期仏典に現れるブッダは、明白に女性差別者である。
托鉢修行者たちよ、女は、歩いているときでさえ、男心を乗っ取る。女性は男性を墜落させる原因であるというのが、古代インド一般の理解である。初期仏典も、その理解にしたがい、男性の修行の妨げになるという点から、女性は批判されている。
ちなみに、キリスト教の聖書でも、女性蔑視の表現が多数あり、カトリック教会では、今なお女性は司祭につけない。ふむふむ、そうなんですか...。
仏教は、バラモン教と対立する沙門宗教の一つとして生まれた。
バラモン教では、死んだら雲散霧消するので、死後の生活などありえない。
ブッダは、決して不可知論者ではない。ブッダは一面智者として、懐疑論者を破折(はしゃく)する。
仏教は、コツ然と生まれたのではない。バラモン教を頭ごなしに否定するのではなく、彼らの築きあげた世界観を引き継ぎつつ、それを再解釈し、仏教の優秀性を強調した。
仏教、そしてブッダの真の姿をとらえようとする新書でした。ブッダが生きていたころの政治、社会状況をきちんと踏まえることの大切を自覚させられました。
(2023年12月刊。880円+税)
2024年10月 3日
憲法的刑事弁護
司法
(霧山昴)
著者 木谷 明 ・ 趙 誠峰 ・ 吉田 京子 ・ 高山 巖 、 出版 日本評論社
弁護士高野隆の実践、をサブタイトルとする本です。日本を代表する刑事弁護の第一人者である高野隆弁護士の還暦記念論文集でもあります。
高野隆を一言で表すとすれば、物語力。依頼人が無実である物語をつくり上げ、裁判官と裁判員の前に送り出す。裁判は物語と物語の対決、事実認定者が証拠を見て描く物語を獲得できるかどうか。
高野隆は法廷のストーリーテラー。この本の末尾には高野隆の弁論集が紹介されている。しかし、高野隆の弁論は法廷にのみある。文字としての弁論は、いわば映画を見ずにシナリオを読んでいるようなもの。
まあ、それでも、弁論のキレの良さは伝わってきます。
高野隆は18頁もの弁論要旨を全文読み上げる。書いていないことも、その場でアドリブでしゃべる。
高野隆は被告人のために情熱的であり、雄弁である。高野隆は、被告人席に座っているこの人も、裁判官席に座るあなたと同じフツーの人間だと示すのか、弁護人としての最初の仕事だと信じている。
高野隆は国の権力、そして人を懲(こ)らしめたいという強い衝動をもつ者を信用していない。
高野隆は1982年に弁護士になり、1986年から翌1987年までアメリカに留学して、憲法、証拠法、刑事手続法を猛勉強した。高野隆や小川秀世らは1995年にミランダの会を立ち上げた。日本の被疑者取調べ手続を文明化し、黙秘権を確立することを目的とする会。
2008年、高野隆は、アメリカから講師を招いて法廷技術研修を開催した。
日本の裁判では、公判前整理手続で予定を決めてしまって、予定外の証人調べなどすることはほとんどない。しかし、アメリカの法廷は、もっとフレキシブルで、新しい証人の存在が分かったら尋問するし、もう1回あの証人を呼んで訊いてみようとなる。日本では考えられない。
日本の裁判では「嘘」や「正直さ」というのを極端に重要視している。
刑事裁判では「嘘」をついたかどうかがすごくクローズアップされることが多くて、日常生活ではありがちな「嘘」が、取り返しのつかない結果を生みかねない。これは本当に、そうなんですよね。弁護士生活50年の私も、「嘘」は致命傷になることがあると、いつも依頼人に言っています。
日本では、職業裁判官がずっと裁判をやってきたから、自分たちが万能の専門家だと思っている。供述・証言の専門家、心理の専門家、薬物犯罪の専門家、そして精神医学の専門家だと思い込んでいる。でも、彼らの「専門性」というのは、まったく専門性でもなんでもない。有罪の判決文を書くのに必要な証拠は何かという、小役人的な判断の積み重ねにすぎない。そこには法哲学や法政策的な思考も、本当の意味での体験も、職人の知恵もない。世の中に存在する本当の専門家の意見を聞くことは、小役人の生活にとって邪魔な夾雑(きょうざつ)物にすぎない。いやあ、たしかにそうなんですけどね...。
370頁もの本で、値段も張りますが大変勉強になりました。東京からの帰りの飛行機のなかで、乱気流にもめげず、必死に読み通しました。
(2017年7月刊。4200円+税)
2024年10月 4日
ヤンバルの戦い(1)
日本史(戦前)
(霧山昴)
著者 しんざと けんしん 、 出版 琉球新報社
沖縄戦の実情をリアルに紹介してくれるマンガ本です。本当にマンガというのは馬鹿にしてはいけないと思います。すごい迫真力があります。
日本の帝国軍人たち、とりわけ高級幹部の独善と権威主義がひどすぎて、腹が立つどころではありません。
結局、沖縄はアメリカ軍による本土進攻を遅らせるための捨て石とされました。
沖縄にどんどん航空基地をつくるよう大本営は命令します。ところが、肝心の資材が十分ではありません。そのうえ、飛行機だって飛行士だって大量確保はおぼつかないのです。
アメリカ軍が沖縄に迫ってきたとき、沖縄の人々は訓練と思ったり、日本軍が来てくれたと錯覚したり、まさかまさかアメリカ軍が来襲するとは思っていなかったのです。
沖縄には、満州にいた関東軍の精鋭部隊が続々と転入してきます。それで、沖縄の人々は頼もしい味方が来てくれた。これでアメリカ軍を撃退してくれると束の間の安心感に浸ったようです。
でも、アメリカ軍の上空からの襲撃によって、その多くが焼失してしまいました。
対馬丸事件という大悲劇も発生しました。沖縄の子どもたちを九州へ疎開させるというのです。速度の遅い貨物船はアメリカの潜水艦に狙われて、あえなく撃沈されてしまいます。大勢の子どもたちが海中に沈んでいきました。
いま、日本政府は台湾危機をあおり立て、南西諸島と沖縄から九州へ住民を避難させると言っています。
とんでもないことです。全住民を乗せる船も飛行機なんてありませんし、対馬丸のように撃沈(ミサイルによって)されない保障なんて、どこにもありません。政府は危機をあおるのは止めてほしいです。それよりお米の確保が先決です。減反政策をやめて、食糧自給率を引き上げる政策を今すぐ始めて下さい。
著者は沖縄戦の実情を知らせるための劇画をシリーズで刊行しているそうです。ぜひ読みたいものです。
(2024年6月刊。3850円)
2024年10月 5日
宮本常一と土佐源氏の真実
日本史(戦前)
(霧山昴)
著者 井出 幸男 、 出版 新泉社
有名な民族学者である宮本常一の代表作「忘れられた日本人」におさめられた「土佐源氏」はまことに衝撃的な内容です。昔から言われていることですけれど、日本人は古来、とても性に開放的でした。それを裏づける貴重な聞き書きの一つとして扱われてきました。
しかし、この「聞き取り」には、事実に反するところがあり、これは実は聞き取りにもとづく宮本常一による文学作品ではないか、著者はそのことを実証しています。
まず、「盲目の老人」は乞食ではなく、「橋の下」にも住んでいません。また、年齢も「80歳以上」ではなく、「72歳」でした。そして、何より、「土佐乞食のいろざんげ」という原作があったのです。
宮本常一は、貴重な取材ノートを戦災にあって焼失したので、十数年たって、記憶で再現したと語っていました。
「老人」は「橋の下」ではなく、「橋のたもと」に住んでいて、「乞食」ではなく、妻子とともに水車で精米・製粉業を営んでいた。緑内障で失明したが、その前は、腕ききの博労(ばくろう)であった(運営業ということ)。
宮本常一自身が妻とは別の女性と一緒に旅を続けていた。
「老人」のコトバに「土佐弁」ではなく、宮本の出身地である周防(すおう)大島の方言が入っている。たとえば、「ランプをかねる」というのは、「ランプを頭で突き上げて落とす」という意味。これは土佐弁にはないコトバ。
宮本常一の聞いた相手の「老人」の本名は、「山本槌造(つちぞう)」。子どもも男2人、女3人を育てあげた。その孫が取材に応じて、祖父のことを語っている。
祖父の「槌造」は昭和22年に「76歳」で亡くなっているので、宮本常一が取材したときには「72歳」であって、「80歳以上」ではなかった。
「強盗亀」の正体も判明している。そして、山の中に「落し宿」という「盗人宿」があったのは事実のようだ。盗っ人が持ち込み、誰かが安く買い取って、売りさばいていた、そんな仲継ぎをする「旅館」が山中にあった。
「強盗亀」は捕まって、41歳のとき死刑(処刑)されていますが、ずっと最後まで行動を共にしていた妻が3人いたというのも事実のようで、驚かされます。よほど、生命力、行動力があったのでしょう。
したがって、宮本常一の書いた「土佐源氏」は純然たるルポタージュというものではなく、虚構(フィクション)をまじえた「文学作品」として捉えるべきだというのが著者の主張です。なるほど、そうなんでしょうね...。
宮本常一にまつわる伝説をえりわけて真実を探ろうとする真摯(しんし)な姿勢に学ばされました。
(2016年5月刊。2500円+税)
2024年10月 6日
釜ヶ崎、まちづくり絵日記
社会
(霧山昴)
著者 ありむら 潜 、 出版 明石書店
大阪・釜ヶ崎に生きる不思議なおっちゃん・カマやんを主人公にした4コマ漫画を中心にした本です。
釜ヶ崎とは、大阪市のJR新今宮駅の南側あたりのエリア。「あいりん地域」とも呼ばれる、日本でも有数の貧困集中地域。
著者は、大学卒業直後の1975年(23歳)から今日まで50年間も関わってきました。単行本としては著者の9冊目になるというから、偉いものです。
『カマやんの夢畑』(明石書店)、『カマヤンの野塾』(かもがわ出版)もあります。
この釜ヶ崎もどんどん変わっているようです。今では釜ヶ崎を含む西成(にしなり)区の高齢化率は止まり、人口減も止まって、むしろ人口増に転じている。外国人住民が増えている。たとえばベトナム人の家族が入ってきている。それで、子どもたち相手に日本語を教えるのではなく、ベトナム語教室が開かれている。子どもたちにとっては日本語のほうがネイティブになっているから...。
1960年代に釜ヶ崎にある小学校には1300人の児童がいた。ところが2015年には全校でわずか50人になってしまった。子どもたちがいなくなった。住んでいるのも男8対女2の比率で、60~70歳台ばかり、しかも生活保護受給者の男ばっかりになってしまった。そこで、子育て世代も住めるマチづくりを目ざして取り組んだ。
今や新今宮駅の周辺はホテル、しかも海外からの観光客の泊まるホテルがたくさん立地している。それで、ベッド・メイキングの仕事が新しく生まれた。
2018年4月に、世界銀行の視察団60人が「あいりん地域」を視察にやってきた。貧困地域なのに、清潔で安全、包摂的でレジリエントなまちづくりが進んでいると評価されたのだ。
今夜一晩の寝床のない人々のための「あいりんシェルター」は2015年度に建て替えられた。ベッド数530床。そして、ここのトイレは大変清潔。NPO法人のスタッフのおかげで、いつもピッカピカ。もちろんウォシュレット。
トイレの清潔さは人権でもある。ここを利用すると、自分は世間から人間として対等に扱われていると実感できる。
釜ヶ崎の50年の移り変わりがマンガで知ることのできる貴重な記録になっています。
(2024年6月刊。2800円+税)
2024年10月 7日
標本画家、虫を描く
生物
(霧山昴)
著者 川島 逸郎 、 出版 亜紀書房
