弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2024年8月19日
ゾヤの物語
アジア
(霧山昴)
著者 ゾヤ、ジョン・フォーリン、リタ・クリストーファリ 、 出版 高文研
アフガニスタンで苦闘している女性たちの活動状況を教えてくれる本です。その凄まじさに胸が痛みました。
タリバンの支配するアフガニスタンでは、女性が白いソックスを履くことは許されない。なぜなら白はタリバンの旗の色なのだから、体のそんな下のほうにある部分を覆うために白い色が使われるのは侮辱だから。何という奇妙な理屈でしょうか・・・。
アフガニスタンの女性が顔を覆ってしまうブルカを着ているのは、すすんでしているのではない。みな、無理矢理ブルカを着せられている。着ていないと鞭で打たれ、鎖で叩きのめされたりするからだ。
1989年2月、ロシアがアフガニスタンから撤退した。9年に及ぶ占領が終わった。あとで、アメリカもアフガニスタンから撤退します。そして、今は再びタリバン政権下にあります。
ゾヤの両親は原理主義者のムジャヒディン軍閥の命令で殺害された。平和と民主主義を愛して活動していた。しかし、ゾヤは両親の死、その殺害された日時を明らかにしない。もちろん氏名も・・・。ゾヤは活動名であって、本名ではない。
1992年、ゾヤは14歳のとき、アフガニスタンを脱出した。RAWAの援助を受けてパキスタンに逃げた。2日2晩の旅をしてペシャーワルに着き、そこからクエッタに行き、「ワタン(故郷)女子学校」に行った。
ここでは生徒が勝手に校外に出ることは許されない。学校での学習内容が敵視され、アフガニスタン人原理主義者から襲撃される危険があった。
RAWAが学校を創設できたのは、支援者による寄付やバサンの売上金などに頼った。学校で12歳以上の子は、全員、偽名を使うように言われた。若者がゾヤと名乗っているのは、取材に来たロシア人ジャーナリストから、ガンで亡くなった娘(ゾヤ)の名前をもらってくれるよう頼まれたから。
タリバンはRAWAのメンバー全員を殺害候補者リストに載せた。
著者は、1997年夏、RAWAの使命を帯びてアフガニスタンに潜入しました。タリバンはヒンズー教徒の女性に黄色のブルカを着用するよう命令していた。
カーブルは墓場だった。子どもの多くは明らかに栄養失調の兆候が認められた。店の写真は禁止、そしてテレビも禁止されていた。しかし、人々はこっそり海外のテレビをみていた。女性がアイスクリームを店で買って食べるのも、タリバンを心配しながら、そしてブルカのもとで苦労しながらのことだった。
学校で勉強したいと女の子が頼むのに、父親は許さない。「オレの娘だ。娘の将来が暗いものになるか明るいものになるか決めるのは、父親であるオレが決める。さあ、帰ってくれ」
まあ、残念ながら今の日本でも、ときどき似たようなセリフを吐く父親はいますよね・・・。
人が死ぬのは、日常的なこと。だけど、常に見えないように心がけた。死ぬのを見るのは嫌だった。死体を見るのはなおさらのこと。
RAWAは、アフガニスタン女性革命協会のこと。「RAWAと連帯する会」は憲法学者の清末愛砂さんたちの会です。
日本語版はこの6月に刊行されていますが、原著は2002年に刊行されたものです。今もがんばっているのでしょうね、きっと。でも、大変ですよね...。
(2024年6月刊。2200円+税)