弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2024年9月 8日

アーリヤ人の誕生

インド


(霧山昴)
著者 長田 俊樹 、 出版 講談社学術文庫

 新インド学入門というサブタイトルのついた刺激的な文庫本です。
 本論に入る前に、最後の補章にある論述がとても印象に残りました。文系と理系の研究のすすめ方の違いです。理系では再現可能性の有無が重要になる。同じ条件なら、誰がやっても同じ結果が得られなければならない。しかし、文系ではそんなことは必要ない。ひたすら、独創性があるかどうかがカギとなる。理系の評価基準で文系の成果物を「零点」と評価するのは、おかしい。なーるほど、そうですよね。文系では、誰がやっても同じ結果というのを求められることはまずありません。
ついでに言えば、私が50年にわたって扱ってきた裁判では、民事も刑事も、双方の主張がくい違っているとき、どちらが正しいのか、最後まで分からないということは決して珍しくありません。最高裁判所まで行って確定した判決が、実は間違っていたというのは、今も、そして、これからも決して珍しいことではないと思います。真実(真相)は、思い込みも含めて、簡単に分かるものではないのです。
 「役に立つ大学教育」というのは、大変な問題があると私も思います。何が「役に立つ」のかは、実のところ、長い目で見ないといけないものです。目先の、投資したらすぐにでも回収できるか、という近視眼的なモノの見方だけで大学を運営するのは、大変危険だと私も思います。大学は、いろんな意味で、「遊び」が必要なところなのです。
その意味で、北欧のように、大学には20歳過ぎてからゆっくり入学できるようにしたらいいと思いますし、大学生にはアルバイトしなくても勉強し、生活できるように、学費をタダにし、生活費も支給してやったらいいのです。日本は今、軍事予算を倍増しようとしていますが、そのお金を教育予算に振り向けたら、すぐに簡単に実現できます。
さて、ここから本題です。インダス文明は大河文明ではない。インダス川流域に分布する遺跡は多くないし、川の水だけでなく、モンスーンによる降雨を利用した農業もあった。インダス文明の時代、すでに大河ではなかった。
 「古代四大文明は、いずれも大河文明だ」と教えられてきたし、今も教科書はそうなっている。なので、これが簡単に書き改められることはないだろう。でも、違うものは違う。いやあ、これには大変驚きました。そうなんですか...。
 世界一の人口を誇るインドについて、人名、地名のカタカナ表記は、現地発音を無視している。たとえば、マハートマー・ガーンディー。日本では「ガンジー」と表記される。しかし、おかしい。ヒンドゥーをヒンズーと表記するのもおかしい。世界一の人口を誇るインドには多種多様な民族と言語がある。なので、単一的なインド観から、多元的インド観へ改められるべき。
 インドのことは、すべてサンスクリット語文献で理解できるというのは勝手な、間違った思い込みというのが著者の主張です。「あるべき」インドから、「ありのままの」インドに、ということです。よく分かります。
 著者は、ムンダ語族を専門に研究した学者であり、6年間の留学経験もあります。奥様もムンダ人のようです。
 さて、「アーリヤ人」です。「アーリヤ」とは、サンスクリット語で、「高貴な」という意味のコトバ。「インド、ヨーロッパ語族」の自称。そして、「アーリヤ人の侵入」というのは、考古学的な痕跡がないというのです。それでも、サンスクリット語とギリシア・ラテン語は系統関係を有する。つまり、ことは単純ではないということ。
 ムンダ人は、農業を生業とする農民族であり、インドに東南アジアから稲作をもたらしたのは、ムンダ人の先祖たち。ムンダ人は、乳製品をまったく摂取しない。
 知らない世界が目の前に一気に広がった気のする文庫本でした。
(2024年6月刊。1100円+税)

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