顕微鏡をのぞきながら、製図用ペンで体長数ミリの昆虫を描いていくのです。それも微細にわたって、刻明に。いやあ、すごい、すばらしい細密画のオンパレードです。
身近な生き物が対象ですので、なんとなんと、ゴキブリもハエも描かれています。
虫の形態の多様さに惹かれて昆虫を観察し続けてきた著者にとって、ゴキブリは、いたって基本的な形態をした、ごくごく平均的な虫だった。そうなんでしょうね。太古の昔から存在してきたのがゴキブリですから、もう身体を変える必要を感じていないのでしょう。
庭にいる身近な虫といえば、ナナホシテントウもいます。つまむと(私は見るだけで、つまんだことはありません)脚の関節から悪臭のする黄色い毒液を出す。うひゃあ、知りませんでした。やっぱり、これからも、つままないようにします。
テントウムシのつるつるしたようにしか見えない体は、実はでこぼこだらけ。ええっ、そ、そうなんですか...。
テントウムシは、見かけによらず、食いしんぼうな虫。アブラムシの仲間を好んで食べ、ときには同じ種の卵や幼虫までも襲うことがある。
標本画はとても実用的なもので、描かれる目的はきわめて明確。なので、見る側の自由な感性に任される絵画とは、そこが決定的に異なる。
描線の引き加減や微細なもの入れ方ひとつを見ても、そこに込められた描き手の狙いが手に取るように分かる。まるで情念のように感じられる。スミやインクの乗りもありありとした肉筆の画面にのみ色濃く漂う、生身の人間臭さ。むふん、コピーでは伝わらない、感じられないものがあるんですね...。
昆虫の体には、基本的な構造や法則性がある。たとえば、胸は三節から成る。前脚は前胸から、中脚は中胸から、後脚は後胸から出るという法則がある。前脚は、はっきり区切られ、可動もする前胸から出る。
予備知識がないまま、形態上の改変が進んだアリの体を読み解くのは、初心者には非常にハードルの高い作業。
点描とは、点(ドット)の集合の密度や濃度の加減によって、立体感を表現する方法。
チョウの鱗粉(りんぷん)は、粉ではなく、毛が変形したもの。翅(はね)の表面にただふんわり乗っているだけではない。通常の毛は、糸状に細く、先端に向かって、とがっているか、チョウでは毛は幅広く、瓦状に重なりあっている。
ハナバチの豊かに全身を包む毛の一本一本は、幾重にも枝分かれしていて、表面積を増やしたその分だけ、より多くの花粉が付着する。
毛の配列と本数は、決して誤ってはいけない要所なのだ。
すごい絵が、実に100点、しっかりしびれてしまいました。まさに根気とのたたかい、執念すら感じさせる本です。
(2024年8月刊。2200円)
2024年10月 8日
公害・人権裁判の発展をめざして
司法
(霧山昴)
著者 豊田 誠 、 出版 日本評論社
公害弁護団で大活躍していた豊田誠弁護士(以下、豊田さん)とは私も面識があり、親しくさせていただきました。豊田さんはイタイイタイ病、薬害スモン、水俣病、多摩川水害、ハンセン、えひめ丸事件に取り組み、活動をリードしてきました。全国公害弁護団連絡会議(公害弁連)では、事務局長、幹事長そして代表委員をつとめました。さらに、自由法曹団の団長もつとめています。
豊田さんは、2023年3月に87歳で亡くなりました。この本には豊田さんの書いた論文そして語った内容が集められています。
この本を読んで圧巻だったのは、1982年に34期修習生に語った「大衆的裁判闘争と弁護士の役割」というものです。講演を起こしたものなので、とても読みやすく、教訓に富んだ内容です。
スモン事件の裁判に取り組んだとき、キノホルムの危険性を調べようと、東大と慶応の図書館に入り浸った。キノホルム(クリオキノール)という単語だけを手がかりとして、英語もフランス語もドイツ語も分からないのに、ひたすらインデックスを頼りにして調べあげていったというのです。豊田さんも同じことをしたのでしょう。ついに金沢の弁護団が東北大学の図書館で発見したのでした。すごいですね。まったくのムダ、としか言いようのない作業を何人もの弁護士がやったというのです。
岐阜県の村にあるエーザイの図書館に行ったときには、スッカラカンになっていて、ポケットにはもう何千円しか残っていなくて、東京に戻ったときには素寒ぴんだったというのにも驚かされました。
次は労働事件。大日本塗料という会社を相手に裁判をして裁判では33連勝。ところが職場復帰という目的は達成していない。いったいどうしたらよいのか...、深刻に反省した。
このとき、裁判でいくら勝っても本当に闘いが大衆的に広がっていないと、目的は達成できない。このことを身をもって体覚せざるをえなかった。
運動を広めるためには、弁護士がまず自分自身の目の色を変えなければダメ...。
鈴木尭博(たかひろ)弁護士は「ボンドの鈴木」と呼ばれた。ボンドとは接着のこと。喰らいついたら離れないっていうことでついたアダナ。
人が変わることに確信をもつ。団結もちつき大会をやったし、全国歌謡大会もした。プラスバンドや琴、そして落語まであるという華々しい取り組みもした。
最高裁は、公害裁判に関する協議会、裁判官会同をひんぱんに開催した。1969年に1回、70年に1回そして71年と72年には各2回も開かれている。これは、明らかに最高裁による陰湿な裁判統制というのは間違いない。裁判官統制が強められていった。
豊田さんは、ある事件で敗訴判決が宣告されたとき、「裁判長、ありがとう」と言った。いやあ、豊田さんでないと言えないコトバですよね。
豊田さんの偉大な足跡を詳細に調べあげています。豊田さんが生まれたのは、八郎潟の湖畔の平野部。秋田県琴丘町。豊田さんの父は国鉄マン。8月15日のとき、豊田さんは小学4年生。
偉大な先輩弁護士の足跡をたどることが出来ました。
(2024年6月刊。2200円+税)
2024年10月 9日
激動の韓国政治史
韓国
(霧山昴)
著者 永野 慎一郎 、 出版 集英社新書
北朝鮮の権力は、金日成、金正日、金正恩の三代、父から子に世襲されている。
これに対して韓国では、初代の李承晩から今の20代尹(ユン)鍚悦まで、76年間に13代の大統領が誕生した。李承晩政権は12年間、朴正熙政権は18年間、いずれも独裁政治をすすめた。さらに、朴政権のあとも全斗煥と盧泰愚の軍事政権が32年間も続いた。
ところが、その後は保守派と進歩派とのあいだの政権交代が繰り返された。
ここも日本とはまったく違います。日本では軍部独裁の強権政治がない代わりに、自民党の長期保守政治が続き、民主党政権は、短期間で崩壊(自壊)してしまいました。
金大中が拉致・連行された事件は、朴大統領の意を受けた中央情報部(KCIA)の組織的な犯罪であることが明らかになっています。それでも、本書では、その真相をもっとも知る立場にあった日本の捜査当局が所蔵する資料が公開されない限り、より確実なことは分からないとしています。
私は韓国映画をかなりみています。朴正熙大統領暗殺をめぐる過程、全斗煥が軍事クーデターで政権を掌握する過程(つい先日、「ソウルの春」をみました)、光州市民の民衆蜂起と戒厳軍の弾圧(「タクシー運転手」など)、IMF危機、盧武鉉弁護士が弁護士になる過程など、です。いずれも政治を扱っていながらエンターテインメントとしても秀れていて、思わず息を呑むほどの迫力がありました。日本でも、3.11原発災害をめぐる映画はありますが、この分野では韓国に圧倒的に遅れていると思います。
金大中事件が起きたのは1973年8月8日のこと。このころ、私は司法修習生でした。東京・九段下にあるホテルグランドパレスの廊下で拉致し、麻酔剤をしみこませたハンカチを鼻に押しあてて失神させたのです。そして、東名高速道路を車で走り、大阪から船に乗せ、釜山港に運び込みました。
この過程には日本の自衛隊員も関与していたようです。KCIAは金大中を殺害し、遺体はバラバラにするつもりだったようですが、アメリカから中止要請(命令?)があって、助かったようです。
1979年10月26日、朴大統領は内輪の宴会の席上、金載圭情報部長により射殺された。これは軍人同士の内部対立によるものですが、その重要な背景として、強権的な軍部独裁政権に対する民衆のデモの高揚がありました。
全斗煥による軍事クーデターの状況は先日みた映画「ソウルの春」で、詳細に再現されていました。軍隊同士が戦闘するという内戦必至の状況に至っていたことが実感できました。光州事件は1975年5月に起きています。戒厳軍が凶暴な武力鎮圧したことに対する学生そして市民の自然発生的な怒りが燃えあがったのです。
このとき、アメリカ軍の司令官は戒厳軍による武力鎮圧を許可しています。アメリカ軍も同罪なのですが、こちらは問題にされていません。この光州事件について、金大中が背後から操縦したものとして1980年9月17日、死刑判決が下された。そして、40年後の2020年11月30日、光州地裁は全斗煥元大統領に有罪判決を下した。その前、1995年、「5.18特別法」にもとづき内乱目的殺人罪が適用され、全斗煥には無期懲役・追徴金312億円、盧泰愚には懲役17年追徴金372億円が宣告された。盧泰愚は16年かけて追徴金を完成した。全斗煥は半分ほどしか支払われないまま死亡した。盧泰愚は生前、光州事件の被害者に謝罪もし、反省の態度を示したことから国家葬が営まれた。これに対して、全斗煥は最後まで謝罪しなかったし、追徴金も未納だったので、元大統領としての礼遇は受けられなかった。
韓国政治は、たしかに映画の題材にふさわしいほどの劇的展開がみられます。保革の政権交代は、有権者の選択によるもので実現しているわけです。その点、韓国の民主主義は日本をはるかに上まわっています。日本人はもっと政治に目覚め、語るべきだと思います。
いつまでたっても自民党に頼るばかりというのは恥だと私は思います。大変勉強になる新書でした。
(2024年7月刊。1100円)
2024年10月10日
私が出会った少年について
韓国
(霧山昴)
著者 チョン・ジョンホ 、 出版 現代人文社
著者は韓国の少年部判事をしていました。現在は釜山地方院部長判事です。
著者は2010年2月から2018年2月までの8年間に1万2000人の少年と出会った。
少年の非行は、少年の罪ではなく、社会の罪。
これは弁護士生活50年の私の実感でもあります。親と社会から見捨てられたと感じながら生きていたら、誰だって大人や社会に対して復讐したいと思うのは必然ではないでしょうか。
温かく見守ろうとする心持ちのない大人が本当に多いと思います。自分さえよければと金もうけに走る大人のなんと多いことでしょう。軍事産業で働く大人、原発再稼動を目ざす大人、リニア新幹線づくりに狂奔する大人、そして大阪で「万博」をまだやろうとしている大人、カジノでもうけようとしている大人、こんな醜い大人たちばかりを見ていたら、子どもたちが絶望しないほうが不思議でしょ。
なんで、いつまでたっても戦争してるの...?人の命より金もうけが大事だと考えている人たちが政治を動かしているからでしょ。
少年非行は、都市化と経済成長の陰ではびこる毒キノコのような存在。丸8年間の少年部判事のとき、つけられたニックネーム(あだ名)は「ホトン判事」、「サイダー判事」「万事少年」など、いくつもある。
法廷にやってくる少年たちは、「芋が胸につかえたように、もどかしくて」ならなかった。こんなたとえ方が韓国にはあるのですね...。
少年非行には、心の拠(よ)りどころも、落ち着いて休める場所もない場合がほとんど。
