弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2024年9月29日

武田信玄のすべて

日本史(戦国)


(霧山昴)
著者 磯貝 正義 、 出版 新人物往来社

 武田信玄は、数え年21歳のとき、臣下とともに父信虎を今川義元のもとに追放した。今川義元は、このとき23歳。そして、北条氏康は27歳。
 信虎の追放は、親今川派に対する親北条派のクーデターとする説がある。
今川義元は、信玄や氏康に比べて武将としての素質に劣るものがあった。その子の氏真は、戦国大名としての資質をまったく欠いていた。
 信玄の臣下への所領の宛行(あてがい)は、本領・本給・重恩・神恩の4つの段階があった。
 信玄は地頭の領主化を防ぎ、地頭をいわゆる寄親とする同心衆の普遍化をはかった。
信玄は、心機一転するかのように出家得度し、強力な宗教政策をもって部下の結合を促し、内部矛盾の暴発を防いだ。
信玄の領国支配の具体的統治内容は「甲州法度(はっと)之次第」という99ヶ条の家法に明文化されている。これには権力構造の頂点にいる信玄自身の刑事責任の規定を設けているという特色がある。99条の下巻は、内容が法秩序ではなく、社会秩序を狙いとした法令で、倫理規定が主になっている。つまり、家臣団の倫理綱領の制定ということ。
 信玄は、郷村の統制と経営にとりわけ力をそそいでいた。家臣団の郷村の基礎が深刻な経済的危機にさらされていることをふまえている。
 戦国時代は、実際にすぐに役立つ学問、つまり農学や医学、兵学などの実学が好まれた。信玄は山国・甲斐の資源を根本的に研究し、その開発にのり出した。そして、治水面では、盆地の急流に真っ向から取り組む意欲をみせ、その代表と言われる龍王の信玄堤は今も活用され続けている。
 従来から砂金の摂取量も多く、金鉱石に恵まれていた山国の甲斐は、産金の全盛時代を迎えた。
武田氏は伝馬の制の育成につとめた。そして、要所に関を設けて関税を徴収し、その収入は莫大となった。中央の商人をすすんで受け入れ、さらに辺境の商売の興隆につとめた。
信玄の父・信虎は14歳のとき18代の武田氏の後継者となった。
 信虎は、自分にそむいた敉将を一人も殺さなかった。後年、信玄の有力なブレ―ことして活躍する武将の多くは信虎の下でしごかれた一騎当千のつわものだった。
信虎の戦法は、いつも奇襲攻撃だった。とくに敵陣が油断している深夜を狙っての夜襲攻撃が絶妙だった。「兵糧攻め」のような気長な戦法を嫌い、奇襲をかけた。視界のきくところでの野戦を避け、変化に富んだ山林を背にして一気に攻撃する戦術を得意とした。
 信虎の駿府行きは、世継ぎの信玄と反信虎派の重臣がひそかに仕組んだ無血クーデターだった。信虎を駿府に送り込んだあと、信玄たちはすぐにバリケードを張りめぐらして信虎の帰路をさえぎった。これは、信虎がいる限り、泥沼の合戦は絶えることがない。戦争を早く終結させたいハト派の共通の願いがクーデターをもたらした。
 信虎は、隠居の身を楽しんで過ごしたが、今川義元の死後は、孫になる氏真が信虎を冷たく扱ったので、信虎は怒った。信虎は、結局、53歳で死んだ信玄の死後、53歳で病没した。
 武田信玄と、その父・信虎の一生をいろんな角度から紹介した本です。
(1987年9月刊。2100円+税)

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