保護処分になった非行少年の再犯率は非常に高く、しかも増加傾向にある。保護観察処分を受けた青少年の9割が1年以内に再犯する。
著者は、少年にひざまずかせ、親に向かって、「お母さん、お父さん、ごめんなさい。二度とあんなことはしません」、「お母さん、お父さん、愛しています」と10回ずつ言わせる。この反覆効果は想像以上だそうです。
著者は、子どもたちをファミリーレストランに連れて行って、ごちそうすることもあるようです。
厳しい環境に育った子どもたちが大半なので、両親と手をつないでファミリーレストランに外食に行くという、ごくごく普通の日常さえ経験したことがなかったのだ。いやあ、本当に涙が出てきますよね。それほど厳しい子ども時代を過ごしてきたわけです。親から叩かれ、また無視され、温かいご飯も食べさせてもらえなかった子どもたちに何を要求するのですか...。
ところが、すべては「自己責任」。努力が足りなかったと一刀両断に切り捨ててしまう大人のなんと多いことでしょう。そのくせ、そんな大人こそ、権威にへつらって、強い者にはペコペコ首をすり切れるほど上下させているのです。すべてはお金と自己保身のために...。
韓国でも、少年犯罪は2009年以降は減少傾向にあります。犯罪全体における犯罪少年の割合は、2009年に5.8%だったのか、2016年には3.6%に減少した。釜山家庭法院でも、2013年と2017年の少年保護事件数を比較すると、40%ほどに減っている。
この本を読んで初めて知ったのですが、フランスにはスイユ(Seuil)という非行少年のための歩き旅プログラムがあるとのこと。私は長くフランス語を勉強していますから、すぐに辞書を引きました。Seuilとは、戸口、入り口、始まりという意味です。
フランスでは、非行少年が成人のメンターと2人で3ヶ月間、1600キロメートルを歩く旅を完遂するというものがあるそうです。完遂すると、判事や職員などの関係者が盛大なパーティーを開いて祝う。この歩き旅を終えた青少年の再犯率は15%。一般の再犯率85%を大きく下回った。いやあ、これにはびっくりたまげました。こんな3ヶ月間もの長い旅を受け入れる社会はすごいですよ。日本でも、ぜひ考えてほしいですよね。
そこで、著者は早速とりいれたのです。ただし、3ヶ月ではなく、8泊9日間です。済州島のオルレキルを2人で歩くのです。これまで31人の子どもが歩いたそうです。すごいですね。ぜひぜひ、日本でもやってほしいです。
少年非行は日本でも明らかに減少しています。かつての暴走族なんて、まるで絶滅危惧種ですよね。青少年の活力が欠如してしまったのではないかとさえ心配されているのが現状です。
どうして非行少年を厳罰に処分したらいいなんて考えがでてくるのか、私には不思議でなりません。生活保護受給者がパチンコ店に行ってはいけないなんていうのと同じ偏見です。
真面目に考え、行動している人は韓国にも、日本と同じようにいることを知って、少しばかり安心もしました。あなたに一読を強くおすすめします。
(2024年2月刊。2300円+税)
2024年10月11日
学校では教えてくれない生活保護
社会
(霧山昴)
著者 雨宮 処凛 、 出版 河出書房新社
名古屋で開かれた日弁連の人権擁護大会のシンポジウムに参加したときに購入した本です。著者が目の前でサインしてくれました。
「生活保護を受けるくらいなら、死んだほうがまし」
「生活保護を受けるなんて、人間終わり」
こんな声を私もよく聞きます。最後のセーフティーネットなのに、それを利用したがらない人のなんと多いことでしょう...。
借金をかかえて二進も三進もいかなくなっている人には、私もためらいなく自己破産をおすすめしています。そして、働けない状況なら、とりあえず生活保護を申請したらいいとアドバイスします。
生活保護を受けたほうがいいのに受けているのは、2~3割だけ。それくらいの捕捉率。ところが、スウェーデンは8割、フランスは9割。圧倒的に日本は低い、低すぎる。
生活保護の利用者が増えないなかで、増えたのは自殺者。とくに女性に増えた。日本全国で年間の自殺者は2万1千人。1日あたり57人が自ら命を絶っている計算だ。異常に多い。これは本当にひどい状況です。すぐに手をうつべきです。
生活保護受給者を担当するケースワーカーは、都市部では1人が80世帯を担当するのが標準。これが自治体の窓口における悪名高い水際作戦の背景になっている。
現代日本の片隅に、「オニギリ1個。腹一杯食べたい」と日記に書きつけた人がいる。
片山さつき議員など、自民党の国会議員が生活保護受給者を繰返し、バッシングしている。「タダ飯暮らし」を許さないという。その人の置かれた状況を知ろうともせずに...。ひどい。
「いのちのとりで裁判」は、本当に大切な裁判です。国は争うのをやめてほしいです。全国29都道府県で原告1000人以上という大裁判。すでに勝訴判決が相次いでいる。
持ち家があっても生活保護は受給できる。
車も絶対に保有できないわけではない。
ペットと一緒に生活するのも、各種制約はあっても出来る。
生活保護受給者であっても大学に行きたい人は行かせるべきです。だって、そこで貧困の連鎖が止まるようにしたらいいのです。
韓国は、生活保護を基礎生活保障に変えました。そこに学ぶ必要があります。そして、韓国では、単給。この単給化で貧困率が下がっている。2015年の受給世帯は100万世帯。そして2020年には、140万世帯超となった。
日本の生活保護システムは非常に古いまま。日本では、コロナ禍の下で国の特例貸付となった。国が国民に借金させた。これって、ホントに支援なのか...??
ドイツでも生活保護バッシングをする議員はいた。ところが、ドイツ連邦裁判所は現在の規定は無効だとする最高裁判決を出した。ドイツでは、よほどのことが発生したとしても、たとえば1年間は審査しない。
日本にいる外国人は276万人。国保に加入できない外国人は100万人超、働くことを禁じられている仮放免の人は6千人。2021年6月時点で、実習生は19ヶ国・地域から、35万人が来日している。ベトナム人が一番多くて6千人近くいる。
大変勉強になる本でした。
(2024年4月刊。1562円)
2024年10月12日
「カサブランカ」、偶然が生んだ名画
アメリカ
(霧山昴)
著者 瀬川 裕司 、 出版 平凡社
映画「カサブランカ」は、史上屈指の人気作品の一つ。
酒場で、ナチスの将校たちがナチ賛美の歌をうたって気勢をあげるのを、くやしそうに下をうつ向いて指をかんでいた男たちが、誰かがフランスの愛国歌「ラ・マルセイエーズ」を歌うと、その場にいたナチス将校以外の全員が立ち上がって歌い出し、ついにナチス将校を圧倒するという感動的な場面は忘れようがありません。
著者は18歳のときに初めて観たあと、なんと1年間で10回以上も観たとのこと。ええっ、どうしてそんなことが可能だったのでしょうか、それほどロングラン上映されていたのですかね...。
この本は映画「カサブランカ」が出来あがるまでが、これでもかこれでもかと言わんばかりに、きわめて詳細にその経過をたどっています。
まず、脚本です。その原作を誰が書いたのか、そして、それにもとづいた脚本は誰が書いたのか...。原作を書いたのは、バーネットとアリスンという男女。そして脚本は、何人もの手が加わっている。アメリカ映画って、すごい人数が関わってつくられるということを知りました。
まずは、マッケンジーとクライン。そして、エプスティーン兄弟。次いで、ハワード・コッチ。それからケイシー・ロビンスン。これら脚本家全員が、映画が完成して高く評価されたあと、あの高く評価された部分は自分のアイデアだと主張したというのです。それぞれ、すごいプライドです。
そして、1942年5月から撮影開始。ところが、脚本はまだ完成していなかった。それでも、ハンフリー・ボガードとイングリット・バーグマンは初日から撮影に参加した。
この夏、ワーナー映画のスタジオでは、ほかに6本の映画の撮影が進行していた。「カサブランカ」は、そのなかで高額の資金が投入された作品ではなかった。製作費103万ドルだったが、別に264万ドルとか150万ドルというのもあった。
「カサブランカ」が全国公開されたのは1943年。そして翌1944年にアカデミー賞作品賞を受賞した。
リック役のハンフリー・ボガードはギャングや悪徳弁護士など悪役専門の俳優だったそうです。ところが、戦争が始まってからは、ナチを倒すタフな男の役を演じるようになりました。戦後は、ハリウッドの赤狩りに反対する委員会のメンバーとして活動しています。
そして、イルザ役のイングリッド・バーグマンは、「カサブランカ」を代表作とは認めないと高言していたとのこと。ヘミングウェイの「誰がために鐘は鳴る」こそ代表作だとしたのです。
それにしても、この映画に関わった主要メンバーの多くがユダヤ系というのには改めて驚かされます。ハリウッドに多いのは「アカ」と「ユダヤ」だという「非難」はあたっているのですね...。もちろん、こんな「非難」は間違っています。能力ある人は、誰であろうときちんと評価すべきなのです。
よくもまあ、ここまで調べ上げたものだと驚嘆しながら読了しました。
(2024年5月刊。3400円+税)
2024年10月13日
モンゴル帝国
中国
(霧山昴)
著者 楊 海英 、 出版 講談社 現代新書
チンギス・ハーンの創設したモンゴル帝国で、カギを握っていたのは、実は女性だったという視点に貫かれた新書です。最後まで興味深く読み通しました。
モンゴルの女性は、遠征や大ハーンを選出する政治集会やクリルタイや宮廷行事に参加していただけでなく、多くの場合、むしろ主催者だった。遊牧社会の経済を牛耳り、日常的に運営していたのは女性。男性は戦士であり、家庭の日常的な経済運営には関わらない。経済と子育て、一家の独立自強を支えているのは女性。
モンゴルの男たちは、みなマザコン。モンゴルなど、ユーラシアの遊牧民は娘を溺愛する。
チンギス・ハーン家と有力な貴族家との婚姻関係は双方向だった。モンゴル帝国が成立したあと、チンギス・ハーン家の娘たちは、草原の慣習法を背負いながらイスラム世界に嫁ぎ、かの地で子どもを育て、政治と軍事活動に加わった。
女性は、独自の天幕(ゲル)式宮殿おルド(宮帳)を持っていた。オルドには、多くの家臣と将軍が陣取り、複数の千戸軍団を指揮し、応範囲にわたって経済活動を展開した。猟は男性の遊びであり、軍事訓練でもある。
モンゴルの男性は、7歳くらいから猟に加わる。天幕の前で馬糞を燃やして人間の匂いを消し、馬の腹帯をしっかりと締めてから出発する。
族外婚の制度を実施する遊牧民は、なるべく遠くから嫁をもらう習慣を古代から現代に至るまで維持する。無理矢理の略奪婚でも、数日後には同じように正式の手続きを進めていかなければいけない。今日でも、結婚式は、略奪婚時代のしきたりに従って挙げられる。略奪婚は儀式と化して残っている。
チンギス・ハーンの本名であるテムージンとは、「鉄のように強い男」という意味。
モンゴルの女性は、ウバジャルタイという野生の果物の汁を顔に塗って、赤く見せていた。
遊牧民の世界では、部下の功績に対して公平に賞与を与え、戦利品を平等に分配することがなによりも重要なこと。
遊牧民の天幕は太陽の方向に門が開くように設営される。家の主人は天幕の北側に南面してすわる。主人の右側は男性のエリアで、左は女性の世界。主人の左に陣取る夫人たちも南に向かってすわる。侍女たちは北に向かって食事を用意したりして働く。
現代に至るまで、モンゴルの男性は、旅するときに自分専用の椀と食事用のナイフ類を持参する。
ユーラシアの遊牧民社会において、人間は父方から骨を、母方から肉を受け継ぐとされている。貴族は「白い骨」、庶民は「黒い骨」だと分類される。
チンギス・ハーンの遺体は故郷にもち帰られ、オノン河の西にそびえ立つブルハン山の頂上、万年雪をいただく峰々のなかに埋葬された。ええっ、大草原の地下深くに埋められ、地上部分は見事に整地されて誰にも分からないようにされたと聞いていましたが...。
高麗の出身者は、モンゴル人の大元ウルスの宮廷において多数派を占めるようにまでなった。ユーラシアの遊牧民社会のオルド(宮帳)に宦官はいなかった。そして、高麗出身の宦官と宮女が主力となった。
著者はモンゴル人として生まれ、日本に帰化しています。中国人(漢人)がモンゴル人を大量に虐殺した過程をたどった本の著者でもあります。
(2024年7月刊。1300円+税)
2024年10月14日
インドの台所
インド
(霧山昴)
著者 小林 直樹 、 出版 作品社
インド各地の民家に入れてもらって、その台所を視察し、ついでに家庭料理をふるまってもらうという迫力あふれた体験記です。
ちょっと私には真似できません。それが出来るのは、ともかく30年来、インドに通いつめているからでしょう。インド各地のコトバもかなり出来るようです。でなければ、台所に入っても会話が成り立ちませんよね。
多くのパンジャーブ人は、今でも薪火でつくった料理をありがたがる傾向が強い。インド人一般が加工食品へ不信感をもっている。コルカタという大都会にある高級住宅街でも、ガスの調理より薪火のほうが健康的だし、素材にガスの臭いが移らないから料理も美味しく仕上がるから...。
スロークッキングされた料理は、単に味が良くなるだけでなく、健康に良いと信じているインド人は少なくない。逆に、ガスで手早く調理した食べ物は身体に良くないと発想する。同じ理由で、冷蔵庫も多用しない。肉や野菜などの生鮮食品は常温のものをなるべく冷蔵保存せずに使い切ろうとする。「冷たいものは身体に良くない」という考えから、瓶ビールも常温で売られていた。
レストランの厨房で働いているのは全員が男性。ところが、男性は、家庭内で調理した経験がないのがほとんど。調理経験ゼロの状態で店に入る。
インド料理の作り手は、その店のレシピがこなせれば、国籍は不問。インド国内の厨房で働いているネパール人は多い。
南インドのケーララではキリスト教徒だけでなく、ヒンドゥー教徒も牛肉をよく食べている。北インドのヒンドゥー教徒に聞かせたら驚くような話だ。ケーララでも、昼ごはんが一日の食事の中心。
保守的なインドでは、自宅内で初対面の客のもてなしにいきなり酒を出すことはあまりない。妻が客にお酌をする習慣もない。インドでは、酒は背徳性の高い存在。
ところが、ネパールは違う。カトマンズでは、どの食堂に入ってもビールが飲める。酒に対する寛容度が違う。
インド料理の本場では、本物のバナナの葉の上に料理を載せて並べる。ところがバナナの葉を模した紙皿が高級的で使われている。というのも、紙皿のほうが日常性を感じさせないから...という。ちょっとよく分かりませんよね。
そして、バナナの葉をテーブルにどう置くのかも決まっている。バナナの葉の先端部分が頭で、葉柄が右の横向きが正しいとされている。ところが、実際には、店によって、テーブルにてんでんバラバラに置かれている。
それにしても、バナナの葉の上に熱々のライスなどが載せられて湯気とともにモワッと顔面に漂ってくる芳香が食欲をくすぐる大切な要素の一つだという説明には驚かされました。そんなこと、考えたこともありませんでした。
行く目的の家がないときには、乗ったタクシーの運転手と話して、その自宅に連れていってもらうこともあるというのです。すごい行動力ですね。圧倒されました。
写真がまた素晴らしい本です。
(2024年8月刊。2700円+税)
2024年10月15日
植物園へようこそ
生物
(霧山昴)
著者 筑波実験植物園 、 出版 岩波科学ライブラリー
わが家の庭にもサボテンがあります。北海道・阿寒湖のマリモのような丸い球型が、もう何十代と育っています。決して一定の大きさ以上は大きくならないのも不思議な気がします。
サボテンは2000種あり、その先祖は3500万年前に熱帯アメリカの林で暮らしていた木。乾きに耐える特殊な光合成を営み、茎には水を貯える細胞が発達していた。
刺(とげ)は、サボテンの武器砂漠でさまよう動物に食べられないように発達した。
最小の表面積で蒸散をおさえながら、最大の体積で水を貯えることができる形は球。
その臭いで有名なショクダイオオコンニャク。この花粉を運んで、受粉するのは、腐った肉を食べる甲虫。シデムシの仲間。花を腐肉と勘違いしたシデムシを集め、受粉してもらうための臭い。
満開となる深夜に突然、すさまじい腐敗臭を放つ。これは夜行性のシデムシの行動に適応した進化の結果。臭いがしているときは38度になる。発熱している。次に花が咲くまで何年もかかる。
ラン科は、キク科と並んで、植物でもっとも種数の多い科。これまで2万8千もの種が記録されていて、今なお毎年500もの新種が発見されている。うひゃあ、すごーい、です。
それは、ランの花粉を運んでくれる動物の種類が大胆に変わったことによる。確実に受粉できるよう、パートナーとする動物が近づきたくなる花の色、形、においがさまざまに進化していった。
いったい、これは誰が、どうやって変えていったというのでしょうか...。神様がしたというのは一つの考えだと私も思うのですが、ではなぜ、神様はそんなに世の中を複雑にする必要があった(ある)というのでしょうか...。神様ではなかったというのなら、誰が、どうやってデザインを考え、工夫し、さまざまに変えていったのですか...。まったく不可思議の世界ですよね。
前にもその名前を聞いたことがありますが、「奇想天外」という和名(本名はウェルウィッティア・ミラビリス)をもつ植物がいます。
アフリカのナミブ砂漠を原産とし、1000年以上も生きるという植物です。まったく信じられないほどの長命です。屋久杉に匹敵しますよね。
ランは、非常に小型の種子をつくるという特徴がある。種子が小型で軽いので、遠くまで飛んでいく。それと引き換え自力では成長できない。そこで、ランは菌類と共生する。共生菌との関係がランの種分化や生態に影響している。
ランの種子には胚乳がなく、菌に感染して、菌から栄養を奪って発生するため、菌の感染なしには発芽できない。ランは、ひとつの果実に数千~数十万個の種子をつくるので、ひとつでも果実がとれて培養できたら大量に増やすことができる。
さあ、植物園にも、動物園だけでなく、行ってみたくなりましたよね。でも、解説してもらわないと、その良さ、面白さが分からないのが、動物園とは違った点でしょうか...。
(2024年7月刊。1500円+税)
2024年10月16日
北朝鮮に出勤します
朝鮮・韓国
(霧山昴)
著者 キム・ミンジュ 、 出版 新泉社
何、このタイトルは...?
北朝鮮に開城(ケソン)工業団地という韓国企業の運営するところがあり、そこに韓国人が常駐していたのです。毎週月曜日の朝、ソウル市内でバスに乗り込み、軍事境界線を越えて北朝鮮へ出勤。平日は北で過ごして週末に韓国に戻る。そんな生活をした著者の体験記です。
この本を読むと、北朝鮮の庶民は厳しい統制下にあっても、同じフツーの人々だということがよく分かります。
たとえば、韓国では美容整形手術が一般的ですが(日本からも大勢それを受けに行って
います)、北朝鮮でも同じのようです。食堂で働く7人の職員のうち3人は二重まぶたの手術を闇(ヤミ)で受けていた。
北朝鮮の人が国に対する自負心、指導者の自慢や尊敬の念を示すのは、必ず他の人がいるとき、一人のときは体制の話なんかせず、子どもや夫など、家族の話ばかりする。
北朝鮮には、「総和」という全人民に課せられた反省会(批判集会)がある。労働態度や職務の失態を自己批判し、あわせて同僚の欠陥を相互批判させられる。
開城工業団地で働く人々は、北朝鮮では、かなり恵まれた富裕層。北朝鮮では自転車を持っていると、韓国で自動車を持っているのと同じレベルで裕福だとみられている。
北朝鮮の人々は、数人だけになると純朴。ところが、人目のある場所では行動が攻撃的になる。北の人が南の人と会うときには暗黙の了解がある。一人では絶対に南の人と同じ空間にいてはならない。
北の職員が南の人である著者と話すときには、必ず2人以上でやってきた。この原則は、工場内のエレベーターでも同じように厳守される。
開城の人は、恩着せがましく渡されるプレゼントは受け取らない。なにげなく、そっと、でも気をつかいながら差し出されると、うれしくもないふりをしながら受け取る。そして、お礼を言うことはない。
本当はうれしく、喜んでいる。でも、他の人がいるところでは、絶対に言えない。お礼が言えないことを、心の内では申し訳なく思っている。
北朝鮮では、常にお互いを監視している。
北の軍人は、南の軍人に比べて背が低く、黒色でやせている。
ところが、北の消防団員は、一般的な北朝鮮男性に比べて体格が良い。
開城の工場で働く女性に美味しいものを与えても、食べるふりだけして、家に持ち帰り、子どもや夫に食べさせる。
北朝鮮では、みかんは貴重品。南の温暖な土地でしかとれないからだ...。
北朝鮮の庶民の生活感覚を実感できる、貴重な体験記になっています。
(2024年9月刊。2200円+税)
2024年10月17日
保守のための原発入門
社会
(霧山昴)
著者 樋口 英明 、 出版 岩波書店
著者は大飯(おおい)原発の運転差止請求裁判を担当した裁判官です。そして、原発の操業はあまりにも危険だとして操業(運転)差止請求を認容しました。
2017年に裁判官を定年退官したあと、弁護士にはならず、脱原発のため全国に出かけて講演活動しています。
原発のとてつもない危険性を知ってしまったので、愛国心から、「やむにやまれぬ大和魂」(吉田松陰)から原発の危険性を訴えているとのこと。心から敬意を表します。
著者は熊本地裁玉名支部の裁判官でしたから、私も面識があります。
著者は、自公政権が「日本を守る」として大軍拡を進めていることにも批判的です。現実を見ていない「お花畑」は、むしろ自称保守政治家のほうだ。彼らは、仮想敵国やテロリストが我が国の原発を攻撃目標とすることはないというテロリストたちに対する強い信頼を持っているようである。
我が国の海岸ぞいに50基余の原発を並べている状況では、開戦と同時に敗戦が確定する。戦争は絶対にしてはならない。
まったくもって同感です。原発をミサイル攻撃から守ることは不可能なのです。原発が一つでもミサイル攻撃されたら、それが日本のどこであろうと、日本列島が全体として壊滅状態になってしまうのは間違いありません。だって、わずか数グラムのデブリを取り出すのに何年もかかっていて、いつ出来るか分からないのです。ましてやミサイル攻撃にあって放射能が飛散しはじめたら、どんなに「特攻隊」を組織しても、近づくことすら出来ません。どんどん拡散するばかりなのです。
自民党の政治家の多くは裏金まみれですが、原発再稼動を唱えてもいます。自分たちの金もうけのためなら、後世の人々にいかなる負担を負わせても構わないという心根しかありません。まさしく、今だけ、金だけ、自分だけです。そんなことを許してはいけません。
原発の基本的な仕組みは18世紀のワットの蒸気機関と同じで、「大きなやかん」。ところが、違うのは、「停電してもメルトダウン」、「断水してもメルトダウン」。
原発の安全三原則は、「止める」「冷やす」「閉じ込める」。
3.11の福一原発は信じられないような数々の奇跡の連続によって東京をふくむ「東日本壊滅」の事態が避けられたというのが真相。このとき、内閣は天皇をはじめとする皇族に京都へ避難するよう内々に打診したほど。
そして今、国も東京電力も楽観的見通しを述べたて、国民が原発事故の深刻さに目を向けないようにマスコミを必死で統制している。
日本は地震が頻発する国です。今年(2024年)に入ってすぐ(1月1日)、能登半島で大地震が発生しました。マグニチュード7.6です。この被災地の珠洲(すず)市に原発を立地する計画があり、住民の反対で幸いにも実現しませんでした。もし原発があったら、福島原発事故以上の大惨事になっていたことでしょう。日本の原発は、いずれも耐震性が明らかに不足しているのです。著者はこのことを実に分かりやすく説明しています。いま読まれるべき本だと私は思いました。
(2024年9月刊。2500円+税)
2024年10月18日
戦友会狂騒曲
日本史(戦後)
(霧山昴)
著者 遠藤 美幸 、 出版 地平社
著者はビルマ戦を研究している学者であり、二児の母親でもある。元兵士の遺族でもないのに、ひょんなことから戦友会の「お世話係」となって月1回の戦友会に顔を出すようになった。2005年のこと。しかし、年月がたって、元兵士たちが次々に亡くなっていき、この戦友会は2007年12月に解散した。そのあと有志が集まるようになったのにも関わる。
現在、もはや元兵士が主導する戦友会は日本には存在しない。当然ですよね。戦後80年になろうとしているのですから、終戦時に20歳の人は100歳なのです。著者が関わった戦友会は「第二師団勇(いさむ)会」。第二師団の通称号は「勇」。第二師団は福島、新潟、宮城三県から編成された部隊。第二師団はガダルカナル、中国雲南省、ビルマ方面の激戦地で戦った。
戦友会は多様な形態があり、明確に定義が出来ないのが特徴。
戦友会は、あくまで任意の民間団体。戦友による会費と寄付が財源。1965年から1969年までが戦友会設立のピークで、その最盛期は短かった。1980年代には3分の1に減少した。
戦友会の「勇会」は1980年代の最盛期には130~150人の参加があったが、2003年にはわずか15人にまで激減した。
この戦友会に、著者たちが接近してきて加入した。「自虐史観」を排し、大東亜戦争は聖戦だった、東南アジアの虐げられた貧しい民衆を解放してやったと主張する集団。日本軍が強制連行してつくった慰安所の存在を否定する。しかし、元兵士たちには自ら慰安所を設立したという体験があるので、話がかみあわない。
ガダルカナル島戦に従事した第二師団は1万人余。そのうち8千人近くが戦死した(戦死率76%)。ビルマ戦線の総兵力は1万8千人で戦死者は1万3千人(戦死率68%)。この戦死率の異常な高さに思わず息を呑みます。これって、戦病傷者を考えたら全滅というレベルですよね。
ビルマ戦線の日本軍総兵力は33万人でうち19万人が戦死した。まさに「地獄のビルマ戦」です。そんな苛酷な戦場体験をもって生還した水足中尉は、もし今、戦争が起きたらどうするか...と自問して答える。
「私は戦争になったら逃げます。戦争に行って最大の卑怯者になりました。戦争は何としても阻止しなければいけません。勝ってもダメです。自衛隊もいけません」
金泉軍曹の口癖は...。
「私は軍隊が大嫌い。二度と戦争してはいけない。最初から相手が憎いわけではないのに殺しあう。相手にも親兄弟がいて、死んだら悲しむでしょう。戦争ほど愚かなことはない。勝っても負けても意味がない。しょせん、国同士の関係だからね」
磯部憲兵軍曹は、即答する。
「戦争に行けと言われたら、私は一目散に山にでも逃げますね。米袋をかついで逃げますよ」
ところが、戦場体験のない人は、その「負い目」から勇ましい言葉を発することがある。
戦友会では階級がモノをいう。元兵士たちは、かつての上官の前では本音を言わない。言えないのだ。
激戦のなか、どのようにして生き残ることが出来たのかと問われ、金泉軍曹はこう答えた。
「自分だけ生き残ろうとずるいことをした人は、みな死んでしまった。他人(ひと)のことを助けて初めて他人に助けてもらえる」
偕行社は自然消滅の危機にあったが、陸上自衛隊OBとつながって、「陸修偕行社」として存続している。
実は私も「偕行社」を利用させてもらったことがあります。亡母の異母姉の夫(中村次喜蔵中将)の軍歴を知りたかったのです。すぐ調べていろいろ親切に教えてもらいました。ありがたかったです。
(2024年7月刊。1800円+税)
2024年10月19日
源氏物語を楽しむための王朝貴族入門
日本史(平安)
(霧山昴)
著者 繁田 信一 、 出版 吉川弘文館
女御(にょうご)と更衣(こうい)とでは、女御のほうが更衣よりも、はっきり格上。
女御は、女性を敬意を込めて呼ぶもの。今の「ご婦人」に近い。更衣は、着換えを意味し、天皇の着替えを手伝う存在。今も「更衣室」というコトバがありますよね。
ところが更衣であっても、天皇の「お手付き」となると、妃(きさき)のような扱いを受ける。
しかし、更衣を母親とする皇子は誰ひとりとして天皇にはなっていない。天皇になったのは、皇后(中宮)か女御かを母親とする皇子だけ。ふむふむ、そうなんですか...。
桐壺(きりつぼ)更衣に対しては全ての妃たちが一丸となって嫌がらせをしかけた。それは更衣の身でありながら、一つの殿舎を専用の寝所として与えられていたから。これは女御のように扱われたことを意味し、後宮の秩序を乱すものだった。なーるほど、ですね。
天皇自身は天皇としての人生を幸福なものとは感じなかった。太上天皇は、一日も早い退位こそ熱望していた。退位したあと上皇となることのなかった天皇は、上皇としての余生のあった天皇に比べて、明らかに短命だった。39歳と45歳と、6年も平均寿命が短い。
王朝時代の天皇は、朝、早起きする。午前5時から7時のあいだに起きた(起こされた)。毎朝、目をさますと、何よりまず風呂に入る。天皇は着衣のまま入浴する。そして自分で身体を洗うこともしない。それは女房の仕事。天皇は、毎朝、日課として伊勢神宮を遥拝する。これは、わが国の日々の安寧を確保するための行為。
天皇は朝9時ころ、給仕係の女房の前で朝食をとる。家族である妃や皇子・皇女と一緒に食卓につくことはない。天皇の朝食は、毎朝、いつも同じものを食べる。当時の日本には、まだ醤油はない。
朝食のあと、天皇は読書した。つまり、漢文の書物を読んだ。
紫式部と同じ時代を生きた皇子は17人を上回っている。その前は30人もいただろう。
更衣を母親とする皇子たちは、かなり大きくなるまで父帝と面会することはなかった。
皇子たちの平均寿命は、41歳ほど。上級貴族の男性の平均寿命は62歳ほど。
天皇の結婚相手として、異母兄妹、異母姉弟も容認された。
皇子たちが短命なのは、近親婚の歴史によってもたらされたもの。ときに精神面に障害を持つ皇子や知的障害を持つ皇子の誕生は、このような近親婚の「遺産」。
皇子は、皇子とあるだけで、給料を朝廷から支給された。そして、本来なら無品(むほん)の皇子には品封(ほんふう)が支給されないはずなのに、200万の品封が支給された。五位の貴族に対して朝廷から支給される給料は米にして400石ほど。
太上天皇とは、天皇を退位したあとの「名前」。「上皇」は、これを短縮したもの。上皇は、皇后や皇太子よりは上で、天皇よりは下位の存在。
皇女たちは、ほとんど結婚していない。王朝時代、皇后の地位は藤原摂関家の女性によって独占された。同時に、天皇の結婚は、藤原摂関家によって管理されていた。
皇女たちは、臣下との婚姻は許されなかった。平安時代には、女帝の即位はない。
王朝時代の中級貴族の男性は、「殿上人(てんじょうびと)」と「地下(じげ)」の人と大きく2つに分かれる。地下たちは、殿上人を敬意と憧憬(しょうけい)を込めて「雲上人(うんじょうびと)」「雲客(うんかく)」とも呼んだ。
四位・五位の中級貴族の人数は1000人ほど。このうち1割は女性。紫式部や清少納言も、自ら王位の位階をもっていたと考えられている。
王朝貴族のことを少しばかり知ることができる本でした。
(2023年11月刊。1700円+税)
2024年10月20日
アウシュヴィッツの小さな厩番
ドイツ
(霧山昴)
著者 ヘンリー・オースター、デクスター・フォード 、 出版 新潮社
ナチス・ドイツ軍の電撃作戦は有名です。ところが、実は、この作戦を支えていたのは汽車でもトラックでもなく、馬だったのです。すると、ドイツは大量の馬を確保する必要があります。そこで、アウシュヴィッツ収容所でも馬を生産・育成していました。その厩番(うまやばん)にユダヤ人の男の子が使役されていたのです。まったく知りませんでした。
ドイツ軍は戦車やトラック、戦闘機に使うガソリンを少しでも多く必要としていた。そのうえ、ロシアの鉄道は広軌なので、ドイツの列車をそのまま乗り入れることはできなかった。そのため、ドイツ軍は、すべての占領地で兵士や武器、食料を運搬する馬車を引く馬を大量に必要としていた。
ドイツ軍は囚人より馬のほうをずっと貴重だと考えていた。なので、馬そして仔馬に何かあったら厩番の生命はないものと考えるほかはない。
メスの馬2頭とオスの種馬の世話をさせられた。著者は馬の餌として与えられたクローバーも食べた。貴重な栄養源だった。クローバーって、生のままでも食べられるんですね...。
たんぽぽも花が咲く前に摘みとったら食べられる。花が咲いたら驚くほど苦くなって、食べられない。
馬の交配にも立ち会い、介助していたとのこと。大変危険な作業だった。オス馬は気が荒く、けったり、かみついたりしてくるので、怪我だらけになった。
馬の尻尾も危険。馬の毛はヤスリのように固く、ざらついている。
囚人が収容所から逃亡すると、ドイツ兵は、その報復として脱走者1人あたり10人を無差別に殺した。著者も危うく銃殺されそうになりました。
薬のないときの銃創の治療法は、傷口に尿をかけるもの。もし、ばい菌が入ったら、鼻水で傷を覆ってしまえばいい。
ドイツが敗戦し、アメリカ軍が収容所に入ってきて、解放した。ブーヘンヴァルト強制収容所にいて解放された2万1000人もの人々を保護して食べさせた。少しずつ、少しずつ、食べていった。一度にたくさん食べてしまうと、身体不調となって死に至る危険性は強かった。だから、収容所に入れられていた人々が、「もっと」「もっと」と求められても、少しずつしかもらえなかった。
当時16歳だった著者は、体重35キロ、身長は13歳の少年並みだった。ナチス・ドイツが大量の馬を必要としていて、その馬を養成していたユダヤ人の少年がいるのは、とても珍しいことだと思います。
(2024年8月刊。2100円+税)
2024年10月21日
植物の謎
生物
(霧山昴)
著者 日本植物生理学会 、 出版 講談社ブルーバックス新書
ショ糖の甘みを100とすると、ブドウ糖は70、果糖は80~150。果糖の甘みに幅があるのは、甘みが温度の影響を受けるから。果糖には2種類(αとβ)があり、β型の果糖は温度が低くなると、α型より3倍も甘く感じられる。ところが、これに対して、ショ糖やブドウ糖の甘さには、温度で変わる性質がない。
マンゴーには果糖が糖の34%を占めているため、低温にすると甘みが増す。パイナップルとバナナには果糖の比率が低いので、低温にしても甘みは増やさない。
イチゴの甘みは、含まれるショ糖の濃度に依存する。イチゴを栽培するとき、温度が高いと、甘みを主体とする美味しさの成分をじっくり蓄積できないまま、大きさだけどんどん成長してしまう。温度が低いと、美味しさの成分が十分に蓄積されるので、甘みの強いイチゴになる。
ダイコンは、すりおろされて初めてイソチオシアネートを発生し、強い辛(から)みを感じる。そして、ダイコンの尻をすりおろしたときのほうが辛みを強く感じる。それは、維管束の密度が高いから。
リンゴやジャガイモを切ってそのままにしておくと、酸化反応が起きて、タンパク質やアミノ酸などと結合し、赤や茶色に変わる。リンゴの切り口を塩水につけると、塩化物イオンがポリフェノール酸化酵素のはたらきを阻害するため。
生き物のからだの形は、必ずしも必然性からそうなっているとは限らず、とくに良くも悪くもないので、とりあえずそんな形をしているという事例が多々あると一般に考えられている。
葉緑体の機能が低下して葉の老化がはじまると、植物は葉を落とすため、葉柄の付け根に「離層」という細胞層をつくる。
植物は「積極的に」老化している。スイカは細胞の数は増えないまま、細胞の一つひとつが大きくなっている。
バナナは「木」ではなく、多年生の「草(草木。そうほん)」。そして、一生に一度だけ果実をつける。果実ができると地上部は枯れるが、地下部は生きている。
ニホンタンポポは、自家不和合性なので、雌しべの柱頭は、別の個体の花粉を受粉することが必要。
「経験によって行動(反応)が永続的に変化する」というのを学習の定義だとすると、植物には学習する能力があると言える。
オジギゾウにも人間と同じように体内時計があり、およそ24時間周期のリズムをもっている。植物の謎をたくさん解明することができました。
(2024年3月20日刊。1100円)
2024年10月22日
二〇三高地
日本史(明治)
(霧山昴)
著者 長南 政義 、 出版 角川新書
日露戦争が始まったのは1904年(明治37年)2月。同年6月から翌年1月まで190日間も続いた旅順をめぐる戦闘で、日本軍はのべ16万人の将兵を投入し、6万人もの死傷者を出した。まことにむごい戦闘です。大勢の日本人青年が機関銃に向かって突撃させられ、死んでいったのでした。私も現地に行って、戦争のむごさを体感しました。
第三軍の司令官であった乃木希典について、長く名将とされてきたが、他方で、突撃を繰り返す人海戦術による大量の戦死者を出したことから愚将とする見方も有力となっている。この本は結論として、愚将説をとっていません。むしろ、この本では陸軍の指導部の認識不足と情報不足をまずもって問題としています。
旅順要塞の構造を強固な野戦築城程度としか認識せず、その攻略を安易に考えていた。つまり、旅順要塞の強度判断に誤りがあった。そして、旅順のロシア軍兵力を1万5千人とみていて、実際にいた4万2千人よりかなり低く見積もっていた。
当時55歳の乃木希典が第三軍の司令官に就任したのは順当で常識的な人事であり、落閥人事とか無理な人事というものではなかった。
著者は、むしろ軍参謀長の伊地知(いぢち)幸介に問題があったとしています。ぜん息もちの伊地知は、前線の巡視、偵察活動をあまりしなかった。伊地知は優柔不断な性格。「決心の遅鈍」な伊地知は、自分の意見をはっきり表明しなかった。
日本軍は当初、砲弾数が少なく、継続した砲撃は不可能だった。それで、将兵の突撃攻撃を命じざるをえなかった。また、砲種も砲弾も強力な効果をあげる能力がなかった。前述したとおり私は二〇三高地の現地に立ったことがあります。さすがに感慨深いものがありました。
日本軍の死傷者の75%が銃創、主として機関銃によって突撃が阻止された。
さすがの日本軍も、「要塞に対しては強襲的な企画はほとんど成功の望みがない」という教訓を得た。そこで、大本営は8月下旬、28サンチ榴弾砲を要塞攻撃に投入することにした。この28サンチ榴弾砲は、砲身だけで11トンもの重量があり、大口径重砲を山上まで運び上げる必要がある。結局、人力で運び上げた。速度は1時間あたり、700~800メートルだった。そして、10月1日から、二十八サンチ榴弾砲を据え付け、試し撃ちをしたところ、予期した以上の命中精度があり、破壊力が高いことが判明した。命中率は55%。
この二十八サンチ榴弾砲は6門から18門に増強された。ただ、この二十八サンチ榴弾砲には不発弾が多いという欠点もあった。
第3回の旅順総攻撃のときは、突撃した歩兵たちは1時間に平均して1キロしか進めなかった。
この日本軍による旅順総攻撃に際して、乃木希典の子ども二人も戦死しています。
日本軍の手投弾は、ロシア軍のそれより著しく劣っていた。
乃木と児玉の関係は...。西南戦争のとき、乃木は軍旗を西郷軍に奪われ、その責任をとるため切腹しようとした。それを児玉が止めた。このことから、二人には深い信頼関係があった。
日本軍とロシア軍は結果として消耗戦を戦った。攻囲下にあって兵力の補充のできないロシア軍は消耗戦で敗れた。こういう見方が出来るのですね...。
第三回総攻撃による日本軍の死傷者は1万7千人。二〇三高地攻略戦で主役をつとめた第七師団の損害は大きく、減耗率は56%に達した。ロシア軍の手榴弾が猛威を振るった。
乃木には戦術的な判断ミスはたしかにあったが、決断力はすぐれていた。
第一回の総攻撃で全軍の3割もの死傷者を出して失敗したあとも、乃木司令官に対して不満の声が上がらなかった。それほどの統率力が乃木にはあった。第一線を絶えず巡視して将兵をねぎらっていた効果だろう。そして、戦死傷者を多く出したこと、自己の失敗に対する旺盛な責任感があった。
乃木は軍司令官として名称と評されて然るべきだというのが著者の結論です。新しい資料も紹介していて興味深い記述が満載でした。
(2024年8月刊。1056円)
2024年10月23日
中村哲という希望
社会
(霧山昴)
著者 佐高 信 ・ 高世 仁 、 出版 旬報社
この本を読んで一番うれしかったのは、中村哲さんが亡くなったあと、アフガニスタン現地につくられた用水路がどうなっているか知ることができたことです。
2022年11月に行ったら、想像以上に現地がうまくいっていた。用水路は毎年少しずつ手入れしたり、補修しなくてはいけないけれど、地元住民が自発的にやっている。自分たちがつくったものだという思いが強いから、きちんと維持しようとしている。しかも、新しい用水路をつくっていた。
そして、ジャララバード市内に中村哲さんの公園「ナカムラ広場」が出来ている。中村哲さんの笑顔のでっかい肖像が設置されていて、夜はライトアップまでされている。偶像崇拝を禁止しているはずなのに...。
道路の検問所でも、「日本人だ」と言うと、銃を持ったタリバン兵がにこっと笑って「ナカムラ!」と大声で叫んで、「行ってよし」と手を振ってくれる。
いやあ、ホント、うれしい反応ですよね。
ヨーロッパ系のNGOの事業はみんな失敗してしまった。上から目線でやってもダメ。
用水路に水を流すのには傾斜をつける必要がある。100メートルで傾斜7センチ。これで25キロメートルの長さのマルワリード用水路ができた。これによって2万3800ヘクタールの緑の沃野(よくや)をつくり出し、そこで65万人の暮らしを支えている。ただし、水が来るようになって地価が100倍になったところも出てきて、トラブルは絶えないという。その状況で中村哲さんを殺害しようとしたグループが出現したのでしょうね...。本当に残念です。
中村哲さんが殺されたのは2019年12月4日ですから、もう5年にもなります。一緒にいたアフガニスタン人5人も亡くなりました。
中村哲さんは国会に参考人として招かれ意見を述べています。自衛隊を現地に派遣するのは有害無益だと断言しました。それで自民党議員が散々ヤジを飛ばしたうえ、取り消しを求めました。もちろん、中村哲さんは撤回していません。
日本の自衛隊は外国からみた立派な軍隊。そんな軍隊に来てもらったら自分たちは困ると訴えたのです。
自衛隊派遣によって、治安はかえって悪化するとも言いました。人殺しをしてはいけない。人殺し部隊を送ってはいけないと国会で断言したのです。たいしたものです。
中村哲さんは、こんな文章も書いています。
アメリカ軍は、人々の人権を守るためにといって空爆で人を殺す。そして、「世界平和のため」に戦争をするという。いったい、何を、何から守るのか...。本当に、そのとおりです。
いま、日本政府、石破首相がやろうとしているのも同じことです。アメリカの求めに応じて、日本は武器も兵士も戦場に送りだそうとしています。そんなものが平和に役立つはずもありません。必要なことは、軍事力に軍事力で対抗するのではなく、中村哲さんのような、地道に汗を流すことです。決して武器をとることではありません。
(2024年7月刊。1600円+税)
2024年10月24日
朝鮮民衆の社会史
朝鮮・韓国
(霧山昴)
著者 趙 景達 、 出版 岩波新書
隣の国であり、顔つきもそっくりなので、道を歩いている人が韓国(朝鮮)人かどうか、一見して分かりません。
ところが、生活習慣などはかなりの違いがあります。この本を読んで、ますます違いの大きさ、深さを知ることができました。
朝鮮王朝が建国したのは1392年。太祖は李成桂。朝鮮は朱子学革命によって建国された国家だった。
朝鮮は貴族制を廃そうとはしたが、身分制を廃することはなかった。
朝鮮の身分は四区分。両班(ヤンバン)、中人、良人(常人、常民、良民)、賤人(賤民)。儒教的民本主義は五つ。第一は一君万民。第二は、公論直訴、第三は観農教化、第四は賑怵(しんじゅつ)扶助、第五は平均分配。
王権は門閥政治、臣権の強大性に脅かされ、士禍や党争などの熾烈(しれつ)な抗争が長きにわたって中央政治を歪めた。そして、地方政治では情実が支配した。
儒教国家というのは、法律があっても、その運用は情理によるのを良しとした。
朝鮮では土地売買が原則として自由であり、民衆の移動率はきわめて高かった。戸籍によると、3年の間に20~30%が移動している。
いやあ、これはまったく知りませんでした。日本と同じように、民衆は生まれた土地にしばりつけられているとばかり思っていました。
戸籍は、職役を把握するためのものなので、賄賂をつかって戸籍に登録せず、良役を逃れる人が少なくなかった。
朝鮮では、人々は簡単に移住していたようです。そうなると、土地にしばりつけられてきた日本とは決定的に違いますよね。近世日本の村は、「閉ざされた村社会」でしたが、朝鮮はまったく異なるようです。
朝鮮全体が巨大な相互扶助社会だった。人々は、村民同士でひんぱんに行きかって食を分けあったが、よそ者に対しても同様だった。だから、人々は、見も知らぬ人々の善意と扶助をあてにして住みなれた村を出ていくことができた。いやあ、これは日本ではまったく考えられない状況です。
朝鮮人は大食。多く食べるのは名誉なこととされた。
朝鮮は、現実には、儒教一色の社会ではなかった。民衆世界は儒教的統治原理を受け入れ、朱子学をヘゲモニー教学として認めた。必ずしも儒教が優位していたわけではない。
朝鮮仏教の特徴は、護国信仰的な性格をもつだけでなく、あらゆる教学を一つにした総合仏教的な性格をあわせもち、道教や巫俗とも習合した点にある。
朝鮮の芸能民は、一般に広大とか才人と総称される。
白丁は、もとは、特定の職役をもたず、土地の支給も受けない職人身分の人々を言った。白丁は、一般民との通婚ができなかったので、仲間内で婚姻するしかなかった。
褓負商(ポプサン)とは行商人のこと。賤民ではないが、賤民視されていた。
朝鮮社会にあっては、妻や娘は、男性にとって一種の所有物であった。女性は名前さえ満足につけられなかった。朝鮮時代、女性の地位は、時代が下がっていくにつれて低くなっていった。
離婚するのは、実質的にはなかなか難しいものがあった。野良仕事について、女性はもっぱら畑作で、稲作は基本的に男性の仕事。
男子15歳、女子14歳という早婚は悲劇をもたらした。朝鮮の女性殺人犯の63%は夫殺しだった。女性の再婚は、両班社会では許されなかった。
甲午改革のなかで、断髪令は最大の失政だった。断髪令に反発したのは士族も平民も同じだった。
1900年3月ころから活貧党が活動した。三大盗賊の洪吉同をモチーフとした小説に出てくる義賊集団にならったもの。富者の墓を掘り返して遺体を奪って脅迫した。身代金ならぬ骨代金を要求するというわけで、日本では考えられません。死骸に宗教的な価値を置く儒教国家ならではの犯罪。
民衆にとって、火賊は恐怖しつつも、親愛を覚える対象だった。
朝鮮は、はい上がり型志向と分かちあい型志向という相反する論理が混淆(こんこう)した社会であった。
朝鮮社会が昔から矛盾にみちみちた社会であることを、今さらながら認識させられました。大変、知的刺激にみちた本です。あなたにも、ご一読を強くおすすめします。
(2024年8月刊。1120円+税)
2024年10月25日
檻を壊すライオン(改訂版)
社会
(霧山昴)
著者 楾 大樹 、 出版 かもがわ出版
「おりライ」とも呼ばれている「檻(おり)の中のライオン」講演会は全部の都道府県で累計1000回をこえて開催しているそうです。すさまじいばかりの著者のエネルギーには圧倒されます。
久留米でも近く(11月24日の午後2時から、筑後弁護士会館にて)2回目の講演会が予定されています。
国家権力をライオン、憲法を檻にたとえた憲法解説書「檻の中のライオン、憲法がわかる46のおはなし」が刊行されたのは2016年のこと。それから8年たち、その続編になります。
この改訂版は岸田政権が退場し、石破政権に交代した瞬間に刊行されました。見事な早技(はやわざ)です。
選挙で深く考えることもなく自民党に投票する人が少なくありません。裏金議員を公認してはばからない(公認しない候補者に2千万円も政党助成金、つまり税金を支出したことがバクロされました。ひどいものです)のが自民党ですが、天賦人権説も攻撃しています。人権なんて、国が与えたもので、もともと個人が持っているなんて、間違った考えだというのです。国民は国の言うとおりに従っていればよい、生きるも死ぬも国が決めたことに文句を言わずに従え。それが自民党の考え。どうして、こんな考えに共鳴する人がいるのか、私には不思議でなりません。
そして、自民党は、国民に知る権利なんてないとも言うのです。昔の知らしむべからず、由らしむべしを今も貫いているのが自民党です。あまりにも古臭くて、カビがはえすぎているのが自民党です。
「アベノマスク」のムダづかいはひどいものでした。少なくとも543億円もの税金がムダにつかわれました。安倍の息のかかった企業や公明党関連の企業が丸もうけしたと小さく報道されました。上脇博之教授が裁判を起こしたら、国側はこのアベノマスクはすべて口頭契約で実行されたもので、書面はないと開き直って、裁判官を唖然とさせたと報じられました。許せません。
自民党は憲法改正が必要な理由として、大災害のとき国会議員の選挙ができないときは国会議員の任期を延長できるようにしないと、法執行の行政がやれずに国民が困るというのを理由としています。だけど、正月の福井大地震では、今なお復旧工事が十分ではありません。そして、国会で十分に救済策が審議されないうちに投票日を迎えることになりました。
「大災害が起きたときに困るから」という口実の化けの皮がはがれたのです。大災害がおきたのに、国会で十分な審議もせず、国会を解散してしまうなんて、とんでもないことです。
石破政権は「日本を守る」と称して、大軍拡予算を執行中です。5年間で43兆円。その財源は明らかにされていません。財政法4条で、防衛費のための国債は、発行できないとしています。ところが、「建設国債」でまかなうことにしました。これまた、とんでもないことです。戦前の「帝国ニッポン」に逆戻りしてしまったのです。
石破内閣が誕生したことで、何が問題なのかを改めて総おさらいした感のある本書は、なんと318頁もの分厚いものになっています。でもでも、本当に分かりやすいうえに、読みごたえがあります。さすがは、「憲法講師、分筆業」を自称する著者だけのことはあります。ご一読を強くおすすめします。
(2024年10月刊。1800円+税)
2024年10月26日
海賊の日常生活
ヨーロッパ
(霧山昴)
著者 スティーブン・ターンブル 、 出版 原書房
海賊とは何者なのか...。世間で「海賊」と呼ばれる者たちは、決して自分を海賊だとは言わない。バッカニアは、自分を海賊だとは思っていなかった。自分のために財宝を盗んでいるわけではないから。政府のために働き、襲撃する正式な許可、私掠(しりゃく)免許状をもっていた。
1243年、イギリスのヘンリー3世は、イギリス海峡でフランス船を襲撃する許可状を与えた。その見返りとしては、王に略奪品の半分を差し出せばよかった。
イギリスではドレークは偉大な英雄だが、スペインでは悪党だった。
海賊になる人は、みな、なりたくてなるのではない。多くの人々は、絶望の果てに海賊になる。船乗り稼業しか知らない男たちは、海賊団に入るより他に道はなかった。
海賊は強制徴募という手段は使わない。説得して海賊団に加わらせる。
多くの海賊の末路は、公開の絞首刑に処せられるというもの。
海賊船の船長は、乗組員の投票で選出される。それには乗組員から尊敬を得ていること。船長は勇敢さと狡猾さを示し、乗組員の管理や船の舵(かじ)取りの能力をもち、戦い方を知っていなければならない。また、戦利品の記録や乗組員の借金の管理をしなければいけないので、せめて読み書き計算の能力が求められた。
健康なコンゴウインコは、30年も生きる。多くの乗組員はサルを飼って、うまくやっている。
船乗りは、火事にあう危険も多い。
海賊は、風向きには特に注意を払う。そして、船団から遅れた船を狙って襲撃する。
東インド会社の船を攻撃するのは、きわめて愚かなこと。十分に武装しているし、海賊には慣れているし、護衛艦もいる。
節操ある海賊は攻撃する前に、海賊の旗を掲げる。
海賊なるものの実情を知ることができました。
(2024年6月刊。2500円+税)
2024年10月27日
もし私が人生をやり直せたら
韓国
(霧山昴)
著者 キム・ヘナム 、 出版 ダイヤモンド社
医師の著者は42歳のとき、いきなりパーキンソン病と診断されました。
どうせ生きるのなら、楽しく生きていくほうがいい。以来、この気持ちで生きてきました。
パーキンソン病は、ドーパミンという神経伝達物質をつくり出す脳組織の損傷による神経変性疾患。振戦(手足の震え)、筋肉や関節のこわばり、寡動(動きの鈍さ)、や発声困難などの症状がみられ、65歳以上に多い。
ドーパミンが減少するパーキンソン病は、進行すると、うつ病や認知症、被害者妄想などを伴う。パーキンソン病には、今のところ根本的な治療法がない。
パーキンソン病の症状では、「ロープできつく縛られたまま動いてみろと言われているようなもの」。
著者の脳は、ドーパミン分泌細胞の8割が消えている。しかし、まだ2割も残っていると著者は考え直したのです。努力次第では、病気の進行を遅らせることができるはずだと信じて...。そして、薬も服用して12年も持ちこたえ、その間に5冊の本を執筆・刊行したというのです。すごいです。
完璧に執着したら、不安が増し、人生が疲弊していく。明日、何が起こるかも分からない。なので、すべてを予測して、未然に防ごうとするのは不可能なこと。
遠くの目的地だけ見て歩くのではなく、今いるこの場所で、足元を見つめながら、まず一歩、踏み出してみる。これが始まりであり、すべてだ。
人間は、自分の人生の主導権を握りたい生き物だ。なので、他人から命令されると、やる気が損なわれる。
その気になれば、いくらでも作り出せるのが、「生きる楽しみ」。
近ごろでは、田舎町から名門大学や司法試験の合格者が出ることは、まずない。合格のための必須条件は、祖父の経済力と父親の放任主義、そして母親の情報収集力。この点、都市部の人間には、とても太刀打ちできない。
著者は神経分析医。患者を診ていると、過去をやり直したいという気持ちにとらわれ、今を生きられないことが分かる。まるで巨大な宇宙服を着ているかのよう。宇宙服の中は過去のつらい記憶でいっぱい。それでも宇宙服を脱ぎ捨てようと思わず、ただ不安と恐れに震えながら過去に縛りつけられている。
人生がどう流れるかは、自分自身をどう見るかという視点次第。自分を肯定的に見たら、人生もそう流れる。自分を落伍者だと見れば、そのように流れる。
寂しい現代人にとって、スマホとは、自分と世界をつないでくれる生命線。スマホは、自分が一人ではないという事実を瞬時に確認できる、重要な装置。
自分ひとりだけの経験や感覚は、記憶のなかで色あせやすい。誰かと共有した記憶は、思い出となり、歴史となる。
怒りや憤りは、自分を守るための感情。しかし、度が過ぎたら、過去の記憶や感情が何度もぶり返し、前に進めなくなってしまう。青少年期の友人は、自分を映し出す、大きなスクリーンの役割を果たす。
何かひとつに没頭できれば、他のことにも没頭することができる。
今、私が没頭しているのは、近現代の歴史を調べ、そのなかで人々がどのように生きていったのかを跡づけようというものです。これは難問です。なので、少しずつ図書館通いなどをしながら、一歩ずつ歩んでいく覚悟です。
さすが、精神分析の専門医だけはあり、とても深い考察がなされています。韓国で35万部も売れたというのもは、なるほどと納得できました。
(2024年6月刊。1500円+税)
2024年10月28日
「よく見る人」と「よく聴く人」
人間
(霧山昴)
著者 広瀬 浩二郎 ・ 相良 啓子 、 出版 岩波ジュニア新書
著者の二人は、全盲の視覚障害者(男性)と聴力障害者(女性)です。
伝音声難聴は補聴器で音を大きくできるが、もう一つの感音性難聴だと補聴器をつけてもことばは理解できず、役に立たない。私も難聴に困っています。
「一目ぼれ」はありえないが、「一耳ぼれ」は頻繁にある。しゃべり方や声の質に魅かれる。目による読書は客観的に外から、耳による読書は主観的に内から作品世界に触れる。
中学1年生の終わりに完全に失明した。原因は眼底出血。
パソコンの音声読み上げ機能を使って原稿を書く。点字で書いて音声で確かめる。点字は表音文字。点字の根底には、豊かな音の世界が広がっている。
全盲で京都大学文学部に入学した(1987年)。京大で初めての全盲の学生。そして京大居合道部に入る。視覚障害者なので、視覚情報に惑わされず、より深く自己の心と対話し、仮想敵に立ち向かうことができる。目に見えない敵を媒介として、己の精神を錬磨する。大切なのは闘魂。
その後も武道のいろいろに挑戦した。太極拳、テコンドー、ヨガ、合気道そして今は少林寺拳法。いやはや、すごいものですね...。
武道の稽古においてもっとも重視するのは音。道場に入ると、音の反響で自分の位置、壁までの距離を推測する。音の響きは道場の広さ、人数、天気などによって異なるので、気を四方八方に配って気配を感じとる。この心地よい緊張感が耳から全身に広がる。
手話言語にも方言がある。手話も音声言語と同じく各地で自然発生的に表出される言語なので、世界共通どころか、国内共通でもない。うひゃあ、そ、そうだったんですか...、知りませんでした。
全盲でもテレビを「みる」。画面は見ずに(見えないから)、音声や雰囲気でイメージを広げて「全身でみている」。
難聴者は「字幕メガネ」をかけて映画を楽しめる。動画で手話している様子を送る。これで、リアルタイプに使えるようになった。
世間では、障害者を十把一絡(から)げでとらえている。しかし、それは皮相的。
「障害」を出発点として、共感力、コミュニケーション力を考えた新書です。大変興味深く読み通しました。
(2023年9月刊。940円+税)
2024年10月29日
チャップリンが見たファシズム
日本史(戦前)
(霧山昴)
著者 大野 裕之 、 出版 中央公論新社
著者は日本チャップリン協会の会長です。これまでチャップリンに関する本を何冊も書いています。チャップリン家が所蔵する膨大な第一次資料を丹念に掘り起こしてチャップリンの足跡そして、その偉大な作品の形成過程を明らかにしています。
今回は、サイレント映画の最大傑作『街の灯』を公開したあと、気分を一新するために世界一周旅行に出かけたチャップリンの旅先での出来事が実に詳細に描かれています。
旅行に出かけたとき、チャップリンはまだ41歳です。独身男性でもありましたから、旅行の行先では何人もの女性と親密な関係にもなっています。
日本にもやってきて、1932(昭和7)年の五・一五事件に危く巻き込まれるところでした。幸い、チャップリンの気まぐれもあって、5月15日は首相官邸には行かず、大相撲を見物して、難を逃れました。危機一発でした。事件のあと、殺された犬養首相の息子に弔問もしています。
チャップリンは歌舞伎なども鑑賞していますし、銀座で天ぷらを食べています。なんと、エビの天ぷらを30匹、キスを4匹も平らげたとのこと。すごい食欲です。若かったのですね。
小菅(こすげ)の刑務所も訪問しています。雑居房、独居房そして工場、炊事場、病舎など見学したそうで、日本の刑務所の明るさ、清潔さに感銘を受けたとのこと。治安維持法違反で逮捕された被疑者・被告人もたくさんいたと思いますが...。
チャップリンは三越百貨店で「キモノ・スーツ」をつくって、着たようです。そして、「どじょうすくい」を踊ってみせたとか。日本の芸人が踊ったのを見て、それをすぐに再現できるというのは、やはり天才ですね。
チャップリンの秘書として世界一周旅行に同行したのは広島生まれの高野虎市。チャップリンに誠実に尽くして大変気に入られ、一時期チャップリン邸に働く使用人17人全員が日本人だったとのこと。すばらしいことです。
1932年5月14日夜、東京駅にチャップリンが到着したとき、そこに詰めかけた日本人は、なんと8万人...。いやはや、ものすごい大群衆です。この日の入場券は8000枚も売れたというのですから、信じられない熱狂ぶりです。
地下道に降りて、改札に向かう階段でチャップリンは仰向けになって、群衆に持ち上げられ、宙を泳ぎながら移動した。ハンカチ、ベルト、ボタンはすべてむしり取られた。自動車までわずか30メートルを10分かけて到着。いやあ、すさまじい...。これも歓迎のうちなんですよね。
日本ではありませんが、ボタンやベルトが盗られてチャップリンのズボンがずり下がってしまったところもあるそうです。
ロサンゼルスで「街の灯」を上映するときには、2万5千人が詰めかけたそうです。これまた大変な熱狂ぶりです。アインシュタインがチャップリンの隣でみていて、「ああ、素敵だ!美しい!」と感嘆したことも紹介されています。
チャップリンという天才の素顔を少しばかり垣間見ることも出来て、休日の午前中、喫茶店でカフェラテを味わいながら心豊かなひとときを大いに楽しむことができました。
(2024年7月刊。2200円+税)
2024年10月30日
リーゼ・マイトナー
ヨーロッパ
(霧山昴)
著者 マリッサ・モス 、 出版 岩波書店
NHKの朝ドラ、「虎と翼」の主人公の女性は、戦前の日本で苦労して大学に入り、司法試験を受け、ついに弁護士、裁判官になることができました。ヨーロッパでも似たような状況があったことが分かる本です。
この本の主人公のマイトナーは、ウィーン大学を受験し、1901年に入学しました。14人の女性が受験して4人が合格し、マイトナーは物理学を学んだのです。ところが、教授も学生も、ほとんどが白い眼でみるのです。それでも、マイトナーはウィーン大学で物理学の博士号を取得しました。
やがて共同研究者となるハーンと出会い、ともに放射能の研究をすすめます。
アルベルト・アインシュタインはマイトナーと同じ年齢。31歳で、すでに有名でした。
さらに1922年、マイトナーはベルリン大学の教授になりました。ドイツで初めての女性の物理学教授です。
ところが、1933年にヒトラーが政権を握ると、ユダヤ人迫害が始まります。マイトナーはユダヤ人です。ところが、心配はしたものの、すぐにドイツを脱出しようとは考えませんでした。それより研究室を失って、ゼロから再出発するほうを恐れたのでした。考えが甘かったのです。
マイトナーはオーストリア人でしたが、1938年3月、ヒトラー・ドイツがオーストリアを併合。マイトナーのパスポート(オーストリア国籍)は無効になりました。いよいよマイトナーは追いつめられます。大学での仕事はできず、出国も出来ません。さあ、どうする...。マイトナーを密出国させようという取り組みが始まりました。
マイトナーの研究所の同僚にはナチのスパイもいて、マイトナーの動きを監視しています。変な動きがあれば、すぐに警察に密告・通報するのです。
列車での逃亡のときは、マイトナーが女性であったことが幸いしたのでした。検問にひっかかることなく、危機一髪で脱出できました。
そして、ついに原子が分裂すること、そのとき信じられないほどの強力なエネルギー源になることを発見したのです。そうなので、マイトナーこそ、核分裂を発見した女性科学者でした。
でも、これは人類にとって悪夢の始まりでもありました。原水爆が開発される道を開いたというわけですから...。
1945年8月6日、広島に原爆が投下された。このニュースをスウェーデンで聞いたマイトナーは泣きだした。マイトナーの「美しい発見」が原爆をもたらした。
マイトナーは「原爆の母」と呼ばれるようになった。
マイトナーの共同研究者だったハーンは1946年12月、ノーベル賞を受賞したが、このときハーンはスピーチのなかでマイトナーについてまったく言及しなかった。ただし、賞金からかなりの金額をマイトナーに渡した。せめてお金を分けようとした。
マイトナーは、受けとったお金をユダヤ人と亡命科学者の定住支援のために寄付した。
いま、マイトナーの名前は、原子番号109の元素マイトネリウムとして残っています。これは永遠・不滅です。初めて知る話でした。ヒトラー・ナチスのユダヤ人絶滅策は人類の貴重な英知をたくさん失ったのだろうとも思い至りました。
(2024年3月刊。2200円+税)
2024年10月31日
「帰れ」ではなく「ともに」
社会
(霧山昴)
著者 師岡 康子 ・ 崔 江以子 ・ 神原元 ほか 、 出版 大月書店
川崎市は、人口155万人の大都市です。京浜工業地帯の工場群のすぐ近くに「桜本(さくらもと)」があります。東日本有数の在日コリアン集住地区になっています。
大学に入ってすぐ、高校の先輩に誘われて私は川崎セツルメントというサークルに入りました。そして、セツルメントなるものが何なのか、何をするのかまったく知らない状況で、現地に出向きました。そこが桜本だったのです。
桜本で川崎セツルは子ども会活動を展開していました。そして、そこに学生が下宿していたのです。いかにも安そうな古びた木造アパートの2階に先輩セツラーの部屋があり、学生が5人ほど膝を詰めて話を聞きました。なにしろセツルメントに入ったばかりで、桜本という下町そのものの町並みも珍しくて、今もって忘れようがありません。
今、桜本の子どもたちが通う市立さくら小学校では、毎年1回、キムチ漬けの体験教室が開かれる。6年生になると参加できる。お楽しみの授業。6年生70人分の白菜を3日前から塩漬けにして、キムチを生徒たちがハルモニたちと一緒につくっていく。
近くに、1988年に開設された川崎市立の「川崎ふれあい館」がある。崔さんは「ふれあい館」で職員として働いている。
そこにヘイトデモが押しかけてきた。2013年5月のこと。レイシスト(差別者)たちが「日本浄化」などを叫んで襲いかかった。
当初、川崎市はヘイトデモに慎重な姿勢を示し、重い腰を上げることはなかった。そこで国会議員に桜本へ視察に来てもらい、実情を訴え、見てもらった。そして、ついにヘイトスピーチ解消法が成立した。2016年6月のこと。
川崎市長は、「自治体でやれることをして、ヘイトスピーチがおこなわれないようにすると答弁し、実行した。また、法務局はレイシストに対して、ヘイトスピーチ解消法を踏まえ、人格権を侵害する不法行為だと認定して勧告した。
ところが、インターネット上のヘイトスピーチはエスカレートしていった。インターネットなんか見なければいい、気にしすぎだというのは、あまりに現実を知らなさすぎる空論だ。なにより仕方がないとして、やり過ごすのは、差別を放置することになる。
インターネットこそ、ヘイトスピーチの震源地であり、拡声器だ。
そこで、裁判を起こし勝訴したのです。一審は人格権を侵害していることを認め、レイシストに対して91万円を支払えと判決した。さらに二審の東京高裁は賠償額を40万円も積み増しを認めました。すごいです。拍手します。
ヘイトスピーチとは、差別的言動のこと、言動による差別。悪質・異質な人々と決めつけ、人間の尊厳を攻撃している。ところが、ヘイトスピーチがネット上で展開すると、たちまち236万件もの閲覧数となる。いやですよね...。
ヘイトスピーチには、「排除類型」「害悪告知類型」「侮辱類型」の4つに分類されている。
ヘイトスピーチそのものが違法である。在日朝鮮人・韓国人に対しての「帰れ」発言は、理不尽だ。彼らの大半は望んで日本にやって来たわけではない。
在日朝鮮人の多くは、現在、特別永住者の在留資格をもつ。「帰れ」発言は、「日本に住まわせてあげている」という意識に裏づけられている。しかし、自分たちの力でなんとか生活してきた在日朝鮮人の歴史を踏まえると、それは「倒錯的な主人意識」というよりほかにない。
誤った右翼へのヘイトスピーチを真実だと思い込んで行動している日本人の若者が少なくないのが、本当に残念です。でも、ヘイトスピーチを許さない社会づくりは着実に前進しています。本書は、その歩みを具体的に紹介し、読み手を励ましてくれます。
(2024年10月刊。1800円+税)